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#46 シズちゃんの見た世界 その1

チエと話をしてから、幾日かが経過した頃のこと。まだまだ日差しが強い日中、いつものように一通りの買い物を終えて外を歩いていたシズは、ここでも見知った人影を目にすることとなった。

「先生っ!」

「あら、シズちゃんじゃない」

シズは背中から声を掛けて呼び止めると、マユコはすぐさまくるりと振り向いた。長い髪がふわりと揺れて、微かに顔に掛かるのが見える。眼鏡を軽く直す仕草を見せながら、駆け寄ってくるシズを出迎えた。

「マユコ先生、こんにちは」

「久しぶりね。元気にしてたかしら?」

「はいっ。おかげで元気に過ごせてます」

「ほう、思ってたよりもずいぶんいい返事ね。感心感心」

以前とは大きく異なる、覇気を漲らせたシズの返事を受けて、マユコは少なからぬ驚きに見舞われたようだった。大きく目を見開くと、シズを頭の先から足のつま先に至るまで隈なく見回す。なるほど、前回会った時とは確かに違うようだと、マユコは得心した。

「先生は……今日はお休みですか?」

「あ、分かった? 先生だってたまには羽も伸ばしたいし、身長だって伸ばしたいのよ」

「身長は狙って伸ばせるものでもないと思いますけど……でも、休むことも大事ですよね。分かります、その気持ち」

意識せぬまま自然と、シズがマユコの隣について歩き出す。マユコもしっかり空気を読むと、一回り背丈の小さいシズとしっかり歩調を合わせて歩いていく。外から見ると、先生と教え子というより、少し年の離れた従姉妹同士のような趣があった。二人共互いに似ていないようで、纏っている雰囲気に相通ずるものを感じる。本人らの考えはともかく、外面としてはそう映っていた。

「あの……先生。わたし、先生と少し話がしたいんです」

「奇遇ね。あたしもちょうどシズちゃんから話を聞きたいと思ってたところよ。向こうに公園もあるわ。あそこで少し腰を落ち着けて、臨時懇談会と洒落込みましょうか」

少し歩けば、涼しい木陰の下に置かれたベンチのある公園がある。そこでじっくり話をしようじゃないか。二人は速やかに合意すると、間もなく公園へ到着した。

昔ながらの鉄製のジャングルジム・標準より少し大きな滑り台・木製のシーソー・誰かが軽く掘り起こして遊んだ形跡のある砂場・そして木陰の下のベンチ。公園に置かれているべきものが一通り置かれた、言ってしまえばごく普通の公園だった。この暑さのためか、遊具で遊んでいる子供も、井戸端会議に興じている主婦の姿も見当たらない。いるのは暑さに動じないヤドンと、せわしなく飛び回るポッポやスバメくらいのものだった。

ベンチに座ったシズが、開口一番、マユコに向けてこう言った。

「先生。この間はありがとうございました」

「あれから自分を見つめ直して、わたしがこれからどうありたいか、しっかり考えるきっかけになりました」

「ちょっと遠回りにはなりましたけど……でも、自分のためになったと思ってます」

先日マユコと対話した際に、シズはマユコから叱咤をもらっていた。シズはジムリーダーになりたいのか、それとも兄であるツクシになりたいのか。シズはシズで、シズ以外の何者でもないのに、ツクシになれるわけがない。ツクシがいくら優れているからといって、スズがいくら実績を残しているからといって、上には上がいる、それを自覚しろ――立て続けにショッキングな言葉を受けて思考が止まってしまったあの時のことが、今は幾分懐かしく思えた。

額に薄く膜を張った汗をハンカチで丁寧に拭き取りながら、シズはマユコからの応答を待った。マユコは向こうに据えられた使う者のない遊具を瞳に映し出しながら、敢えてシズと目を合わせようとはせずに、淡々とした呟くような口調で、横に座るシズに問いを投げた。

「じゃあ――シズちゃん。先生に教えてちょうだい」

「これから先、どんなジムを作りたくて」

「そして、どんなジムリーダーになりたいのかを」

シズはマユコからの問いを、しごく落ち着いた表情と心持ちで受け止めた。マユコがこう会話のボールを投げてくるであろうことを前持って予想していて、それがピタリと当て嵌まった感覚を得ていた。何の違和感もなく、シズが返すべき言葉を丁寧に織り上げていく。

