翌日の朝。
「そうか、そんなことが……スズちゃんも自分を見つめ直して、自省する機会を得られたってことかな」
「二人とも本音で話し合って、すごくすっきりしました。スズの顔、見違えたみたいになりましたから」
「なるほどなるほど。それで今日、こういう展開になったってわけか」
アドバイザーと話すシズ。その傍らには相棒のチルチルとハーベスターの姿もあった。加えて、スズの連れているミドリとストリングスも同じく並んでいる。そして、それだけではない。
「シズお姉ちゃん、今日は何するの?」
「午前中はいつも通りのトレーニング、午後からは紅白大合戦をやるよ。でもその前に、ちょっとお話があるんだ」
「話って、何のことですか? シズ先輩……」
「もう少し待っててね。もうすぐ主役が来るから」
ジムに所属しているトレーナーのほぼ全員が、シズたちの前に集合していた。シズに「これから大事な話がある」と言われ、ここで待つよう託けられているのだ。一体何だろうと騒然とする中で、シズは話し手たる人物が準備を済ませて出てくるのを待っていた。
「やっぱりあれかなあ。あの事かなあ」
「きっとそうだよー。さっきシズに聞いたら、それで間違いないって言ってたしー」
「だよねえ。上手くいけばいいんだけど……」
トレーナーたちの中にはクミとルミの姿も見える。この二人は予めシズから経緯を聞いていて、これから起きることについてほぼ予測が立っているようだ。
ざわめきは収まらないままだったが、シズは特段それを鎮めようとはしなかった。本日の主役が出てくれば、瞬時に落ち着くことが容易に想像できたからだ。それに少しざわついているくらいの方が、入ってくるのに丁度いい空気に違いない。何せ、本人は今相当に緊張しているはずだからだ。
(そろそろ、かな)
そう思ったシズがちらりと事務室方面を見やる。すると恰もそれを合図にしたかのように、事務室のドアががちゃりと開かれた。
「……」
固い表情をした少女が、中から姿を現す。
「あっ、あれ……」
「スズお姉ちゃん……」
現れたのは――ヒワダジムに在籍しているトレーナーで、この場に唯一姿を見せていなかった、スズだった。
スズは一歩一歩確かめるような足取りで歩いてきて、シズのすぐ隣まで辿り着く。シズに目配せすると、対するシズはすぐさま頷き、身を一歩後ろに引いてスズが中央に立つよう促した。ジムトレーナーたち全員が間違いなく視界に入ることを確かめて、スズは小さく息を吸い込んだ。
「大丈夫だよ、スズ。自分の素直な気持ちを伝えてあげて」
「お姉ちゃん……」
「スズならきっとできる。わたしはそう信じてる。スズはわたしの妹だから、ね」
姉から励ましの言葉を貰い、スズが深く頷く。
ふっと目を閉じる。言うべき言葉を整理し、自分の気持ちを隅々まできちんと固める。最終確認を終えると、閉じていた眼をはっきり開いて、真一文字に固く結んでいた口を静かに開いた。
「……みんな」
「今日は……集まってくれて、どうもありがとう」
スズの声に、トレーナーたちは一心に耳を傾けている。彼らから寄せられる視線を感じながら、スズは今一度自分の気持ちを的確に伝えるための言葉を選び、口に出していく。
「この間は、みんなの前で暴力を振るってしまって……本当にごめんなさい」
「あれからよく考えて、自分がどれだけ横暴で自分勝手だったか、よく分かったの」
「もう二度とあんなことはしない。絶対しない。約束する」
「みんなに許してもらえるように、もう一度受け入れてもらえるように……どうか、精いっぱい頑張らせてください」
声を震わせながら――スズは、皆に向けて確かに謝罪した。
深々と頭を下げ、逃げることも言い訳の口上を述べることもせず、正面から自分の非を認めて謝したスズに、トレーナーたちは少なからず驚いているようだった。方々からざわめきの声が聞こえてくる。しかし、スズとトレーナーたちの様相を見ているシズの表情は、あくまで穏やかなものだった。
