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#39 シズちゃんの小旅行

「お兄ちゃん。電車、来たよ」

「よし。ここから乗り込もうか」

翌日の朝。しっかりと予定通りに家を出たツクシとシズの兄妹は、時刻表通りにプラットフォームへ滑り込んできた電車を見て待合室を出た。シズの肩には小さめの肩掛けカバンが、対するツクシの手には大きめの手提げバッグがそれぞれ見える。いかにも小旅行といった趣きの装いと言えた。

二人が連れ立って車両に乗り込む。キキョウ方面行きの電車は元々利用者が少なめで、今日は休日の朝とあってか輪を掛けて人の姿が見られなかった。シズが先んじて長座席の隅へ座ると、ツクシはその横へ静かに腰を下ろす。二人が座って幾許もせぬうちに発車のアナウンスが出され、車両の扉が閉められた。

「今日は空いててよかったね」

「そうだね。結構長い時間乗ることになるから、座って行けるのはやっぱり助かるよ」

久々のお出かけとあってか、シズは心なしか嬉しそうな様子を見せていた。慕っている兄が隣にいてくれることで、その気持ちはさらに大きくなっているのが見て取れる。頬を微かに朱に染めて兄に寄りそうと、その右腕をそっと取る。妹の仕草に気付いたツクシが、ふっと口元に笑みをこぼす。

「シズがこんなに嬉しそうにしてるのを見るのは、久しぶりだね。僕もつられて嬉しくなってくるよ」

「だって、お兄ちゃんと一緒にキキョウへ行けるんだもん。嬉しくならないはずがないよ」

「普通、妹が中学生にもなったら『お兄ちゃん』なんて呼んでもらえなくなるのが世の常なのに。僕はいい妹を持ったよ」

「えへへ……お兄ちゃんっ」

珍しく甘えてくるシズを穏やかに受け入れてやると、ツクシはそっと妹の肩に手を置いた。シズはシズで兄を慕っているし、ツクシはツクシで妹を愛おしく思っている。確かな信頼関係が、そこに存在した。

がたん・ごとん。電車に揺られながら、二人の旅路は続く。日和田駅から乗り込んで三十分ほどが経過し、シズとツクシ以外の人影がすっかり見えなくなってしまった頃、不意にシズがツクシに話し掛けた。

「あのね、お兄ちゃん」

「どうしたんだい、シズ」

「わたし……お兄ちゃんがセキエイへ行っちゃうの、ちょっと寂しいんだ」

シズが零したのは、ヒワダタウンより遠く離れたセキエイ高原へ赴任することになる兄への「寂しい」という想いだった。

ツクシという存在はシズにとって特別なものだった。兄であると同時に、家族内における父親のような役割も担っていたし、ジムリーダーとしては先輩と呼ぶべき間柄だった。単なる血縁関係上の兄という枠組みを越えて、ツクシはシズの中で大きな存在感を持っていた。

「そうだね。僕もシズやスズ、それに母さんと離れて一人で暮らすのは初めてだから、不安なところもあるよ」

「お兄ちゃんも、不安になることってあるの?」

「そりゃ、もちろんあるさ。シズには、僕が何も恐れてない、すごく強い人間に見えてる?」

「うん。わたし、今までお兄ちゃんが不安そうにしてるところなんて、見たことなかったもん」

「あははっ、まさか、即答されるとは思ってなかったよ。でも、僕だって不安になったり、寂しいと思ったりすることくらいあるよ。シズと同じ、人間だからね」

少し間を置いてから、ツクシはさらにこう続けた。

「これはね、スズが初めて剣道の大会に出たときに、緊張しないようにするにはどうすればいいかって訊ねられて、僕が答えたことなんだけど」

「『人事を尽くして天命を待つ』。そんな言葉があるんだ。できることをすべてしたら、為すべきことをすべて為したら、あとは天命、言い換えると運命を受け入れようって意味だよ」

「こう言うと、なんとなく『運任せ』とか『神頼み』とか、そういうニュアンスに取れるかも知れない。でも、そうじゃないんだ」

「人としてできることには限りがある。そこから先は、『なるようになる』しかない。けれど、後残りなくすべてをやり切って、それで出てきた結果なら、きっと受け入れることができると思うんだ」

「例え望まない結果になったとしても、受け入れることさえできれば、それを糧にして、もう一度立ち上がることができる。新しい道へ進んでいける可能性がある。僕はそう信じてるんだ」

スズにこう言ったら「でもやっぱりなんか運任せみたいだから、あたしはもっと練習して強くなる」って言い返されて、僕が折れちゃう形になっちゃったけどね――そう言って笑うツクシを、シズは透き通った瞳で見つめていた。

