時は過ぎて陽は沈み――辺りを、寂しげな夕闇が覆う頃。
「暗くなってきちゃったね。チエちゃん、そろそろ帰ろうか」
「んだ。今日も楽しかったぞぉ、志郎」
「ぼくもだよ、チエちゃん。水切り、うまくできるようになったね」
「はっはっはぁ! 志郎のおかげだぞぉ。おらもっと練習して、十回くらい跳ねるようにしてやるぞぉ」
遊びつかれた二人が手を取り合い、家路に着こうとしていた。辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていたのだが、不思議と、志郎とチエの周囲だけはぼんやりと光が灯っていた。そのおかげか、志郎もチエも夕闇に怯える事無く、行きと同じように意気揚々と歩いていた。
光源を辿り、二人を照らす道標となっている存在を追う。すると――火の付いた蝋燭に、蝋が溶けて出来た手足……と呼ぶには些か頼りない突起の付いた、得体の知れぬ生き物が、二人を先導するように歩いていた。それだけでも十分怪事なのだが、灯っているのは赤々とした火ではなく、霊妙な青白い炎だった。
この珍妙な生き物が現れたのは、ごくごくつい先程のことである。
「この子、ヒトモシって言うんだね」
「んだ。火灯はおらの友達だぞぉ。こうやって、暗い道を照らしてくれる物の怪なんじゃあ」
「へぇー。ろうそくみたいな見た目、そのままだね」
「そう思うじゃろ? 実はな……そんだけじゃあないんだぞぉ」
歩いていた蝋燭の物の怪、もといヒトモシをさっと抱えて、何やら口調を改めて話し始めた。
「火灯は、こうやって暗い道を照らしてくれとるけどなぁ……」
「ち、チエちゃん……?」
「実はなぁ……周りの人や獣や、物の怪の命を吸って燃えとるんじゃあ」
「……えぇっ!?」
「そんでなぁ、其の儘、黙って火灯に付いてくと……」
チエが抱いていたヒトモシを顔の下へ持って行くと――
「霊界に引きずり込まれてしまうんじゃぁああぁ~!」
――陰影が度の過ぎた形で強調されたチエの顔が、志郎の眼前に迫ってきた。
「う、うわぁっ!?」
驚いて思いっきり仰け反った志郎を見たチエが、ヒトモシを地面に置いて、いつものように豪快に笑って見せた。
「はっはっはぁ! 志郎、たまげたかえ?」
「び、びっくりしたというより、ぼく、寿命が縮まったよ……いろいろな意味で」
「にししっ。志郎は面白ぇなぁ」
「もう、ぼくはチエちゃんのおもちゃじゃないんだから」
「堪忍堪忍。火灯の中にはそんな怖いのもおるけど、この火灯はちと違うんだぞぉ」
「違うって、どういうこと?」
「火灯にも好き嫌いがあってなぁ。こいつは、人や物の怪の命なんかより、甘い物に目がないんじゃあ」
「そうなの?」
志郎がヒトモシに問い掛けると、ヒトモシが頭の青白い炎を守りつつ、ちょこんと律儀に頷いた。
「へぇー、珍しいね。あ、そうだ。ぼくの家におじいちゃんの作ったあんみつがあるんだけど、食べに来ない? おいしいよ」
「!」
「ははっ、喜んどるなぁ。いいぞぉ、火灯ぃ。志郎に餡蜜食わしてもらえ」
あんみつ、という言葉に如実に反応して見せたヒトモシに、志郎は愛らしさを覚えた。蓼食う虫も好き好き、十人十色。生命を吸わず甘味に生きがいを見出すヒトモシがいても、またよいではないか。
ヒトモシの灯りを頼りに、二人が森を抜ける。後を付いて行った先は、禍々しい霊界などではもちろんなく、鄙びた日和田の見慣れた風景だった。例によって、ここでお別れとなる。
「チエちゃん、ありがとう。今日も楽しかったよ」
「おらもだぁ。明日もまた遊べるかえ?」
「もちろん。何なら、指きりしたっていいよ」
志郎がチエに先んじて小指を差し出すと、チエは迷わず左手の小指を絡めてきた。
「志郎は分かっとるなぁ。指きり、してほしかったんじゃあ」
「昨日もしたから、今日もしなきゃね。じゃあ、いくよ。せーのっ!」
威勢のいい志郎の掛け声に続いて、二人が声を重ね合わせる。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
