――それから数時間ほど経った、土曜日の昼間のこと。
「……掃除もした。洗濯も干した。皿洗いもした。晩飯の下準備もした。宿題は兄貴に手伝わせることにした」
「ふぅ……これでやっと、俺も自由に過ごせるってもんだ」
朝から家事に追われていたことを伺わせる独り言を述べつつ、あさひが大きく伸びをしながら散歩をしていた。短く切りそろえられた髪、男物のシャツにショートパンツ。傍目から見ると、やはり少年である。顔立ちは中性的だが、少女的な要素がどこにも見当たらない。千尋や宝石トリオが勘違いするのも納得の容姿であった。
「とは言え、特にすることもねえからな……その辺ほっつき歩いて、誰か捕まえてから考えるとするか」
あさひはこれといって、休日の過ごし方を決めているわけではないようだ。その場その場で、見つけた人間と遊びに出たりしているらしい。気ままといえば気まま、臨機応変といえば臨機応変。見方次第だろう。
「どうも、俺のクラスには骨のあるやつがいねえ。姉貴んとこの猛か太一でもいりゃあ、暇つぶしになるんだがよ」
猛や太一といった、A組所属の男子とよく遊んでいるようだ。確かに、性格的にも合いそうである。
「とりあえず、第一公園にでも……ん?」
日和田市南東部にある「第一公園」――日和田南東に位置する進学校「新開高等学校」の裏手にある、石造りの階段と噴水が目印の、美しい公園だ――にでも行こう、そう考えた矢先、あさひが足を止めた。
「……………………」
ポケットに手を突っ込んだまま、あさひがじっと耳をそばだてる。
……すると。
「お前っ、俺たちの砂場で勝手に遊んでるんじゃねーぞ!」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「そうだそうだ! お前みたいなやつは、俺たちがぶっ飛ばしてやる!」
「……そこはお前らの砂場でもねーだろ。ったく……」
あさひが動き出すまでは、わずかな時間も要さなかった。
――構図としては、こうだ。
「生意気なやつめっ! 俺たちに逆らったことを後悔させてやるっ!」
「へへへ……俺たちには兄貴もいるんだ。ただじゃすまさないぜっ!」
悪役、二名。共にあさひと同級生程度の少年。
「や、やだぁ……ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
弱者、一名。あさひより三つほど年下の少女。悪役二人が砂場で遊んでいた少女に絡み、因縁をつけて苛めようとしている。数と年齢差にモノを言わせた、単純な構図である。
「女が砂場で遊んでるんじゃねーよ!」
「俺たちを怒らせたら怖えんだぞ!」
少女がまったく抵抗しないことをいいことに、図に乗る少年二人。その背後からつかつかと影が迫ってきていることには、いやはや、毛ほども気付いていない様子である。
「……なあ」
「……ああ」
自分たちが優位にあるのをいいことに、少年二人はよからぬことを思いついたようだ。下卑た笑いを浮かべ、腰を抜かしてへたりこむ少女に一歩一歩にじり寄っていく。
「俺たちの砂場を荒らしたんだ、覚悟しとけよな!」
「あ、あぁ……」
「へへへ、たっぷり可愛がってやるぜ!」
「た、たすけて……おにぃ――」
「よう、三下共」
「……! な、なんだお前!」
「三下って、どういう意味だっ!」
補足しておこう。三流以下の、箸にも棒にも掛からないつまらない存在、という意味である。
「てめえっ、俺達に逆らうとどうなるか――」
「どうなるってんだ?」
少年の一人が振り返り様に憎まれ口を叩き終える前に、問答無用で発言を遮る。面食らった表情の少年が、眼前に立つオレンジのショートカットの少年――に、見えただろう。間違いなく――に目を向ける。
「どうなるってのか……俺に教えてもらおうじゃねえか」
異様である。鋭い眼光を伴い、少年――ここはそう呼称しておこう――がひたひたと歩み寄る、その構図自体が異様である。辺りの空気を物理的に締め上げるような威圧感を伴い、少年は二人に迫っていた。
「はぁ? 知りてえのかよ! いいぜ。なら、てめえの体に教えてやらあ!」
「……………………」
そう言い捨てると共に、右にいた少年が殴りかかった。思慮の無い、後の続かない攻撃だった。
