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六.ミズガミ様の呼び声 - call of begetter -

物の怪たちと池で戯れ、暫く思う存分遊んだあと、志郎とチエは風のよく通る木陰に腰を下ろし、小休止を入れていた。

「チエちゃん、ここ面白いね。池もそうだし、ポケモンもたくさんいるし」

「そうじゃろ、そうじゃろ。おら志郎を一遍連れてきてやりたかったんじゃあ」

「うん、ありがとう。ぼく、すごく気に入ったよ」

「ははっ、熱軍鶏も志郎のことが気に入りよったみてえだなぁ」

いつの間にやら志郎の隣にやってきて、ちょこちょこと戯れ付いてきたアチャモを軽く撫ぜてやりながら、志郎は顔を綻ばせた。そっと拾い上げて抱いてやると、暑さとは違うほんのりした『熱さ』が、じんと体の芯まで伝わってくるようだった。ヒトモシといいアチャモといい、火に絡む物の怪に懐かれる志郎である。

そうかと思うと、今度は頭上に何かが乗っかる感触がした。頭はそのまま視線だけを上に上げてみると、雲のような綿羽をくっつけた青い小鳥、もといチルットが、志郎の頭に座っていた。アチャモを抱えていた左手をそっと離して、ちょこんと乗っかるチルットを撫でてやると、うれしそうに体を振るわせる。人の頭に乗るのが好きと言うから、このまま放っておいてやるのが一番だろう。

物珍しさに、代わる代わる志郎に近寄ってくる物の怪たちの相手をしてやりながら、志郎はふと、チエに話したいと思っていたことがあったのを思い出した。

「ねえ、チエちゃん」

「ん? どしたぁ、志郎」

「物の怪の話なんだけどさ、チエちゃん、『河童』って知ってる?」

この問いかけを受けた、チエの答えはと言うと。

「かっぱぁ? おら胡瓜は嫌ぇだぞぉ」

「きゅうりって……ああ、『かっぱ巻き』のことだね。うーん、それとは、関係あるような無いような……」

チエは「胡瓜が嫌い」と答えた。志郎も言ったがかっぱ巻きのことだろう。あの「静都妖怪大全」には「河童は胡瓜を好む」と書かれていたし、「かっぱ巻き」の語源は河童にあるとも書かれていたので、まったくの無関係ではないのだが。

ともあれ、チエは河童を知らないようだ。これ幸い、とばかりに、志郎がチエに河童についての講釈を垂れ始めた。水に住んでいるところから始まり、不思議な力を持っていること、大の大人も敵わないような怪力を持っていること、大人になると「水神様」と呼ばれて水の護り神となること。登紀子から聞いた話を、丸々チエに教えてやった。

「へぇ、そんな物の怪がおるんかぁ。会ってみてぇなぁ。おらも水辺に住んどるからなぁ」

「そうなんだ。なんか、不思議な力があったり、水辺に住んでたり……河童って、チエちゃんとよく似てるね」

「そうかぁ? やっぱり面白ぇこと言うなぁ、志郎は」

でも、河童なんて知らないよ――それがチエの答えだった。チエがそう言うのであれば、正しいに違いない。

「この池、端から端までかなりあるね。深さも、結構あるんじゃない?」

「そうじゃと思うけどなぁ、おらも底まで潜ったことはねぇなぁ」

「チエちゃんって、池に潜ったりするの?」

「んだ。おら、一遍も息継ぎせずに十分は潜ってられんだぞぉ。息こらえはおらの得意技じゃあ」

「十分も!? それ、すごすぎるよ……」

池の底についての話を出した途端、チエの目の色が変わった。なにやら興味を示したようである。一体何を企んでおるのだろうか。

「そうじゃ、志郎! いいこと思いついたぞぉ」

「いいこと?」

「おらと一緒に、この池の底まで潜るんじゃあ」

「えぇっ!?」

突拍子もない、いやチエは常に突拍子もないことばかりしているが、それはともかく。志郎の声が素っ頓狂に裏返るほど突飛な提案をしてみせた。今から自分と一緒に、池の底まで潜ってみようなどと言い出したのである。チエの瞳はキラキラ輝いている。冗談では無さそうだ。

