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#44 スズちゃんの涙

「シズ、これからリビングまで来てくれるかな」

ジムの仕事を片付けて、スズに手伝ってもらって格段に楽になった家事を一通り片付けたシズが部屋でくつろいでいると、兄のツクシが開け放たれたドアから顔を覗かせた。ベッドに寝転がっていたシズはさっと身体を起こすと、ツクシの顔を見返した。

「あ、お兄ちゃん。どうかしたの?」

「ちょっとね、話があるんだ。そんなには掛からないよ」

「分かった。これからすぐ行くね」

ベッドから下りて部屋を出る。出て行くついでに隣のスズの部屋を見ると、こちらも灯りが消されていた。スズもリビングにいるのだろうか。あれこれ考えを巡らせながら、シズはいつものように階段を下りた。

リビングに入ってみると――そこには予想通り、スズの姿があった。お姉ちゃん、と声を上げるスズに会釈をして応じると、椅子を引いて隣へ座る。ツクシはまだ戻らない。自室へ立ち寄っているのだろうか。スズがシズの顔を覗き込んで、ごく小さな声で話し掛けた。

「お姉ちゃん……もしかして、お兄ちゃんに呼ばれたの?」

「そうだよ。スズもかな?」

「うん。ちょっと話があるから、リビングまで来てほしい、って」

スズも同じ用件で呼び出されたようだった。ツクシが自分とスズの両方を呼び出すとは、何かあると考えるのが自然だろう。双子の姉妹は揃って固い顔つきをして、兄の入場を待った。

さほど間を置かずして、ツクシがリビングに姿を見せる。いつも座っている椅子を引いて定位置に付くと、改めてシズとスズの顔を見やる。シズはもちろん緊張していたが、隣のスズはそれ以上に身を固くしていて、息をするのがやっとのようにさえ見えた。

「二人とも、来てくれてありがとう。今日は僕の代わりにジムの仕事をしてくれて、助かったよ」

「これで僕も安心して、ジムリーダーの仕事を託せる。見ていて安心できたよ」

トレーナーたちに見えない位置から、二人がジム内で奮闘する様子を伺っていたツクシが、率直な感想を述べた。シズが小さく頷いて、未だ意図の読めない兄の会話に耳を傾け続けている。これから何を話すつもりでいるのか、まさかこれで終わりではあるまい――シズは気を引き締めるべく姿勢を正す。

