瞼が開く、随分と重く。ここは何処で、今何をしてるんだろ。思考がちっともまとまらない、霧を集めてコップに水を汲もうとしてるみたいに。完全に止まった頭。身体を動かせって指示もろくに出せない、今はただ、再起動が終わるのを待つことしかできない。
気を失ってぶっ倒れた時からどれくらい経ったか、測った訳じゃないから分からない。今が何時なのかもわからないくらいだから。それでも時間ってのはいろんな物事を前に進めてくれて、うちは自分の置かれた状況を再認識した。さっきまでの続きで路地裏に居て、空は相変わらずの雨模様。気を失う直前まで聞こえてたあの「歌」はすっかり消え失せてる。
項垂れて壁に背を預けて、ただ波が引いていくのを待った。頭痛はまだ完全には引いてない。中から何かが突き破って出てくるような激しい痛みは無くなったけど、その後遺症みたいな鈍い痛みはしっかり残ってる。視界が薄暗い、喉がカラカラに渇いてる。体の具合がおかしくなってるのが手に取るようにわかった。手に取るように、なんてレベルじゃ済まない。全身で感じてる、感じさせられてる、押し付けられてる。
かろうじて意識はあるのに目の前真っ暗で、光の無い闇の中に囚われてる。どうすればいいんだろう、って考えることさえままならない。声にならない声を上げようとして、それさえもできずにいて。独りぼっちの世界でこのまま朽ちていくのかな、自然とそんな考えが浮かんできて。
「大丈夫?」
そこでぶつっと思考は打ち切られた。声が聞こえた、誰かすっごい近くにいる、でも顔もろくに動かせない。声からしてたぶん男の子、うちと同じ歳くらいの。顔は――見えない、暗すぎてどんな顔してるのかも分からない。場所とか時間の問題じゃなくて、うちの身体が機能停止してるせい。それでもなんとか顔を上げて、声が聞こえてるってことだけは相手に伝える。
ちょっと待ってて。男の子がカバン? リュック? とにかく荷物を入れるところから何かを取り出す。何がどうなってるのかちっとも分かんなくて、目の前の事態をただ映画みたいに見てることしかできない。
「はいこれ、持ってると元気になれるよ。あげるね」
男の子がうちに向けて何かを差し出す。赤っぽい……石? 中に太陽っぽい紋様が描かれてるように見えるけど、今の視界じゃまるでアテにならない。知らない男子から差し出されたヘンな石。意味が分からなさ過ぎて、普通ならいらねえよって言って終わる。はずなんだけど、今はそんな選択肢なんてなかった。ああ、藁にも縋る思いってこういうことなのかな、差し出されたソレが何なのかも分からないまま、カタカタと震える手で受け取る。
ああ、あったかい。するとどうだろう、冷え切っていた右手に穏やかな熱がふっとよみがえってきたのを感じた。えっ、と思っている間にその右手を起点にして、氷のように冷たくなっていた身体にちょっとずつちょっとずつ熱が伝わっていく。あったかい、ただあったかい。身体を血が通ってく、巡ってく、駆けてく。
「今日は寒いけど、これがあればもう大丈夫。病院には行きたくないもんね」
まだ雨降ってるから、風邪引かないように気を付けてね、男の子は最後にそう言い残して、うちの前から消えていった。もらった石から熱をもらっていると、底を突いてた体力が回復していくのを感じる。