以前もらったものは叱咤だけに止まらなかった。これからどうしていくつもりなのか、ジムリーダーとしてどのような志を持って活動していくのか。それらを「宿題」として課されていた。今のマユコが、かつて渡された宿題に対するシズの「答え」を待っていることは明白だった。ならば、それに答えよう。そして応えて見せよう。シズは静かに奮起した。

「わたしは、先生に言われて考えました。どんなジムにすべきか、どんなリーダーとしてあるべきか」

「考えている中で一番イメージに近いのは――奇遇ですけど、今わたしたちがいるような『公園』です」

「『公園』のようなジムにしたいって、わたしは思ってます」

ベンチから立ち上がったシズが、公園全体を見回しながら話を続ける。

「ジャングルジムのように、高い場所を目指して競争をするための環境もある」

「滑り台のように、小さなことを積み上げて、大きな達成感を味わうための環境もある」

「シーソーのように、人と人との間で駆け引きややり取りを身につけるための環境もある」

「砂場のように、新しい物を創ったり実験したりするための、失敗が許される環境もある」

「わたしたちが今使っているベンチのような、休むための環境もある」

「公園は誰でも使える場所でもあります。だから、ジムに所属していない人にも使ってもらえる場所にしたいって思いもあります」

「ただ馴れ合って戯れ合うだけでもなくて、競争一辺倒でもない――わたし、ヒワダジムをそんな場所にしたいんです」

「そして、わたしは」

「みんなを支えて、心に寄り添って、けれど時には厳しく律する。そうしていく中で、ジムにいるみんなの力を引き出すお手伝いをしてあげられる、そんなジムリーダーになりたいと思っています」

今のツクシが作り上げたヒワダジムの土台を受け継ぎながら、シズは「公園」という言葉で理想のジムを表現して見せた。競争だけでも馴れ合いだけでもない、硬軟取り交ぜたスタイルを理想として、様々な経験をしてもらいたい。シズはマユコにそう語った。そして、皆をどこかへ引っ張っていくのではなく、皆の力を引き出す「奉仕者」としてのリーダーのあり方も、また併せて。

まだイメージですけど、どうすればいいかはなんとなく分かり掛けてます。これからもっとたくさん経験を積んで、試行錯誤を繰り返していきます。きっと失敗することもあると思います、挫折しそうになることもあると思います。けれどそこで諦めずに何度も立ち上がって、もう一度スタートを切っていきたいです。マユコに対して穏やかに畳み掛けるようにして、シズが付け加えた。

シズがすべて言い終えたことを確かめて。

「――そう」

マユコがゆっくりと、シズに視線を向ける。

「そうね……それがシズちゃんの出した、シズちゃんの『答え』なのね」

その顔つきは――とても、穏やかなものだった。

「シズちゃんの答え、確かに聞かせてもらったわ」

「気負いも無い、気後れも無い、焦りも無い、諦めも無い」

「無い無い無い無い、なんにも無い。隅から隅までまっさらな心」

「前と同じように、一切合切何も無いはずなのに、同じ言葉を使って表現できるはずなのに」

「……いい。すごくいいと思うわよ、シズちゃん」

何度となく頷いて見せて、マユコはシズの出した「答え」にとても満足していた。これまで見せたことのないような、暖かく柔らかい笑顔を浮かべている。シズはマユコの顔を見て、自分の心にまで春の陽気のような暖かさが満ちてくるのを感じた。

「シズちゃん、今更だけどごめんなさいね。この間話したときは、ちょっとカドが強すぎたかもって思ってたから」

「いえ、あれでよかったんです。先生がわたしにシャキッとしてもらいたくて、喝を入れてくれた。今はそう思えます」

「そうね。あの時のシズちゃんは自信ってものが欠片もなくて、霧の中を彷徨ってたみたいだったから」

「迷ってました。自分じゃ絶対兄みたいにはなれないって」

「お兄ちゃんの影を追って、届かない自分に只管歯噛みしてた。そうよね?」

「そうです。でも、その次の日に母と話をして、言ってもらったんです。『シズはシズのままでいい』って」

「シズちゃんはシズちゃんのままでいい、か……いいわね、その言葉。きっと効いたと思うわ」

「効果覿面でした。気持ちがすごく楽になって、落ち着いて考えをまとめられるようになったんです。母がわたしのことを見ていてくれて、わたしにもいいところがあるんだ、家族みんなと一緒にいてもいいんだって思えました」