(人事を尽くして天命を待つ、か……)

また一つ、兄からもらった言葉を心に刻み込んで、シズがこくりと頷いた。

 

 

「あっ、着いたよお兄ちゃん」

「もう着いたんだ、早いね。今日はスムーズに来られてよかったよ」

ヒワダから電車に乗り込んでから一時間半ほどが経った。途中二度の乗り換えを挟んで、シズとツクシは滞りなくキキョウシティへ辿り着いた。二人は駅のロータリーで停車していた市営バスを見つけて乗車し、それぞれICカードをかざして清算を済ませる。隅の席に並んで腰掛けると、シズが額にうっすらと浮かんだ汗をハンカチで丁寧に拭った。

「ふぅ……ヒワダも暑いけど、キキョウも同じくらい暑いね」

「昔はキキョウの方が少し涼しかったらしいけど、今はもう違いが分からなくなっちゃったね。喉も渇いたし、後でどこか喫茶店にでも入って涼もうか。せっかくだから、何でも奢ったげるよ」

「ホント? じゃあ、わたし……抹茶アイスがいいな。キキョウの抹茶アイスはとびっきりおいしいから、食べられたらいいな、って思ってたんだ」

「ここでヘンに欲張らずにちゃんと自分の食べたいものを挙げるところが、やっぱりシズらしいよ」

楽しげに話をしているうちにバスの扉が閉められて、次の停留所へ向けて走り始めた。

バスはいくらかの停留所を通過した後、二人の目的地の最寄りにある停留所で停車した。ぱらぱらと降車していく人々に混じって、シズとツクシも途中下車と相成る。そのまま道なりに五分ほど歩いていくと、目的地たるとある建造物の姿が目に飛び込んできた。

二人がやってきたのは――。

「見てよお兄ちゃんっ! マダツボミの塔だよ、マダツボミの塔っ!」

「もちろん見てるとも。いつ見ても高くて立派な塔だよね」

シズのお気に入りスポットである、マダツボミの塔だった。久々に訪れた塔を前にして、シズは興奮気味にはしゃいでいた。普段の落ち着いた穏やかな様子とは一味異なる、ある意味彼女の「素」と呼べる姿だろう。今にも飛び上がりそうなほど喜びに満ちたシズの様子は、ごく普通のあどけない中学生の少女そのものだった。

兄の腕をゆるく引っ張って、入場券売り場まで小走りに駆けていく。大人二枚っ、と威勢よく啖呵を切って申し出たところ、親切な受付係から「小中学生は半額ですよ」とアドバイスを貰い、シズがあわあわと赤面しながら「大人一枚・子供一枚」に訂正する。横にいるツクシは笑いっぱなしだ。そんなハプニングはあったものの首尾よく入場券を手に入れ、兄妹はキキョウシティの名所であるマダツボミの塔へ足を踏み入れた。

「わぁ……やっぱり、揺れてる……!」

入ってすぐシズの目に映り込んだのは、中央でごく小さくゆらゆらと揺れる、塔全体を貫く大きな柱だった。目を輝かせて柱へ歩み寄ると、より確かに前後左右へ揺れ動いているのを見て取ることができた。何メートルといった単位では足りぬほどの巨大な柱が、塔の芯の役割を担っていて、しかもそれが止まること無く揺れ続けている。その摩訶不思議な有り様に、シズの目は例によって釘付けになった。

無邪気な目をした妹の隣で微笑んでいたツクシは、ふと、シズの隣に塔の関係者と思しき僧侶が立っているのを目にした。柱に目を奪われていたシズも、兄に遅れること一分ほどでその存在に気がついて、反射的に「おはようございますっ」と丁寧に頭を下げた。

「おはようございます。今日はどちらからお見えになりましたか?」

「はい。隣の、ヒワダタウンから来ました。マダツボミの塔を見るの、楽しみにしてたんです」

「それはそれは、嬉しいことです。ご覧になるのは初めてですか」

「いえ。これが……あっ、三回目くらいになります。いつ見てもすごいなあって感じて、また見にこようって思うんです」

シズは大好きなこの塔について話したくて仕方ないようで、口調にも熱が篭もっている。対する僧侶はシズの話の一つ一つに丁寧に相槌を打ち、話にしっかり耳を傾けてやっていた。