一昨日と、そして昨日と同じように、二人は指きりをして、また明日も一緒に遊ぶことを約束し合った。無論、指きりなどせずとも、明日も志郎とチエが一緒に遊ぶことなど分かりきっている。明日が来れば、二人がまた会えることは間違いない。
小指を絡め合わせて、他愛ない呪文を交わすだけのやり取り。けれども、それでも指きりは必要なのだ。約束を守るために、欠かすことができない儀式なのだ。
「よぉし、これで大丈夫だぁ。志郎、明日も来てくれよなぁ」
「もちろん。絶対に遊びに行くよ。ぼく、チエちゃんと遊ぶのすごく楽しいから」
「うん、うん。おらも同じだぁ。またなぁ、志郎」
志郎とチエは、これまでと同じように明日も会う約束をして、二手に別れて家路に着いた。
日もとっぷり暮れて、辺りは夕闇から夜闇へ移り変わろうとしている。そのような中にあっても、志郎の周りのみはぼうっとした鈍い光に包まれ、闇が志郎を抱き込むことを阻んでいた。志郎に餡蜜をごちそうしてもらえると聞いたヒトモシが、意気揚々と炎を上げているためである。
ヒトモシを隣に連れて、志郎は何も恐れること無く義孝の家まで辿り着くことができた。志郎はそっと中の様子を伺うが、どうも父も祖父もまだ帰っておらぬ様相だった。予想はしていたが、多分叔父がまたああだこうだと口数多く喚いて揉め事を起こしているのだろう。あの叔父だけは、いまいち訳が分からぬ。
志郎は、下手をこくと外よりも暗い家の中へと入っていく。本来不気味なはずのヒトモシの青白い光が、ここにおいてはとても頼もしいものに思えてならなかった。青白い炎が灯す光を頼りに進み、廊下の明かりを点灯させる。蛍光灯に通電するピカンピカンという音と共に、パッと周囲が明るくなった。
足元でピョンピョン飛び跳ねているヒトモシの為に、志郎は台所へ向かう。こちらの灯りも点けると、ごごごごごと低い唸り声を絶えず上げ続ける冷蔵庫の前に立ち、真正面の大扉を開けた。カランカランとビール瓶がぶつかり合う音が聞こえ、冷蔵室から氷の匂いがした。
「あったあった。これこれ」
奥に小分けして硝子の器に盛ってあった餡蜜を取り出し、志郎がラップを剥がす。ここまで灯りを点けてくれていたヒトモシに感謝の気持ちを込めて、志郎はいつの間にか隣に座り込んでいたヒトモシに餡蜜をご馳走してやった。硝子の器にでんと盛られた餡を見たヒトモシが目を輝かせ、早速餡蜜を食い始めた。
見た目からは想像も付かぬほどの速さで餡蜜を食べていくヒトモシの姿に、志郎が隣で微笑む。この餡蜜は、料理好きの義孝が志郎のためにこしらえたもので、おやつ代わりにいつでも食べてよいということになっていた。そういうものであるから、ヒトモシに食べさせてやったところで別段何の問題も無いわけである。
あれよあれよと言う間に餡蜜を平らげたヒトモシが、満足そうな表情で志郎に擦り寄る。義孝お手製の餡蜜はとても気に召したようである。じゃれて来るヒトモシの体を撫でてやると、ほのかに暖かい。青白い炎はともすると冷たい印象を与えるが、炎は炎である。小さなヒトモシにも三分の魂。ちゃんと命が通っているのだ。
しばしヒトモシと戯れていた志郎だったが、ふとヒトモシが志郎の元を離れ、灯りの点いていない廊下の奥へとちょこまか駆けていった。灯りを頼りに追うと、ヒトモシは廊下の奥、別の言い方をすると、上階へ繋がる階段の前で志郎を手招きしていた。
そういえば、この家には二階があった。暗さ故に一度も階段を登ったことはないが、今になって何故か急に興味が湧いてきた。上には康夫や健治が使っていたという部屋があるらしい。面白いものを発掘できるかも知れぬ。志郎は、階段の上へ行こうという気になっていた。
「ヒトモシ。ぼくと一緒に、階段を登ってくれる?」
「(こくり)」
