「ようこそ、キキョウジムへ。ツクシ、それにシズちゃん」
ジムへやってきたシズとツクシの兄妹を、ハヤトが暖かく出迎える。二人が一礼して中へ上がると、ジムの片隅に設けられたテーブルセット――ヒワダジムにも同様のものが備えられている――へ案内される。腰掛けた二人に湯呑みへ注いだ冷たいほうじ茶をすすめ、ハヤトも同じく席につく。
ハヤトはツクシより一回り年上であり、ジョウト地方のジムリーダーの中では若手と中堅のちょうど間辺りに位置付けられている。以前見られた若さ故の熱しやすさや浅慮な面は今や影を潜め、高度な駆け引きと熟達した技、そしてここぞという時に相手を押し切る胆力を備えた実力派に成長していた。
「ツクシは今年で二十歳だったか。君も大人の仲間入りだな」
「そういうハヤトさんは、考え方ばかり大人になって、見た目は昔のままじゃないですか」
「ははは、ツクシは相変わらず頭の回転が早い。戦いでも、その切れ者っぷりは遺憾なく発揮されていることだろう。もっとも、俺もそろそろ貫禄が欲しいところではあるがな」
易しく小突き合うような軽妙な会話を最初にもうけてから、ハヤトは改めて視線をシズに投げ掛けた。
「そして――君がシズちゃん、だね。噂はかねがね伺っているよ」
「はい。わたしがシズです。ハヤトさん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いするよ。挨拶に来てくれて、どうもありがとう」
ハヤトは落ち着いた紳士的な姿勢でもって、いささか緊張気味のシズに優しく言葉を投げ掛けた。シズは少し身体の緊張を緩めると、自分を見つめるハヤトとしっかり目線を合わせた。
「しばらく見ない間に随分大きくなったな。前に会ったときのこと、今も覚えてるか?」
「覚えてます。わたしが小学二年生だった頃に、兄に連れられてジムまで来たときのことでしたよね」
「そうそう、その時だ。ツクシが君とスズちゃん、それに――リョウタ君だったか。教え子たちを何回かに分けて紹介してくれたんだ」
確か、二回目は別の双子を連れてきたな。そのハヤトの言葉を聞いて、シズは即座にそれがクミとルミだということに思い至った。
「しかし紹介してくれたのはよかったが……シズちゃんは俺のことを怖がって、なかなか顔を出してくれなかったな」
「えへへ、そうでしたね。きっと、ハヤトさんの立派な雰囲気に圧倒されてたんだと思います」
「上手いこと言うね。昔のことを引き合いに出せば、慌てたところを見せてくれると踏んでたんだが。こういうところは、お兄さんに似たようだな」
「今のはいい返事だったよ、シズ。ハヤトさん、一瞬面食らってたからね」
ちょっとばかりシズを冷やかしてやろうと、以前キキョウジムを訪れた折に自分のことを怖がっていた、という話を持ち出したハヤトだったが、意外にもシズはするりと交わして巧みな返しをぶつけてきた。これにはハヤトも一本取られたという感じで、ツクシ共々笑って見せていた。
「今は僕の側について、ジムリーダーの仕事を覚えてるところなんだ。昔からよく手伝ってくれてたから、改めて教えることはほとんど無いけどね」
「それはいい心がけだ。トレーナーと戦うこと以外にも、ジムリーダーの仕事はたくさんあるからな。ツクシの様子を見る限り、シズちゃんの飲み込みは早そうだな」
「いえ、まだまだ至らないところはたくさんあります。兄がヒワダにいるうちに、できるだけたくさんのことを吸収しておきたいです」
「話には聞いていたが、本当に真摯な姿勢を持っているんだな。もし、俺にもサポートできることがあったら申し出てくれ。助力は惜しまないぞ」
「はいっ。どうもありがとうございますっ」
はきはきした態度で応答するシズを見て、ハヤトはツクシの後継者が確かな向上心と克己心を備えた人間であるという確信を得たようだった。
そうしてしばしの間、取りとめの無いことで談笑を続けていた三人だったが。
「そう言えば――」
ツクシがちらりとハヤトに視線を投げ掛けると、ハヤトはツクシの様子を見て小さく頷き、シズに悟られない程度にアイコンタクトを送った。
「今更だけど、ハヤトさんはとりポケモン使いなんだよね」
「その通り。機動力と瞬発力に秀でた、空中戦の王様というところだな」
ベンチに深く腰掛け直して、ハヤトはシズをこれまでとは若干色合いの異なる、少し挑発的な色を帯びた目で見つめる。
「とりポケモンの中には、キャタピーやビードルのようなむしポケモンをエサにする種族も多くいる」
「狩る者と狩られる者。両者の間には歴然たる差が存在する」