胸と膝の間に石を入れて抱く。降り止まない雨で奪われた体温を取り返した、あちこちに根を張ってた体の痛みも消えた、しつこく残ってた頭の痛みも完全に引いた、普通の頭痛なら残るような微妙な痛みさえまるで感じない。万全じゃないけど、いつもに近い状態には戻ってる。不思議だ、何が起きたんだろう? この石はなんなんだろ? 分かんないことだらけ、疑問だらけ。けど自分の身体で確かに起きてることだから、これが嘘だとかまやかしだとかだって疑う余地はどこにも無い。何の見返りも求めずに、無償で温かいものをくれた見知らぬ男の子に、ただ感謝の気持ちを抱くばかりで。言葉はまとまらないけど、気持ちは一つしかない。
ありがとう、って。それひとつしかなかった。
男の子からもらった紅い石のおかげで、どうにかこうにか立てるようにはなった。よろめく体を手を壁にくっつけて支える。これからどこへ行こう? ねえミナ。そう言いかけて、ハッと言葉を失う。
「そうだ……ミナ、ミナどこ? どこ行ったの? ミナぁ!」
全身からサッと血の気が引く思いだった。ミナがいない、いつもうちの近くにいるはずのミナが。
反射的にミナの入っていたモンスターボールを見る、中身は空っぽ、さらに「圏外」の文字。モンスターボールがポケモンを認識できる範囲を超えて離れた時に出るやつだ。どこ、どこへ行ったんだろう、ギリギリ残ってるわずかな記憶を手繰り寄せる。怯えたミナの顔、路地裏を出て表通りへ走っていく後姿。思い出したくなかったものを思い出す、うちがミナを怖がらせた、怖がらせてしまったから、ミナは逃げてしまったんだ。行くアテなんてどこにも無いのに。ちっとも土地勘のない都会で、ミナが途方に暮れて彷徨っている様子が脳裏をよぎる。どうしよう、どうすればいいんだ。カタカタ震えて呼吸を乱すことしかできなくて、けれど脳内ではミナが弱っていく姿が鮮明に映し出されて。無力だ、あまりに無力だ、うちは。
置いていたバッグが震えたのはその時だった。正しく言うならバッグに突っ込んでたスマホが震えた。誰だ、こんな時に連絡を寄越してきたのは。乱暴に引っ張り出してロックを解除する。
「エリキテルは預かった」
恐ろしく手短、だけど恐ろしく的確なメッセージ。エリキテル――ミナだ、ミナしかあり得ない。ミナは今誰かの所にいる、誰かのところで預かられてる。
もっと言うなら、捕まえられてる。
「追伸。ここで言う『預かった』は『マジで預かってる』って意味だから」
「トウキョシティ××区○○N丁目X-YY-103号室にて待つ」
「最寄りの経路も付ける。返してほしかったらさっさと来い」
なんなんだ、こいつは。いきなりミナを攫っておいて、うちにどこそこまで来いとか抜かしやがって。だいたい、なんでうちの電話番号知ってんだ。電話番号知らなきゃメッセージなんて送ってこれないはずなのに。トウキョシティに来てから一回もスマホの番号教えたり交換したりなんかしてねえぞ、どういうことなんだよ。どうやったらこんなふざけたことができんだよ、誰か説明してくれよ。
ハッキリ言って薄気味悪い、もっと言うなら気色悪い、ぶっちゃけるときっしょい。だけど、ミナが居るって言うなら行かなきゃいけない。この足で行って、そのふざけた拝んでから二度と外歩けないくらいボコボコにぶん殴ってやる。骨折れたって責任取らねえからな! マジで!
正体不明の誘拐くそ野郎がやけに詳しく送って来た経路に従って移動する。サンノテ線の電車に乗って、ヒグラシ駅で降りる。それから空港方面の電車に乗り換えて、快速が最初に停まった駅で降りた。それからちょっとばかり歩いて、たどり着いたのは都心からちょっと離れたマンションだった。ここにこのくそみたいなメッセージを送って来た誘拐犯のクズ野郎がいやがるんだな、今すぐ殴りこんでやる!