お安い御用、とばかりにヒトモシが頷く。頭の炎を一際大きく燃やし、辺りを青白く照らし出した。繰り返すが、本当はこれは実に不気味な光景であるはずなのだが、その光はヒトモシによるもので、ヒトモシが志郎にとても懐いているという前提に立つと、却ってとても頼もしいものに見える。そこいらの半端な幽霊やお化けなど、逆に縮み上がって退散してしまいそうなほどだ。
ヒトモシの灯りを頼りに、志郎が階段を登る。階段はかなりの急勾配になっていて、手摺りを使わねば厳しいほどの高さがあった。一段一段確認するように登り、その都度、階段につかまってよじ登ろうとするヒトモシを助けてやる。志郎でも高いと感じるほどなのだから、ヒトモシが苦労するのは当たり前のことである。
階段を登りきると、暗い廊下の先に扉が二つ並んでいるのが見えた。康夫と健治の部屋だろう。どちらに入ろうか迷う志郎。扉には誰某の部屋などというような親切な注意書きはなく、殺風景そのものだった。どちらがどちらの部屋か、見ただけでは分からなかった。運を天に任せ、と言うほどではないにしろどちらでも構わないという心境で、志郎は向かって手前の部屋の扉を開いた。
この部屋は長らく使われていなかったようで、埃っぽく噎せ返るような湿気がこもっていた。志郎が軽く咳払いをして、飛び交う埃をぱたぱたと手のひらで払う。鼻から息を吸うたびに、湿った木の匂いが入り込んでくる。最後に使われてから一体どれほどの時間が経ったのか、見当も付かなかった。
部屋には学習机が二つ並べて置いてあった。志郎は、この部屋が康夫の(或いは健治の)部屋で、今しがた入らなかったもう一つの部屋が健治の(或いは康夫の)部屋かと思っていたが、実はそうではなく、二人で一部屋を使っていたということのようだった。向こうの部屋は義孝の部屋か、そうでなくても物置が関の山だろう。どちらにしろ、あまり見る必要はあるまい。
暗がりで委細は掴めなかったが、ヒトモシのおかげで中を探索することは出来そうだった。何か面白いものはないかと目を凝らす。まず見えてきたのは――中々珍妙なものだった。壁に貼られた、すっかり色褪せた男性のアイドル・グループのポスターである。ローラー・スケートを履いて舞台を駆け回る演出で、一昔前に一世を風靡したなどと聞いた記憶がある。そう言えば康夫が時折その話をしていたから、これは康夫の趣味であろう。最初は面食らったが、これも十人十色。餡蜜が好きなヒトモシがいれば、男性のアイドル・グループに熱を上げる男がいても別段おかしなことでもあるまい。
次に見えたのは、学習机の片隅にある写真立てに入れられた、若々しい健治と思しき男性と、健治の連れ合いとしか見えぬ女性が写った写真だった。あの様子で、健治も隅に置けぬ性格のようである。もっとも、志郎は健治が真っ当に話をしている姿など一度も拝んだことがなかったから、いまいち想像がつかなかったのだが。
その繋がりだろうか。写真立ての側に、猫のマスコット人形が取り付けられたシャープ・ペンシルが転がっていた。見ると明らかに女物である。健治が件の連れ合いから貰ったか、若しくは借りるかしたに違いない。健治のあの様を思うと、このようなものを持っているとは考えも及ばぬ。ああなるまでには、大人しい時期もあったのだろうか。
暫く辺りを探っていると、ヒトモシの青白い灯りの先に、本棚があるのが見て取れた。志郎が近づく。その本棚には、高等学校のものと思しき教科書や、古びた車雑誌に混じって、一際埃を被った「静都妖怪大全」なる、背表紙に怪奇な字体で馬鹿でかく書かれた分厚い本があった。
妖怪というと、物の怪のことであろうか。となると、今のポケモンに通じるものがあるかも知れない。興味が湧いてきた志郎は、埃塗れの「静都妖怪大全」を本棚から抜き取る。舞った埃を手で振り払いながら、序でにこびり付いた埃も手で払っていく。大分綺麗になった所で、志郎が改めて本を手に取った。
これはじっくり読んでみたい所である。ヒトモシのように見知った顔がいるかも知れぬ。そう考えた志郎は、側にいたヒトモシを伴い、階下へと向かうことにした。例によって急な段差になっている階段を前に、進めずにまごついていたヒトモシを肩に載せてやって一段ずつ下り、志郎が一階まで辿り着く。