母と言葉を交わした日から、シズは自分に自信を持てるようになった。自分は自分で、他の誰にも代えられない存在。そうであるならば、自分が自分としてできることに全力を注ごう。シズの考え方は、そのような形に変わっていった。

「なるほどね。シズちゃんのお母さん、スギナさんだったかしら。本当に素敵なお母さんね。夏休み前の懇談会の時でも、理路整然としててすごく話しやすかったし。あたしが『お母さん』って呼びたくなる貴重な人だわ」

「ありがとうございます。わたしも、母のことはとても尊敬してます。感謝してます」

「いいわね、羨ましいわ。あたしを産んだ人とはえらい違い。でも、シズちゃんのお母さんがスギナさんで、本当によかった。つくづくそう思うわね」

シズの母親であるスギナを手放しで褒め称えたマユコが、「羨ましい」と言葉を零した。その言葉の裏には、マユコが母親とうまく行っていないのだというニュアンスが込められていると、シズは感じ取っていた。

そう言えば、マユコはどういう経緯で教師をしているのだろう。これまで単なる「担任の先生」として接してきたマユコに、シズはもう一歩踏み込んだ形の興味を持ち始めていた。

「ねえシズちゃん。まだ時間あるし、あたしと少し付き合ってくれる?」

「もちろんタダとは言わないわよ、飲み物奢ったげるから」

「ちょっといい機会だからさ、あたしのことシズちゃんに話しとこうかな、って思ってね」

そうしたシズの心の動きを見抜いたかのように、マユコがシズに対してこう持ちかけた。

「お付き合いします! お話、聞かせてください。飲み物は……せっかくですから、先生にお任せします」

「あら、あたしに任せるなんて勇気あるのね。それなら待っててちょうだい、なんか買ってくるわ」

財布を持ってベンチから離れたマユコが、五十メートルほど離れた場所にある自販機で滞り無く飲み物を買うと、足取りも軽く元のベンチへ戻ってくるのが見えた。

「あたしは無難に『みつばちレモン』。でもって、シズちゃんはこれ。ほいっと」

「これは……『コショウ先生』?」

マユコがシズ向けに買ってきた飲み物のラベルには、「コショウ先生」という商品名が、馬鹿でかい派手な書体で描かれていた。どうも炭酸飲料のようだが、どんな味か見当も付かない。マユコはシズの困り顔が見たくて、少々怪しげなタイプのジュースを買ってきたようだ。いかにもマユコらしい選択であろう。口元をニヤつかせて、シズの様子を伺っている。

しかしながら、ジュースを受け取ったシズは意外な反応を示した。興味ありげにしげしげと缶を眺めてから、特段迷ったり困ったりすることもなく、プルタブを引いてひと思いに缶を開封した。おや? とマユコが意外に思っているのを横目に、躊躇うことなく缶に口をつけて、そのまま二口ほど飲む。

ふぅ、と小さな息を吐いて、けふっ、とごくごく小さなげっぷをすると、シズは改めてマユコを見て感想を口にした。

「ちょっと変わった味……なんて言えばいいのかな、メロンといちごが混じったような甘い味でした」

「えっ、ホントに? コショウの味とかしなかったわけ?」

「全然しませんでした。なんで『コショウ先生』なんでしょうね? でもおいしいですよ、これ。ありがとうございます!」

「あっはっは。シズちゃん、こりゃやっぱり将来大物になるわ。あたしの見積りが甘かったわね」

一本取られたとばかりに大笑して、マユコがぽんと膝を打った。

互いに飲み物を口にして喉を十分に潤し、一息入れられたところで、マユコがおもむろに口を開いた。

「何から話そうか考えたけど、やっぱりあたしの出自っていうか、生い立ちから入るのがベストかなって思った」

手にした「みつばちレモン」のペットボトルをベンチの背もたれに立て掛け、強い日差しに目を細めながら、遠くの青い空を見つめる。

「いきなりなんだけどさ」

「あたしが小学校に上がってすぐぐらいに、『母親』が蒸発したのよ」

いきなり「母親が蒸発した」と言われたシズは、もちろん面食らった。マユコがそんな話をしてくるとは、想像だにしていなかったからだ。以前マユコと対話している時に受けた、頭から鈍器で思いっきり殴られるような衝撃を、今度はまた異なる形で実感することになった。

