「なんだ。元気そうじゃん、シズ」
「前に見掛けたときは、死に掛けのテッポウオみたいな目してたってのに」
シズの目を射抜かんがごとく見つめて、サダコが牽制球を投げる。シズは直立不動のまま、しかし身体は固くしておらず、あくまで自然体でサダコを見つめ返していた。
隣に立っていたリョウタがサダコより一歩前に出ると、こちらもシズに向かって声を掛けた。
「シズ。今日は、お前とスズ、それに……リーダーと話をしにきた」
こちらもまたシズを見つめていたが、その視線はサダコに比すると些か色が異なり、迷いに満ちているという表現がもっとも適切に思われた。
「この間お前がマユコ先生と話をしてるのを、俺とサダコが見掛けたんだ」
「その時お前は、先生に『ジムリーダーになる、自分の理想を実現する』――確かにそう言ってたはずだ」
「教えてくれ、シズ」
「お前は……本当に、ヒワダジムのジムリーダーになるつもりなのか」
リョウタがシズに問い掛けている間に、彼らの共通の旧友であるクミ・ルミ・トモミチが、すぐ側まで近付いて来ていた。他のトレーナーたちはそこから数歩離れたところに立ち、二人の元トレーナーとジムリーダーたちが話をする光景を、固唾を飲んで見守っていた。
シズは視線を真っ直ぐ二人へ向けたまま、特にサダコの姿を、真正面から見ていた。正面から見たサダコは、かつての――「サダオ」だった頃の――面影を残していたが、その有り様はすっかり「女子」に様変わりしていた。長く伸びた髪はきちんと手入れがされ、身嗜みにも気を配っているのが容易に見て取れる。
だが、その心はどうか。
何も変わってはいない。あの日絶交した時から、何一つ変わってはいなかった。
「シズ」
今度はサダコが前へ踏み込むと、文字通りシズに詰め寄った。
「<あんなこと>があったのに、本当にジムリーダーなんかになるつもりなのか」
「はっきり言う。あたしはあんたにジムリーダーになって欲しくない」
「あんたには<向こう>の世界に行ってほしくないんだ」
「……それは、リョウタ。あんたも同じだろう」
サダコがリョウタに同意を求める。リョウタは難しい顔つきをして、肯定の意志も否定の意志も見せない。ただ只管に、眼前のシズを見据えるばかりだった。
「あたしはもう、あんな目に遭うのはたくさんだ。誰か別の奴が同じ目に遭うのだって、金輪際見たくねえ」
「これ以上――不幸な人間を増やさないでくれ。それがあたしの願いだ」
「ジムがなくなって、ポケモントレーナーが綺麗さっぱりいなくなれば」
「もう、ノリユキのような<抜け殻>は、生まれなくなるんだ。分かるだろう」
思いを遠慮なくぶつけてくるサダコを前にして、シズは粛然とした態度でそれに耳を傾けていた。
リョウタに目をやる。シズがジムリーダーになることを断固として拒絶しているサダコとは対照的に、リョウタは相当に迷いを抱えているようだった。マユコとの対話の一部始終を見ていたと言うのなら、シズがはっきりとした信念を持ってジムリーダーに就任しようとしていることも知っていたはずだから、迷うのも道理だった。
以前のシズとは、すべてが違っていたのだから。
「……リーダー。あんただっていい気持ちじゃなかったんだろう」
「そんな辛い思いを、あんたの可愛い妹たちにさせんのか」
サダコの矛先がツクシに向けられる。ツクシは黙ったまま何も言わずに、ただサダコの言葉に耳を傾け続けている。
「……あんたは、あんたはそれでも兄貴だってのか」
「そうやってまた甘い夢を見せて、人を破滅に追いやるって腹づもりか」
「知ってるんだぞ。あんたがノリユキの『背中を押した』ってことは!」
「辛くて電話してきたノリユキに『頑張れ』って言って、それでノリユキは追い詰められたんだ!」
「誰が何と言おうと、あんたはノリユキを殺したんだ!」
止むことのない叱責は、さらに続く。
「あんたはあの後ノリユキと家族がどうなったか、ちゃんと知ってるって言うのか」
「ヒワダから旅立つ前にノリユキを可愛がってた爺さんが、去年の秋に死んだんだ」
「たくさん可愛がってもらって、ノリユキも爺ちゃん爺ちゃんって慕ってたっていうのに、それなのに」
「ノリユキは帰ってきて、自分に爺さんがいたことすら思い出せなくなってた」
「目の前に爺さんがいるってのに、ノリユキは遠くの、手の届かない、全然別の、上にいるトレーナーを見てたんだ!」
「なあ、リーダー。爺さんは……なんて言いながら死んだと思う?」
「『ノリユキと話がしたい』――だ」