って意気込んでたんだけど、開始早々自動ドアに阻まれた。自動ドア、自動ドアだけどうちの知ってる自動ドアじゃない。自動ドアって普通近付いたら開くよな? シューって。それが開かねーんだよこのくそドア! なんだよこれふざけてんのかよってキレてドアをグーパンしそうになったけど、近くになんか電卓みたいなボタンのくっついたパネルがあるのを見つけた。ひょっとしてこれか? これに「103」って入れて呼び出せばいいのか? もういいダメ元。「1」→「0」→「3」→「呼出」。ぴーんぽーん、と気の抜けるチャイム音が鳴り響く。
ガチャン、無言でドアがスライドして開いた。どうやら正解だったっぽい、これで103号室に突撃すればいいってわけだな、なら迷う必要なんてない、サッと中へ進む。ふと左手を見ると、なんかロッカールームっぽい空間が見えた。マンションにロッカールーム? こんな何に使うんだよ、って疑問が湧いて来たけど、今はそんなこと考えてる場合じゃない。ミナを変態誘拐魔のゴミクズ野郎から取り返すのが先だ。
来た、103号室だ。ドアをノックする、すぐ中から音が聞こえて来た。さっさと開けやがれこの野郎、出合い頭に一発かましてやるからよ。カチャ、ロックが解除される音だ。さあ、くそ野郎とのご対面――。
「この野郎! ミナを……って、ええっ!?」
「はーい! いらっしゃい、待ってたわよん」
「おっ、おまっ、お前っ……!」
「あら、なーにポッポが豆鉄砲食らったみたいな顔してんのよ」
「川村!? 川村じゃねーか!!」
意味不明すぎる。ドアが開いたと思ったら川村、船でひと悶着あったあの川村とかいう女が出てきやがった。表札とかなんも掛かってないぞ、なのになんでここに川村が? マジで意味不明すぎる。ただただ意味不明すぎるとしか言えねえんだけど。いや、この際それはどうでもいい。うちはミナを取り返しに来たんだ、目的を達成してさっさとずらかるのが筋ってもんだ。
「んー。だいぶケッサクよ、今のあんたの顔」
「んなことどうでもいい! てめえよくもミナを!」
「しーっ。ちょっと静かにして」
「はぁ!? この状況で静かにしろってどういう……」
「いいから奥見て、奥の部屋」
川村が玄関の向こう、リビングを指さす。すると、そこには。
「ミナ……」
でっかいクッションに乗っかって、べちゃあってうつ伏せになって、これ以上ないってくらい幸せそうな顔ですやすや寝てる、ミナの姿があった。身も心も完全に安心しきってる時の顔、うちや家族、珊瑚の前でしか見せなかった顔をして、川村の家でリラックスしてる。
「お昼寝中なのよ。疲れが溜まってたみたいね。だから、静かに寝かせてあげてくれる?」
「あ、うん……」
「分かればよし。さ、上がってちょうだい、事情を話すから」
川村に促されるまま、ドアを潜って家の敷居を跨いだ。
「ここね、マンスリーマンションってやつ。ホントは別のトコに住んでんだけど、夏の間ここを別荘にして都会で遊びまくるって計画立てたわけ」
案内された先にはテーブルと椅子。まあ座って座って、川村に言われるがまま座る。ミナはぐっすり眠っていてしばらく目を覚ましそうにない。隣にはあの真っ黒い鳥、エアームドじゃない鎧鳥が見守るように座ってる。こっちをじーっと見ながら、たまにミナの方も見てる。
「ほれ。これで顔とか拭いていいから」
受け取ったタオル、洗い立てでふわふわだ。顔と頭が雨でずぶ濡れになってることに今更気付いて、夢中になって拭いた。少しスッキリした気がする。軽くかぶりを振って目を開けると、正面に川村が座っていた。
そうねえ。川村がワンテンポ置いてから話し始めた。
「これ見て。こないだ買ったばっかのベスパちゃん。Vespa GTS250ieってモデル。結構いい値段だったけど、グッドな買い物だったわねぇ」
「それがミナと何の関係があんだよ」
「ん? ベスパちゃんでツーリングしてる途中で見つけたのよ。こっちに向かってよろよろ歩いてくるエリキテルをね」
あ、と思わず声が漏れて、それから沈黙する。大体どういうことなのか、それだけで分かってしまったから。
「この辺りにエリキテルなんていないっしょ? 連れてる人だってそんなにいるポケモンじゃないし、およ? ってなったわけ」