やがて顔を上げたスズは、不安を隠しきれない表情を浮かべていた。自分の思いが適切に伝わったのか、言葉はみんなに届いたのか。ざわつくトレーナーたちを眺め回し、順繰りに顔色を窺っていく。その過程で、スズはある二人のトレーナーと目を合わせた。
(ケンジ君とサツキちゃん、スズと目が合ったみたいだね)
あの日暴力を振るってしまったケンジと、厳しい言葉を浴びせてしまったサツキ。その二人だった。
「ケンジ君、サツキちゃん。ちょっと前に出てきてもらえるかな?」
シズはそれを見逃さなかった。二人を指名し、前へ呼び出す。ケンジとサツキは自分たちの名前が呼ばれることをある程度想像していたようだ、それほど驚いた素振りも見せず素直に前へ出てきた。シズはスズとケンジ・サツキに代わる代わる視線を投げかけると、自分の側に立った二人に小さく耳打ちをする。それが終わると身を引いて、二人が正面からスズと対峙する形を作った。
ケンジとサツキを前にして、スズがごくりと唾を飲み込む。二人は真っ直ぐで淀みのない瞳を向けている。スズが何を言うのか、それにしっかりと耳を傾けている様子が伝わってくる。今一度姿勢を正して、スズが二人に言葉を掛けた。
「ケンジ君」
「この間は理由も訊かずに引っ叩いちゃって、本当にごめんなさい」
「話を聞けば、ケンジ君が自分から悪戯したわけじゃないってすぐに分かったのに、あたしはそれをしなかった」
「ケンジ君の言う通りだった。あたしが間違った考え方をしてて、それを無理やり押し付けた」
「本当に……ごめんなさい」
再び頭を垂れる。スズの本心からの深い謝意を、ケンジは片時も目を離さずに見つめていた。
「サツキちゃんも……」
「あんなにきついこと言っちゃって、ごめんなさい」
「お気に入りの服が台無しになったら、あたしだってきっと泣きたくなるはずなのに」
「あたしったら、自分のことしか頭になくて、サツキちゃんの気持ちを考えてあげられなかった」
「またジムに来てくれて……本当にありがとう」
サツキに対しても同じく謝罪すると、スズはゆっくり顔を上げる。二人に、そして二人の背中にいるすべてのトレーナーに向けて、さらに言葉を投げ掛けた。
「みんながあたしのこと、すぐに許してくれる――なんて思ってない」
「二人に……ううん、二人だけじゃない。みんなに『あたしがここにいてもいい』って思ってもらえるように、たくさん努力する」
「ここにいるみんなが心を通わせて、一緒に強くなれるように……あたし、絶対に心を入れ替える、絶対に」
「だから……だからもう一度、あたしにチャンスをください。お願いします」
スズは言う。今までとは違う新しいスズに生まれ変わって、暴力や叱責に訴えるようなことはしない、と。
シズがスズから視線を外して、集まった子供たちを見やる。スズの言葉は届いただろうか、スズの思いは伝わっただろうか、スズをもう一度受け入れてくれる心境になっただろうか、と。
そして、シズはその表情をふっと緩めた。彼らが浮かべた表情を見て、シズはスズの言葉が確かに伝わったことを確信した。トレーナーたちが総じて穏やかな目をしているのが何よりの証左だった。
トレーナーたちの正面に立ったケンジとサツキが、二人して相手を見つめ合って、こくりこくりと頷き合う。意志を確認すると、揃って一歩前に出た。
「スズ姉ちゃん。目を閉じてもらえる?」
「えっ? あっ、うん……これでいい?」
「いいよ。ちょっと待ってて」
ケンジに「目を閉じてほしい」と言われたスズが、言われるがまま素直に指示に従う。スズが目をしっかり閉じたのを見計らって、ケンジとサツキが何やらごそごそと動き始めた。暫しその状態が続いていたが、やがてケンジとサツキの動きが止まった。
「お姉ちゃん、もういいよ。目を開けてみて」
今度はサツキが呼び掛けた。恐る恐る瞼を上げたスズの目に向けて、唐突に飛び込んできたのは――
