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七.斜陽 - happiness and madness -

先程まで休息を取っていた木陰で、濡れたおかっぱ髪を日なたで乾かしたチエと、元の服に着替えた志郎が、大樹に寄り掛かって休んでいた。物の怪たちは皆どこかへ行ってしまったようで、ここにいるのは志郎とチエの二人だけ。夏場にしては涼やかな微風が、池の中の大冒険で疲労した体を、ささやかではあるが癒してゆく。

志郎が時折左手に目をやると、穏やかな面持ちのチエがいた。チエは、いつも志郎が見つめ始めてから一拍遅れて、じっと此方を見つめる志郎に目線を返してやる。このような、傍から見ると何もしていないも同然のようなやり取りを、志郎もチエも飽きもせず繰り返していた。

池から上がった後、チエは志郎に「紅い光に『見つめられた』瞬間に、体が動かなくなった」と答えた。志郎の見立ては、ほとんど間違えようが無かったとは言え、合っていたわけだ。志郎が感情を爆発させてチエに飛び掛っていなければ、今頃どうなっていたことか。想像は簡単に付くが、したくもない。

「あの時、どんな感じだった?」

「おらもよう分からん。ただ、『こっちへ来い、こっちへ来い』って、しつっこく繰り返しとったのは憶えとる」

「そうやって、自分のほうに招き寄せていたんだね……」

「きっと、そうじゃろう。おらのこと取って食おうと考えとったのかも知れん」

恐慌状態に陥っていたせいか、チエは「紅い光」に縛り上げられた時のことを、すべては憶えていなかった。部分的にしか記憶は残っていなかったが、しかし、残っていた滓のような箇所だけでも十二分に恐ろしかった。そうであるから、皆まで覚えていなくて逆によかったのかも知れぬ。

チエが言うには、「紅い光」はチエに「こっちへ来い」と呼びかけていた、という。だが、チエは「紅い光」など知っている筈も無かった。知っていれば、わざわざ近寄るような真似はすまい。ああだこうだと可能性を並べることはできるが、答えは池の底。届くことは無かろう。

「とにかく、無事でよかったよ。ぼくも、チエもね」

「そうだなぁ……志郎が、おらに口付けてくれんかったら、おら沈んじまってただぁ」

「う、うん……ごめんね、あの時は、ああするしかなかったんだ」

「なぁにを謝ることあるんじゃあ。おらは、初めてが志郎で良かったと思っとるんだぞぉ」

「……~っ!」

平気な顔をして爆弾発言を積み重ねるチエを前に、志郎はまるで形無しであった。火事場の馬鹿力でもって、呼吸困難のチエに口付けた瞬間は随分勇ましかったが、それからはまた元の志郎に巻き戻ってしまったようだ。いつも通り、チエがどんどん押してぐいぐい引っ張る構図である。

「それと、志郎。おらのこと……」

「チエのこと……? どうしたの?」

「『チエ』、って呼んでくれるようになったんじゃなあ」

「……あれ? 言われてみると、確かに……」

「なんじゃあ、気付いとらんかったんかぁ。ははっ、細けぇところで鈍いなぁ、志郎は」

チエは、志郎が自分のことを「チエちゃん」ではなく「チエ」と呼ぶようになっていたことに気付いていた。あの瞬間からだ。呼称から「ちゃん」が外れただけのこと――表向きはそうであるが、実際のところの意味はまるで違う。距離が大きく縮まった証だ。

どぎまぎしていた志郎であったが、ふぅ、と一息入れて呼吸を整え、こくりこくりと二度ほど頷いた。チエの言葉を受け入れ、理解したようだ。

「そうだね。なんか、呼び捨てのほうが……心が通じ合ってる気がするよ」

「おらは、初めっから呼び捨てじゃったけどなぁ」

「チエはそういう性格だから、それでいいよ。ぼく、結構人見知りしちゃうから」

「人見知りはよくねぇぞぉ、志郎」

ごく普通の少年・志郎と、雨合羽の破天荒な少女・チエ。何もかもあべこべで、悉くちぐはぐな二人だったけれど、心が通じ合っているというのは間違いの無い事実だった。最初からこうなる事が決まっていたように、二人はうまく噛み合っていた。

それで、よかったのだ。凸凹で、けれど憎からず想いあっている少年と少女。二人の間柄は、それでよかったのだ。

それで――よかったと言うのに。

 

