くそみたいな雨は朝になっても止まなくて、薄暗い空に連動するみたいに気持ちもくさくさして。朝から公開のバトルフィールドへ出かけて行って、賞金を懸けた野試合に参加する。うちにしてみれば食い扶持を稼ぐための大事な仕事ってわけ。
「行って! ミナ!」
「がんばろ! アクアリル!」
ミナをフィールドへ繰り出す。向かい側に立ってるのは一つか二つ年上の女子学生トレーナー、たぶんポケモン部所属。出て来たのはマリル、ニックネームはアクアリル。でんき対みず、晴れてればうち有利だけど、絶賛降ってる雨を活かされるときつい。先手必勝しかない、ミナもそれを分かってるみたいだ。右手を下に向けて相手を指す、「でんこうせっか」のサイン。ミナがすっ飛んで行った。
こっちの「でんこうせっか」に向こうのアクアリルがどう応じて来たか。似た、っていうか同じ考えだったっぽい、「アクアジェット」をぶっこんできた。ミナの「でんこうせっか」とアクアリルの「アクアジェット」。技の威力はだいたい同じ、どっちも得意技、違いがあるとすればアクアリル――マリルの特性。すっげえ物騒だよな、単にパワーが二倍になるとか。それに雨降りでこっちはテンション駄々下がり、向こうは爆上がり。
「うきゅーっ」
「ああっ、ミナっ!」
結果は火を見るより明らか。向こうの勢いが勝ってミナがぶっ飛んで行く。倒れたミナをボールへ戻して試合終了。一敗。グッバイ二千円。
ミナが負った傷を回復させてから、気を取り直してもう一戦。今度の相手は年下の男子、相方はピジョンだ。雨が降ってることのアドバンテージはたぶんない、イーブンって言えばイーブンだ。でんき対ひこう、相性はやっぱりこっち有利、今回はイケるかも知れない。
「行ってきて! ミナ!」
「戦うよ! ライティ!」
ライティ、と呼ばれた相手のピジョンを見据える。よーしここは一発得意の「10まんボルト」で――って、向こう速っ!? 何が何だか分からないほどのスピードで体当たりされて怯まされて、そこからの「かぜおこし」「たつまき」「エアスラッシュ」の猛連打。とてもじゃないけど発電してる場合じゃない、立ってるのがやっとって言うか、じりじり後ろへ追いやられてる。攻撃することなんてとてもできなくて、文字通りの防戦一方。風が強すぎてうちも飛ばされそうだ。勢いを増した雨粒が顔に当たって痛い。
雨粒が飛んできて痛い、とか言ってたら、立ってられなくなったミナが飛んできて顔にべちゃって当たった。いってぇ! うちが鼻を押さえて痛がる、もちろんミナもノックアウト。ああっ、やりすぎちゃった、ごめんね。年下の男子にこんな風に言われるとか情けない以外の何者でもない。ホント、心の底からそう思う。
「ぅきゅう……」
「ミナー、しっかりしっかり」
目をぐるぐるに回してるミナを軽く揺する。こりゃダメだ、もう戦えない。降参のサインを出して試合終了。二敗。さよなら二千円。
一度ポケモンセンターに戻ってミナを休ませて、ついでにうちも買ったメロンパンを食べて一息入れる。飲み物なしでメロンパン食うのって地味にツラい。けど自販機でなんか飲み物買うとそれだけでまたおカネ減っちゃうし、なんとか押し込まないと。マジでいろいろきっつい。
午後になってから三戦目。今度の相手は小学生四人組。相手になるのはその中の下から数えて二番目におとなしそうな女子。序列はうちが勝手につけた。さあ掛かってこい、と気合いを入れる。
「やって! ミナ!」
「行くよ! イフリーティ!」