「あの……少し、話をしてもいいでしょうか」

「わたし、このマダツボミの塔を見て、思ったことがあるんです」

何か思うところがあったのか、シズは少し間を開けて口調を改め、僧侶に向けて話し始めた。

「わたしは小さい頃、この塔はマダツボミが大きくなって、それでできたって聞きました」

「マダツボミって、普通は背がすごく小さいと思うんです。だいたい、わたしのお腹の辺りくらいだったはずです。そんなマダツボミがここまで大きくなるには、すごい時間、それこそ気の遠くなるくらいの時間が掛かったはずです」

「昔はただ、ここまで長生きしたマダツボミがいたなんて……とか、どれくらいの時間が必要だったんだろう……とか、そんなことしか考えてませんでした。でも……最近はちょっと変わって、こんなことを考えるようになったんです」

「『マダツボミのまま大きくなる』。そういう形もあるんだ、って」

「ウツドンやウツボットになるんじゃなくて、マダツボミのまま成長する道もあるんだ、って」

「成長や進化の方向は、一つだけじゃない、たくさんあるんだ――わたし、そんな風に思うようになったんです」

マダツボミは通常、成長するとウツドンに進化し、その状態で進化の石を使うことにより、最終段階のウツボットへ進化を遂げる。それが一般的な成長のフローだが、この塔の中央の柱になったというマダツボミは、マダツボミのまま成長を続ける道を選んだ。シズはマダツボミのまま成長し続けたことに感銘を受けて、「成長や進化の方向は一つではない」、そんな結論を得るに至った。

「もちろん、今は歴史の勉強をして、この塔は人が特別な工法で建てたってことは、頭では知ってます」

「でも――自分の中では、この塔はやっぱりマダツボミなんです」

「マダツボミの塔が、自分の考え方を広げてくれた、そう思うんです」

塔の関係者とは言え、挨拶を交したばかりでまだ見ず知らずの間柄と言うべき僧侶に自分の想いを熱っぽく滔々と語ってしまったことに気が付いて、シズが少し落ち着きを取り戻して、気恥ずかしげに俯いた。しかし相対する僧侶はとても穏やかな笑みを見せて、シズの言葉に二度三度と頷いた。

「あの……ごめんなさい。急に、こんな一気にしゃべっちゃって……でもわたし、この塔が好きなんです。大好きなんです」

「いえいえ。お嬢さんの想いが伝わってきて、私も嬉しいばかりでしたよ」

今度は僧侶の方が、シズに語りかける番だった。

「お嬢さんの仰ったことは、とても素晴らしいことだと思います」

「そうです、その通りです。マダツボミのまま大きく育って、ここまで立派になる。そういう道も、またあるのです」

「人に限らず、生けとし生ける者には総て、それぞれに合った形があります。それは一つだけではないのです」

「お嬢さんはまだまだお若いのに、この事に自らお気付きになられた。これは実に素晴らしいことだと、私は思いますよ」

自分の考えが間違っていなかったことに、シズは安堵の表情を浮かべて見せる。僧侶もまた快い表情をしていたが、そのシズの隣に立っている青年の顔に見覚えがあることに思い至った。

「もしもし。恐れ入りますが、そちら様はヒワダタウンの……」

「はい。ジムリーダーのツクシです。シズの話し相手になっていただいて、どうもありがとうございます」

「こちらこそ、爽やかな気持ちにさせていただきました。ありがとうございます。お嬢さんはシズさんと仰るのですね。ツクシさんの教え子の方ですか?」

「はい。ヒワダジムに所属してるトレーナーでもありますし、僕の妹でもあります」

「ははあ、妹さんでしたか」

シズがツクシの側に並んで、二人が共に僧侶へ目を向ける。

「実は、来年からシズがジムリーダーを継ぐことになっていて、今日はキキョウジムのハヤトさんへご挨拶に伺ったんです」

「それはそれは。次の春からは、この子が後継ぎになられるのですね」

「ええ。僕はセキエイ高原へ行くことになります。なので今、シズにいろいろと手解きをしてるところなんです」

「左様でしたか。私が言うのもおこがましいですが、よい後継ぎに恵まれましたね。心の優しい、立派な子だと思います」

「僕も同じ気持ちです。シズのおかげで、後顧の憂い無くセキエイへ行けますから」

二人から口々に誉めそやされたために、シズはこそばゆさを隠せなかった。ツクシがそんなシズの肩を抱いて、そっと自分の前へ差し出す。

「期待してるよ、シズ」

「お兄ちゃん……」

澄んだ瞳で見つめた兄の表情は、一切の険が感じられない、実に穏やかなものだった。

 

 