「あの人はあたしとお父さんをほっぽり出して、どこか別の場所へ行っちゃったのよ」

「ある日突然アパートから出て行って、もうそれっきり。影も形も見当たらない、ってね」

「本当に顔も見てないから、多分あの人と今会っても確実に『誰?』ってなると思う」

マユコの母親に関する記憶は、六歳の頃に目にした姿で止まっていた。それももう随分旧い記憶で、擦り切れたビデオテープのように曖昧な記憶しか残されていないというのが実状だ。もっとも、当のマユコ自身は、母親――いや、「あの人」の記憶が薄れていくことに、さしたる感慨も抱いていないというのが正直なところのようだった。

「お父さんもあの人もその時ポケモントレーナーをしていて、毎月入ってくるトレーナー支援金と、他のトレーナーと賭け試合をして貰える賞金で暮らしてたわ」

「賞金って言っても雀の涙みたいなもので、それも二人が『自分で手に入れたお金だ』ってことで、家に入れずにそのまま使っちゃうことも多かったって、後でお父さんから聞いたわ」

「そんなんだから、どっちもあんまり家に帰って来なくてさ。あたし幼稚園に通ってたんだけど、大体一人で夜の七時半とかまで過ごして、それから暗い中一人で家まで帰ってたわね。真っ暗な道を歩くのが怖くて、今でも夜は苦手なままよ」

「あんまり面倒見てもらえなくて、思い出とかも全然作れなかったけど、それでも二人分の支援金があったから、かつかつのところでご飯は食べていけてたわけ」

「だけどあの人が出て行ったもんだから収入が文字通り半減して、一気にまともに食べていけなくなっちゃったのよ」

かつて両親がポケモントレーナーをしていたマユコの幼少時の記憶は、いついかなる時も一人だった。父親も母親も側に居らず、思い出らしい思い出もない。それでも、夫婦が受給している支援金を合算すれば一応人並みの生活をしていける程度の収入はあり、マユコもそうした中で育てられていたわけだが、そこへ来ていきなり母親が蒸発した。家計は瞬く間に困窮して、食べていくどころではなくなったのだ。

「いなくなってから一ヶ月も経たないうちに、お父さんも何日も帰って来ないって日が続いたのよ」

「それが大体……半年くらい続いたかしら。時計もカレンダーも無かったから、季節の変わり目で適当に判断してるけど」

「服の替えが無くて同じ服をずっと着ててたんだけど、ある時は蒸し暑くて汗まみれでベトベトになって脱水症状みたいなことになってたし、別の記憶だと同じ服着てたはずなのに寒過ぎてガチガチ歯を鳴らして震えてたって感じだから」

「でさ、お父さんが帰ってこないから、食べるものが全然無かったわけよ。家に冷蔵庫もなかったし、食べ物の買い置きなんてしてなかったし」

「家のどこを探しても食べるものが全然見つからなかったから、お腹空いたなーって思いながら、こうやって爪や指先を噛んだり、あと毛布を噛んだりしてた。洗濯とか全然してないから黴臭くて汗臭くて、でもそれで微妙に口に刺激が伝わるから、それを味だって思い込んだりしてたわね。あたし子供ん時なんでも噛むくせがあったからさ」

「毛布を噛んだり自分の腕を噛んだりしながら、早く時間が経って、お父さんが帰ってこないかなってずっと思ってた。時間の流れがめちゃくちゃ遅く感じたわね、ああしてアパートに一人でいた頃は」

マユコの語り口はいつも通り軽妙で、ともすると何か楽しい話をしているかのような錯覚にとらわれてしまうものだったが、内容はあくまで悲惨なものだった。服の替えも食べるものもなく、ただ家の中で時が経つのを待ち続けていた。父親の帰宅だけを心待ちにして部屋の隅で震えていたのが、かつてのマユコの姿だった。

「食べ物も無ければライフラインもありませんってことで、電気・水道・ガス、この三種の神器はセットで止められてた。あとついでにテレビも一緒にね」

「水が使えないから、喉が渇いたら近くの公園まで行って水飲んでたわね。最初は律儀に毎回行ってたんだけど、ゴミ箱にペットボトルが捨てられてるのを見て、あれ使ったらいつでも飲めるじゃんって閃いて、ゴミ箱から拾い上げてそれに水を汲んだりしてた」