「ごめんなさい。志郎くん、いる?」
硝子戸を叩くドンドンという音が聞こえたのは、その直後だった。その声色を聞いた直後、志郎はそれが、すぐ近くに住んでいる親戚の、登紀子であることに気がついた。志郎は肩の上に乗っていたヒトモシに隠れるよう言付けて、直ちに裏口へと走った。
登紀子は義孝の妹で、夫と二人で暮らしている。義孝の家にはこのように頻繁に出入りしており、伴侶に先立たれた義孝に対して甲斐甲斐しく世話を焼いてやっていた。志郎も時折顔を合わせていたから、お互いに顔は知っている。
ガタガタと音のする硝子戸を引き開くと、思ったとおり、紙袋を提げた登紀子が立っていた。
「こんばんは、登紀子おばさん」
「はい、こんばんは。志郎くん」
志郎が後ろへチラリと目を向けると、既にヒトモシの姿はどこにも見当たらなかった。多分、押入れかどこかの影にでも隠れてくれたのだろう。登紀子に見つかるといろいろ厄介であったから、何かと都合がよい。
玄関へ上がった登紀子が、ここへ来た事情を志郎に聞かせた。義孝から登紀子に電話があり、今晩は帰るのが遅くなりそうだ、留守番をしている志郎がお腹を空かせているだろうから、何か作ってやってほしい──そのように言われたという。志郎は、父たちがまず時間通りに帰って来るとは思っていなかったから、これといって驚いたり落胆したりすることもなく、登紀子の言葉を額面通り受け止めた。
台所で登紀子が晩飯の支度をしている間、志郎は縁側で康夫と健治の部屋から持ち出してきた「静都妖怪大全」の埃を丹念に叩いていた。表紙は日に焼けて大分色褪せているが、中の頁は問題なく読み取ることができそうだった。あらかた綺麗にし終わった所で、志郎が適当に頁を開く。そこにつらつらと書かれていたのは……。
「『人の恨みを食って大きくなる照る照る坊主の化け物』」
「『俊足で走る三つ首の翼を持たない怪鳥』」
「『出会った人間を眠らせ悪戯する風船妖怪』」
「『割れた卵の殻を着た赤子の霊』」
志郎の想像していた通りの、いやいや想像以上の面白本のようであった。明らかにポケモンとしか思えぬ自称『妖怪』が、元の形を残しつつ、無闇矢鱈におどろおどろしく描かれているのである。志郎はあまりの内容に冗談でやっているのかとさえ思ったが、「静都妖怪大全」はあくまで真摯に『妖怪』を取り上げている。
それぞれ特徴は上手く捉えているが、何せ『妖怪』としての紹介であるため、根拠不明で荒唐無稽な尾鰭があちらこちらに付いていた。「夜な夜な歩き回る足の生えた草」は「引っこ抜くと恐怖の悲鳴を上げて抜いた者を呪い殺す」となどと書いてあるし、「岩石に顔と両腕の生えたお化け」は「子供が石を投げているときに知らない間に混ざっている」と堂々と述べている。どれもこれも、一見合っているようでその実合っていない。
馬鹿馬鹿しいほどに陰影を強調したソーナンス(「叩くと膨らんで何倍も痛い仕返しをしてくる起き上がり小法師妖怪」と銘打たれている)らしき絵面を見て笑い転げていると、台所から登紀子の呼ぶ声が響いてきた。晩飯の準備ができたようだ。志郎は本を閉じ、登紀子の元へ駆けてゆく。
金糸卵に胡瓜の千切り、水で戻した若布に干瓢、彩りに缶詰の蟹の解し身を添えて、上から半解けの氷が混じった出汁つゆをぶちかける。登紀子が用意したのは、具沢山の素麺であった。大きな容れ物に麦茶を注いでもらい、志郎は冷たい素麺に舌鼓を打った。登紀子も自分の分を用意して食べている様子を見るに、亭主はどこかへ飲みにでも出たようだ。
ひとしきり素麺をすすり、志郎がご馳走様を言うと、登紀子は笑ってそれに応じた。後片付けを手伝い、風呂を沸かす手筈を整えてから、志郎は縁側へと戻る。目的はもちろん、あの面白本の続きを拝むために他ならない。
「面白いなあ。昔の人は、ポケモンを妖怪だって思ってたんだ」