「まあ、その時のウチにはアテが一つあったんだけどね。トウキョシティにいてエリキテルを連れてる人に」
もっともな言葉、無言になるほかない。
「で、だ。ちょいと気になってベスパ停めて見てたら、エリキテルの方からこっちに近付いてくるわけよ」
「知らない人にふらふら近寄るポケモンなんてそうそういない、ウチだってそれくらい知ってるのよね」
ミナはうちから逃げてったんじゃない、誰か助けてくれる人を探してたんだ。それで、トウキョシティでただ一人の顔見知りって言える川村を見つけて、必死にそっちへ歩いてったんだ。
うちのために。気を失ったうちを助けるために。
「でも大分お疲れだったようね、目の前に来て倒れちゃったんだから。ただ寝てるだけっぽかったけど、雨に濡れない場所まで連れてくのが人情ってもんでしょ」
「んー。でもねぇ、ウチ誘拐は趣味じゃないから、親御さんに連絡入れとかないと筋通んないじゃん。で、連れてきてちょっと落ち着いてからメッセージを送ったわけ」
「ハル子、あんたにね」
経緯は分かった、やっぱり最初に思った通りだ。でも一つだけ、分からないことがある。
「ひとつ気になるんだけど」
「うん?」
「なんでうちの連絡先知ってたんだよ、あんたが」
「ほら、こないだ船で鉢合わせたっしょ? あの時スマホ見せてくれた時にしれっとメモらせてもらったわ」
勝手に人の連絡先見るんじゃねえ、って言いたかったけど、おかげでこうやってミナが保護されてるってことを教えてもらったわけだから、噛みつこうにも噛みつけない。くっそ歯がゆい、噛めないだけに。
ホントは、いちいち噛みついたりする必要なんてないって、どっかで分かってたのかも知れないけど。
雨の中倒れたミナを保護して、安全な場所まで連れて行ってくれた。それだけじゃなくて、うちに連絡まで入れてくれた。全部筋が通ってる、理にかなってる。突飛な所なんて何もない、この川村って女の人、うちが思ってたより頭が回るみたいだ。それもちゃんとした方向に。あのままほっとかれたらミナが風邪引いて命にかかわるところだった。
路地裏でぶっ倒れてミナを放り出してた自分が悪い。言い訳なんてしない。うちだって、それくらいの分別はあるから。何も言えずに黙ってる、空気が重い。何を言われたっておかしくない、何もかも隙だらけだ、うちは。気まずい、心底気まずい。全部うちの思い上がりと思い込みが招いたことだから、なおさら。
その時だった。
「ほら、一杯どうぞ」
下を向いて俯いてたうちの目に、コーヒーの注がれたマグカップが置かれた。程よく白い湯気を立てて、香りが鼻をくすぐる。
「夏だってのに冷えるっしょ、雨ばっかで。ちょっと中からあったまっていきなって」
思わず手が伸びる。そっとカップに口を付ける。淹れたての熱いコーヒーがそっと舌を撫でて、喉の奥へと入り込んでいく。あったかいもの飲んだのって何日ぶりだろ、全然思い出せない。冷え切っていた全身に火が点るような思いだ。小さいけど、でも煌々と闇を照らす確かな火が。
「……苦い」
「ははっ。味覚はまだお子様ネ」
「うっさい」
苦い。でも、嫌いじゃない。自然と二口めを啜る。忘れてた熱を身体が思い出していくのを感じた。苦くて口の中がざらつく気がする、けど悪くない。おいしいって思える。うち、コーヒー嫌いだったはずなんだけどな。こんなにおいしかったんだ、コーヒーって。三口目、四口目。飲んでると心が安らいでいく。肩ひじ張ってたのがバカらしくなって、力が程よく抜けていくのを感じて。
気が付くと、マグカップを空にしていた。ことん、とテーブルの上へ戻す。
「おかわり、いかが?」
「……ほしい」
「あいよ」
二杯目を注いでもらいながら、顔を上げて川村――清音さんの顔を見た。飄々としてて、テキトーで、余裕こいてて。だけど淹れてくれたコーヒーはトウキョシティに来てから口にした何よりもおいしくて、ミナは安心してぐっすり眠ってて。うちが思ってたような人とは、なんだかちょっと違う気がする。全部わかったわけじゃないけど、今ここに居て嫌な気持ちはしないから。
「んー。いろいろ言いたいことはあるけど、あえてポジティブなことを言うとサ」