「で、悲しいお話。夏の暑い時にそうやって貯めた水を、秋になったぐらいにちょっと飲んだんだけど、なんかすごい変な味してさ。それでも喉渇いてたから全部飲んだんだけど、もうこの世のものとは思えないくらいお腹が痛くなって、マジで死ぬかと思った。家の中でちょっと口に出して言えないくらいの有様になってたんだけど、とにかくヤバかったわね」

「夏に水道止められちゃったから、身体洗ったりもできなくて。たまに雨降ると、他の子たちは家に走っていくんだけどあたしは逆方向に走ってて、雨が止むまで外で身体を洗ったりしてた。あれ気持ちいいって思ってたけど、よく考えたら住んでたところの近くに工場とかたくさんあったから、今思うと酸性雨とかそんなんだったかも知れない」

「水道だけじゃなくて電気まで止まっちゃってるから、暗くなると何も見えなくなっちゃう。前も言ったようにあたし暗いの怖かったから、夜遅くになると外に出て、近くにあった自販機の側でボーッとしたりしてた。ほら、自販機って電気点いてて明るいからさ」

ライフラインの止まった家の中で、マユコはシズが想像もしたことのないような生活を繰り広げていた。その時のマユコがどんな心境だったか、シズは想像するに余りあると感じずにはいられなかった。自分が同じ状況に置かれていたらどうなっていただろう? 無意識のうちに、そんなことを考えるに至っていた。

「そういうレベルでお金が無い状態だったから、もちろん学校に給食費なんて入れてなかったわけで」

「給食ってサービスでも慈善事業でもなくて、食の教育の一環なのよね。だから正当な対価を支払わなきゃいけない。だけどあたしはそんな有様だったから、クラスでも一人だけ給食が食べられなかったわけよ。一人だけ、ね」

「他の子に見られたり詮索されたりするのも面倒だったし、あたしだけ食べられないのも面倒だった。そんな具合だったから学校そのものも面倒になって、行かなくなっちゃったの」

「世に言う『登校拒否』ってやつよ」

「あたしが学校自体に行かなくなっちゃったもんだから、しばらくしたら先生が心配して家庭訪問に来てくれたのよ。その時担任の先生だったのが、ハルコ先生っていう女の先生。あの時はちょうど、シズちゃんのお母さんのスギナさんと同じくらいの歳だったかしらね」

「先生がわざわざ来てくれたんだけどさ、あたしその時何してたと思う? 例によって部屋の隅っこで、服掛ける時に使うプラスチックの『ハンガー』を齧ってたのよ。ピンク色の、クリーニングに出したら付いて戻ってくるやつ」

「あの時はちょっと前にお父さんが買ってきたコンビニ弁当を食べたきりで、もう二日くらい何も食べてなかったかしらね。食べるものが無くてすっごい口寂しかったから、それをごまかすためにハンガーをガジガジやってたんだけど、先生それ見て相当ショックを受けたみたいで」

「あたしからいろいろ事情を聞いて、お父さんがいなくて食べるものも無いって言ったら、先生が家まで連れてってくれたのよ」

餓えに苦しんでいたマユコを見かねた当時の担任であるハルコ先生は、マユコを自分の家へ連れていって保護した。マユコがハルコ先生の名前を出す度に、心なしか朗らかな表情をしていることを、シズは見逃していなかった。

「先生の家まで行ったら、すぐにご飯を食べさせてくれたの。お腹ペコペコのところにいきなり重たいの食べたら胃に来るってことで、鮭粥と摺り林檎入りヨーグルトを出してもらってさ、夢中で食べたのを今でも覚えてるわ」

「それから先生にお風呂に入れてもらって、身体もしっかり洗ってもらった。で、最後に久々にふかふかのお布団で寝させてもらって、すごく嬉しかった。めちゃくちゃぐっすり眠れたもん、あの時は」

「でもさ……あたしその時バカだったから、よっしゃあ久しぶりにご飯が食べられるぞー、ってしか思ってなかったんだけどさ、近くで見てた先生曰く、その時のあたしすごく必死になんでもガツガツ食べてたらしいのよ。口元にご飯粒くっつけて、それはもうやばいくらいの勢いで食べてたんだって」

「それから先生に面倒見てもらって、少しの間先生のところでお世話になってたんだけど、その間中はやっぱりめちゃくちゃがっついてたみたい。食べ物を残すってことを絶対しなくて、ハルコ先生が自分の分を分けてくれたこともあったんだけど、それも必ず残さず平らげてたんだって」