ハイパーボールから飛び出してきたのはアチャモだ。うちもよく知ってるポケモン、ホウエンで見込みのある新人トレーナーに渡されるって話を聞いたことがあるから。ってことはあの子はホウエン出身? でもそれっぽくない、喋りが内地の訛ったやつじゃないし。ムロはホウエンだけど他のところから離れすぎてて文化とかがかなり違ってる。言葉はトウキョシティ辺りのそれに近くて、ホウエンの色がほとんどない。口を開いても田舎くさいって思われないのは小さいけど小さくないアドだ。
うちのミナと、女子の繰り出したイフリーティって呼ばれたアチャモが見合う。ミナがやる気を見せてる、これは多分相手が♀だから。♂の時も手を抜くわけじゃないけど、相手も同性だって分かるとやる気が一割増になる。でんき対ほのお、タイプ相性は五分五分。だけど雨降りを考えると、炎技メインの向こうが若干不利なはず。そこを突かない手は無い。なんでもいいから勝ちたかった。
「ミナ!」
人差し指をイフリーティへ向けて、地面からなんか掘り起こす感じのジェスチャーを送る。うちとミナの隠し玉・それは「なみのり」。ミナみたいなエリキテルは泳ぐのもうまくて、そのテクを磨くとちょっとした波をなんでもない所から起こしたりできる。ほのおポケモンのアチャモには覿面に効くこと間違いなし、雨で威力も倍増だ。今度こそ勝った、うちは確信した。
「来た! イフリーティっ、『まもる』!」
「ええっ!?」
イフリーティがにやりと笑うのが見えた。波に乗って突撃するミナを見ながら、その攻撃を完璧に防いでみせた。ノーダメージの無傷、イフリーティはピンピンしている。思いっきりアテが外れて動揺するうち、それからミナ。けど、けどアレだ、あの手の技は何回も連続で使えるものじゃないって知ってる。だからもう一回、もう一回繰り出せば――!
「ちゃもーっ!」
ドキッとした。イフリーティの雄たけび、見ると軽快にステップを踏んで、見違えるほど速い動きで距離を詰めて来た。対応しなきゃ、でも……どうやって? 何を繰り出せば勝てるんだ? 一瞬の逡巡が明暗を分けた。
「そこっ! 必殺・よいこ辻斬り!」
何がよい子だよ!? 辻斬りって普通に犯罪じゃねえか! うちのツッコミはとどかず、イフリーティはすれ違いざまにミナを鋭い嘴で切り裂く。
「からの……決まり手・よいこけたぐり!」
ブレーキを掛けたイフリーティがシュッと振り返って、よろめいたミナに猛烈な「けたぐり」を叩きこんだ。思いっきりすっ転ぶ。効果は抜群だ。ミナは倒れた。うちに出せるポケモンはもういない。試合終了。
三敗目。今日だけで三敗した。三敗っていうか、惨敗っていうか。韻を踏んでどうする。どうもしない、どうしようもない。
「かよ子ちゃん、綺麗なコンボだったね!」
「よい子辻斬りっていうネーミングセンスはどうかと思うけどな」
「ええやん、ツッコミどころを残すのは立ち回りの基本やで? そこを狙った相手を仕留めるっちゅーわけや」
「イフリーティのおかげだよ! じゃ、コレでさっきのかき氷食べに行こっか」
待ってろ氷のモンスター♪ 目指すはマンゴーかき氷ー♪ とかなんとかよく分かんない歌っぽいものを口ずさみながら、女子小学生四人組が去っていく。うちの二千円はこれからおいしいマンゴーかき氷に成り代わり、あの女子どもの胃袋へと呑み込まれて消えていくのだろう。むなしい。かなしい。さみしい。
今日だけで六千円がバトルフィールドの露と消えた。銀行にまだ貯金があるからすっからかんってわけじゃないけど、懐が加速度的に寒くなってるのは間違いない。うぐぐぐぐ、思わず財布を握りしめてしまう。身も心も寒い、寒さが身に堪える。
本日二度目のポケモンセンター。道行く人々の会話が耳に入って来るけど、それを処理できるだけの余裕がどこにもない。