怖がらせようという魂胆を丸出しにした絵の数々を面白おかしく鑑賞しつつも、志郎は同時に、この本の書かれた時分には、ポケモンは妖怪という文脈で定義されていたのだと実感した。現代において、ポケモンは「変わった動物」として受け容れられている節があるが、古来においてはより距離を置いて、神仏に近しいものとして認識されていたようだ。
ふと、志郎はチエがポケモンを『物の怪』と呼んでいることを思い出した。『妖怪』とほぼ同じ意味合いを持って使われるが、それよりもさらに畏れを抱いている様を思わせる言いぶりだ。チエはポケモン、いや物の怪たちと、どのように付き合っているのだろうか。少なくとも、仲良くしてやっているのは分かるが──
「あら、立派な河童だねえ」
「えっ?」
上の空で頁を送っていた志郎は、そこに「河童」と題された妖怪が描かれていることに気が付いた。それまでの、若干子供騙しの匂いを隠し切れていなかった絵とは随分色合いが異なり、筋骨隆々とした、しかしすらりとした見事な体躯の妖怪であった。側にやってきた登紀子が、志郎の隣に付く。
無駄のない線形の躰、両手の指から張り出した立派な水掻き、額に埋め込まれた紅玉を想起させる石。人とも、獣とも、勿論物の怪とも取れる風貌は、不思議と志郎を惹き付けて止まなかった。姿絵は白黒の二色刷りであったが、隣の説明書きには律儀に「本来はコバルトブルーに近い色合いである」と記されていた。
「おばさん。河童って、どんな妖怪なの?」
「そうだねえ。池や、川や、沼に住んで、水を守ってくれるんだよ」
登紀子から河童についての講釈を聞かせてもらう。その名からある程度察しが付くように、水場に住んで水を司る、土着の妖怪として知られているようだ。各地に多様な形で伝説・伝承が残っており、ここ日和田にも河童に纏わる話が幾つか伝えられている。その大部分が、何らかの形で水に関わるものだ。
性格は概ね天真爛漫で、人間の子供に混じって遊ぶのを好む。ただ、何分力が強いものであるから、相撲など取った日には一人で何人も投げ飛ばしてしまい、まるっきり勝負にならぬという。その代わり、時折水の中に入って体を湿らせてやらないと、体力が尽きて弱ってしまうそうな。
河童は生まれ付き、人の理から外れた『神通力』を備えている。小さな力で渦潮を巻き起こしたり、川の流れを一人で付け替えてしまったりするような、人の常識がまるで通用せぬ力だ。河童の神通力が発揮されるとき、周囲の人間は目が眩んだり、頭に痛みが走ったりするという。
「それとね」
「うん」
「河童はね、泣くと雨を降らせられるんだよ」
「雨を降らせられるの?」
「そう。河童の涙は、雨を降らせる力があるんだよ」
不思議な力の一つに、泣くと雨が降り出す、というものがある。河童の鳴き声(泣き声と言うべきか)が実は雨乞いの呪文になっているとか、河童は涙を見られることを好まぬから雨を降らせてごまかすとか、いやいや河童の心は雨雲に通じているとか、ほどほどの説得力を伴う他愛ない与太話は幾つかあるが、何分河童本人が語らぬので、どれが正しいということは無いようである。
ただ、多かれ少なかれ尾鰭が付きつつも、河童が悲しさ故に涙を流すとき、空から雨が降り出す、という言い伝えの骨組みは、河童について語られるどの地域にも在るという。与太話の数々はさておき、河童が泣くと降雨が始まるというのは、どうやら何がしかの根拠があるようだ。
涙雨、という言葉がある。人の涙を降りしきる雨に例えたものだ。河童が泣くと雨が降るというのであれば、それもまた一つのナミダアメと言えよう。
河童は何故泣くのか、何故雨を呼ぶのか――考え事をしつつ頁を捲り、志郎が河童の風貌について気に止まった点を、隣で楽しそうに目を細めている登紀子に問うてみる。
「あれ? 河童って、手の指が三本しかないんだね」
「そう。そこに水掻きが張って、泳ぐときにすいすい水を掻いていくんだよ」
「それって、生まれ付き?」
「いいや。初めのうちは、人様のように五指揃ってるんだけどねえ。大きくなると、小指と親指が落ちるんだよ」
「ふぅーん……小指と親指、なくなっちゃうんだ」