「『ノリユキと話がしたい』! そう言いながら死んだんだよ!」
「手を伸ばせば届くところにいるはずなのに、声一つ届けられないまま死んだんだ!」
「自分がポケモントレーナーになることを止めさせればよかった、そう言いながら死んでいったんだ!」
「あんたはただ、ノリユキだけを殺したんじゃない」
「ノリユキの家族を、跡形もなく壊したんだ!」
大槌を打ち付けるかのような激しいサダコの言葉を、ツクシは苦渋の面持ちで、しかし逃げること無く耳を傾けていた。
ノリユキの祖父が死んだこと、ノリユキと話すことが叶わないままに無念を抱えて死んだことは、当然ツクシも把握していた。嫌というほど理解していた。けれどこうして眼前に切っ先を突きつけられて、自分の判断がノリユキとその家族の運命を大きく狂わせてしまったのだということを、今一度認識せざるを得なかった。
「シズ、それにスズ。聞いてくれ」
「ジムなんてやめて、もう一度昔のようにやり直すんだ」
「昔に戻って、もう一度みんなでやり直せばいいじゃないか」
「あたしはお前まで失うようなことはしたくない、見るのだってつらい。本音の気持ちだ」
「それにお前だって、自分にジムリーダーが務まるかどうか分からないんだろ」
「だったらやめればいい。ジムそのものをやめて、どこか別の連中に任せりゃいい」
「もうこれ以上、ポケモンに関わって不幸になる人間を生み出させるわけにはいかねえんだ」
サダコが再びシズに向けて言葉を発する。ツクシはちらりと視線を横に向けて、シズの様子を確かめてみた。
ツクシの見たシズは――少しばかりとて怯むこと無く、まっすぐに、ただまっすぐに、相対する二人を見つめていた。
それはシズだけに止まらない。隣に立つスズもまた同じように、サダコに対して一歩たりとも動じていなかった。
「シズ、それにスズ。俺からの頼みだ」
「お前たちの出した答えを、俺たちに聞かせてくれ」
リョウタが答えを聞かせてほしいと呟く。シズは薄く目を閉じて、それからまたすぐに開いた。
暫しの沈黙を挟んだのち、凛とした表情を見せたシズが、おもむろに口を開いた。
「わたしとスズに、ジムリーダーにならないで欲しい」
「ジムを閉じて、ヒワダからジムをなくしてほしい」
「もう、ポケモンと関わらないで欲しい……そうだよね? サダコちゃん」
「わたしは――」
サダコの口にした願いを復唱してから、シズは。
――シズは。
「断るよ」
「わたしは、ジムリーダーになる」
「お兄ちゃんの……ヒワダジムリーダーの、ツクシの後を継いで」
「スズと二人で一緒に、ヒワダジムのリーダーになるって、決めたから」
「――ふざけるのもいい加減にしろ! てめえ!」
激昂したサダコがシズの首根っこを掴んで締め上げたのは、その直後のことだった。
「あんたがジムリーダーになったからって、何が変わる、何を変えられるっていうんだ!」
「この世界は変わらない、もう変えようなんてねえんだ! ねえんだよ!」
「どれだけあがいたって無駄だ、世界を救うことなんてできやしない!」
「それとも……それともあんたは、ノリユキのような人間をまた生み出したいっていうのか! どうなんだよ! 言え!」
怒声を響かせ、シズを強力に威圧するサダコだったが。
「なんとか……なんとか言ったらどうなんだ……っ!」
その目は、明らかに怯えていた。
対して、そのサダコに首を掴まれ恫喝されているはずの、以前ならこんな状況になれば、ただ怯えていただけだっただろうシズの目は。
「わたしの答えは、変わらないよ」
「わたしはジムリーダーになって、ヒワダジムで力を尽くしていく。それがわたしの答えだから」
極めて穏やかで、カケラも動じているところがなかった。
シズの側に立つスズも、姉が暴力を振るわれそうになっているにも関わらず、微塵もたじろいだ様子を見せていない。前に出てサダコの視界へ入り込むと、今度はスズが語り始めた。
「分かってる。あたしとお姉ちゃんがどれだけ非力かなんて、自分たちが一番よく分かってる」
「だけど、それでも立ち上がらなきゃいけない。それが、すべてのきっかけになるから」
「歪んだ世界を変えていくためには、例えほんの少しずつであっても、力を尽くしていかなきゃいけない。だから」
「お姉ちゃんはもう覚悟してる。あたしだって覚悟してる」
「理不尽な『世界』で、不条理な『社会』で、それでも歯を食いしばって生きていこうって」
「何度転ばされても何度膝を突いても、また何度でも起き上がって、何度でも立ち向かっていく」