チエは問題ない。息継ぎ無しで十分も潜っておれるというのだから、水の中でも自由自在に動けることだろう。問題は、志郎のほうである。志郎はチエのような人並み外れた力を持っているわけではないから、そうそう長々と水中で活動できるものではない。

「チエちゃんは大丈夫だと思うけど、ぼくは無理だよ。そんなに長く潜れないし」

「心配すんなぁ。おらがお天道様にお願いして、志郎を潜れるようにしてやるぞぉ」

「ホントに? でも、どうやって?」

「おらが、志郎と水が『仲良く』なれるようにしてやるだぁ。ちと、服脱いでくれんかえ?」

「ふ、服脱ぐの!? ち、ちょっと待って。ぼく、水着に着替えてくるから……」

一言断り、志郎が手提げを持って木陰へ走る。ちらちらとチエの様子を横目で伺うような伺わないような中途半端な確認を繰り返しつつ、志郎は上下の服と下着を脱ぎ去り、水遊びに備えて持ってきてあった水着に着替えた。

戻ってきた志郎に、チエは「お天道様」にお願いするときに見せる、両手を差し出した体勢をとる。その後、両腕を空中で交差させ、目の前にいる志郎に向けて念を送り始めた。志郎は唾をごくりと飲み込み、これから己の身に何が起きるのかを注視していた。

暫くの間は何の変化もなかった。交差させた腕をピクリとも動かさず、チエが瞼を下ろす。何度か深呼吸をして、体の中と外界の「波」を同期させた後、チエが両手の指先を波のように上下へゆらゆら揺らし始めた。指先の動きを追っていると、志郎はチエが送ろうとしている「波」が、頭での理解よりも先に体に沁み込んでくるのが分かった。自然と目を閉じ、成り行きに任せることにする。

人の体のおよそ七割から八割ほどは、水分で成り立っていると言う。余り語弊のある言い方はすべきで無いが、人体と水が密接な関わりにあるということに間違いは無い。チエがそのことを体系的に知っているとは思えぬが、本能的には深いところまで理解しているようだった。

体が宙に浮いていく、これは正確ではない。水の中へ沈みつつ、浮かんでゆく。どちらだろうか。どちらでもない。水の中へ沈んでいくというよりも、水が中へ入り込んでいく。そちらの方が近い。志郎は夢を見ているかのような掴みどころの無い浮揚感に、その身をたゆたわせていた。

チエから送り込まれてくる念波。これは一体何かと考えたとき、志郎は脳裏に、水面を走る波の映像が浮かび上がった。『水の波動』、その言葉が適切に思えた。チエから送り込まれる『水の波動』に体が同期し、己が「水に近しい」存在となっていくのが分かる。

やがて、冷たく心地よい感触が、足のつま先を基点として徐々に徐々に上までせり上がり、内外共にその感覚で満たされた。ここまで来て、志郎が閉じていた目をすっと開いた。

「……よし。これで大丈夫じゃあ。志郎は今、水と仲良しになっただぁ」

「うん……うまく言葉にできないけど、今なら、水の中にも潜れそうな気がするよ」

地に足は着いている、だが、浮いているような感触がする。水袋にでもなったような心地だ。体の具合が変わり、今一つ歩き慣れない志郎の様子を察したチエがさっと彼の手を取り、共に池へと向かう。足から静かに池へと身を沈め、志郎とチエが、池の中へと沈み込んでいった。

 

水の中に入った、という感触は伝わってこなかった。自分自身が水のようなものになっているからに他ならない。地上での歩き辛さとは打って変わって、水中では上・下・左・右・前・後、どの方角に向けても自由に進めそうだった。隣にいるチエが、志郎に向けて笑う。

(どんなぁ具合じゃあ? うまく潜れそうかえ?)