「グリーン、スズ姉ちゃんに挨拶してあげて」
「ミルクもだよ。もっと近づいていいよ」
「……って、ひゃあっ!?」
ケンジの連れているキャタピーのグリーンと、サツキが育てているクルミルのミルクがほぼ密着状態、もっと平たく言うとどアップの状態で、スズの目の前にいた。あまりに突然のことに、スズは素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。驚くスズとは対照的に、グリーンもミルクもつぶらな瞳を向けてきょとんとした顔つきをしている。
「やったやった! うまくいったねサツキちゃん!」
「うん! 作戦成功!」
ケンジとサツキがハイタッチを交わす。何のことはない。二人はスズにごく他愛もないイタズラを仕掛けたのだ。緊張しきっているスズならきっとおもしろい反応を見せてくれるに違いない、そう踏んでの行動だった。
「へぇー、スズ姉ちゃんでもビックリすることってあるんだね」
「さっきのお姉ちゃん、面白かった! 『ひゃあっ!?』って!」
唖然とした表情のスズを前にして、二人が無邪気に笑っていた。周囲のトレーナーたちも同じように笑っていて、緊張していた空気が一気に弛緩したのが分かる状態だった。ケンジとサツキにまんまと引っ掛けられたスズはもう耳まで真っ赤にして、今にも顔から火が出そうな有様だった。
「な、何するのよーっ! ま……マジメに謝ってたのにーっ!!」
今更言ってみてもどうしようもなく、スズの必死の照れ隠しはさらに場を和ませるばかりだった。トレーナーたちが親しげにわらわらと集まってきて、口々にスズのことを囃し立てる。
「スズ先輩ってキリッとした感じだと思ってましたけど、意外と女の子っぽいところもあるんですね!」
「ちょ、ちょっとそれどういう意味よっ! あたしだって、れっきとした女の子なのよっ!」
「ねえねえスズ姉ちゃん、もう一回目閉じて! もう一回!」
「嬉しそうにマッシュ君を抱えながら言うなーっ! 魂胆もろばれじゃない! モロバレルも真っ青よ真っ青!」
「コンちゃんもばっちり見てたよねー。さっきのスズお姉ちゃん、可愛かったねー」
「こここ、こぉらぁーっ! こっそりヘンなこと言わなーいっ!」
普段の厳しさはどこへやら。慌てれば慌てるほどスズの「素」の部分が露になって、ますます面白おかしい光景が作られていく。スズはもはやてんやわんやと言って差し支えない状態になっていた。
「ふふふっ。ケンジくんとサツキちゃん、うまくやってくれたみたいだね」
「お、お姉ちゃん、まさか……」
「わたしは何もしてないよ? ただ、ケンジくんとサツキちゃんに『スズお姉ちゃんが緊張してるみたいだから、気持ちを軽くしてあげてほしいな』ってお願いしただけだもん」
悪戯っぽい表情でうそぶく姉の姿に、スズは困惑した表情を浮かべつつも、内心は緊張しきっていた自分自身と場の空気をほぐす配慮をしてくれたことに強く感謝していた。
そして、集まってきたトレーナーたちが口にした言葉の中には。
「スズお姉ちゃん、これからもジムに来てくれるんだよね?」
「また、バトルのコツとかトレーニングの方法とかを教えてください!」
「先生! 先生とバトルできるの、楽しみにしてるんです!」
スズがジムの中で確かな存在感を持っていて、皆に慕われていることがつぶさに分かるものも数多く混じっていた。実力もあり、厳しいけれど的確な指導ができるスズを慕うトレーナーの数は、決して少なくなかったのだ。
今の賑やかな様子を見ていると、自分がジムへ戻ってきたこと、これから心を入れ替えてもう一度頑張ると宣誓したことが皆に歓迎されていることを、スズはひしひしと感じ取ることができた。
「……みんな、ありがとう。これからは言葉遣いとか態度とか、しっかり気を付けていくから。みんなが楽しく、『強く』なれるように、あたし、精いっぱい頑張るから」
