バスでキキョウシティ駅まで移動したシズは駅構内を息を切らせながら走り、タイミングよくプラットフォームへ滑り込んできたヒワダ方面行き快速特急に飛び乗った。乱れた呼吸を整えながら、空いていた隅の座席へ座る。大きく息を吐き出したことで、どうにか鼓動を落ち着けることができた。
シズはただスズのことが心配でならなかった。不安でならなかった。家で何が起きたのだろう、スズは今どうしているのだろう。種々の悪い予感がひっきりなしにシズを襲って、その一つ一つを振り払うだけで精一杯だった。か細く力を失くした妹の声を思い出して、胸が荒縄でぐいぐいと締め付けられるかのような心地だった。
(今日家に帰って、スズが無事でいてくれたら)
(あの事はもう怒ってないよ、気にしないでって言ってあげなきゃ)
家にいるであろうスズは、シズに繰り返し「ごめんなさい」と謝っていた。それが何に対する謝罪かは一目瞭然だった。先日スズがシズを殴ってしまったことに他ならない。あの時の痛みは辛かったが、もう痣も引いて完全に元通りに戻った。二度としないと約束してくれれば、いつでもスズを受け入れる準備はできている。むしろ、すぐにでもスズに「気にしていない」と伝えてやりたくてならなかった。
一日一人だったことでいろいろなことに考えが及び、感情任せに姉に暴力を振るってしまったことに対する悔恨の念が湧いてきた、そんな可能性もある。スズも自分の間違いを認められないほど強情ではない。止め処なく後悔を繰り返して、感情の置き所が無くなってしまい、ついにシズに電話を掛けるに至った。そうではないかと、シズは考えていた。
電車の窓からすっかり暗くなった風景を目に映す。トレーナーズスクールの前で思い出した、スズと二人で隣り合って座った頃の懐かしい光景が、今まさに眼前に蘇ってくるかのよう。そうしていつでも一緒だった大切な妹が、家で独り泣いている。居たたまれない気持ちになって、シズは一刻も早くヒワダタウン駅に到着することだけを祈った。
出発した時と同じだけ、およそ一時間半ほど電車に乗って、シズはヒワダタウン駅へ舞い戻った。自宅までは駅から歩いて十五分ほどの距離だ。シズは脇目も振らず駆け出して、スズの待つ家へ急ぐ。無我夢中で走りつづけて、普段はきちんと止まる横断歩道の青信号点滅も突っ切って、ただただスズの元へ向かうことだけを考えた。
門扉を引くとそれを元に戻すことさえ忘れて、シズは玄関のドアを開け放った。
「スズ! どこにいるの!? スズ!!」
「わたしだよ、お姉ちゃんだよ! お願い! 返事をして!」
運動靴を乱雑に脱ぎ散らかし、手にしていた手提げを床へ放り出すと、シズは家の中を手当たり次第に調べ始めた。スズはどこだ、スズはどこにいる。我を忘れて部屋のドアを次々に開けていく中で、どこからかすすり泣くような声がするのを耳にした。気持ちを無理やり抑え込んで耳を澄ませると、音の出所は一階からのようだった。階段を駆け下りると、シズはリビングの電気を点けて中へ突入し、右手にある和室に目を向けた。
和室の隅、障子を隔てて庭に出るための窓がある文字通りの片隅で、身体を丸めて蹲っている人影を見つける。
「スズっ!」
「ぁ……」
側へ駆け寄る、前で屈み込む、声を掛ける。それらを瞬く間に成したシズは、目前の人影が恐る恐る顔を上げるのを見た。涙で顔をくしゃくしゃにしたそれは、紛れもなく、妹のスズそのものだった。
一瞬――シズの脳裏に、古い旧い昔の、本当に昔の光景が蘇った気がした。
「お……おねぇ、ちゃ……!」
「どうしたの? 何かあったの? 大丈夫?」
「ごめん、なさい……おねえちゃ、ごめん……!」
「もういいよ、もう謝らなくていいよ。わたしの腕は大丈夫、全然痛くないよ。だからね、スズ。もう気にしなくていいよ」
涸れた声で謝ろうとする妹を強く抱きしめて、シズは「もう謝らなくていい」と繰り返した。姉の姿を見たスズは緊張の糸が切れたのか、シズに強くしがみついて堰を切ったようにわあわあ泣き始めた。その姿が堪らなく辛くて、シズはより一層強くスズの身体を抱いた。
「ケガはしてない? 体の具合とかは悪くない? 辛かったら遠慮せずに言ってね、お姉ちゃんが全部なんとかするよ。だから、もう安心して、スズ」
そう声を掛けつつ、シズは速やかにスズの身体をチェックする。見たところケガをした様子は無く、熱も平熱そのもので心配はいらなかった。スズ本人に危害が加えられたり、身体に危険が及んでいないことを確かめて、シズはひとまず緊急の事態だけは避けられたと安堵した。
しかし――胸の中にいるスズはただただ大泣きするばかりで、まったく落ち着く気配を見せない。