「あーダメだダメだ、今日も『にほんばれ』が通じやしない。十回やって全部不発とか絶対おかしいって」
「佐々木が連れてるキュウコンもさっぱりだな。いつもだったら出るだけで一発快晴なのに」
職員に預けたミナの回復を待つ間、スマホをぼんやり眺める。
「ちょっと変えてみるか、方向性」
この雨降りじゃバトルで本調子が出せない。無理して続けても負けが込むだけ。何か別の方法で、おカネを稼がなきゃ。
バトルがダメならバイトで稼げばいいじゃない、うちの脳内にいるマリー・アントワネットがそう囁いた。誰だよマリー・アントワネットって、自分もどんな人かよく知らない。雰囲気的にたぶんカロス地方の貴族っぽくて、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」的なことを言ったらしいことだけ知ってる。この手の一発聞いただけで脳に貼り付くようなパワーワードって後付けでこねこねされたりすることも多いらしいけど、とりあえずバイトを探すという方向性には賛成だ。
「コンビニって何の仕事するんだ……いらっしゃいませって言ったりするとか?」
テレビの中でしか見たことなかった青と白のストライプ、笑顔でこっちを見つめるあきこちゃんとかいうマスコット的なキャラ。なんかこういうMiiの顔どっかで見た、っていうか作った気がする、スマブラで。ローソンの店舗前に貼られたポスターをぼんやり見つめる。よく読んだらやる事書いてあった、かいつまんで話すとレジ打ちとか品出しとかそういうのらしい。うちでもなんとかなるかも、そう思ったのも束の間、募集してる時間帯が「22:00~04:00」とかだった。無理だ、うち寝てる。言っちゃなんだけど朝の三時とか四時とかそういう時間の概念があるのか今もまだ疑わしい。ないんじゃね? って思ってる。
中にしれっと入って店員さんの動きを観察。いらっしゃいませ、おにぎりとペットボトル持ったおっさんの相手をしてる。これはうちでもできそう。今度は別のトレーナーっぽい客から「からあげクンください」って言われてる。ガラスケースには三種類のからあげクンが並んでる。どの味になさいますか? ちゃんとどの味か確認してる。機転利かさないとダメっぽい。視線を動かして別のところを見てみる、ばーっと積まれたカゴっぽい何かからサラダを出して並べてる人もいた。どこに何を置くかとか全部頭ん中入ってるのかな、記憶力自信ないから難しそう。セブンスターください、背中に百個くらい並んだ煙草の箱軍団からシュッと選んで取り出す。マジ!? 銘柄で分かるもんなの!? あれ絶対無理だ、うちにはできっこない。
ダメだ、やることが多すぎる。うち絶対完璧にこなすの無理だ、なんかくだらないミス連発してえらいクレームを入れられたりしそう。そして店を潰す。考えただけで鬱になる。コンビニは無理だ、そもそもコンビニに行くこと自体が乗船を伴う中規模イベントになってるムロタウンから出て来たばっかなんだぞ自分は、尚更無理だ。見学料の代わりにツナマヨのおにぎりを一個だけ買う。笑顔の店員さんに送り出されて店を出た。外は相変わらずの雨、うちの心とリンクしてる。鬱々。
もうちょっと作業内容が分かりやすいって言うかイメージしやすい方がいい。ということで向かったのが黄色いMの店。ジョウト辺りだと「マクド」って略す、カントー辺りだと「マック」って略すらしい。カントー贔屓の知り合い曰く「マックの方が洒落乙じゃん」らしいけど、略称って観点で見ると元のワードにない「ッ」が追加されてる時点で微妙だ。その点「マクド」は前半三文字を取っただけでシンプル、略称として過不足がない。いやどっちでもいいんだけど、ジョウト民でもカントー民でもねーしうち。