トレーナーたちの模範になれるように、トレーナーたちの目標となれるように。
もう一度――始めよう。スズは決意を新たに、胸を張って見せた。
トレーナー総出でひとしきり騒いだあと、ヒワダジムはようやく通常のトレーニングに入った。スズは早速トレーナーたちにアドバイスをしていたが、その姿勢は積極的ながら柔軟さも加わったもので、今までとは明らかに様子が違っていた。
「まずは相手の自由を奪うことが大事だから、僕は初手で『しびれこな』を使った方がいいと思います」
「そうそう、最初に相手の動きや攻め手を封じるのは王道よ。ただ、中には効かない相手もいるのよね。そもそも身体が麻痺しない特性を持ってたりとか」
「なるほど……必ず一番最初使うくせが付くと、相手にそれを読まれちゃうってこともありますね!」
「うん。だから、あえて初手でいきなり攻撃を仕掛けてみたり、逆に自分の攻撃の準備や守備の強化をしてみたり、動きにバリエーションをつけられればいいと思う。その中で不意を付いて『しびれごな』みたいな技を混ぜて、バトルを引っ掻き回せれば理想ね。もちろんその中に、さっきセイジ君の言ってくれたみたいに一発目に使うっていう手もあるわ」
きちんと相手の話に耳を傾け、落ち着いてアドバイスをする。自分の考えを力づくで押し付けるのではなく、自分なりの意見を提案しつつ相手の思いも尊重する。以前のスズからは考えられないほど穏やかな調子だった。
「ミドリじゃない。こんなとこで何してるの?」
「あっ、スズさん。今ね、ミドリちゃんがマーちゃんに『ソニックブーム』を教えてくれてるの」
「ああ、なるほど。技を教えてくれてたのね。ねえカオリ、上手くいきそう?」
「まだ完璧じゃないけど、ちょっとずつできるようになってきたよ。マーちゃんと練習して、お姉ちゃんのヤンくんと一緒に技を出せるように頑張るよ」
「その意気よ! 華麗な連携技、楽しみにしてるわね」
姿勢が柔らかくなったことでトレーナーたちもスズに声を掛けやすくなったのか、方々のトレーナーと話が弾んでいる様子が見て取れる。スズはずいぶんリラックスした様子でジム内を歩き回りながら、一方で視線をしきりに動かして誰かを探している素振りを見せていた。
探していた人物を見つけたようだ。スズが歩調を早めて、放し飼いにされているポケモンたちとジムの隅で遊んでいる少年の元へ向かった。
「テツヤ君」
「スズ先生や! こんにちは!」
スズが話し掛けたのは、テツヤだった。
「こんにちは。今、ちょっと時間大丈夫?」
「うん、いけるよ。どないしたん?」
屈んで優しく撫でてやっていたクルマユから一旦手を離すと、テツヤが再びスズに目を向ける。スズはテツヤと目の高さを合わせるように少し屈んで、落ち着いた穏やかな調子で言葉を掛ける。
「このクルマユのこと、可愛がってあげてくれてたの?」
「せや。前にセイジ君から聞いてん。このクルマユ、親おらんで大変やったんやでって」
「そうなのよ。親のハハコモリがいなくなって弱ってたところを保護してあげたって、お兄ちゃんが言ってたわ」
「うん、うん。せやんな、先生。それ聞いて、自分とよう似てるなあ思て。似たもん同士仲良うできるんちゃうかな思て」
「テツヤ君と似てる……そうね、あたしも似てると思う」
「自分男子やからお母さんにはなられへんけど、撫でたるくらいやったらできるし、ええかなって」
親がいなくなって衰弱していたところを保護されたというクルマユを「自分と似ている」と言い、優しく撫でてやっていたというテツヤの話に、スズは素直に感嘆して繰り返し頷いていた。テツヤはスズに話を聞いてもらえていることに喜んでいるようで、嬉しそうな表情を見せていた。
「せやけど先生、この子結構やんちゃやねんで。みっちゃんのコンちゃんに後ろからちょっかい出したりとかして」