河童は水と縁深い妖怪である。時が経つにつれて、徐々に水と『近しい』存在になっていく。その一つが、成長すると落ちてしまう二つの指だ。手の両端に位置する親指と小指は、河童が成長すると徐々に退化してゆき、最終的に痛みも無く落ちるという。指が落ちる頃には、残りの三指の間に立派な水掻きが張り出し、水を掻くのに都合のよい形となる。
親指と小指の落ちた手は、やがて全体的に細く引き締まり、亀の足のような形に落ち着く。こうなることで、人のように水掻きがなく五指で水を掻いていくよりも、格段に早く泳ぐことが出来るようになる、という寸法だ。
河童の頁が終わり、次に出てきた「絵描きの魂が乗り移った立って歩く犬の怪物」の内容(またどことなく可笑しな絵柄に戻っている)を読み始める前に、志郎が再び登紀子に問うた。
「河童って、『川』の『子供』っていう意味だよね」
「志郎君はお利口さんだねえ。その通りだよ」
「じゃあ、河童が大人になったら、なんて言うようになるの?」
「いい質問だねえ。河童は大人になれるとね、『水神様』って呼ばれるようになるんだよ」
文字の率直な意味を取ると、河童は「川の子供」と言い換えられる。では、大人はどうなるのか、という問いだが、その答えは「水神様」になる、と登紀子は答えた。水の神様であるから、水神様。川の子供であるから、河童。いやはや突っ込みどころの無い潔い名づけである。
河童は大人になることができると、水の神様、即ち水神様として新たな段階を向かえ、水と一つに交わってその水場を守護していくという。描かれていた筋骨隆々とした河童の絵は、大人になり「水神様」と呼ばれるようになった河童の姿である。体色は水を思わせる青になり、流線型の体は水とよく馴染んですいすい泳ぎ回る。水神様と呼ばれるのも納得であろう。
大人になった河童は、水神様と呼ばれる。それが、登紀子の答えであった――というのはよいのだが、よく見ると頁の片隅に、「成人した河童は、水神様と呼ばれる」と堂々と書かれているではないか。ちゃんと読めばよかった、と志郎は少しばかり気恥ずかしい思いをするのだった。
それはともかく、志郎は登紀子から河童に付いて随分込み入った話を聞かせてもらった。どれをとってもまあ実に興味深い話ばかりだ。こうして得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。人として当然の欲求だろう。誰か、誰か……。
……ああ、そうだ。適役がいるではないか。チエだ。チエがいる。明日会ったら、チエにこの河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなろう。
他の妖怪とは少し毛色の異なる、込み入った河童の紹介。志郎は、純粋に「面白いな」と感じた。この本で得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。誰か、誰か……ああ、適役がいるではないか。チエだ。明日会ったら、チエに河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなる。
それにしても、不思議な力があるとか、川に縁が深いとか――河童は、何かチエを思わせる節がある。もちろん、チエが河童などと言う馬鹿げた話をするつもりが在るわけではない。ただ、チエは何の変哲もない「人の子」とも思えなかった。人と物の怪の丁度狭間に居る、そのような雰囲気を感じる。それがまた、チエの面白いところであるのだが。
チエに思いを馳せながら、志郎が何の気なしに、隣で一緒に「静都妖怪大全」を読んでいた登紀子に目を向けた時である。
「あれ? おばさん、これ何?」
「これかい? 結婚指輪だよ」
志郎が指差したのは、登紀子の左手薬指に嵌められた、鈍い輝きを放つ「結婚指輪」だった。志郎は今の今までそのようなものを目にしたことが無かったから、それが何なのか単純に分からなかったというわけである。