で、だ。目の前にある店舗でバイト募集中とのことだったので突っ込んだ。
「すみません、募集要項をお読みいただけますでしょうか」
結論から言うと丁重にお断りされた。見事な玉砕。年齢? 身長? その辺りで引っかかったのかと思ったら、そうじゃない、もっと根本的なところで引っかかった。
(『ポケモンと正確に意思疎通が図れる方』って書いてる、マジか……)
人間じゃない、ポケモン来てくれ。ポスターにはそう書いてあった。なんかの法律ではっきりと「ポケモン募集」とは書けないって聞いたけど、これだと事実上ポケモンを募集してるようなもんじゃん。そっか、ポケモンが働いてるのか、昨日ネカフェで見たサーナイトと同じで。
店とかでさ、人間と同じ目線でポケモンが働いてるとか、うちマーガレットくらいしか知らなかった。商店街でお店開いてるオーベム。何のお店かは知らないけど、うちがちっこい子供の頃からなんかやってるのは知ってる。珍しい、っていうかポケモンが店やるとかどうなんだろうって思ってたけど、うちの感覚が古いだけだった。都会じゃポケモンが人間と一緒に働いてて、人間がやってた仕事を段々肩代わりしてってるんだ。
(じゃあ、それまで仕事してた人間はどうすんの? 辞めるとか?)
うちの思考はもっと先を見ようとしたけど、マクドナルドにはこれ以上長居してられないから外へ出た。雨が冷たい、今が七月とはちょっと思えないくらい。実際前例のないくらいのやばい冷夏だとか言ってたっけ、ネットのニュースで。
とにかく仕事を探そう、うちにできることだって必ずあるはず。
あると思いたい、今は。
「はい。すいません、では」
ちくしょうめ、取り付く島もありゃしねえ。スマホを切ってから悪態を吐く。方々に電話をかけまくる仕事に電話で応募したら蹴られた。いくつ蹴られた? たぶん三十四十は下らない。
一週間あの手この手で仕事探した。ポスター出してるところへ訪問する、求人雑誌を読んで電話を掛ける、ネットで求人情報を探す、いけそうなところに突撃する。でも全部ダメだった。ひとっつも引っかからない。要件は満たしてても人は足りてるとかポケモンの人員が欲しいとかもろもろで、うちは候補に入らない、入れない。ただ仕事にあぶれてるってだけなんだけど、うち自身が否定されてるみたいだ。うちの過去とか、人間性とかの、変えようがないものを見て「ダメ」って言われてるみたいで。
まさかこんなに簡単に心が折れるなんてちょっと思ってなかったよ、本当に。ムロにいる時は泥水啜ってでも生きてやるぜ、とかイキってたのにこのザマなんだから。ネカフェと都会の雑踏を卓球のラリーみたいに行ったり来たりして、もうだいぶおカネも減って来た。雨露をしのぐために路地裏でひっそり息を潜めてるくらいだし。やばいな、おカネ。出ていくばっかりで一円も入ってこない。身体はあっちこっち軋むように痛いし、ろくなもの食べてないからお腹もぺこぺこ、首が回らなきゃ頭だって回らない。物理的にも精神的にも。
人気のない路地裏、埃塗れの室外機と汚れたポリバケツが並んでる薄暗い空間。室外機にしてもポリバケツにしてもさ、いらない熱風とかゴミを住処から追い出すための存在じゃん。それに囲まれてるうちは、たぶんこの世界に必要とは言えない存在だって思うんだ。ああダメだ、思考がネガティブすぎる。自覚してても矯正も修正もできなくて、ネガネガしてた方が心安らぐって感じになってる。雨露を凌がなきゃいけない、つまり雨がずっと降り続いてる。雨は一向に止まず一瞬の晴れ間さえ見えなくて、身も心もヤスリみたいにゴリゴリ削ってくる。風邪引きそうな予感がしてる、やばいよこのままじゃ。でも動けない、動こうとしない。項垂れるばっか、ゴミと一緒に。