「そんなことしてたの? ちょっと前まで大人しいっていうか、ずっと隅にいて動かなかったのに……もしかしてそれって、テツヤ君がこの子のこと気にしてあげるようになってからとかじゃない?」
「それくらいやったかなあ。最初は元気なかったけど、自分と遊んどるうちにだんだん元気になってきて、最近は自分にようくっついて一緒に来てくれるようになってん。可愛らしいわ」
テツヤがクルマユを気に掛けて一緒に遊んでやったことが、頑なだったクルマユの心を開いたのは一目瞭然だった。飾らず自然体で接するテツヤに感化されて、クルマユが本来の明るさを取り戻したのである。
「優しいのね、テツヤ君。すごくいいと思うわ、ホントにね」
「うわ、スズ先生に褒められた。自分そないえらいことした思てへんけどなあ。ありがとう、先生」
「こちらこそありがとう。それでね……テツヤ君」
「うん。どないしたん、先生」
スズが一瞬言葉を詰まらせる。けれど止まったのは一瞬だけで、すぐに言葉は紡がれた。
「この前……テツヤ君のこと怒っちゃって、ホントにごめんなさい」
「あたしが間違ってた。ろくにテツヤ君の話も聞かないで、自分の意見ばっかり押し付けて、ひどいこと言っちゃって……」
「辛かったと思う、傷付いたと思う、理不尽だったと思う」
「本当に……ごめんなさい」
テツヤを前にしたスズは、以前頭ごなしに叱りつけてしまったことを謝った。自分の意見を押し通して、テツヤを傷つけてしまった。スズは頭を冷やしてかつてのことを思い返し、あの時の自分の態度を強く悔やんでいた。深く頭を下げて、テツヤに謝罪の言葉を述べる。
謝るスズの姿を、テツヤは混じり気のない瞳でじっと見つめている。
「もし、テツヤ君がいいって言ってくれるなら、ポケモンを捕まえるの、今度あたしにも手伝わせてほしいの」
「あたしにできることがあるなら、なんでもする。できなくたって、できるようになるための方法を考えてみるから」
「これからもジムに来てくれて……みんなと仲良くしてくれたら、嬉しいな」
かつてのスズからは考えられないような言葉だった。けれどテツヤは驚いたり怪訝な顔をしたりすることは一切なく、ただありのままそのままにスズの言葉を受け止め飲み込んでいた。スズが言葉を言い終えたこと、次は自分が応答する番だと理解したテツヤが、小さく息を吸う。
まっすぐな目をしたテツヤが、スズの謝罪に返した言葉は。
「ええんよ、先生」
「先生も必死やったんやんな。自分にポケモンおらんかったら、皆と一緒に遊んだり戦うたりできひん、そらあかん、えらいことや。そない思てくれたんやんな」
「まだちょっと掛かるかも知れんけど、やっぱり自分もポケモン近くにおってほしいし、先生が手伝うてくれるんやったらめっちゃうれしいわ」
「自分も頑張るから、先生も一緒に頑張ろな」
その言葉と共に、テツヤはスズに向かって自分の利き手を差し出す。
「テツヤ、君……っ」
刹那――スズの瞳が陽の光を跳ね返して、きらりと光るのが見えた。
「……うん。あたし、頑張る」
「絶対、絶対頑張るから」
「テツヤ君がここに居たいと思える、そんなジムを……お姉ちゃんと一緒に、作っていくから……!」
差し出されたテツヤの手を、両手でしっかりと取る。決して離すまいと強く力を込めて、確かに意志を伝える。テツヤは無邪気な笑みを浮かべて見せると、スズが手を握ってくれたことを喜んでいるようだった。
そうした二人のやりとりを、すぐ近くで見つめる影があった。
「あっ。スズ先生、後ろ見たってや」
「えっ?」
テツヤに言われて振り向いたスズが目にしたのは、自分のよく見知った顔だった。
「ユイ姉ちゃんや。こんにちは」
「こ……こんにちは。あ、あの……」
後ろに立っていたのは、スズの後輩のユイだった。先ほどスズが皆に詫びたときには姿を見せていなかったが、この時間になって顔を出しにきたようだ。恐らくは妹のマイも随伴しているに違いない。
「ユイ……来てくれたのね」