「きっと、お腹を空かせることが怖かったのね。子供ながらに」

ハルコ先生に救われた時のことを、美しく楽しい思い出のように話すマユコだったが、話の内容はやはり痛ましいものに他ならなかった。それは当のマユコ本人こそが一番よく理解していて、こうして成長した今となっては尚更強く感じられているだろうことに疑う余地など無かった。

「ご飯もロクに食べられないくらいだったから、身だしなみとかもちろん気にするヒマなんて無くて」

「髪の毛も伸び放題でぼっさぼさだったから、休みの日に先生にカットしてもらってさっぱりしたのを覚えてるわ」

「その時ハルコ先生には成人した娘さんがいてさ、もうコガネに出て一人暮らししてたみたいなんだけど、それまでずっとハルコ先生が髪切ってあげてたみたい。だからすっごい上手で、冗談抜きに野生児みたいだったのがちょっといいとこのお嬢ちゃん風にまでグレードアップしたのよ、あたし」

「髪の毛もそうだし、服もえげつないことになってた。こりゃ着てたら病気になるだろってくらい汚れてたわね」

「まあ服がそんな塩梅だから、身体も結構えらい汚れ方してたみたいで。先生がお風呂に入れてくれて、隅々まで綺麗にしてもらったわ。あれは気持ちよかった、ホントに。それで娘さんのお下がりの服をもらって、ちょっとおめかしなんてしちゃって、別人みたいになったんだから」

「だから……あたし、ハルコ先生には感謝してもしきれないの。ここまでよくしてもらったってのももちろんだし、あたしのことを気に掛けてくれた。気に掛けただけじゃなくて、手を差し伸べて助けてくれた。あたし一生、ハルコ先生には頭が上がらないわ」

そうしてハルコ先生とのふれあいについて語っていたマユコだったが、ここで不意に一度話を切った。側に立て掛けていた「みつばちレモン」のペットボトルを手にすると、二口ほどジュースを飲んでまた元の位置に戻す。

「それでね、シズちゃん。割と近い将来、シズちゃんやシズちゃんの友達が、子供の『親』になる日が来ると思う」

「そういう時に、今からする話を思い出してくれると、先生は嬉しい」

マユコの話は、彼女がハルコ先生の家で保護されてから、一週間くらいが経った頃にまで飛んだ。

「ハルコ先生が方々手を尽くして、キキョウとの県境にいたあたしのお父さんを見つけたの」

「お父さんが言ってたわ。その時は駅の近くでお酒を飲んでたらしいんだけど、いきなり自分に近付いてきて『娘さんは私が預かっています』なんて言うから、あたしが誘拐されたのかと思ったって」

「どういうことだって突っ掛かったら、何も言わずに車まで歩いて行って、そのまま自分の家まで連れて帰ってきた」

「あたしの方は……ええっと、あれは確か『ひかりの石』ってタイトルだったかしらね。先生の娘さんがユカさんって言うんだけど、登場人物にユカさんの名前を入れてもらったオーダーメイドの絵本があって、ちょうどそれを読んでた時に、ハルコ先生とお父さんが家に入ってきた」

「あたし久しぶりにお父さんに会ったから嬉しくなって、子供特有のでっかい声で『お父さん』って呼んだら、お父さんがあたしに近付こうとしたんだけど、その前に先生がぐわっと立ち塞がって」