「おねえちゃん……おねぇちゃんっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「スズ、どうして……気にしてないのはホントだよ、そんなに気に病まないでいいから、ね?」
「だって……あたし、おねぇちゃんのこと、おねえちゃんのこと……!」
あやすように背中を叩いて、スズが少しでも落ち着けるようにしてやる。しばらくそうした状態が続いて、ようやくスズがシズにしがみついていた腕の力を緩めた。シズが少し距離を置いて半歩後ろへ下がると、スズはしきりにしゃくり上げながら、真っ赤になった瞳で姉の姿を目に宿す。そうしているとまた気持ちが昂って来たのか、両目からぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。
どうしてスズはこんなに泣いているのだろう。シズははっきりとした原因こそ掴みかねていたが、眼前で涙を流しつづける妹の姿を見ていると、少しでも力になってやりたくて仕方なかった。側に畳んで積んでおいたハンカチを目にして、そこから一枚取ってスズの涙を拭ってやる。それでもスズの涙は止め処なく溢れてきて、止まるということを知らないようだった。
「ごめんね、独りにしてごめんね。もっと早く帰ってこられたらよかったのに、こんなになるまで放っておいて、ごめんね」
「ひぐっ……! ごめん、なざい……」
「大丈夫だよ、大丈夫。わたし、スズのこと嫌いになったりなんかしてないから、安心して。何があったのか、わたしに教えてほしいな」
シズがやさしくスズの頭を撫でてやると、スズはようやく落ち着きを取り戻して、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「あのね……あたし、全然……だめだった……」
「ダメだった……?」
「一人じゃ、なんにもできない……どうしようもない、だめな子だったの……」
「何もできない……もしかして、お兄ちゃんに頼まれた家事のこと?」
首を小さく縦に振って、スズがシズの言葉に肯定の意を示した。
妹の反応を見たシズはここに来てようやく、スズの置かれていた状況や抱いていた心境について、おぼろげながらではあるが推測が付けられるようになってきた。
「スズは言われた通り、家のことをしようとしてくれたんだね。でも、上手くいかなかった……」
「……うん。全然、だめだった……みんなだめにしちゃって、お姉ちゃんに、見てもらわなきゃ……そう思って……」
「そうだったんだ……大変だったんだね、独りでどうしよう、どうしようってなっちゃったんだね」
「う、ん……」
「うんうん。分かったよ、スズ。今何がどうなってるか、わたしに教えて」
スズの手を取って立ち上がらせると、スズに導かれるまま、シズはまず洗面所へ向かった。
二人で洗面所へ入る。その途端、シズは何が起きたのかを理解してしまった。真正面に見える洗濯機、まずはここでトラブルが起きたようだった。
「洗濯機、回してる途中で、ピー、って言って止まっちゃって……どうすればいいのか、分かんなくなって……」
「中で服が固まって、上手くドラムが回らなくなっちゃったみたいだね。こういうときは、一度止めてからフタを開けて、中の洗濯物をほぐしてあげれば大丈夫だよ」
手慣れた様子で一連の措置を済ませると、ボタンを押して再始動する。すると、いつものようにごうんごうんと音を立てて、洗濯機が順調に回り始めた。スズはシズがてきぱきと対処して行くのを、惚けた目で見つめていた。
「よし、これは大丈夫だね。他には何かあるかな?」
「えっと……リビングに、掃除機があるんだけど……」
掃除機という言葉を耳にした時点で、シズは次にスズを襲ったトラブルについて大方の見当が付いた。スズに手を引かれて向かった先では、まさに予想通りの光景が広がっていた。
「掃除機掛けてる途中で、また止まっちゃって、それで……」
「なるほど、中の紙パックがいっぱいになっちゃったんだ。この掃除機、いっぱいになると止まっちゃうからね」
リビングに放置されていた掃除機のカバーを開けると、中にはすっかり容積を使い果たした紙パックが入っていた。シズは迷わずそれを取り外してゴミ袋へ捨てると、クローゼットからスペアのパックを持ってきてさっと交換して見せた。試しにもう一度動かしてみると、掃除機は軽快な音を立てていつものように動き始めた。
またしてもすぐにトラブルを解決した姉の姿を見て、スズは完全に呆気に取られているようだった。シズがスズの手を取り、ぐっと力を込める。