スズはさっと涙を拭うと、穏やかな声でユイに呼び掛ける。ユイはおずおずとスズの側まで歩み寄ると、こわごわながら顔を上げた。
ユイの様子を見ながら、スズはこの後輩に掛けるべき言葉を考えていた。そんなスズに先んじて、ユイが少しばかり声を震わせつつ、畏まった調子で口を開く。
「先輩……いつも、すみません」
「私、物覚えも運動神経も悪くて……先輩に迷惑を掛けてばかりで……」
「これからはもっと自分に厳しくします。早く先輩の足手まといにならないように、一生懸命努力します」
「ですから……お願いです。どうか、剣道を続けさせてください」
一つ一つ、砂浜から小石を拾い上げるような繊細さをもって、ユイはスズに自分の意志を告げた。自分が至らないことは分かっている、それがスズにとって足手まといになっていることも分かっている、分かっているが、それでも剣道を続けたい。それが自分の意志だと、ユイは勇気を振り絞って口にした。
対するスズは真剣な眼差しでユイを見つめて、それからふっと目を閉じる。ごく薄く目を閉じたスズは、静かに、ごく静かに、その首を横に振った。スズの仕草を見たユイの表情に、隠しきれない落胆の色が浮かぶ。
「先輩……私、やっぱり……」
「違うの。ユイは悪くなんかない、謝ることなんて何もない……そう言いたかったの」
「……えっ?」
スズから思わぬ言葉を耳にして、ユイがきょとんとした表情を見せる。
「一年生で一番熱心に鍛錬してることも、言われたことをすぐに実践してることも、みんなが手を抜きがちな足さばきだって真剣に練習してることも……今まで言えなかったけど、ホントは知ってたの」
「先輩……」
「ユイ、ごめんなさい。本当にごめんなさい。あたし、子供っぽい考えで自分の気が立ってたのを、真面目なユイに八つ当たりしてたんだって気付いたの。そんな驕りや傲慢さを律するのが剣道の本質なのに、頭からすっぽ抜けてた。先輩失格だわ」
「そんな、先輩は……! 先輩はそんなことありませんっ。私に基礎からしっかり教えてくれて、つまらない質問にも答えてくれて、それで……っ!」
「ありがとう、ユイ。でもね、これはあたしの本心なの。これからは深く反省して、もっと真摯にならなきゃ、自分を戒めなきゃって思ってる。剣道だけじゃなくて……ポケモンもそう、勉強もそう、全部そう。大袈裟じゃなくて、人生そのものを見直さなきゃって感じたから」
一歩前に出たスズがユイの目を見て、もう一度深く頭を下げて詫びる。
「あたしがあんなにひどいことしちゃったのに……それでも、剣道を続けてくれるのね」
「……はい。私も、自分を変えたいと思ってて、それで……少しずつ、道が見えてきたように思うんです」
「嬉しい。ホントに嬉しい。あたし今、すっごく嬉しいわ」
ユイの表情が和らいで、うっすらと目に涙が浮かんだ。
「よかったです……私が先輩に嫌われたわけじゃなくて……」
「そうよね。そう思っちゃっても仕方ないわよね。あたしが未熟だったせいで、ユイを辛い気持ちにさせちゃった。ユイがあたしのこと嫌いになってもおかしくなかった、剣道そのものが嫌いになったっておかしくなかった……そうなっちゃう前に反省できて、神様に感謝しなきゃね」
そっとユイの手を取ると、今度はスズがユイに頼み込む番だった。
「もし、ユイが受け入れてくれるなら、これからも……あたしに先輩でいさせてほしいの」
「先輩……!」
「教えるとか鍛えるとか、そんな偉そうなことは言えない。口が裂けても言えない。あたしだってまだまだ全然未熟だから。だけど先輩として、あたしの知ってる技や型を見せてあげたり、ユイの話し相手になったり、一緒に稽古したり、そういうことはできると思うし、やっていきたい。そう思ってるから」
目を見開き瞳を輝かせたユイが、何度も何度も繰り返し頷いて見せる。
「それでね、前からユイに何回も言ってた言葉を、訂正……ううん、撤回させてほしいの」