「あなたは何をしていたのですか、マユコちゃんを一人にして。先生がそう声を張り上げた」

「お父さんは、自分は大人だ、どこで何をしていようと自由だろう。早くマユコを返してくれ、そう言い返した」

「そう……それからだったわ」

「『ふざけるのもいい加減にしなさい』って、お父さんを一喝して」

「ハルコ先生が、ものすごい声でお父さんに怒り始めたの」

「今まで見たことも、聞いたこともないくらい――激しく、叩きつけるように」

鬼神の如き形相と声色をもって、ハルコ先生は口答えをしたマユコの父親に、猛烈な勢いで雷を落とした。

「『マユコちゃんがどんな状態で家にいたか、あなたは知っているのですか。分かっているのですか』」

「『あなたが賭け試合で一喜一憂して酒を呷っている間に、マユコちゃんがどんな思いをしていたか、ほんの少しでも考えたことがあるのですか』」

「『栄養のある食べ物を与えずに、ハンガーを齧らせるのがあなたの親心だとでも言うのですか』」

「『娘に雨水で身体を洗わせるのが、あなたの考える親のあり方だとでも言うのですか』」

「『学校で勉強したり、他の子たちと遊んだり、マユコちゃんには今しかできないことが山ほどあります』」

「『なのに、あなたはそれをさせずにいる。家の中で一人ぼっちにさせて、閉じ込めているのです』」

「『支援金は、人が人として生きていくために必要なお金なんです。それをあなたは、何に使っているのですか』」

「『今のあなたは、ただ背丈だけが伸びた<餓鬼>です。分別も自覚もない、ただの<餓鬼>です』」

「『人の親としての自覚がまだ欠片でもあるなら、これがやり直せる最後の機会だと思いなさい』」

「『そうではない。あなたがあなたのために生きたいなら、勝手に生きて勝手に死になさい』」

「『もう一度言いましょう。あなた一人だけで勝手に生きて、勝手に死になさい』」

「『あなたの言う自由とやらのためにマユコちゃんを巻き込むのは、直ちにやめなさい』」

「『マユコちゃんはあなたの子供である前に、れっきとした一人の人間です。まかり間違っても、あなたの所有物でも、あなたの奴隷でも、絶対にありません』」

一字一句漏らさず、マユコはハルコ先生が怒りと共に発した言葉を誦した。ハルコ先生から言葉を一つ浴びせられる度に、マユコの父親は狼狽し、言葉を失い、最後には呆然とした様子でハルコ先生の言葉を聞くようになっていった。側で二人を見守っていたマユコは、その時の様子を鮮明に記憶に残していた。

これでお父さんが目を覚ましたみたいで、その場に土下座したわ――そう口にしてから、マユコは話を再開した。

「これがもうね、心底ショックだったみたいで。目の前に立ちはだかる先生に、何回も何回も土下座したの」

「でも先生はちっとも許さなくて、却って目と顔を真っ赤にして、もっと怒った」

「そうやって上っ面の態度と言葉だけ取り繕えば、許してもらえるとでも思っているのですか。あなたは自分のしたことに謝っているのではありません、叱責されているから、叱責している相手に形だけ謝って、今この瞬間をやり過ごそうとしているだけです。本当に謝意を示す気があるなら、私など眼中に無いはずです。あなたは誰の、何に謝っているのですか。はっきりしなさい」

「それに、勘違いをしてはいけませんよ。今のあなたの謝罪には何の価値もありません、一切無価値です。何度頭を擦り付けて謝ろうとも、性根が変わらなければただの『動作』と『発声』でしか無いんです。それを自覚しなさい。あなたにはもはや、行動で示す以外の選択肢は残されていないのです」

「……こんな風にもっと叩きつけるように、突き放すように言って、お父さんを叱りまくってた」

「ハルコ先生って、普段はすっごく優しくてさ。子供の時のあたしってもうめちゃくちゃ鈍臭くて、服着替えたりするのも時間食ってばっかりだったんだけど、急かしたり叱ったりってのがもうホント全然無かった。家にいるときはいつでも相手をしてくれたし、あたしが寂しがってたらいくらでも甘えさせてくれて、マジで優しさの塊みたいな先生だったのよ」

「そんな先生があたしのお父さんを前にして、そこらへんの体育教師なんかじゃ歯が立たないくらいの勢いときつい言葉で叱りまくるもんだから、側で見ててものすごく恐ろしかった。あんまりにも怖かったから、たまりかねてお父さんと先生の間に入って、泣きながら『もうお父さんのこと怒らないで』ってお願いしたのよ」

「先生はお父さんが完全に心を折られたのと、あたしが顔をぐしゃぐしゃにしながらしがみ付いてるのを見て、ようやく調子を落ち着かせたわ」

「でも、続けてこう言ったわね。『子供にこんな思いをさせるのが嫌なら、自分を律しなさい、今日のことをいつでも思い出すようにしなさい』って」

「『私は教え子を守るためなら、あなたにとって悪鬼にでも修羅にでもなります。それが私の、教師としての覚悟です』――最後に先生がそう言い放ったのは、今でも忘れられないわ」

マユコの父親を言葉だけで完膚なきまでに叩きのめして考え方を改めさせたハルコ先生は、マユコの父親が心を入れ替えると約束したことを受け入れ、社会復帰への道筋を作るところまでを支援した。