「これでこっちも解決。まだあれば、遠慮なく言ってね」
「あとは……ご飯を炊こうとして……」
スズと一緒に台所へ向かう。現場に辿り着いてみると、そこでもまた問題が起きたようだった。
「お米を洗うのは洗えたけど……炊くときにどれくらい水入れればいいのか分かんなくて……」
「こういうときは、ジャーの線に合わせて水を入れれば大丈夫だよ。こんな具合かな?」
手近にあったコップを使って水を汲み、自分が口にした通り水面をガイドラインに合わせたところで、シズがジャーの表面に付いた水滴を布巾で拭き取って炊飯器にセットする。フタを閉じてボタンを押すと、遅ればせながら炊飯が始まった。
これ以上何か無いか、シズが訊ねてみると、スズは首を横に振った。一人で家事をしようとして起きたトラブルは、これですべてだったようだ。俯くスズに、シズがそっと寄り添う。
「お姉ちゃん……ごめんなさい」
「あたし、全然だめだった、一人でなんにもできなかった……」
「ちっとも、役に立たなかった」
自分がパニックになってしまうほど一大事だと思ったことを、姉はトラブルだとも思わずすんなり解決してしまった。スズは自分の無力さと、「やればできる」と思い込んでいた傲慢さを嫌というほど味わわされて、ありとあらゆる自信を喪失してしまっていた。
シズがスズの肩に手を置くと、腰を落として目線を合わせる。
「そんなことないよ。スズは一人でよく頑張ったって、わたしはそう思うよ」
「でも……洗濯機が止まって……どうしたらいいのか分からなくなって……」
「洗濯物を中に入れて、洗剤を入れて回す所まではちゃんとできてたじゃない。止まったりしなきゃ、そのままうまく行ってたよ」
「だけど、掃除機だって、うまく使えなくて……」
「紙パックの交換方法さえ分かれば、後はしっかりゴミを吸い取るだけ。だから、すぐに全部できるようになるよ」
「ご飯だって、炊けなくて、それで……」
「炊き方が分かれば大丈夫。お米は洗う方が大変だから、それができるなら、もう九割できてるようなものだよ」
意気消沈するスズを励ますように、シズが力強く言葉を掛ける。「できなかったこと」にフォーカスを当てるスズに対して、「できたこと」をクローズアップするシズの言葉は、まさしく対照を成していた。姉に励まされたスズは、また今にも泣き出しそうな表情になって、優しい目をした姉を片時も離さず見つめていた。
「お姉ちゃん……あたし、分かった、分かったの……」
「あたしが、今までどれだけたくさんお姉ちゃんに迷惑掛けてきて、どれだけたくさんお姉ちゃんにわがまま言ってきたのか、それが、やっと全部分かった……」
「家のことをみんなお姉ちゃんに押し付けて、自分はただやりたいことだけやって……」
「ホントは何もできもしないくせに、自分でもできるって思い込んで、でもやっぱり全然、全然できなくて……」
「こんなにだめなのに……呆れるくらいわがままで、自分勝手で、本当にどうしようもないのに……」
「あたしなんて、もういっそ、家にいない方がよかったかも知れないくらい、役立たずな子なのに……」
「それでも……っ! お姉ちゃんは、お姉ちゃんは……っ!」
拳をわなわなと震わせて、泣き腫らした目からまたたくさんの涙を零すスズの姿を、シズは沈痛な面持ちで見つめていた。
(わたしと、同じだ……)
自分と同じだと思った。まったく同じだと思った。
自分なんていてもいなくてもいい、むしろいない方が良かったと考えて、自分の存在の無意味さに泣いている。かつて自分が囚われた悪い考えに、スズもまた陥っている様を、シズは眼前で見せつけられていた。
部屋で死んだように泣いていた自分の姿と、固く握った拳を震わせながら涙を流すスズの姿がオーバーラップして、シズは込み上げてくる感情を抑えられなくなった。あの時のとてつもない苦しみを、今度はスズが味わっている。快活で前向きで、自分よりも強いと思っていたスズが、今にも折れそうな枯れ木のようになってしまっている。見ていることさえ辛い、心が刃物で切り刻まれるかのような心境だった。
シズの視界がぐにゃりと歪んで、瞼が熱を帯びていく。口をキュッと真一文字に結んで懸命にこらえようとしても、溢れ出る思いを、涙を、止めることができなかった。
苦しんでいる妹を助けられるのは、もがいている妹を救えるのは、他でもない自分しかいない。
自分しか、いないのだ。
「泣かないで、スズ」
無意識のうちに、シズはスズを胸の中へ抱き寄せていた。
「おね、ちゃ……」
「聞いて、スズ。スズはね、スズは――」
「スズは、スズのままでいいんだよ」
「無理にわたしのようにならなくてもいい」