「結婚したときに、男の人と女の人が嵌めるものだよ」
「へぇー、そうなんだ」
「そう。それと、結婚の約束をした時には、男の人から女の人へ『婚約指輪』を渡すんだよ」
もう随分前のことだから、よくは憶えてないけどねぇ。笑って言う登紀子に、志郎もつられて笑った。
「さて、ちょっと待っててね。西瓜を切ってくるよ」
「うん。分かった」
冷やした西瓜を切ってくると言い、登紀子が茶の間から台所へと引っ込む。志郎は「絵描き犬」の頁を開いていた「静都妖怪大全」をパタリと閉じ、裏表紙を見る形となった。
志郎は、ここで少々変わった点に気が付いた。
「あっ。この本、日和田東図書館って書いてある……」
裏表紙には、ビニールテープを貼り付けて補強されたシールの上から油性ペンで手書きされた「日和田東図書館」の文言が見て取れた。表紙共々色褪せているが、表記はしっかりと残っている。この書籍は、元々図書館に収蔵されていたものであったようだ。
件の図書館が、今はどうなっているか。志郎は、それを既に康夫から聞かされていた。大分前──康夫が、中学に上がるか上がらないかという時期だ──に、利用者の減少を表向きの、予算の確保が困難になったことを実際の理由として、閉館・取り壊しという憂き目に遭ったのである。
普通であれば、収蔵されている書籍は引き取られ、別の図書館へ引っ越すなどして続けて利用されるべきであるが、日和田東図書館の蔵書たちはそれすら叶わず、最終的に「本を欲しがっている人に無償で提供する」という形で、村民たちに配布された──そのような話を聞いた記憶があった。
であるから、この本は康夫が図書館から借りたまま返さなかったなどというわけではなく、蔵書が放出された際に、康夫が引き取ったものであろう。本の年季の入り具合が結構なものなのも、納得のいくはなしである。
「あ、貸出カードが入ってる。雨宮めぐみ、西尾りょう、南野やすし、雨宮めぐみ……あっ、また雨宮めぐみさんだ」
入ったままの貸出票には、多くの利用者の名前が書かれていたが、その中でも『雨宮めぐみ』なる利用者は、何度もこの本を借りていた形跡があった。名前から推測するに、恐らく女子であろう。妖怪や物の怪の類に興味を示す女子はさして珍しくもないから、気に留める必要もなかろう。
図書カードの末尾も、やはり『雨宮めぐみ』であった。よほどこの本が好きだったのだろう……
(……あれ?)
はて? そう言えば、康夫は図書館からの蔵書放出の際に、最後の貸し出し者の──
――と、そこへ。
「……(そぉーっ)」
「……あっ。ごめんね、ヒトモシ。急に隠れさせちゃって」
押入れの襖をちょこっと開いて、中に隠れていたヒトモシがひょっこり顔を覗かせた。茶の間の押入れの奥で隠れていたようだ。志郎が手招きすると、ヒトモシは志郎の懐へとぴょんと飛び込んだ。体を撫でてやると、ヒトモシは志郎の太ももにすりすりと顔をこすり付ける。何とも愛嬌のある蝋燭である。
恐らくそう間を置かずに戻ってくるであろう登紀子のことを考え、志郎が次の隠れ場所を思案する。しばし辺りを見回し、志郎の面持ちが変わる。顔つきを見ると、良案が浮かんだようだ。志郎はヒトモシを抱えて、縁側へと向かう。どうやら、縁側の下へ隠す心積もりのようだ。ヒトモシを離すと、志郎はなるだけ奥に隠れるよう言付け、さらに。
「そうだ、ヒトモシ」
「?」
ついでに、こう付け加えた。
「ヒトモシは、すいかって食べられる?」
「!」
――その後、ヒトモシは縁側の下で、志郎がちょくちょく持ってくる切った西瓜を、たらふくご馳走になるのだった。ヒトモシにとって文字通り『甘露』な時間であったことは、ここにわざわざ記すまでもあるまい。
結局、登紀子は志郎が先に寝入るまで面倒を見てやり、もうすぐ日が変わろうかと言う頃になってようやく帰ってきた康夫と義孝と入れ替わるように、義孝の家を後にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。