心にチエが直接語りかけてくる。念力を使っているのだろう。志郎は口で答えようとしたが、水中ではうまく声が発せない。どうすればよいか思案したが、実はそれが正解だった。

(口に出さんでも大丈夫じゃあ。おらに言いたいことを思うだけでええぞぉ)

(ぼくの言葉、伝わってる?)

(伝わっとるともぉ。ぜぇんぶお見通しじゃあ)

チエが志郎に流した『水の波動』は、志郎の言葉をチエに伝える、音としての『波動』の意味も持っていた。志郎は頷き、チエと手をつないで池の底へと潜っていく。

中では池の周囲や水面付近では見られない物の怪たちが、至るところに姿を見せていた。墨を垂らしたような堂々たる紋様を持つアズマオウが鰭を揺らしながら悠々と泳ぎ、横ではハリーセンが水を多量に取り込み、小さな体躯を何倍にも大きく見せて威嚇している。近くにいたキバニアが、膨れたハリーセンに恐れをなしてそそくさと逃げていった。

(暗いね、ここ)

(そうじゃなあ。そんな深く潜っておらんはずなんじゃけど)

(水が濁ってるわけでもないし、どうしてだろうね)

まだそれほど深くは潜っていないにも拘らず、周囲に光が届かなくなってきた。水が濁っているわけではない。むしろ、ここまで清らかな水は珍しかろうというほどに、この池は澄んでいた。光が届かぬ理由が分からない。志郎は水中で首を傾げた。

一度も呼吸をせずとも悠々と泳ぎ回るチエに、志郎が心配して声を掛ける。

(チエちゃん。息継ぎしなくて、大丈夫なの?)

(全然平気だぁ。おら水の中の方が好きなくれぇだからなぁ)

(無理しちゃだめだよ。苦しくなったら、すぐに上がろうね)

(志郎は心配しいだなぁ。大丈夫じゃよ)

チエがそう言うのであれば――志郎はこれ以上心配するのは却ってよくないと考え、今は気にしないことにした。

二人は深く潜るのを止めない。チエは自分にも『水の波動』を流し、水圧を文字通り「受け流して」いるようだった。

(おぉ、見てみぃ、志郎)

(わ……あの魚、体が光ってる?)

(『蛍光魚』じゃあ。お天道様の光を溜め込んで、水ん中で光るんだぞぉ)

(そうなんだ……ぼく、初めて見たよ。きれいだね)

光の遮断された水底付近では、さらに独特な風貌の物の怪たちが暮らしていた。チエの言う『蛍光魚』、もといケイコウオ、共に発光しながら並んで泳いでいくネオラント、暗い水中で辺りを照らすチョンチーにランターン。そして、ランターンが照らした先に――

(あ、あれって……!)

――大きな横穴にずんと居座る、大きなナマズンの姿があった。

ナマズンを見た志郎は、思わずぎょっとした。物知りの級友から、「ナマズンは縄張り意識が強く、近づく者に攻撃する」という話を聞いた記憶があったためである。触らぬ神に祟りなし。そうとばかりにそそくさと離れようとしたが、直前になってナマズンがのっそりと薄目を開き、志郎と目を合わせた。

見つめられると目が離せぬもので、水底にでんと鎮座するナマズンとばっちり目が合ってしまう。隣にいたチエは、志郎が一点を見つめて動かなくなったことに気付き、その視線の先を追ってナマズンの姿を見つけた。固まっている志郎に対し、チエは平時通り、興味津々といった面持ちでナマズンを凝視している。気付いた志郎が、慌ててチエに呼びかける。

(のんびりした顔つきだなぁ。物の怪かえ?)

(ち、チエちゃん……! 怒らせちゃまずいよ、早く向こうに……)

(気にするでない、小僧。わしは、別に怒ったりはせんよ)

一刻も早くここを立ち去りたい志郎に、チエは相変わらずの調子で応じる……どうも、チエにしては口調が古めかしいし、声色もまるっきり異なっているような気はするのだが。

(もう、チエちゃん! こんな時に、そんなおじいちゃんみたいな口調で話してないでさ!)