ボールからミナが自分で出てきた。ミナ、思わず名前を呼ぶ。
「うっきゅー」
「ミナ……」
情けない親でごめんね、屋根のある場所にさえ居させてあげられないなんて。ミナが心配そうな顔を向けている。バトルに勝てなくて、仕事のひとつも見つけられなくて、路地裏でこそこそ雨宿りするしかなくて、挙句の果てにミナに心配までさせてる。ダメだ、なんでこんなに情けないんだろう、自分は。もっとしゃんとしてるって考えてた、独りでもどうにかなるって信じてた。全部思い上がりだ。
温い環境で育ってのぼせ上がったバカが、根拠のない夢を見てた。それが自分、春原瑠璃っていうちっぽけなニンゲンの答えなんだ。
「ミナ、寒いよ。ボールに入ったら?」
首を振る。何度も、左右に。ミナはうちの側にいることを選んでくれた。うちよりずっと小さな体で、うちなんかよりずっと強い心を持ってる。ミナだけだ、うちを分かってくれるのは。なのに自分はミナに何もしてやれない。辛くて苦しくて、目頭がわあっと熱くなる。ミナにもうこれ以上心配かけたくない、雨粒飛んできちゃった、見え透いた嘘で自分を隠すのが精いっぱい。
路地裏から外の風景を見た。傘を差して道行く人々の向こうには、一週間前にうちが立ったバトルフィールドが見える。レインコートを着たトレーナーが立ってる。付き添ってるのは――名前出て来た。リーフィアとシャワーズ、どっちもイーブイの進化形だ。雫を纏ったリーフィアは活力を漲らせていて、シャワーズはその全身で雨を歓迎している。トレーナーの方はどうだろう、うちと同じかひとつ下くらいに見える。女の子。背筋を伸ばして堂々と立ってる。リーフィアとシャワーズ、二体場に出てるってことはダブルバトルだ。ホウエン発祥って言われてるポケモンバトルのルールの一つ。二体のポケモンに同時に指示を出して、同じくタッグを組んでる相手を倒す。シングルより考えることがずっと増えるルールだ。やってたから分かる、凄くよく分かる。
「すごい……リーフィアとシャワーズ、一人でさばいてる……」
漏れ出た掠れ声が自分のもんだって気付くのに五秒かかった。目の前の風景が、いろんな意味で現実には思えなくて。あの子、一人でダブルバトルやってるよ。うちには絶対できっこない。たぶんあっちこっちで修業とかしてここまで辿り着いたんだろうな。ムロタウンでお山の大将やってたうちらと違って。
(うちら……? いや、違う! そうじゃない!)
いけない、訂正しなきゃ。お山の大将だったのはただ一人うちだけ、珊瑚とモクオ、それからミナは違う。絶対に違う。珊瑚はホントに強い、マジのトレーナーだったもん。相棒だったモクオだってそう、いつも勝たせてもらってた。ミナなんてもう言うまでもない、うちなんかとは違う、強い力と可能性に満ちたポケモンだ。うちはただ珊瑚とモクオに便乗して、それからミナの力で勝たせて貰ってたってだけ。珊瑚がいたから、モクオがいたから、ミナがいたから、うちはお山の大将でいられたんだ。
ミナを勝たせてあげられないのは、他の誰でもないうちのせい、自分のせいだ。うちに力がないから、ミナを負けさせてばっかりで。ミナはうちのこと信じて付いてきてくれてるのに、自分はミナを裏切ってばっかじゃないか。情けない、ほんっとに情けない。自分が情けなさすぎて、自分で自分をぶん殴ってやりたいくらいだ。このクズ野郎、ちったぁ本気出したらどうだ。うちの「怒り」と「悲しみ」を司る部分がチクチクと胸を突いてくる。痛い、痛いからやめろって、やめろっつってんだろ! もうやめてくれ!