「そうすることでしか、次の道は開けない。新しい明日は見えてこないのよ」
厳然たるスズの言葉を受けて、サダコは明らかに狼狽していた。自分が正しいのか、それともシズとスズが正しいのか。あるいは――「正しい」という概念が、そもそも通用しないのか。自分の知っているスズがとても口にするとは思えない言葉を聞いて、サダコはただのけぞるばかりだった。
そして、サダコに首を掴まれたままのシズも、スズに続いた。
「サダコちゃん」
「わたしは、サダコちゃんにはなれない」
「サダコちゃんの気持ちは、ただ、わたしの手の大きさでしか汲み取れない」
「それでも、わたしはわたしなりに考えて、必死に考えて、この道を選んだ。自分で選んだんだ」
「ノリユキ君のようなトレーナーを二度と生み出したくない、わたしだってそう思う。心からそう思う」
「だから、わたしは逃げない。逃げたりなんかしない」
「正面からこの世界と向き合って、少しでも現実を変えていくって決めたから」
「そのためにわたしはジムリーダーになるんだって、覚悟したんだ」
言葉を失っている。サダコが言葉を失っているのは明白だった。そこへ、シズはさらに続けた。
「わたしたちはみんな、『弱虫』で『泣き虫』だって思う」
「どれだけ考えても正しい答えなんてなくて、時には『飛んで火に入る夏の虫』。愚かな選択をする生き物だよ」
「小さくてか弱くて、限りなく無に等しい存在、それがわたしたちという存在なんだ」
「だけど――『一寸の虫にも五分の魂』。前に向かっていこうという意志を宿した、確かな魂があるんだ!」
「何度倒れたって諦めない! もう一度立ち上がって、また前へ進んで行くことができるんだ!」
「わたしは立ち向かう! 今目の前にある『現実』に、真っ正面から!」
シズに見据えられ、前へ進もうという意志の迸った言葉を受けたサダコは、今にも泣き出しそうな顔を見せていた。シズにすがるように、救いを求めるように、その目を見つめ続ける。
「……サダコちゃん」
首根っこを掴んで震える手に――シズの繊手が、そっと添えられる。
「サダコ……」
さらにその上から、スズも手を重ねる。それは、サダコの手を引き剥がそうというものではない。
サダコに<寄り添おう>という、二人の意志の現れだった。
「シズっ……! スズっ……!」
二人に重ねられた手を、サダコはもう振り払おうともしなかった。はらはらと止めどなく涙を流して、ぼやける二人の姿を見つめるばかりだった。
「サダコ、分かっただろう。シズもスズも、何度『転がし』を受けようとも、それでももう一度起き上がって、立ち向かう覚悟がある」
「俺もそれを支えていこうと、心に決めたんだ」
トモミチが告げる。
「すぐにはどうにもならないことなんか、あたしたちにだって分かってる」
「だけど……始めなきゃ。まず始めなきゃ、何も始まらないんだよ」
クミとルミが告げる。
彼ら・彼女らもまた、シズとスズの言葉を信じているようだった。
――そして。
「もう……止めよう、サダコ」
「俺は、シズとスズの言葉と意志を、信じてみたいんだ」
リョウタがサダコの肩を抱いて、泣きながら、涙を零しながら、涸れた声で「もう止めよう」と語り掛けた。泣き顔のサダコが、目を真っ赤にしたリョウタに振り返る。
「二人が現実に立ち向かうことに、俺も力を貸したいと思った。力になりたいって思ったんだ」
「ノリユキが望んだ世界を、シズとスズは、ほんの少しずつでも作ろうとしてるんだ」
「俺は……シズを、二人を支えていきたい」
「もう一度立ち上がって――この世界と向き合うんだ」
最後の引き金になったのは、この言葉だった。
「……っ!!」
サダコが泣き崩れて、ぱっとシズから手を話した。たくさんの涙を零しながら、止めどなく涙を流しながら、悲愴な表情をシズに向けて、何度も何度も、繰り返し繰り返ししゃくり上げていた。
すべての感情を露にしたサダコが、次に発した言葉は――。
「……シズ! あたし分かった! 分かったよ!」
「あんたの気持ちは分かった! 『現実』に立ち向かっていくって気持ち、あたしにも分かった!」
「だから……だから、約束してくれ!」
「立ち向かうことに夢中になりすぎて、潰れちまうのだけはやめてくれ!」
「スズ! あんたもだ、あんたも同じだよ! どっちもだ!」
「お前らが潰れそうになったら、あたしが引っ張ってでも止めてやる!」
「もういっぺん立ち上がれるようになるまで、無理やりにでも休ませてやる!」
「あたしは、もう――大事な人を二度と失いたくないんだ!」