ふーっ、と軽く冷ましながらコーヒーを飲んでいると、正面の清音さんが口を開いた。
「ハル子、あんた度胸あるじゃん」
「えっ?」
「見ず知らずの人ん家に気後れせずに乗り込んでくるなんて、あの子のことマジで大切に思ってなきゃできないっしょ」
「それは、その」
「あんまり実感ないと思うけど、ウチね、あんたのこと結構気に入ってるのよ。ハル子」
「だから、うちはハル子じゃないってば」
「その跳ねっ返りの強さ、見てて飽きないんだわ」
なんかおちょくられてる気がする。気がするのは確かだけど、でも、嘘ついてる感じじゃない。この人なりのコミュニケーションの取り方なのかな、うちとはやり方が違うだけで。船にいるときにずっと感じてたイラつき、あれがもうすっかりなくなってるのを自覚する。不思議なくらい落ち着いてて、話をちゃんと聞こうって気になってる。
「さてさて。本題はこっからなんだけどサ」
「本題……?」
「これはね、ウチからの提案」
「なんだよその、提案って」
次に清音さんが口にした言葉は、全然思いも寄らないもので。
「どう? ハル子。この夏の間さ、ここで自分探ししてみない?」
思わず目を見開く。たぶんまん丸くなってる。清音さんがにぃって笑うのが見えた。うちの顔見て笑うなって言いたい。けどそれくらいびっくりさせられる提案ではあった。ここってことは、清音さんが暮らしてるこのマンスリーマンションとかいう場所ってことだろう。すなわち、清音さんとひとつ屋根の下で暮らす、そういう意味だった。
「三食昼寝付き、家事手伝いってやつ。食事付きなのはデカいと思うわよん」
「えっ、あっ……えぇっ?」
「寝床もお風呂も完備。エアコンもばっちり。ウチが使ってなきゃパソコンも使える。文句なくない?」
「なく……ない、です」
「洗濯とか掃除とかその他諸々、やってやれないことないっしょ?」
「それは、うちも家でやってたけど」
「ならオッケー。ウチはあんたをここに置く、あんたはここで自分を探す。おおっ、いわゆるWin-Winってやつじゃん」
ちょっと整理する。うちはこの家に夏休みの間居させてもらって、代わりに家事とかを手伝う。やっばいくらい突飛な提案、だけど冷静になって考えてみたら、結構悪くない。毎日寝床を探すのにも苦労してたことを思ったら、いいんじゃないかって思えるくらいに。もちろん、どういうことを手伝ったりすればいいのか分かんないから、そこは手探りになっちゃうだろうけど。
でも、と思考が跳ね返る。清音さんはうちのことを知らない、うちがどんな風に見られてたか、どんな風に言われてたか。それを知れば、気持ちが変わるかもしれない。だったら最初に言って、それでダメならダメでいい。うちだって清音さんにこれ以上迷惑なんて掛けたくない。
「でも、うちは……その」
「ん?」
「『影の子』って、そう言われてたから」
「あぁ、アレでしょアレ。狭い田舎特有のしょーもない迷信」
「えっ」
「まさかそんなこと気にして出てこうとしてるの? 割と律儀ねぇ」
「ちょっ、それどういうことだよ」
「ウチはね、そーいうの毛ほども信じてないの。神様とかもそう。神様なんかより自分の感覚を信じる派ってワケ」
それにあれこれ言ったって、他に行くとこ無いんでしょ? 清音さんのさりげない言葉があっさり真実をぶち抜く。行き場なんてなかった、船を降りてからずっと、トウキョシティをふらふら彷徨ってたから。
「別にねハル子、あんたをここに閉じ込めようとか、そういう気持ちはナッシング。行きたいとこ・行けるとこ見つけたら、とっとと出てっちゃっていいから」
「夏が終わるまで好きなようにしたらいいじゃん、若いんだしさ。ご飯だって作ったげる。こう見えても腕は立つのよ、ウチ」
「ま、もちろんあんたの為だけってワケじゃあないわ。だって一人でご飯食べてても寂しいっしょ? ハル子には同居人っていう万能調味料になってもらうって寸法よ」
「それにさぁ。どーせ一緒にいるなら男子より女子の方が何かと気楽だし? いろんな意味でちょうどいいのよ、ハル子はネ」
えっ、何この人。なんか全然この人っぽくないこと言ってるんだけど? なんで? この人こんなキャラだっけ? なんか思ってたのと違うぞ?