ツクシの言葉から少し挟まれた間。そこへ滑り込むように、スズがすっと手を挙げた。

「お兄ちゃん……あたし、少し時間をもらってもいいかな。話したいことがあるの」

「いいよ、スズ。言ってみて」

ツクシはスズの意見を何も横槍を入れずに聞き入れて、スズに話すよう促した。

「お兄ちゃん……それに、お姉ちゃんも」

「この間は、ごめんなさい」

兄を前にしたスズが発したのは、謝罪の言葉だった。

正面にいる兄から片時も目を離そうとせず、一歩たりとも退く素振りを見せずに真っ直ぐに見据えて、続く言葉を口にする。

「あたし、自分のことばっかり考えて、大変な思いをしてるお兄ちゃんやお姉ちゃんのことをちっとも考えてなかった」

「お兄ちゃんに憎まれ口を叩いて、お姉ちゃんに甘えてばっかりで、それで自分一人でどうにかなるって思い込んでた」

「ジムリーダーになれないのは、お兄ちゃんとお姉ちゃんの、どっちのせいでもないのに」

「それで勝手に腹を立てて、ケンジ君やお姉ちゃんに暴力を振るってしまって」

「後輩のユイや、アドバイザーさんにまで八つ当たりしちゃって」

「こんなことして……本当なら、今すぐジムを追い出されたって少しもおかしくない」

「これから先、二度とポケモンに関わるなって言われたって、何も言い返せない」

「だけど、この間一人で留守番をして、自分がどれだけ未熟かを思い知らされて、一人じゃ何もできないって分からされた」

「自分なんて……もう本当にどうしようもない、いないほうがマシだ……そんな風に考えてたあたしを、お姉ちゃんは許してくれて、受け入れてくれて」

「トレーナーとしての、人としてのあり方を見つめ直して、もう一度一からやり直したい、やり直さなきゃって思った」

「これからは二度と自分勝手なことはしない。自分を律して、正しい生き方をいつも考えていく。そうするって誓ったの」

「だから――これからも、ヒワダジムで活動させてほしい」

「今までお兄ちゃんが守ってきたヒワダジムを、これからお姉ちゃんが継ぐことになるヒワダジムを、一人のトレーナーとして支えさせてほしい」

「……あたしは、そう思ってるの」

ツクシを前にして、スズは思いのたけを込めた贖罪の言葉を言い終えた。今にも泣き出しそうなスズの悲愴な表情と、それと何ら遜色ないシズの痛切な面持ちが、口先だけの謝罪などではない、単なる音塊としての言葉に留まらない言霊としての性質を持っていることを、雄弁に物語っていた。

躰を震わせるスズの手を、シズがテーブルの下でそっと取る。姉が手をつないでくれたことで、スズの躰の震えが収まった。二人が互いに見合って頷くと、兄の反応を待った。

すべての言葉を聞き終えて、その意味するところを咀嚼して嚥下したツクシが、深く深く頷く。ふぅ、と小さく息を吐き出すと、スズの瞳の奥深くを覗き込むようにして、穏やかな声で呼び掛けた。

「スズ。僕も、聞いてもらいたいことがあるんだ」

「お兄ちゃん……」

妹の言葉に対する、兄の言葉は。

「――ごめんね、スズ。辛い思いをさせて」

瞬間スズは、何を言われたのか分からない、とでも言いたげな驚きに満ちた顔をして見せて、兄の目をまじまじと見つめた。ツクシはスズに穏やかな目を向けながら、改めて謝意を明らかにした。

「スズがジムリーダーになれないって聞いて、どれだけ理不尽に思ったか。僕の想像に余りある」

「シズと一緒に生まれてきて、ふたごちゃんだ、瓜二つだってみんなからずっと言われてきて、それでここまで大きくなったのに、今更になって『妹だから』って理由でお鉢が回ってこない。そんなことって、本当に無いと思う」

「本当の辛さは、スズにしか分からない。僕はスズの痛みや辛さを、ただ想像することしかできない。本当は僕が謝ること自体、スズにとっては失礼そのものだってことは、僕にだって分かってる。分かってるんだ」

「それでも――謝らせてほしいんだ。謝らせてもらいたいんだ」

「ごめんね、スズ。本当に……ごめんね」

繰り返し謝る兄の様子と言葉を目にして耳にして、スズは兄の意図を理解した。大きく首を横に振って、そうじゃない、そうじゃないんだと繰り返す。

「違う……違うよお兄ちゃん! お兄ちゃんは悪くない、ちっとも悪くなんかない!」

「お兄ちゃんだって……あたしがお姉ちゃんに食ってかかって仲違いしちゃうって、そうなるって分かってても、お姉ちゃんにジムリーダーになってもらわなきゃいけなかった! ちゃんとお姉ちゃんにジムリーダーを引き継がなきゃ、ヒワダジムが無くなっちゃう! だから!」

「あたしはもう大丈夫、大丈夫だからっ! だから、お兄ちゃんは謝らなくていいの! お兄ちゃんは悪くない、お姉ちゃんだって悪くないって、やっとあたしも分かったから……っ!」

目に涙を浮かべて「お兄ちゃんは悪くない」「謝る必要なんて無い」と繰り返すスズを見たツクシは、自分の想いをスズが綺麗に汲み取ってくれたこと、スズがもうかつてのスズではないこと、自分たちの間にできていたわだかまりが無くなったことを実感できたのか、いつも以上に穏やかな表情を見せていた。

「泣き止んで、スズ。せっかくの可愛い顔が台無しになっちゃうからね」

「僕の気持ちを汲んでくれたんだね。本当に、スズの言った通りだったよ。僕もスズに申し訳ないって思いながら、それでもシズに後を託すことを選んだんだ」

「スズは――他の人の心に寄り添ってあげられる、優しい子になってくれたんだね」

「僕は幸せだよ。こんなにも立派で素敵な妹が、二人もいて」

「その二人に、いい報せを持ってこられたんだから」

いい報せ、という言葉を受けて、シズとスズが一緒のタイミングで目を見開いた。

「ジムリーダーとして、職責を預かる立場として……どうしても、確実なことしか口に出せないんだ」

「規則があるなら、それに従わなきゃいけない。だから、あの時はスズにも杓子定規で無愛想なことしか言えなかった」

「だけど、僕だっていつまでも従うだけってのは性に合わない。おかしいことはおかしいって言わなきゃ、やっぱりダメだ」

「シズ――それに、スズ」

 