「……ふんっ!」
「……いでぇっ!?」
――その直後に、殴りかかった少年は地面に叩きつけられていた。殴りかかったスピードを殺されずにそのまま受け流され、勢いよく地面に激突したのである。要は、殴ろうとした相手がその場におらず、勢いを緩められないままバランスを崩してしまった……そういうことである。
「……消えな。お呼びじゃねえぜ」
「ぐあっ?!」
うつぶせに倒れていた少年の背中を、右足で容赦なく踏みつけて起き上がれないようにした後、少年がもう一人の少年に迫る。目が完全に据わっていて、ぎらぎらした視線を向けている。常軌を逸した視線の鋭さに、少年が思わず一歩退いた。
「てめえは教えてくれるんだろうな? 逆らったらどうなるか、ってのをよ……」
「お、お前っ……! 調子乗ってんじゃねーぞっ!!」
相方があまりにあっさり伸されてしまったことにたじろぎつつ、もう一人少年が遮二無二向かっていく。大きく右腕を引き、殴りかかる体勢になっていた。
「お前の顔面、ぶっ潰してやるっ!」
「……けっ。わざわざ言うかよ、馬鹿が」
攻撃目標を知らせてきたことに呆れつつ、少年が地面に倒れ付した少年を踏みつけたまま、殴りかかるもう一人の少年を迎え撃つ。
「食らえっ!」
少年が思い切り拳を突き出す。そのまま、相方を踏みにじっている少年の顔面に――
(ぱしっ)
――届く、その前に。少年の拳が、ぴたりと止められた。
「食わねえよ。なんで俺がてめえの言うことを聞く必要があるってんだ?」
「お、お前……! こ、このっ……!」
右手の拳を手のひらでがっちり掴み、少年が口元に不気味な笑みを浮かべた。殴りかかった少年は必死に振りほどこうとするが、掴まれた手はまったく離れる気配が無い。拳を捕まえた手にさらに力を込め、容易に離れないようにする。
「なあお前、知ってるか?」
「な、何を……い、いてぇぇぇっ?!」
拳を引っつかんだまま、少年が殴りかかった少年の腕を無理やりねじり始める。少年はあっという間に体勢を維持できなくなり、よろよろとよろめきだす。
「お前ら、さっきここの砂場が誰のものか、とか言ってたよな」
「い、いでででで……う、あああ……!」
雑巾でも絞るかのごとく腕をひねり、これ以上は物理的に無理、もちろん精神的にも無理、というところまでひねった後。
「そらよ!」
「うぉおあっ?!」
一際強く力を込めると、少年は拳を支点にして、少年を投げ飛ばして地面に叩き伏せた。
「ぐはっ?!」
「ぐえええっ?!」
既に倒れていた少年の上に倒れこむ形となり、二人が揃って悲鳴を上げる。なんとも惨めな、完全敗北であった。
「教えてやるぜ、三下。ここの砂場は――」
「――日和田市の所有だぜ。所有権が欲しいなら、市役所の役人にでもなりな」
突っ込みようの無いど正論を述べて、少年――もとい、あさひ――が見栄を切った。
「ち……ちくしょう、覚えてやがれっ!」
「後で、必ず後悔させてやるからなっ!」
些か情けない捨て台詞を吐きながら立ち上がり、少年二人はよろよろと敗走していった。二人の背中を、あさひは余裕の表情で眺めていた。
「あ、あぁ……」
「……よし。悪いやつはいなくなったぜ。もう安心だ」
後ろから聞こえてきた怯えた声に、あさひが振り返りつつ応じた。これまでとは一転して、柔らかさと優しさを感じさせる声色だった。
「えっと……」
「大丈夫だ。俺も見た目は怖えかも知れねえが、お前を苛めたりはしないからな」
「……………………」
あさひがおどけたように言うと、後ろに控えていた少女に向けて、そっと手を差し出す。
「立てるか? 砂場で座ってると、服が汚れちまうぜ」
「あっ……」
少女は差し出された手を見て一瞬逡巡したが、あさひの態度に真摯なものを感じ取ったのだろう。恐る恐る、あさひの手を取った。
「よし……それでいい」
「……………………」
差し出された手を優しく、かつしっかりと取り、あさひが少女を立ち上がらせた。そのまま、少女を胸元へと抱きこむ。お尻についていた砂を、ぱたぱたとはたいてやった。
「よしよし。怖かっただろ……悪いやつは俺が退治してやったから、安心しな」
「……!」