「ありがとう、お兄ちゃん。抹茶アイス、おいしかったよ」

「どういたしまして。僕にも分けてくれてありがとう」

念願のマダツボミの塔を堪能したシズは、満ち足りた面持ちでツクシと共に歩いていた。バスの乗車中に約束した通り、途中で喫茶店に立ち寄って抹茶アイスをご馳走してもらったことによりさらにその明るさを増し、隣に寄り添うツクシは頬を綻ばせっぱなしだった。

「一息入れられたね。じゃあ、そろそろキキョウジムへ行こうか」

「うん。ハヤトさんに挨拶しなきゃね」

暫しの休憩を挟んだところで、ジムリーダーのハヤトの元へ挨拶に行くことになった。これが本日キキョウを訪れた最大の目的である。もちろん、シズもそのことを忘れてなどいなかった。

再び市営バスに乗って少々長めの移動をこなし、キキョウジム前駅まで到着する。駅名は「キキョウジム前駅」だが、実際にジムへ行くためにはそこから少し歩かねばならない。ジムに至るまでに細い道があり、そこにはバスを始めとする大型車両が進入できないためだ。ツクシは慣れた様子でシズを導き、一路キキョウジムを目指す。

その道すがら、ツクシが不意に足を止めた。

「そう言えば……シズ。あっちを見て」

「あっち? 向こうにある、あの白い建物のこと?」

「うん。あれはね、キキョウにあるトレーナーズスクールが、こっちへ移転してきたんだ」

「えっ!? あれがトレーナーズスクール!?」

ツクシの目線を辿った先に建っていたのは白い三階建てのビルだった。まだ建てられてから日が浅いようで、そこかしこに真新しさを残しているのが分かる。シズは目をまん丸くして、ツクシ曰く「トレーナーズスクール」だという眼前のビルをまじまじと見つめていた。

「へぇー、ここに移転したんだね」

「前は市の東側にあったよね。その頃に何度か行ったことあるの、覚えてる?」

「もちろん。ジョバンニ先生に直接教えてもらって、すごく嬉しかったよ」

シズがまだ小学校低学年だった頃。シズはスズやリョウタと共にツクシに連れられて、ここキキョウシティにあるトレーナーズスクールで特別に講義を受けさせてもらっていたことがあった。ヒワダにはここのようなポケモントレーナーとして必要になる知識を体系的に学べる場所が無く、ツクシの配慮で希望者を講義に参加させたという経緯があった。シズのポケモントレーナーとしての基礎のナレッジ部分は、ここで固められたといっても過言ではない。

「でもそれより、電車に乗ってキキョウまでお出かけすること、それ自体が楽しみだったっけ」

「ヒワダにいると、あんまり外に出る機会がないからね。シズの気持ちは僕もよく分かるよ」

とは言え当時は子供もいいところで、スクールに通うことそのものよりそれまでのちょっとした旅路の方がはるかに楽しみだった、というのが偽らざる本音だった。

(いつもスズと一緒に座って、外の風景を見たりしてはしゃいでたっけ……)

お出かけを楽しみにしていたのはスズも同じだったらしく、電車の中ではシズとスズが隣合って座って、うきうきした気持ちを共有し合うのが常だった。このような時は決していがみ合ったり張り合ったりすること無く、仲睦まじい双子の姉妹の姿を見せていた。

物静かなシズと活発なスズ。見るからに対照的で、ともすると仲が悪いとも取られがちな二人だったが、実際のところそれは決して正しい評価ではなかった。気が合うところではとことん気が合ったし、お互いに気遣い合うことも少なくなかった。今でこそ関係がぎくしゃくしてしまっているが、本質的なところで相性が悪いわけではないということは、はっきりと断言できた。

(また、あんな風にできたらいいな……)

気持ちがすれ違ってしまって、どちらからとも話を切り出せずにいる自身の片割れのことを想い、シズは小さくため息をついた。

と、そのように物思いに耽っていたシズは、ツクシが自分の側を離れて別の人間と話をしていることに気付くのが大分遅れてしまった。

「いやあ、こんなところでジムリーダーさんに会えるなんて……光栄です!」

「僕の方こそ、気付いてもらえて嬉しいです。昔に比べて背が伸びましたから、結構気付かない人もいるんです」

兄が話していたのは、肩からカバンを提げた男性だった。ツクシよりも明らかに年上だが、顔つきを見るとなかなか若く見える。恐らく二十代前半といったところだろうか。シズはすぐさま距離を詰めると、兄の側について会話に加わった。