(ああ、せめて晴れてれば、ミナだって全力出せるのに)
雨、ちっとも止まないな。うちがここに来てから一瞬でも止んだところ見たことがない。このまま一生降り続けてんじゃないかってくらい、勢いが衰えるってことを知らない。なんかむしろ強くなってるような気さえする。どうして止まないんだ? うちが知ってる雨なんて、どんなに頑張っても三日もすりゃ空も空っぽ、すっからかんになるってのに。異常気象だってのは伊達じゃないみたいだ。なんでこんな最悪のタイミングで来ちまったんだろうな、トウキョシティに。
吐いたってしょうがない、けど吐かずにはいられない、嫌いな煙草みたいなため息を吐き出した――すぐ、後だった。
「いっ!? いってぇ……!」
不意の頭痛。ワイヤーでも巻かれてグーッと締め付けられたみたいな訳の分からない痛みが、急に頭の奥から湧いてきた。たちまち目を開けてられなくなる、額に冷たい汗が浮かぶ、心臓の鼓動が無茶苦茶速くなる。なんだこれ、なんで急にこんな頭痛くなるんだよ。風邪引いた? 違う、そんなチャチで悠長なものじゃ断じて無い、内側からドリルで頭蓋骨に穴でも開けられてるような気分だ。いってぇ、真剣に痛みしかない。なんだこれ、なんでこんな痛みが?
絶え間ない頭痛に悶え苦しんでる、その最中に急に「歌」が聞こえてきたら、うちじゃなくたって混乱する。奥の奥から無遠慮に響いてくる。締め切った音楽室で機械がぶっ壊れるくらい音量上げてくっそ音質の悪い歌を炸裂させたみたいな、「歌」というより邪悪なノイズみたいな音。「歌」は鼓膜じゃない、頭が聞いてる。鼓膜が捉えてるのは街の雑踏と降り止まない雨の音、さっきまでと同じ日常の音だけ。内側から自分を壊そうとする破壊的な「歌」を聴いてるのは、うちだけだ。
意味の分からない「歌」が、うちをぐちゃぐちゃにしている。
「う……きゅーっ!」
「み、ミナ……! 待って……行かないで……!」
今にも死にそうになってるうちの姿に怯えたミナが、路地に出て走っていく。待って、行かないで。うちの声はもう声にならず、止むことのない雨の音にさっとかき消されてしまう。ミナの姿が見えなくなって、路地裏に残されたのはうち一人だけ。
(待ってよミナ……お願い、だから……)
(独りに……しないで……)
正真正銘、完全なる独りぼっち。視界が黒で塗りつぶされて何も見えなくなる。おぞましい「歌」に混じって、聞きたくもない声が聞こえてくる。心の底から、泥水が湧いてくるかのように、ふつふつと。
(あなた『影の子』じゃないの?)
(どうして? どうして春原さんだけがいるの?)
(薄気味悪い。あんたなんかに関わったから珊瑚が……)
(『影の子』って言われてるよね? 本当に瑠璃なの? 違うんじゃない?)
(なんで生きてるの? あんなことになったのに)
全部その通りだ。言い返すことなんてできない。どうしてうちがここにいるのか、どうして珊瑚がここにいないのか、どうしてうちが生きてるのか、或いは今ここにいる「自分」は「春原瑠璃」なのか、うち自身が一番教えてほしい。問い掛けても問い掛けても答えは出なくて、ただ侮蔑と怨嗟の声だけが幾度となくリフレインする。何度も繰り返されて音が壊れて、けれどなお声としての形を残して心をズタズタに切り裂いていく。
頭の中で響き渡る割れんばかりの「歌」と「声」、その海の中へ引きずり込まれてただただ溺れて、もがくこともできないまま、ただ無力に飲み込まれていくだけだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。