シズは押し黙ったまま、ハヤトの言葉に耳を傾けている。そんなシズの様子を知ってか知らずか、ハヤトは自信に満ちた口調で、こんな言葉を吐いて見せた。
「地を這う虫に、空を翔ける鳥の速さは見切れまい」
空気が揺れたのは、その直後だった。
「一寸の虫にも五分の魂。侮ったら――痛い目に遭いますよ」
冷たさと熱さが一所に同居した、芯の強さを感じさせる声。
「守りの固い要塞も、小さな虫の這い出る隙間から陥落します」
「獰猛で強い獅子だって、心中の虫には手を出せないんです」
「むしポケモンを……甘く見ないでください」
シズはキッとハヤトをまっすぐに見据えて、堂々たる態度で言い返した。自分がこよなく愛しているむしポケモンを愚弄されたと感じて、シズは普段内に秘めている闘争心をハッキリと剥き出しにした。ぶれることなくのない視線はまるで強弓から放たれた矢のように鋭く、ハヤトを射貫かんが如くだった。
このようなシズの姿を目にしたハヤトは、その隣に座るツクシと顔を合わせる。ツクシにしてもシズの態度と言葉は想定外のものだったらしく、珍しく驚いた様子を見せていた。互いに頷き合うと、共にシズに穏やかな顔をして見せた。
「……申し訳ない。心にもないことを言って、怒らせてしまったようだ」
「……えっ?」
「君の気持ちを確かめてみたかったんだ。自分が大切にしているものを侮辱されたと感じたとき、相手に立ち向かう闘争心があるかどうか。それで、わざと君を煽るような言葉と態度を選んでみたんだ」
「じゃあ、さっきのは……」
「ごめんねシズ。前もってちょっと打ち合わせて、ハヤトさんにシズを怒らせてみてほしいって頼んだんだ。どんな反応をするか、僕も見てみたいと思ったからね」
ハヤトが投げ付けた挑発的な台詞は、実は前もってシズを試すためにツクシと共に仕組んだ、ある種の「ドッキリ」だった。種明かしをされたシズは、全身から力が抜けていくのを感じた。
「そ、そんなことだったなんて……わたし、てっきり本気だって思って……」
「いや、これでよかったよ。シズちゃんの本気を見られたわけだからね。俺が考えていた以上に前向きで、何より強い闘争心を感じた。これはこの先も期待が持てる、俺はそう思ったよ。ツクシも驚いてたようだしね」
「僕も驚いたさ。シズがこんなに堂々とやり合う姿を見たのは初めてだからね。でも、シズならできても不思議じゃない、今はそう思うよ」
「ハヤトさん、それにお兄ちゃんまで……」
ハヤトに向かって本気で言い返してしまったシズは、顔を耳まで真っ赤にしていた。自分の言葉を振り返って、普段使わないような言い回しをしたりして盛大に啖呵を切ってしまったことを思い出し、華奢な身体をますます小さく縮こまらせた。
だが――その一方で、ツクシやハヤトが口にした感想に、どこか同意している自分もいた。
(わたしって、こんなに堂々とできるんだ……)
ハヤトの心ない――事実として「心からの言葉ではなかった」という意味もあるが――言葉に、決然とした態度で応じた自分。悩んだり逡巡したりすることなく、即断でハヤトに言い返すことができた。それもただ感情的になるのではなく、感情を大いに載せつつも冷静さを保った言葉で応戦した。それができた自分に、シズは後から驚きの感情が沸いてくる、不思議な感覚を味わっていた。
「実際のところ、むしポケモンは少しも侮れない、警戒と敬意を払うべき存在だ。俺は心からそう思っている。実際に、実力あるむしポケモン使いに負かされたことだってあるからな。さっきの言葉は、上っ面だけの強がりだ。そう思ってくれれば一番いい」
「だが、俺が負けるつもりが無いのも、また事実だ。蓄えた知恵と磨き上げた技をもって、立ちはだかる敵を倒す。それは相手が誰であれ、それこそむしポケモンであっても一切の変わりは無い」
「シズちゃん」
「――いや、シズ」
「互いに切磋琢磨して、良きジムリーダーで、良きポケモントレーナーで在り続けよう」
立ち上がって右手を差し出したハヤトに、シズも立ち上がって応じる。
「……はいっ! よろしくお願いします!」
ハヤトの手を取って、シズが固い握手を交わした。
こうした諸々のやりとりを重ねつつ、シズとハヤトはすっかり交流を確かなものにしていった。
「ほう、なるほど。このレディアンは、チルチルという名前なのか」
「はい。昔読んだ童話に出てきた男の子の名前を付けたんです」
「そして、こっちがハーベスター……『収穫者』か。センスを感じるいい名前だな」
「ありがとうございます。ハーベスターも気に入ってくれてるみたいなんです」