「それで、今度セキエイに……」

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「やあシズ、いいところに来たね」

ツクシは輪に加わったシズを迎え入れると、話していた若い男性の前に出るように促して、視線を再び前へ戻した。

「初めまして。ツクシさんの妹さんですか?」

「えっと、はい。シズと申します」

「僕の妹のシズです。来年から僕の後を継いで、ジムリーダーになるんです」

「えっ!? そうなんですか!?」

男性は驚きに顔を染めて、シズとツクシの顔を交互に見やった。やがて表情に落ち着きが戻ってくると、シズに目を向け直した。

「そうだったんですか……いろいろと大変かと思いますが、どうか頑張ってください!」

「あ……ありがとうございますっ。まだまだ、全然未熟ですけど、でも、一生懸命頑張ります!」

男性からエールをもらったシズが、ぺこりと頭を下げて応じた。

「さっきあの建物から出てきましたけど、もしかして……」

「はい。この歳になって、って言うべきなんでしょうけど、スクールに通い始めたんです」

「そうなんですか?」

ツクシの投げ掛けた質問に答えた男性の答えを受けて、シズが真顔で訊ねた。男性は照れくさそうに頷いて、シズとツクシに背景を語り始めた。

「僕が小学生だった頃、周りの友達は結構トレーナーになってたんです。でもその時は、僕はトレーナーになりたいと思いませんでしたし、親も進学と就職を希望してましたから」

「小学校を卒業してから、そのまま中学・高校・大学と進学していって、三年前にキキョウにある会社に就職を決めて、元々住んでたエンジュから出てきたんです。それで、今は会社の寮に住んでます」

「でも……コガネにある大学に入った時でした。そこにポケモンサークルがあって、メンバー同士でバトルをしてるのを見たんです。それがすごく白熱してて、何より楽しそうで、釘付けになったんです」

「僕がポケモントレーナーに興味を持ったのは、間違いなくその時でした。僕も同じことをしてみたい、フィールドに立ってみたい、そう強く思ったんです。けど、僕には知識も経験もない。サークルに所属しているのは元々トレーナーだった人がほとんどで、そうでなくても基礎のしっかりできている人ばかりでした」

「さすがに、そこへずぶの素人が入っていくことなんてできない。僕は入会を諦めました。代わりに勉強して、自分の気持ちを抑えてたんです」

「それからキキョウに出てきて、仕事にも慣れてきた頃でした。新聞の折込に入ってたトレーナーズスクールのチラシを見つけて、そこに『大人の方も大歓迎』と書かれているのを見てしまって」

「昔抑え込んでいた思いが一気に爆発して、気付いたら問い合わせの電話を掛けていたんです」

「担当の方から説明を伺って、今の仕事を続けながら、夜間や休日の講義を受けることにしました」

「塾長はジョバンニ先生という方なんですけど、僕のような大人でもすんなり受け入れてくれて、今はたくさん勉強をさせてもらってます」

一息にまくし立てるように話した男性が、ここでようやく一区切りを付ける。男性が語った一連の話を、シズもツクシも幾度も幾度も頷きながら丁寧に傾聴していた。

「トレーナーとしては、随分遅いスタートだと思います。きっともう手遅れな部分もあると思うんです。基礎知識とか、体力とか、そういう部分です。僕もそこは覚悟してます」

「けれど、『やりたい』という気持ちを抑え切れませんでした。どうせなら、一度でもトレーナーとしてフィールドに立ってから人生を終わりたい。ずっと我慢し続けるより、自分の気持ちに素直になる方がいいと思ったんです」

「それに――何かを始めることに遅すぎるということはない。そう、言いますしね」

物事は何事に於いても経験の積み重ねがものを言う。着手が遅ければ、その分経験の差が大きな壁となって立ちはだかる。遅ければ遅いほどその壁が高くなることは事実だ。しかしそれを踏まえても、物事を始めることはいつでもできる。自らが「やりたい」と欲する気持ちは、何よりも強い動機付けとなる。内発的な意欲を失わなければ、どんな険しい壁も一つの「楽しみ」として乗り越えていけることだろう。

何かを始めることに遅すぎるということはない。男性の口にしたこの言葉に、シズは一際大きく頷いた。

「あの……どうか、これからも頑張ってくださいっ! わたしも応援します!」

シズが発した熱の入った言葉を耳にして、側にいたツクシと男性が互いに顔を見合わせる。やがてどちらともなく和やかに笑い出し、それにつられてシズもまた笑い始めた。

「ありがとうございます。僕も、いつかヒワダジムに挑戦しに行きたいと思ってます。その時はどうか、全力で相手をしてください!」

「はいっ。任せてください!」

二人は固い握手を交わして、いつか共にフィールドに立って戦うことを約した。

ジムリーダーになったシズと、トレーナーになった男性が戦う「その時」は、そう遠くないかも知れない――ツクシは二人の姿を見ながら、そんなことを考えていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。