夕暮れ時。そのまま、なんとは無しに時間は過ぎて。

「いろいろあったけど、楽しかったよ、チエ」

「おらもだぁ、志郎」

二人は森を抜け、いつもの別れ道まで辿りつく。落ち行く夕陽を眺めながら、チエが志郎に語りかけた。

「志郎」

「分かってるよ、チエ。指きりだよね?」

「ははっ、もう言わんでも分かるかぁ」

いつものように小指を絡め合わせ、志郎とチエが揃って拍子を取る。

「行くよ。せーのっ……!」

「ゆーびきーりげーんまーん……」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」

「ゆーびきった!!」

指きりを終えたチエの表情は、とても満足げなものだった。左手を広げて、指の一本一本をしげしげと眺めながら、しきりにこくこくと頷く。

「ありがとなぁ、志郎。これで、明日も一緒だぁ」

「約束だからね。明日も、必ずチエのところへ行くよ」

「ははっ、おらの親指と小指は宝物だぁ」

「親指と親指?」

唐突に「親指と小指は宝物」と口にしたチエに、志郎が率直な疑問を即座に投げかけた。きょとんとした表情の志郎に、チエが説明を始める。

「んだ。小指は志郎との約束で、親指は――おっ母との約束だからだぁ」

「お母さんとの?」

「そうじゃあ。おっ母が出て行くときに、おらとおっ母で親指を引っ掛けて、親指で指きりをしたんだぞぉ。おっ母が『必ず帰ってくる』って、おらに約束してくれたんじゃあ」

親指は、チエが母と交わした約束の証だった。親指でもって、志郎とチエがいつもしているような「指きり」をして、母が必ずチエの元へ戻ると約束したわけである。小指は志郎との、親指は母との約束。一人ぼっちのチエが「宝物」と言うのには、明確な理由があった。

チエを少し上から見下ろす形の志郎は、チエが三年も戻らぬ母との約束を信じている様を見て、例えチエの母がこのまま永劫帰らなくとも、己が約束を守り続けることで、チエに希望を持たせてやれるのではないか、チエの側にいてやることが、チエにとって救いになるのではないか。志郎はそう思案した。

我ながら、随分とこっ恥ずかしいものだ。志郎はチエに対して一方ならぬ思いを携えつつも、併せてそのような感情に対して、青臭いものだと嗤う己自身も同居していた。感情の板挟みを喰らった志郎は、夕陽が照らすから悪いのだなどと言い訳し、微かに赤面するのだった。

「大丈夫。チエのお母さんは、必ず帰ってくるよ。それまで、ぼくが側にいるから」

「志郎……ありがとなぁ。おら、志郎のこと頼りにしてんぞぉ」

志郎が、思いをそのまま言葉にして伝えた。嗤いたければ嗤え。ぼくは、チエと一緒にいるんだ。本音が体裁を蹴り飛ばし、素直な言葉を口にすることができた。この方がよい、下手に体裁ばかり取り繕った所で、何の益もない。志郎は、照れ臭さをねじ伏せた。

二人が視線を交わし、そろそろ別れの時間――互いに、そう認識し始めていたときだった。

「くわばら、くわばら。危うくあのもの狂いに絡まれるところじゃった」

志郎が使う帰り道のほうから、見ず知らずの壮年の男が、ぶつくさと一人呟きながら、志郎とチエの立っている別れ道のほうへ向かって歩いてきた。二人が声の発せられた側へ向き直り、その姿を確かめる。

男は、義孝と康夫の丁度中程の歳頃に見受けられた。髪の薄くなった禿頭を頻りに撫で回しながら、よたよたとした足取りでもって道を歩いている。腹は大きく出っ張っており、歪んだ面構えも相まって、こう言っては狸に失礼であるが、「狸親爺」という言葉を人の形に置き換えたような男だった。

志郎とチエが、のしのしと少しばかりだらしない足取りで歩いてくる男を眺めておると、進む道の先に二人がいることに気づいた狸親爺が、二人の姿を濁った目に入れた。

「ん? お前は……」

声を上げた男を前に、志郎とチエが思わず身を固くする。男が二人に絡んでくるとは、思いもしていなかったためである。立ち止まった男の姿を凝視しながら、志郎とチエが互いの身を寄せ合った。