(なぁに言ってんだ志郎。おら爺さんの真似なんかしてねぇぞぉ?)

(えっ? でもさっき、『わし』とかどうとか……)

(おおい、小僧。わしじゃよ、わしわし)

(……ナマズン!? ナマズンがしゃべった!?)

志郎に語りかけてきた声。それは、他ならぬナマズンであった。のっそりと這うように横穴から身を乗り出し、口を開けたままぽかんとしている志郎と再び目線を合わせた。ナマズンは、訳が分からぬといった面の志郎を可笑しげに眺め回し、しわがれた声を心へ流し込み始めた。

(驚いているようであるな、小僧。隣の小娘の方が、どっしり落ち着き払っておるではないか。男児たるもの、いつ何時も沈着さを失うてはならぬぞ。この、わしのようにな)

(ナマズンが……ぼくの心に……)

(鯰の爺さん、おらはチエっていうだ。爺さんも物の怪なのかえ?)

(いかにも見立て通り。その様子では、お前さんは普段から物の怪たちと話をしておるようであるな)

ナマズンは、ある意味当然とも言えるが、チエとも心中で会話していた。とりあえず現状を飲み込むことにした志郎が、軽く水中を縫ってチエとナマズンの間に立つ……立つというと語弊があり、実際には浮いておるのだが、ここは委細を問わず「立つ」とさせてもらおう。

(斯様な場所に遊びに来るとは、案外肝の据わった小童もいるものであるな。よい退屈凌ぎじゃ)

(ははっ、おらに怖いもんなんかねぇぞぉ。なぁ、志郎)

(えっと……ぼくには、それなりにあるんだけど……)

(なんじゃ、情けないのう、小僧。この小娘、チエと言うたか。お前さんもチエを見習うがよい。豪放磊落にして天真爛漫、これぞ小童の鑑であるな。初めから小さく纏まるのが粋と思うておるなら、大腑抜けの大間違いであるぞ)

(うぐ、そう言われても……)

いやいや、チエは容易に真似できるものでもないだろう……二人に探られぬ心の片隅で、志郎が小さく思いを零した。

(そういえば、ナマズンさんは、この池の『ぬし』なんですか?)

(いやいや、わしはこの童ヶ淵に住まわせてもらっている、しがない老いぼれに過ぎんよ)

(爺さん、ここの主じゃないのかえ? おらには一番偉く見えるけどなぁ)

(わしもそこそこは年季が入っておるがな、ミズガミには敵わぬよ)

聞きなれぬ名前に、志郎が鸚鵡返しで問い掛けた。

(ミズガミ? 誰ですか? その、ミズガミっていうのは……)

(知らぬのか、小僧。この童ヶ淵を護っておる物の怪じゃよ。わしも力では引けを取らぬが、あやつは不可思議な力を使う。物の怪というより、神様に近い存在であるな)

(うわぁ、なんだかすげぇのがいるみてぇだなぁ。おら、会ってみてぇなぁ)

(悪いことは言わぬ。止めておけ、チエ。ミズガミは人を好まぬ。連れ合いを亡くしてからは、特にな)

(連れ合い……もしかして、好きな人がいたんですか?)

(なんじゃ、意外に知りたがりな小僧であるな。やはり小童はこうでなくては。とは言え、わしもあやつが連れ合いと一緒にいるのを目で見たわけではないがな。わしの周りに、あれこれと噂を持ってくる小間使いがいるんじゃよ)

(そういうことなんですか……)

(噂話でよければ、お主らにも一つ教えてやろう。小間使いが言うには、この池に入水しようとしたところをミズガミが引き止めて、それから二人で連れ合うようになったそうな。羨ましい話であるよ)

話好きのナマズンから、『ミズガミ』についての面白い話を聞くことができた。自害しようとした相手を引きとめ、そのまま結ばれたというのである。真実かどうかは定かではないが、与太話の一つとしては面白かろう。

(ありがとなぁ、鯰の爺さん。また、遊びに来てもええかえ?)