連れてきたチルチルとハーベスターをハヤトに披露し、共にシズによく懐いていることを褒められたりもした。チルチルもハーベスターも初めて目にするハヤトとその傍らにいるヨルノズクに興味津々といった面持ちで、ヨルノズクとはポケモン同士語り合っている姿を見ることもできた。
「さてさて……おっと、もう五時になるんだ。時間が経つのは早いものだね」
ツクシは腕時計をちらりと見やると、もうこんな時間か、という意味合いの言葉を呟く。二人が昼過ぎにキキョウジムを訪れてから大分時間が経っており、辺りは薄暗さを増しつつあった。夏で日が高いとは言え、暗くなり始めると早いものだった。
「ツクシ君も大人の仲間入りを果たしたんだ。折角だから、今日は俺の家で酒でも酌み交わさないか。親類からいい地酒を貰ったんだ」
「それは願ってもない申し出だよ。キキョウの地酒は甘露のようだって、子供の頃から聞かされてるからね」
この後はハヤトの家で酒でも飲もう、そのような流れになりつつあった。シズは特に口を挟まず、二人の成り行きを静かに見守っていた――のだが。
「……あっ。ごめんなさい、ちょっと失礼します」
シズが不意に立ち上がると、ポケットからいつも使っている折り畳み式の携帯電話を取り出した。小刻みに振動音を立て、表面に付けられたライトが緑の光を発している。
「誰かから電話?」
「うん。ちょっと待……あれ?」
携帯電話を開いたシズは、発信者の名前を見て目を丸くした。
(――スズ……?)
ディスプレイに表示されていた名前は、「スズ」だった。
胸騒ぎがした。スズは今、家にいるはずだ。そのスズから電話が掛かってくるということは、家で何かが起きたという可能性を示唆していた。ましてや自宅の固定電話を使わず携帯電話を使っているという事自体が、明らかな違和感を覚えさせるものだった。
どうしてスズが電話を? シズはスズとの関係を思い一瞬躊躇うも、電話を掛けているということは何かあったのだと思い直し、意を決して受電のボタンを押した。
「……もしもし。スズ、どうしたの?」
シズがスズに呼び掛ける。対するスズの応答は、このようなものだった。
「お姉ちゃん……今、どこ……?」
「わたし? 今はキキョウジムにいるよ。お兄ちゃんと一緒にハヤトさんに挨拶してたところ」
聞いたこともないような声だった。今にも消え入りそうなほどか細く、耳を澄ませなければ聞き取ることさえ難しいほどに、スズの声からは覇気というものが感じられなかった。尋常な状態ではない――シズは即座にそう判断して、思わず身を固くした。
「ねえスズ、何かあったの? スズは今どこにいるの?」
「お姉、ちゃん……早く、帰ってきて……」
どういうことだろう、早く帰ってきて、そんなことをスズが言うなんて。シズの鼓動が早くなった。帰ってきて、ということは、スズは今家にいるとみていい。だが、何が起きたのか見当も付かなかった。逸る気持ちを懸命に抑えようとするシズだったが、電話口からはそれを無に返すような言葉が耳へ飛び込んできた。
「助けて……お姉ちゃん、助けて……」
「……スズ!? どうしたの!? 助けてって、どういうこと!?」
助けて。妹から聞かされた言葉は、シズから冷静さを失わせるには十分過ぎた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん……ごめんなさいっ……!」
耳に当てた携帯電話の向こうからは、妹の悲痛な声が止むこと無く聞こえてくる。しきりにシズに謝罪の言葉を述べて、何度となく助けを求めている。シズはこくんと息を飲み、そして一度キュッと目を閉じた。
(……わたしが、スズを助けなきゃ!)
次にシズの瞼が上がったとき、もう彼女の目に迷いはなかった。
「……分かった。待ってて、すぐに帰るから! わたしが行くから、心配しないで!」
きっぱりとそう言い切ると、遠くのスズがほんの少しだけ落ち着きを取り戻した様子が伝わってきた。切るね、と断ってシズが電話を折り畳むと、座ったままシズを見つめていたツクシとハヤトに目を向けた。
「お兄ちゃん、それにハヤトさん。すみません。わたし、先にヒワダに帰ります。スズがわたしを待ってるんです」
「――分かった。シズ、これからすぐにスズのところへ行ってあげて。僕よりもシズの方が、今のスズには必要な存在のはずだからね」
「事情は分かった。話はまた今度、時間のある時にしよう」
二人から了承を取り付けると、シズは一礼して速やかにその場を後にした。
目指すは、スズのいるヒワダの自宅――。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。