少女はあさひにしがみつくと、小さく華奢な手にぎゅっと力を込めた。今までの恐怖と、今の安堵の狭間で感情が高ぶり、無意識のうちに手に力がこもっていた。
「えっと……」
「……ああ」
「たすけてくれて、ありがとう……」
「気にするなって。お前に怪我が無くて、何よりだぜ」
「……………………」
少女の背中を優しく撫でると、すっかり安心したのだろう、その表情を綻ばせた。ようやく安心した表情を見せた少女に、あさひは笑顔を覗かせた。
「あいつらに苛められたのは、今日が初めてか?」
「……うん。いつもは、ここであそんでてもだいじょうぶだったから……」
「そうか、そうだよな。それは、お前のほうが正しいぜ」
「……ありがとう」
「もう大丈夫だからな。安心していいんだぞ」
優しく声をかけるあさひに気持ちが解れ、少女は目を細める――
「兄貴っ! こいつですっ!」
「こいつが、俺たちを苛めたんですっ!」
――だが、それも長くは続きそうに無かった。
「……!!」
「……悪い。まだ大丈夫じゃなかったみてえだな。少し、後ろに下がっててもらえるか」
「う、うん……」
「俺のことは心配いらねえ。こういうのには、慣れてるからよ」
あさひは少女をそっと後ろに下げると、声の聞こえた方向、つまりは後ろへ向き直った。
「おいっ! お前はもう終わりだぞっ! 調子に乗るのもここまでだっ!」
「調子に乗ってんのはどっちだよ、三下」
「うるせえっ! 俺たちのために兄貴が来てくれたんだ! お前なんて、ボコボコにしちまうんだからな!」
勝ち誇る二人に向けて、あさひが鋭い視線を送る。この時点で、二人は既に少々怖気づいているようである。
「……!」
「……大丈夫だ。必ず、お前を守ってやるからな」
後ろで震える少女に向けては、優しい瞳を見せる。少女は不安げな面持ちで、あさひの目をじっと見つめた。
その刹那。
「……お前か? この二人を倒したっていうのは……」
「ああ。間違いないぜ、兄貴さんよ」
少年二人の間を割るようにして登場したのは、がっしりした体格の少年だった。ひょろ長く痩せ気味の体格の二人とは、明らかにタイプが異なる。「兄貴」と呼ばれるのも理解できる風貌であると言えた。
「先に手を出したのはお前か? それとも、こいつらか?」
兄貴はごく落ち着いた態度で、あさひに問いかける。どうも、考え方も二人とは明らかに異なっている。理性的で、正確な事実関係の把握に努めようとしている姿勢が窺えた。
「それはだな……」
「こ、こいつです兄貴っ! こいつが、俺達に喧嘩をふっかけてきたんですっ! お、お前が悪いんだぞっ!」
「……おい、三下」
「なっ……!」
「人の質問に勝手に答えるんじゃねえ。黙って聞いてろ」
あさひが凄むと少年は完全に萎縮し、そのまますごすごと後ずさりした。
「先に声をかけたのは俺だ。だがよ、ちゃんと理由はあるぜ」
「理由? どういうことだ」
兄貴がそう言った、直後のことだった。
「あっ……!」
「……おにいちゃん! おにいちゃんっ!!」
「……!! ゆいか!! お前、どうしてここに……?!」
……後ろにいた少女が、兄貴に向かって「おにいちゃん」と言った。少女にとってはそれだけのアクションなのだが、対する四人のリアクションは大変大きいものだった。
「……………………!?」
「……………………?!」
「……すげえ展開だな。笑っちまうぜ」
状況を掴んだあさひが緊張を解き、ゆいか、と呼ばれた少女をそっと前に出してやる。
「ゆいか……この公園で遊んでたんのか?」
「うん……それでね、あのおにいちゃんたちにぶたれそうになったのを、このひとがたすけてくれたの。やさしいひとだよ」
「……なんだって?! こいつらが、お前に暴力を振るおうとしただと?!」
ゆいかの短い言葉だけで、すべての真実が明らかになった。兄貴の表情が見る間に変わる。
「お前ら、よくもっ……!」
「ひ、ひぃぃっ……!」
「あ、あにっ、兄貴っ……!」
拳をわなわな震わせ、兄貴が怒りの感情を露にする。その拳がいつ振り下ろされようと、不自然なことではなかった。
「おにいちゃん……」
「くっ……!!」
だが、兄貴が引き金を引くことは無かった。弾を込め、照準を合わせ、撃鉄を起こす。ここまで終わっているというのに、兄貴は力ずくで感情を押さえつけていたのである。