(いつでも構わんよ。わしはこの通り、暇を持て余しておるからな)

(分かったぞぉ。それじゃ、おらたちそろそろ行くだ)

ナマズンにひらひらと手を振り、チエが去っていく。

(ナマズンさん、ありがとうございました。じゃあ、ぼくもこれで……)

(待てい、小僧)

続いてチエを追いかけようとした志郎だったが、後ろからナマズンに呼び止められた。

(えっ? あの、何か……)

(よければ、後でチエとやらに伝えておいてくれぬか。その心意気は大いに気に入った、また遊びに来て欲しい。じゃが――)

口元ににいっと笑みを浮かべて、ナマズンが志郎に言付ける。

(――わしは、こう見えても爺さんではなく婆さんだ、とな)

思わぬ告白をしたナマズンを前にして、志郎はその目を真ん丸くせざるを得ないのだった。

 

ナマズンの爺さん……ではなく婆さんと別れたチエと志郎は、水中の探索を続ける。潜ってからそろそろ五分が経とうとしているが、チエはまるで変わらず楽しそうに泳ぎ回っている。志郎に流した『水の波動』もまったく揺らぐ事無く、二人は池の中を泳ぎ続けた。

――そうして、暗い水中に時折現れる物の怪たちと戯れながら、志郎とチエが泳ぎ続けていたときのことだった。

(志郎、向こうが光っとるぞぉ)

(本当だ。赤い光だね)

池の底の、さらに窪んだ「奥底」とでも呼ぶべき場所。赤い――いや、紅い光が見えたのは、そこであった。ケイコウオやチョンチーの光にも既に慣れっこになっていた二人は、それまでにない「紅い光」に強く興味を惹かれた。何やら怪しげで、他とは違う匂いを芬々と漂わせている。

好奇心、という名前の紐に引き摺られ、志郎とチエが「奥底」を目指す。紅い光は初めて目にしたときから一瞬たりとも消える事無く、二人の前で煌々と輝き続けている。あれは一体何なのか。見たことの無い物の怪のものではなかろうか。二人は、紅い光の直ぐ近くにまで接近した。

泳ぐのを止め、志郎とチエが紅い光の前で動きを止める。紅い光は池の底、その奥に位置する洞穴から発せられていた。

(なんだろうね、あれ)

志郎がチエに問いかけた。チエにも分からぬと見えたが、見知らぬものを見てあれこれと仮説を立てるのは、往々にして面白いものであると――

(……呼んどる……?)

(……チエちゃん?)

――そのように考えていた最中のことであった。

(おらのこと……呼んどるのかえ……?)

(チエちゃん? どうしたの?)

様子がおかしい。チエの目つきが違う。志郎はチエの側まで寄り、様子を窺う。

(……い、いやじゃあ……おらの、おらの……)

(ち、チエちゃん? 大丈――)

直後。

(おらの……おらの中に入ってくるでねぇ!!)

――チエが、水中でもがき始めた。

(チエちゃん!? チエちゃん!)

(いやじゃあ、いやじゃあ……! やめとくれぇ、やめとくれぇ!)

(一体……一体どうしちゃったの!? チエちゃん!)

じたばたと暴れるチエを抑えようと、志郎がすぐさま近づく。とにかくチエを捕まえねばと、両手を差し出してチエを抱き込もうとする――だが。

(う……わっ!? し、痺れる……!?)

チエの体に触れた途端、毛が逆立つような電流が、志郎の全身を駆け抜けた。思わずチエから手を離す。今のは一体なんだ、静電気か何かか。先の現象は、志郎の理解を超えていた。ともかく言えるのは、チエが尋常ならざる状態に陥っているということだけだ。

もがくチエを横目で見ながら、志郎はあの「紅い光」に目をやった。紅い光は、先程見たときよりも一際輝き、見たことも無いような不気味な波動を発しているように思われた。直感的に、チエを苦しめているのはあの「紅い光」であると、志郎は考えた。あれを覗いて、近くに要因となりそうなものは何一つとして存在しない。

異変はチエだけに留まらなかった。隣にいた志郎も、頭がズキズキと痛み始めるのを感じていた。チエのときと同じ、あの不快で苦痛な、出所の分からぬ頭の痛みだ。あれに輪をかけて強い痛みが、チエのときと同じ間隔で志郎を襲う。苦痛に顔を歪めつつ、志郎はチエの声に心を傾けた。

(離しとくれぇ! おらを縛って、なんになるんじゃあ!)