和解、だった。
「……ありがとう。ありがとう、サダコちゃん」
「約束は絶対、必ず守るから」
「わたしたちは逃げない。だけどそれは、折れるまで戦うって意味じゃないから」
「時には強い風から身を翻して、安全な場所へ逃げる。それもまた、一つの進み方だから」
「サダコちゃんがわたしたちを想ってくれる気持ち、本当に嬉しいよ」
「わたしたち……やっと、分かり合えたんだね」
声を上げて泣きじゃくるサダコを、シズが強く抱きしめる。「ありがとう」「約束する」、そう繰り返して、サダコを胸の中で泣かせてやった。
シズが顔を上げて、目を真っ赤に腫らしたリョウタを見つめる。
「ノリユキ君の願いも、サダコちゃんの想いも、リョウタ君の夢も、みんな、わたしたちが背負っていく」
「悲しみを繰り返さないために、わたしたちはしっかり立って生きていくから」
「だから……リョウタ君」
「リョウタ君も、一緒に行こう?」
言い終えたシズが小さく頷くと、リョウタもまた呼応して頷いた。分かった、シズ。一緒に行こう――そう言うかのように。
二人の間に、もはや言葉は必要なかった。
シズの胸の中で泣いていたサダコが、不意に顔を上げる。涙で滲んだ視界の先には、かつて憤怒を叩き付けた、あのジムリーダーの姿があった。
「リーダー!」
「あんた、これから四天王になるんだろ!」
「ポケモンやってる人間なら誰でも憧れる、四天王ってやつに!」
「だったら! この社会の上の方から、変えられることを変えていってくれ!」
「ヒワダジムにはシズもいる! スズもいる! みんなもいる! だから、心配すんな!」
「あんたの力で、みんながもう一度やり直せる世界を作ってくれ!」
「あたしは……あたしはもう一度、あんたを信じる! 信じてるから!」
「だから、あんたはあんたの力を尽くしてくれ!!」
サダコが声の限りに叫んだ言葉を、ツクシは。
「僕は……僕は……っ!」
ツクシは、はらはらと落涙しながら、一つも漏らさずに聞いていた。
「僕は……ノリユキ君を助けられなかった」
「ノリユキ君が怒りの湖に飛び込む二日前に、僕に電話をくれたんだ」
「辛いです、大変です――そう言って助けを求めてきたノリユキ君を、僕は……」
「……僕は、『ノリユキ君ならきっと大丈夫、頑張って』……そう言って、励ました」
「彼が本当に欲しかったのは、そんな励ましの言葉じゃなかったのに」
「『辛かったら帰ってきてもいい』、そう言ってほしかったはずなのに」
「僕は、ノリユキ君の背中を押して」
「二度と這い上がれない、湖の底へ突き落としたんだ」
「サダコちゃんの言った通りだ。僕が、僕がノリユキ君を殺したんだ」
「もう二度と信じてもらえなくても仕方ない、一生憎まれても止むを得ない、ずっとそう思っていた」
「すべての恨みつらみを受け止めて、受け入れていくつもりだった」
「だけど、だけどサダコちゃん……君は、僕を……」
子供のように泣きじゃくるツクシの側に、凛々しい顔つきをしたシズとスズが、足並みを揃えて歩み寄る。背丈はツクシの方が高いはずなのに、ツクシの方がずっと大人であるはずなのに、あたかも幼児をあやす慈母のような眼差しで、嗚咽を繰り返す兄を見つめる。
「お兄ちゃんも、ずっと一人で抱え込んでたんだね」
「あたしやお姉ちゃんに弱いところを見せられないと思って、強くなきゃいけないって思って、それで」
「今まで、たくさん無理をしてきたんだね」
「ただ『お兄ちゃん』だけじゃなくて……『お父さん』の代わりも、ずっとしてきてくれたから」
そして――シズとスズが、共にツクシの手を取った。
「わたしのチルチルと、スズのミドリ」
「どっちもずっと一緒にいる、一番の相棒」
「その二人が使う得意技があるのは、お兄ちゃんも知ってるよね」
「チルチルがお姉ちゃんと一緒に身に着けて、チルチルがミドリに教えた」
「そう――」
「――『バトンタッチ』」
「お兄ちゃん、大丈夫。心配はいらないよ。わたしにはスズがいて、スズにはわたしがいる」
「お兄ちゃんからつないでもらったバトンを、お姉ちゃんとあたしで未来へ持っていくから」
その場に泣き崩れるツクシを両腕をいっぱいに広げて抱きしめて、シズとスズが、共に穏やかな表情を見せる。
「もう一度――始めるよ」
「わたしたちの、ヒワダジムを」
二人の妹の胸の中で、ツクシは――確かに、頷いた。
確かに、確かに頷いた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。