「おっ、お前……!」

「なんじゃあ、お前ぇ。おらたちになんか用かあ」

チエが警戒心を露にした声を上げると、狸は額にじっとり冷たい汗を浮かべ、

「し、知らんぞ! お前んことなぞ、知らん知らん! あやつが勝手に決めたことじゃ、わしゃ知らんぞ!」

狼狽え声を裏返しながら、狸親爺は元来た道を引き返し、その場から逃げるようにして……というより、そこから慌てて逃げていった。腰を抜かしそうになりながら逃亡する男に、志郎もチエも揃ってさっぱり分からぬとでも言いたげな面持ちを見せた。

見ず知らずの不審な親爺に絡まれそうな二人であったが、親爺が何か汗を垂らしながら勝手に逃げていったために、結局関わらずに済んだ。二人が顔を合わせてほっと息をつく。

「何だろう? あの人」

「知らねぇ。でも、怪しいのは間違いねぇだ」

「そうだね。絡まれなくてよかったよ」

「ははっ、おらに恐れを成して逃げちまったんだなぁ」

それから、二人はいつものように別れ、各々の道を歩いていった。

 

義孝の家まで戻ってきた志郎がまず目にしたのは、開け放たれたままの玄関の硝子戸と、乱雑に脱ぎ捨てられた一揃いの靴であった。健治のものだ。志郎は少々うんざりした面持ちで、玄関を避けて縁側の方へと向かう。健治と顔を合わせてはならぬ。関わらぬ方が良い結果を齎すものは多いのだ。

縁側から和室に上がり、麦藁帽子を取って畳に胡座をかく。襖一枚隔てた茶の間の側では、例によってと言うべきか、健治が声を張り上げて康夫と義孝に喚き散らしていた。

「どういう領分だ、あの鬼畜に何故敷居を跨がせたッ」

「話をする必要があったからだ。事務的な話だ」

「僕は理由など訊いていない、あまりにも馬鹿げているッ」

例によって、と記したが、これは撤回させて頂く。健治の剣幕は、平時の比ではなかった。その口振りはさながら凶器の類を縦横無尽に振り回す物狂いの様相で、康夫も義孝も文字通り手がつけられぬといった有様であった。ドンドンと卓袱台を叩く音の出所も、勿論健治であろう。

隣の部屋で息を潜める志郎は、必然的に健治の狂騒じみた言の葉の数々を耳に入れることと成った。

「だいたい、何もかもがおかしい。僕が正義である為に、皆が寄って集って僕を陥れようとしているッ」

「そんな事はない。誰も、お前を嵌めようなどとはしていない」

「『めぐみの雨』などという言いぶりがそもそもおかしな話ではないか。どのように言い繕っても、あれが只の狐憑きだったことはごまかせないのだぞ。分かっているのかッ」

「ごまかそうとか、そういうのとは違う。断じて違う」

「違わないぞ。あのせいで、あの出来事のせいで、獣の真似事をしていたとか、池の周りを徘徊するようになったとか、気が触れたかのように言われている。もううんざりだ。こんな不憫なことが、あってたまるかッ」

「健治。無責任な世間の物言いを、いちいち真に受けるんじゃない」

「僕は戦うぞ。今ではもう、雨を見る度に涙を流すだけの廃人になってしまった。それもこれも、皆あの畜生の、糞ったれの穀潰しの、剛三の責任だ。あいつに責任を取らせるのが、僕の義務だ、使命だ、天命だッ」

「健治、少しは落ち着きなさい」

義孝が諫める声も、頭に血が昇った健治には一向届く気配を見せない。健治は憤怒の炎を燃え滾らせ、矢継ぎ早に康夫と義孝に激しい言葉の釣瓶打ちを浴びせた。

「大体だ。地主如きに何の権限がある。生まれの血だけでのさばっている、役立たずの碌でなしでしかないではないか。そのような屑に、婚前の大事な娘を三夜も委ねるとは、何たる悪習か。これは罪だ、大罪だッ」

「悪い風習だったということは、皆もう分かっている。二度と起こる事はない」

「既に起きたことにはどう落とし前をつけるのだ。まだ清算はされていないぞ。そもそも、男と女の情のことではないか。何故縁もゆかりも滓ほどもない、あの男がしゃしゃり出て来るのだ。合点のいく説明をしてみよ。できぬではないか。こんな茶番で丸め込まれていたような頃は、もうとうに過ぎたのだッ」