「……『いくら練習したって、身についてなきゃ何の意味もない』――これを、取り消させて」
「無駄な努力なんて無い、実を結ばない努力なんて無い」
「邪念を排して真摯に物事に取り組み続ければ、必ず道は開ける」
「あたしがそう信じてやってきたはずなのに、大切にしてきたはずなのに、自分が忘れちゃってた。本当に間抜けよね」
「『この間は先輩が寝ぼけてバカな寝言を言ってた』……そう思って、忘れてほしいの」
「ユイの努力は、必ずユイのためになる。あたしはそう信じてるから」
ユイの表情には、既に生気と覇気が漲っていた。スズに取ってもらった手に力を込めて、力強く首を縦に振る。
「先輩、ありがとうございますっ! 私、もっと精進しますから!」
「頼もしいわ! これはあたしもうかうかしてられないわね。一年生だからって遠慮せずに、上級生をぐわっと食っちゃう勢いで頑張ってよね!」
「はいっ!」
しっかり心を通わせた二人の姿を、マイとシズが少し離れた場所から見守っていた。
「スズ先輩……本当に見違えましたね! なんだか素敵です」
「スズは一度飲み込んだら早いからね。なんたって、わたしの妹だから」
「あははっ、シズ先輩も言いますね。でも、本当によかったと思います」
「うん。ユイちゃんのことも、これでもう心配いらないね。これからも二人で仲良く、まっすぐに頑張ってほしいな」
「もちろんです! 姉を見てたら、私も何か始めたくなってきました」
「いいねいいね、何事もきっかけだよ。わたしも応援してるからね!」
マイはすっかり安心した表情を見せていて、スズと固く握手を交わす姉の姿を余裕を持って眺めていた。今のスズならば、間違っても姉に手を上げたりすることは無いだろう。厳しくも優しい良き先輩として、姉を導いてくれるに違いない。
その場に居合わせたテツヤとユイが一緒にポケモンの面倒を見始めたのを見計らって、スズは二人に会釈をしてからジムの巡回へ戻る。呼び止められたのは、その直後のことだった。
「この間までとはすっかり別人だね、スズちゃん」
「アドバイザーさん」
スズは立ち止まって、声のした方へ方向転換してから歩いていく。アドバイザーは微笑みつつ、向かってくるスズを迎えた。
「何があったかは、シズちゃんから大体聞いたよ。スズちゃんはスズちゃんなりの考えがあった、そういうことなんだよな」
「うん。だけど、それがどれだけ自分勝手で子供っぽかったか、嫌ってくらい思い知らされた。もっと早くその事に気付けてればよかったのに……」
「なるほどな。だけど、自省ができたなら上出来だと俺は思うな。自分の過ちを認めて考えを正せるのは、そうそうできることじゃないさ」
「あたし……まだやり直せるかな、まだ間に合うかな。ちゃんとしたトレーナーに、ちゃんとした人間になれるように……」
「心配いらないさ。スズちゃんは頭も回るし手だって動かせる。やり直そうって気があれば、全然大丈夫だ。手遅れなんてことは絶対無い。俺はスズちゃんがこれからどう伸びていくか、楽しみにしてるよ」
「アドバイザーさん……! ありがとうございます」
「いやいや。お礼を言われるようなことじゃないさ。それに、前の時は俺もちょっとばかり言い過ぎた。今更だけど、ごめんな、スズちゃん」
「ううん。あたしが考え直すいい切っ掛けになったから、今は心の底から感謝してるし」
「それなら言った甲斐もあったかな。手の平返しになっちゃうけど、俺は今のスズちゃんならきっといいジムが作れるはずだと思ってる。ぜひ、シズちゃんと一緒にヒワダジムを盛り上げていってくれ。俺も助力は惜しまんからな」
破顔一笑するアドバイザーにつられて、スズもまた頬を綻ばせて笑って見せた。
過去に作ってしまった遺恨を瞬く間に清算し、目覚ましい成長ぶりを見せるスズを――遠巻きに見守る影が一つあった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。