「お父さんはそれからハルコ先生にも手伝ってもらって必死で働き口を探して、ちゃんと働くようになったわ」

「家にお金を入れるようになって、電気も点くし水道も出るし、ご飯も食べられるようになった。もちろん贅沢はできなかったけど、人並みには生きられるようになったってわけよ」

「あたしはあんまり事情とか知らなくてさ、その時は単純にお父さんと一緒にいられるのがうれしくて、家にいる間ずっとくっついてたの。お父さん、お父さんって」

「でも、お父さんはあの時のことがよっぽどショックだったみたいで、何かある度にごめんな、ごめんなマユコって、しょっちゅう謝ってたの。小学校の時も、中学に上がってからも、高校を出て大学へ行っても、そこは変わらなかったわ」

「会社で必死に頑張ったおかげで結構偉くなって、家も買ったりして十分余裕のある暮らしができるようにまでなったんだけどさ、今でもあの時のことを思い出して、お前には苦労をかけたなあとか、ひもじい思いをさせたなあとかって言って、何かにつけて遠慮しちゃうのよ。あの時のあたしがあんまりひどい有様だったからかも知れないけど、まだ自分を許せずにいるみたいなの」

「でも、あたしはお父さんのことはこれっぽっちも恨んだりなんかしてない。もう謝らなくていいから、お父さんには幸せになってほしいって思ってるわ。今でも実家にいるからそうやって何度も言ってるんだけど、それでもまだ許せないみたい」

「恨んでないのは本当よ。皮肉とかそんなんじゃ全然無くて、本音の気持ち。男手一つであたしみたいなめんどくさい子をしっかり育てて、大学にまで入れてくれたんだもの。感謝することはあっても、恨むことなんか無いって、ホントに」

「笑えない話なんだけどさ、あたしって結構重度のファザコンみたいなのよ。どれくらいかって? 中学に上がるちょっと前までお風呂は必ずお父さんと一緒に入ってたのよ、こう見えても。あたしは中学生になっても一緒に入る気満々だったんだけど、お父さんの方から『そろそろ一人で入ろう』って言われちゃってさ、しぶしぶ一人で入るようになったわね」

「父の日とか誕生日には必ずプレゼントを渡してたし、寝るときは今も一緒の部屋で寝てるわよ。想像できないかも知れないけどね、あたしってちょっと前まで超が付く真面目ちゃんだったから、反抗期も無かったの。お父さんとは仲良くしてた記憶しかないのよ、これが」

「まあちょっと話が脱線しちゃったけど、だからあたしね、お父さんのことは尊敬してるのよ。ハルコ先生と同じくらいね」

だけど。その言葉を発して、楽しげに話をしていたマユコが、一転して声のトーンを大きく落とした。

「<あいつ>だけは、絶対に許せない」

「あたしを産んだ人、続柄上<母親>ってポジションに当たる人。だけど口が裂けても『お母さん』なんて呼びたくないし、呼ぶ気もこれっぽっちも無い」

「あいつはあたしとポケモントレーナーを続けるっていう自分の夢を天秤にかけて、自分の夢を取ったのよ」

「なけなしの貯金まで持って出て行きやがったから、あたしはあの時ハンガーを齧るハメになった」

「名前は知ってるけど口に出すのも嫌だし、思い浮かべるだけで虫唾が走る。いい記憶なんて一つもない」

「あれから有名になったって話も聞かないし、今頃どっかで野垂れ死んでるか底辺這いずり回ってるのかじゃないかしらね」

「あいつがあたしにして見せたように、あたしもあいつに興味なんて無いわ」

「ハルコ先生の言う通り、勝手に生きて勝手に死ねばいい。それがあたしの言える最大限の思いやりの言葉よ」

自分を捨てて出て行った、本来「母親」と呼ぶべき人物のことだけは、絶対に許せないと口にした。あれから一度も顔を合わせておらず、マユコ自身も会いたいとは微塵も思っていないようだった。

シズはマユコの境遇を聞かされて、世の中には自分とまったく違う環境に生きて、今ここにまで至っている人間がいるのだということをまざまざと痛感させられた。自分の歩んできた人生というものが、あくまで一つの道筋に過ぎず、文字通り人の数だけ存在する道筋を経てここにいるのだと、改めて実感せざるを得なかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。