「あれは皆が間違っていたのだ。だから……」

「だから何だというのだ。知った風な口を利くな。いいか、今に見ていろ。この日和田の有様を、僕が洗い浚い表沙汰にしてやる。剛三に言い逃れなどさせぬぞ。僕はあの色狂いの獣と刺し違えてでも、正義を貫いてやるッ」

「表沙汰にして、苦しむのは山科だけではないのだぞ」

「道連れだ。道連れにしてやる。物の怪たちのように、死に際に仇敵を道連れにしてやるんだ。剛三の、あの腐れ外道の心の臓を抉り出して磨り潰してやらなければ、魂の行き場所がないッ」

いつに無く気を吐く健治に、志郎は背筋が寒くなる思いがした。健治の言葉が尋常でないものになっているのは、誰が見ても聞いても明らかであった。怒り狂う、という言葉がここまで相応しい様相もあるまい。意味はほとんど分からなかったが、時折飛び出す「道連れ」「死に際」などという言葉からも、健治の精神状態が均衡を欠いているのは嫌というほど判った。

「僕がこうして手を打ったから、剛三は慌てて何もかも『水に流そう』等と浅知恵を働かせている。そうは行くものか、僕があの糞ったれの画餅に墨を塗りたくってやる。絶対にだッ」

「それとこれとは話が違うと、前々から何度も言っているではないか」

「都合が悪くなったから、何処の馬の骨とも知れぬ都会の阿呆共の尻馬に乗って何もかも無かったことにしようなど、馬鹿の極致だ。水溜りなどこんなところに作らずとも幾らでもある。なんとしても阻止してやるんだッ」

「どうして分からぬのだ。そんなことをしても、何もならぬ」

「僕の心は満たされる。一矢報いてやらねばならぬのだ」

「健治、お前はどうして分かってくれぬのだ。必要なのは、もうこれ以上ことを荒立てないことだろう」

「兄さん、兄さんには分かるまい。どれだけ大切であったか、どれほど心を通わせていたか。同じ屋根の下に、ずっと一緒に居たんだ。だから僕は誓った。この身を捧げようと、滅私奉公に努めようと。もう一度笑顔を取り戻せるのは、僕しか、僕しかいないんだッ」

「健治」

「あのような目に遭わされて、平常でおれるか。兄さんは何も分かっていない。馬鹿に平然としている、体面ばかり繕っている。兄さん、あいつは、兄さんの――」

「いい加減にしろ、健治。今日はもう帰れ。これ以上触れてくれるな」

珍しく語気を荒げた康夫に、志郎はまるで己ばかりが取り残されたような心持で、不安ばかりが募るのだった。

(ああ、早く明日にならないかな。そうすれば、チエと一緒に遊べるのに)

思い浮かぶのは、当然と言うかやはりと言うか、チエの姿だった。家にいる時間とチエと共にある時間は、あまりにも対照的で違いがありすぎる。チエと一緒であれば、己の立ち位置に困ることなどない。チエは自分を慕い、そして自分はチエと一緒にいられることを純粋に喜べる。ややこしいことは、皆忘れられる。

明日になれば、またチエと遊べる。この家に居らずに済む。一刻も早く陽が落ち月が昇り、そして次の日が訪れればよいというのに。志郎は和室で息を潜めながら、只々時が過ぎるのを待ち続けた。

暫く間を置いて、健治が漸く出て行ったようだ。志郎がそのまま畳の上で寝転んでいると、すーっ、と襖が開いて、義孝が和室に顔を出した。志郎は起き上がり、軽く身なりを整える。

「お帰り、志郎」

「ううん、大丈夫だよ。叔父さん、もう帰ったの?」

「ああ。待たせてすまないね」

志郎はほっと息を吐くと、転がしていた手提げを手に取り、茶の間へ戻った。

晩飯に出された鯛飯と鯛の活け造り、そして粗汁を掻き込む様に食べ終え、軽く風呂を浴びて汗を流すと、志郎は昼間の出来事の疲れもあって、そのまま倒れこむように布団に入ってしまった。

「このままでは埒が明かない。堂々巡りだ」

「もうここに作るというのは決まっているのに……反対しておるのは、健治だけだ」

「悪い方へ転がらぬようにしなければ……」

未だ深刻顔で話し合う康夫と義孝の声は、夢へと落ちてゆく志郎にはもう届かなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。