「……任せな。あんたが手を汚す必要はねえぜ」
「……すまない」
兄貴の思いを慮ったあさひが歩み出ると、恐怖で震える二人の少年の前に仁王立ちして見せた。二人にはあさひの姿が、恐ろしい怪物か、はたまた畏れ多い神のように見えていたことだろう。
「おい、三下共」
「……は、はいぃっ……!」
「……な、なんで、ございま、しょうっ……!」
ぎらついた瞳を突きつけ、あさひが凄む。口元の笑みが、余計に恐ろしい。
「兄貴が手を汚す必要はねえって言ったがよ、俺もな、できればやりたくねえんだ。な?」
「あ、あわわわわわ……」
「どうすりゃいいか、もう分かってんだろ? な?」
「ひ、ひぃっ、ひぃ……」
「何? 分からないって? じゃあよ、俺が教えてやるからよ、よく聞けよ。な?」
両手でもって、二人の肩をバシッと叩くと同時に。
「……ここからさっさと消えろ! 二度と手出しすんじゃねえぞ!!」
「ひええええええっ!!」
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
――少年達が逃げ出す速さは、先ほどの比ではなかったと言っておこう。想像は付くと思うが。
「……バカな奴等だぜ、まったくよ」
ため息混じりに吐き捨てるあさひの後ろから、兄貴とゆいかが近づいた。
「すまない! お前が、ゆいかを助けてくれたとは……」
「通りがかったら、くだらねえことしてる奴等がいたもんだからよ。お節介を焼かせてもらったぜ」
「本当にありがとう。感謝させてくれ」
「大したことはしてねえさ。だが、気持ちは受け取らせてもらうぜ」
妹を守ってくれたことに感謝の気持ちを述べる兄貴に、あさひはゆいかに向けたのと同じ、柔らかい笑みを浮かべた。
「あのね、おにいちゃん、わるいひとじゃないから、えっと……」
「大丈夫だって。ちゃんと分かってる。しかし、あの三下共にはもったいない親分だな、お前の兄貴はよ」
ゆいかが兄貴によく懐き、自分に「悪い人じゃない」と言おうとした様子から、あさひは兄貴があの二人とは異なり、しっかりしたまともな人間であるという認識を持っていた。兄貴があさひに歩み寄ると、事情を話し始めた。
「あいつらは元々、他のヤツらから苛められていたんだ。俺があいつらを不憫に思って、苛めるヤツから守ってやってたんだ」
「なるほど……だが、それでいい気になったあいつらは増長して、逆に弱いもの苛めをするようになった……そんなところだろ?」
「……その通りだ。本当にすまなかった。あいつらには、強く言って聞かせておく。この通りだ」
「頼んだぜ。今回のをクスリにして、つまんねえことすんなって言っておいてくれ」
「分かった。あいつらを追い払ってくれたことにも、感謝している」
「当然のことをしたまでだ。大切な妹を前に、他人を殴りたがる兄貴はいねえだろ? ま、結局俺も殴らずに済んだがよ」
一件落着、といったところだろうか。兄貴のシャツの端にゆいかがしがみつく様子が、なんとも微笑ましい。
「おにいちゃん……」
「ゆいか、よかったな。優しい――」
「『お兄ちゃん』が守ってくれたな」
「……………………」
――分かってはいたが、やはり、言葉にされると……あさひの胸中に、処理できない複雑な感情が去来した。
「迷惑をかけた。また会うことがあったら、よろしく頼む」
「……ああ。大切な妹が苛められないように、きっちり見ておいてやってくれよ、兄さん」
「面目ない。恩に着させてもらう」
「あ……おにいちゃん、このひと……」
「さあ、ゆいか。お前も、お兄ちゃんにお礼を言うんだぞ」
兄貴がゆいかの手を取る。ゆいかは兄貴に促され、小さく頭を下げた。
「……どうも、ありがとう」
「ああ。遊ぶ時は、ヘンな奴に絡まれないように気をつけるんだぜ。俺との約束だからな」
「……うん、わかった」
兄貴に手を引かれて、ゆいかは公園から去っていった。
「……………………」
一人残されたあさひが、砂場を背にして呟く。
「……まだまだ、道のりは長いってこった……」
……"彼女"の寂しげな笑みには、濃い陰影が差していた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。