(おらはおめぇのことなんて知らねぇぞぉ! だから、だからやめとくれぇ!)

縛られている、とチエは言った。縄や綱の類は見えぬから、本来の意味で「縛っている」わけではあるまい。そうなると真っ先に思い当たるのは、所謂「金縛り」の類か。志郎がチエに触れた直後に痺れが走ったのは、チエに掛けられている「金縛り」の霊力が漏出していたから――そのように考えられた。

鼓動が高鳴る。目の前で、チエがもがき苦しんでいる。志郎は何をどうすればよいのか、頭が真っ白になった。

(どうして、どうしてこんなことをするんじゃあ!)

(そんなの……信じねぇぞぉ! おらは……おらのおっ母は……!)

次の瞬間、苦しそうに胸を押さえながら、チエが体を丸め、口から大きなあぶくを吐き出した。恐慌状態に陥って、止めていた呼吸を無理に再開しようとした結果だった。このまま放っておけば、チエがどうなるかは――考えずとも、既に「目に見えて」いる。

真っ白になった志郎の頭に、畳み掛けるように飛び込んできたもの、それは。

(志郎、志郎、志郎……! おら、苦しいだぁ……)

(息が……おら、息できねぇ……!)

チエの悲痛な叫び。前後不覚に陥っているチエが、志郎に伝えようとしたものだ。チエの瞳はぼんやりと濁り、四肢は力なく水中に投げ出され、口から出てゆく泡は、だんだんとその数と分量を減らしてゆく。

志郎はチエの言葉を心に叩きつけられ、他のありとあらゆるすべての考えが粉微塵に消し飛び、ただ、チエのことだけしか考えられなくなった。

ただ――チエのことだけしか。

(だめ、だぁ……おら、もう、力が入らんぞぉ……)

チエ……

(苦しい……もう、息が、止まっちまいそうだぁ……)

チエ、チエ……

(助けてくれぇ、志郎……志郎、志郎……!!)

チエ、チエ、チエ、チエ……

(お願いだぁ……おら、このままだと――)

チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ……

(おら――死んじまうだ……)

チエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエ――! 

(――チエっ!!)

猛然と水を蹴飛ばし、志郎がチエに突撃した。「紅い光」からチエを奪い取り、冷たくなり始めたチエの体を抱き抱えた志郎は、直後、寸分の迷いも無く――

 

(チエ! 目を覚まして!!)

(……!!)

――チエに、口付けた。

 

青紫色になったチエの唇を舌でこじ開け、志郎が口を覆いかぶせる様な体勢を取った。気を失いかけていたチエが、志郎の口付けで目を覚まし、文字通りの「眼前」にいる志郎を目を見開いて見つめる。志郎は優しい目でチエを見つめ、ゆっくりと、口から呼気を吹き込んだ。

チエの気管に、志郎から送り込まれた空気が流れ込んでいく。呼吸ができなくなっていたことで機能停止寸前にあった器官が、これまた文字通り「息を吹き返し」、徐々に徐々に落ち着きを取り戻していく。乱れていた脈は、やがて安定した律動で血液を送り始め、冷たくなっていた四肢が熱を取り返していった。

自然とチエも息を吐き、志郎に送り返していく。一方が息を吸うともう一方が吐き、一方が吐くともう一方が吸う。二人は一つとなって、三度文字通り「呼吸を合わせ」る。何度か繰り返すと、チエは完全にその意識を取り戻した。濁っていた瞳は輝きを、浮遊していた四肢は力強さを、絶え絶えになっていた呼吸は規則正しさを、それぞれ蘇らせた。

(志郎……志郎……!)