「――来年からは、二人で一緒に、ジムリーダーになって欲しいんだ」

 

「……えっ?」

「二人で……一緒に……?」

ツクシの言葉は、シズとスズの思考を止めてしまうには十分にすぎる威力があった。何を言われたのか、ツクシはなんと言ったのか、シズとスズはどちらも意味を掴みかねていた。

「ビックリしたよね。まずは、経緯を話すよ」

口元に笑みを浮かべたツクシが、背景を語り始めた。

「四天王に就任して欲しいって言われたタイミングで、僕は運営委員会に『ジムリーダーの複数人制』の導入を要求した」

「僕にはシズとスズの二人の妹がいて、どちらも遜色ない実力の持ち主だ。それなのに戸籍の都合でシズがジムリーダーになって、スズにはその権利が無いってのは、どう考えてもおかしいだろうって。もう机を叩かんばかりの勢いでね」

「前々からポケモンリーグには何回もこの要求は出してたんだけど、明確な理由もなく現状維持にこだわる人が多くて、その都度提案を棚上げにされてきた過去があった。だけど今回ばかりは僕も退けなかったから、複数人制にできないなら四天王就任承諾の返事を白紙撤回するって言ってやったんだ」

「これが効いたみたいでね。すぐに答えを出すって言ってきた。僕はダメ押しに、ホウエンではフウ君とランちゃんって前例がある、ジョウトでできない理由は無いはずだ。もっとも、カントーとジョウトのポケモンリーグは、古いしがらみに縛られた組織だって見られたいならそれでも構わないけど――って、さらに突き放してやった」

「初めに僕とミカンさんが四天王の候補として選ばれたのは、若い人を入れてポケモンリーグのイメージアップを図るって目論見もあった。言い換えると、今のポケモンリーグに対して『守旧派』とか『古い組織』だって認識を持ってる人が多い、そういう危機感の現れでもある。そこを突かないのは下策だよね」

「それで、一昨日だったかな。内部の話し合いを経て、やっと結論が出た」

「僕の要求が通って、来年からは条件を満たせば、複数の人間が同時にジムリーダーになれることになったんだ」

戸籍の都合でジムリーダーになれない。スズをそんな理不尽な目に遭わせていた「ルール」を、ツクシは根底からひっくり返したのだ。

「ルールは守らなきゃいけない。守ることで秩序を保つことが、ルールの目的だからだ」

「だけど、ルールは変えることだってできる。実情にそぐわないルールは、変えていかなきゃいけないんだ」

呆然とした表情を浮かべる二人に向かって、ツクシが静かに語りかける。

「事務処理の都合で、一応複数人のジムリーダーのうち一人だけが本リーダーみたいな扱いになって、その人にしかできない仕事がいくつかある。請求書の決済とかの、お金の絡む事務的な仕事だね。副リーダーはそういうごく限られた仕事だけ、例えば本リーダーが体調不良で動けない時とかの限られた時にしかできないようになってる」

「だけど、それ以外のほとんどのこと。例えばジムで催す企画を立案したり、トレーナーとトレーニングをしたり、リーダーとして会議に出席したりすることは、まったく同じようにできる」

「もちろん、挑戦者と戦って、バッジを渡すことだってできるよ」

「どちらか片方だけが戦うこともできるし、二人が同時にフィールドに立って、ダブルバトルで挑戦者と戦うこともできる。それはジムリーダーの裁量で決めていいんだ」

ツクシが二人に向けていた目を、スズ一人に絞る。

「スズ」

「知っての通り、シズは芯が強くて心配りもできる、真面目な女の子だ。ジムリーダーとしての資質は、十二分にあると思って間違いない」

「だけど、時には強い雨や風に晒されて、折れそうになることだってあると思う」

「スズはそんなシズのことを、誰よりもよく知ってる。血を分けた双子として、お互いにとても強いつながりがある」

「だから、スズはシズのことを支えてあげてほしい。シズを側で見守っていてあげてほしいんだ」

「支えるっていうのは、ただ叱咤激励するだけじゃない。スズなら分かってると思うけど、シズは時々頑張り過ぎちゃうことがあるんだ。そういうときは、力づくででも休ませてあげることだって、また一つの支え方だよ。それができるのは、スズしかいないんだ」