「スズは、ただ、ありのままのスズで、いいんだよ」
自然と出てきた言葉だった。気の利いたことを言おう、そんなことには考えがまったく及ばず、ただ感情に任せるままに口にしたのは、「スズのままでいい」という言葉だった。
無理をして、我慢をして、自分のようにならなくたっていい。自分には自分の在り方があるように、スズにはスズの在り方というものがある。双眸から絶えず落涙しながら、シズは幾度となく声を掛けた。泣きながら自分に訴えかける姉の姿を、スズの瞳は確かに捉えていた。
「少し時間を掛けて練習すれば、スズだって、きちんと家事ができるようになるから」
「ちゃんとできるようになるまで、わたしが側について教えてあげるから」
「だからね……だからね、スズ」
「自分なんていなくていい、自分なんている意味ない、自分なんて役立たずだ……そんな風に考えるのは、もうやめよう?」
「わたし、スズがいないと……寂しいよ、悲しいよ」
スズが目を見張る。
「お……ね……っ!」
スズがいないと寂しい、スズがいないと悲しい。シズは、確かにそう口にした。
「ケンカだってする、お互い嫌になることだってある。いなくなっちゃえばいいって考えることだって、きっとある……ううん、あったと思う」
「でも……その度に壁を乗り越えて、新しいスタートを切ってきた。わたしはそう思ってるよ」
「スズと一緒に、これからも頑張って行きたい。手を取り合って、ぶつかり合いながら、それでも前へ進んでいきたい」
「わたしは、スズが側にいてほしいよ」
姉が妹を抱く腕にぐっと力を込める。存在を確かめるように、強く強く、力を込める。浮かんだ涙が珠のような粒になって、妹の背中にぽたりと落ちる。
自分がいなくてもいい、自分にいる意味なんてない、自分なんて役立たずだ――そんなことは、どうか、考えないでほしい。
わたしは、あなたがそばにいてほしいから。
「スズは――わたしの、妹だから」
スズを全身で包み込みながら、シズは昔の光景を思い返していた。
あれは――そうだ。母が働きに出たばかりの頃、兄も遠出をしていて、家に自分とスズだけが残された日だった。
お母さんがいない、お兄ちゃんがいない。スズが声を上げて泣きながら母と兄の姿を探して、家の中を繰り返しぐるぐる回っていた。一度思い返せばはっきりとあの時の光景が蘇ってくる。泣いているスズの姿が、瞼の裏に浮かんでくる。
自分も寂しかった。優しくしてくれる母も、頼りになる兄もいない。春先のことだったから周りが暗くなるのもずいぶん早くて、だだっ広い家の中でスズと二人きりだった。寂しくて侘しくて、自分も半泣きになっていた。
けれどそれ以上に、泣いているスズが可哀想で、何とかしてあげたいと思った。
泣き止まないスズの手をそっと引いて、自分の部屋へ連れていく。スズの顔をティッシュで拭いてあげると、頭を撫でて、背中をさすって、少しでもスズが元気になれるようにと精いっぱいのことをした。
「おねぇちゃん……おかあさんは……? おにぃちゃんは……? 帰ってこないの……?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。必ず帰ってくるから、心配しないで」
自分自身も泣きながら、それでもスズを慰めてやりたくて、勇気づけてやりたくて。
「おねえちゃんが、スズの近くにいてあげるから」
「わたしは、スズのおねえちゃんだから」
一緒にベッドへ上がって布団を頭までかぶると、スズを力いっぱいぎゅっと抱きしめた。
(……わたしは、スズのお姉ちゃんで)
(スズは、わたしの妹だから……)
あの時スズにしたことと同じことを、シズは意識せぬままに再現した形になっていた。きっと、スズも同じことを思い出している、互いに見つめあっていると、言葉を交わさずとも相手の考えが理解できた。ましてや、シズとスズは双子だ。文字通り血を分けた姉妹、そう言える唯一の存在だった。
泣くのをやめたスズが、上目遣いでシズに視線を向ける。
「おねぇちゃん……あたし……っ」
「今日はお母さんもお兄ちゃんも遅いから、わたしとスズの二人きりだよ」
「うん……」
「せっかく二人になれたんだから、わたしとスズで、いろんなこと、話そう?」
「う、ん……」
「お互い正直になって、思ってること、考えてること、感じたこと、言いたいこと、聞きたいこと、知りたいこと、今までのこと、これからのこと……全部話そう? ね?」
妹が力強く頷くのを、シズは確かに目にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。