(もう大丈夫だよ、チエ。ぼくが、側にいるから)

(……うん。志郎、ありがとぉなぁ……)

ここは池の中、即ち水中。例え涙を流したとしても、それは直ちに池の水と入り混じり、姿を影も形も留めない。だからこそ……涙を流すには、都合のよい場所とも言えた。

チエを救って見せた志郎の姿を、「紅い光」はじっと見つめ続けていた。

(……触るな。これ以上、チエに触るな)

(触ったら……ぼくが、お前を許さない)

志郎は、横目でギロリと「紅い光」を睨み付けた。平時の温和な姿からは欠片も想像もできぬ、「殺意」に近い強烈な敵愾心を帯びた鋭い瞳だった。

だが、その瞳もひとたびチエを捉えると、今度はまた平時からかけ離れた、途轍もなく優しいものへと変貌する。チエはすっかり安心し、しっかりと呼吸を整えた。

(……志郎、捕まっとってくれんかえ)

(これから、何かするつもり?)

(おらがここから、一気に水面まで上がるんじゃあ。志郎、体を預けてくれえ)

(分かった。チエに、みんな任せるよ。さあ、始めて)

チエに全幅の信頼を寄せる志郎の瞳をじっと見つめた後、チエが志郎との口付けを止め、視線をわずかに光の見える水面へと向けた。目指すは、あの光の向こう側だ。志郎はチエの雨合羽に両腕を回してしっかりとしがみ付き、チエが上へ動き始めるのを待っている。

両目を閉じ両腕を重ね両足を絡めあい、チエが無音で念を唱えた――その直後。

(……!!)

絡めあった両足が水を強かに蹴り、チエと志郎が水面へ向けて一気に上昇していく。ぐるぐると渦を巻き、水をえぐるような動き。それはさながら、地面から大空へと飛び立つ『ジェット』の如く。チエは志郎を抱え、一心に水面を目指す。

(ぐっ……!)

(もう少しじゃあ……堪えてくれ、志郎……!)

チエの掛けた「水の波動」の効力が切れたのか、志郎が顔を歪める。水と近しい存在であった時間は終わり、今の志郎は、最早ただの生身の人間でしかない。チエは志郎が気を失わぬように念力の膜で保護してやりながら、あくまで上へ上へと突っ切っていった。

水底から「離陸」してから、およそ二十秒後――。

 

『ぷはぁっ!!』

 

二人が、一思いに水面から顔を出した。止めていた息を一気に吐き出し、自由に息が吸えることを確かめる。

「はぁっ、はぁ、はぁ……」

「はあ~っ、はっ、はぁっ……」

あの瞬間から二十秒近く息を止めていたものだから、今度は志郎が倒れそうになる有様だった。顔面から少しばかり血の気が引き、いつもにも増して色白になってしまっている。チエはチエで、水底から一気に水面まで上昇する為にかなりの力を使ったようで、こちらも疲労の色が激しい。

水面近くをたゆたい、十二分に呼吸を整えた頃になってようやく、二人が顔を見合わせた。

「チエ、大丈夫?」

「志郎こそ、大丈夫かえ?」

「ちょっと息苦しかったけど、もう大丈夫。チエのおかげだよ」

「おらも……志郎のおかげで助かっただぁ。ありがとなぁ、志郎」

今こうして「口」で会話できる喜びを、二人は揃って噛み締めた。水の中では、こうは行かぬ。

「でも、チエはすごいよ。あんなに深いところから、一気にここまで上がって来れるなんて」

「『水推進』(すいすいしん)の業じゃあ。水ん中で体を捻って、道をこじ開けるって寸法だぞぉ。ちと力がいるけどなぁ、うんと速く進めるようになるんじゃあ」

「ありがとう、チエ。無理させちゃって、ごめんね」

「何の何のぉ。おらにとっちゃあ、こんくらい朝飯前じゃあ」

危機はもう過ぎ去ったのだ――二人は笑いあいながら、岸に向かって泳いでいった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。