「僕はさっきのスズの言葉で確信したよ。今のスズなら決して道を踏み外すことはない。皆のお手本になるような、立派なジムリーダーになれる。絶対に間違いないさ」

「僕が今まで作ってきたジムの形にこだわる必要なんて無い。自分たちがいいと思えば、どんどん形を変えて、新しいものを取り入れていってくれればいいよ」

「その過程で、スズも遠慮せずに自分の意見を出してくれればいい。シズにしかないものもあれば、スズしか持ってないものだってある。互いに持てるものを出し合って、一番いい答えを見つけてほしい」

「スズ、僕からのお願いだ」

「シズに並ぶ、もう一人の<ジムリーダー>として――シズと一緒に、ヒワダジムで頑張ってほしいんだ」

「スズに、<ジムリーダー>になってほしいんだ」

ツクシが、スズに告げる。

もう一人の<ジムリーダー>になってほしい、と。

「お……兄ちゃん……っ!」

「ああ……やっと言えた。僕はやっとスズに『ジムリーダーになってほしい』って言えたんだね」

「スズ……! スズも『ジムリーダー』になれるんだよ、わたしと一緒に、『ジムリーダー』になれるんだよ……!」

目から大きな大きな涙をぽろぽろと溢れさせながら、スズは姉の言葉に大きく頷いた。自分も姉と同じ「ジムリーダー」になれる、それがどれほど大きな意味を持っているのかは、渦中のスズが一番よく知っていた。

「お兄ちゃんは……ずっと、ずっと戦ってたんだ……! あたしとお姉ちゃんが、どっちもジムリーダーになれるように……っ!」

「スズがシズに負けないくらいたくさんの努力を重ねてるってことは、僕も知ってたからね。だから、なんとしてもそれに報いてあげたいと思った。地道に経験を積むことの大切さを知ってるスズを、つまらないしがらみや制度なんかで潰すわけには絶対に行かないと思ったんだ」

「お兄ちゃんが、こんなにもあたしのこと見てくれて、考えててくれたのに……! あたしは……あたしは、何も分かってなかった……っ!」

「いいんだよ、スズ。スズだってたくさん悩んだし、たくさん苦しんだ。もう苦しまなくていいんだ。僕はもっと早く、スズにこの報せを持ってきてあげたかった。遅くなったけど、でも、スズに言えてよかった。本当によかった」

ツクシは席を立つと、泣きじゃくるスズの側まで出向いて、両腕を使って包み込むように抱きしめる。

「スズ。スズはこの一ヶ月で、本当に見違えるくらい成長したね」

「さっき僕に言ってくれた『自分を律して、正しい生き方をいつも考えていく』って言葉は、本当に素敵だと思う」

「誰から借りた言葉でもない、スズが自分で見出した言葉だから、尚更そう思うよ」

スズの背中をぽんぽんと優しく打って、さらに言葉を続ける。

「これから先、こんな風に理不尽な目に遭ったり、挫折しそうになったりすることは、また必ずあると思う」

「だけどその時も、きっと誰かが自分を認めてくれている、受け入れてくれている。そう思って、前へ進んでいってほしい」

「思った通りの結果は得られないかも知れない。だけど、血肉にならない努力なんて無い。スズなら、きっと分かってくれるよね」

胸の中のスズが頷いたのを、ツクシは確かに感じ取った。

しばらくそうしてスズを抱きしめてから、一旦ツクシがスズから離れて、再び自席へ戻る。

「……お兄ちゃん、ありがとう。あたし、頑張る。お姉ちゃんと一緒に、ジムリーダーとして頑張るから」

「ありがとう、スズ。シズとスズ、それも互いに一回り大きくなった二人が組めば、怖いものなしだね」

シズとスズが互いに見合う。シズの瞳にはスズが、スズの瞳にはシズが大きく映り込む。

「スズ、一緒に頑張ろう。スズがいてくれれば、わたしはもっと強くなれるからね」

「うん。お姉ちゃんと力を合わせれば、きっと何だってできちゃう。あたしはそう信じてるから」

来年からは、シズとスズの二人がジムリーダーになる。

二人で共にジムのフィールドに立つ――夢にまで見た光景が、現実になった瞬間だった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。