「あの、川村、さん」
「なーによ。急にかしこまっちゃって」
「うちここに居るのはいいけど……男連れ込んだりとかしないの?」
ぐえっほ! うちが言った瞬間清音さんがめっちゃむせた。あっヤバいこれ、コーヒーが喉に入った時のやつだ。ガチでむせてる。げっほげっほ、って何度かガチの咳をしてはーって息をついてから、清音さんがすごいジト目をこっちに向けてきて。
「ちょっとちょっとハル子、ウチをなんだと思ってるの。あんたの中でどんなキャラになってんのよ?」
「男漁りが趣味」
「アホっ」
「いってぇ」
別に悪気とかじゃなくて、本音で思ってることを素直に即答したら高速でデコピンされた。違うのか、違うんだ。男漁りが趣味とかじゃないんだ。全然イメージと違うんだけど。
「しないわよそんなくっだらないこと。んなことしてるヒマあったらインク塗るのよインク」
「インク?」
「ほーれ見てごらんなさい、出たばっかのゲームよ。人気沸騰中の対戦シューティングなんだから。うらやましいでしょー。ほれほれ」
オレンジとブルーを入れた鮮やかなパッケージをこれ見よがしに見せ付けてくる。色の塗り合いでもするんだろうか、よく分かんないけどパッと見楽しそうな感じはする。それはそれとして、こいつゲームを買ってもらって喜ぶ子供かよ、とちょっと可笑しくなった。面白いじゃん、この人。
「ウチはねぇ、本物のイケメンにしか興味が無いの。顔がいいだけのペラい男なんてまっぴらよ。絡んできたら顔面が変形するまで殴ってやるわ」
「――ま、兄貴を上回るイケメンなんて、この世にいるんかいなって感じだけどネ」
テキトーな人だと思う。ウザ絡みするタイプだとも思う。でも、筋はちゃんと通ってる。物事の芯を捉えるのも上手い。ただのカルい人じゃないって感じだ。
残ったコーヒーを一気に飲み乾してから、清音さんはちょっと姿勢を改めた。
「お節介だってこと、百も承知で言うけど」
「あんたさ、初めて見た時から放っとけなかったのよ」
「船乗ってて海に落っこちそうになったでしょ、その時からなんか危なっかしいなって」
「こんなとこで無駄におっ死んだら勿体ないじゃん。人生長いんだし」
「うざいって思ったらいつでも出てっていいから、しばらくここに居なよ。ね?」
お節介だよ、本当に。死にかけたところを助けただけじゃなくて、行き倒れかけてたのを拾ったわけだし、マジでお節介を焼くのが好きな人だ。清音さんのおかげで今うちはここにいられてるんだ、うちだけじゃなくてミナもそう。うちなんかに目を掛けて、二回も助けてくれた。物好きだなって思う反面、素直に感謝してるところもあって。
だから、清音さんがそう言ってくれるなら。少しの間だけ、ここでお世話になってもいいかも知れない。
「居させてほしい。ミナも一緒に」
「そう来なくっちゃ! 案外素直じゃない」
「べっ、別にあんたのためじゃないし」
「お、これはツンデレか? ツンデレかぁー?」
「うっさい」
「はっはっは! こりゃ賑やかになっていいわ、退屈しなさそうネ。んじゃまあ、よろしく頼むわよ、ハル子ちゃん」
「だからぁ、ハル子じゃねえって言ってるだろ」
なんだろうな。この人なら、『影の子』のうちが持ってきてしまう不幸だって、しれっと無かったことにしてしまいそうだ。
「ぃよし! 早速だけど、重要な仕事を一つ頼まれてもらおうかしら」
「いいよ。なんだってやる」
「やる気見せてく姿勢、いいじゃない。頭を目いっぱい使う仕事だから、覚悟してちょうだいよ」
清音さんがうちに頼んだ最初の仕事――それは。
「今日の晩御飯、献立考えてくれる? で、ウチがそれ作るの。何作れば考えなくていいってラクだわぁ」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。