夜も更けて来たけど、うちも陽介も寝付けなくて、ずっと起きていた。頭痛はまだ続いてる、収まる気配はない。それもだんだん強くなってきてる気がする。陽介に悟られてなきゃいいな、こんなことで心配を掛けたくない。陽介だってずっと気を張ってんだ、うちもこれくらいでへこたれたりしないぞ。
どのくらい時間が経っただろう。ふと気付くと、うちは陽介に呼び掛けていた。
「陽介。ちょっと、うちの話を聞いてほしい」
「いいよ、瑠璃さん。瑠璃さんの話、僕も聞きたい」
今話すべきだと思った。他には誰もいない、陽介しかいないこの時・この場所で。他の誰にも話してない、今までずっと自分の胸の中に隠していた話。もしかすると、今降り続いているこの雨とも関わりがあるかも知れない、とても大事な話。
(まだ確証なんてない。佐藤が言ってるのだって、ただの当てずっぽうかも知れない)
佐藤が清姉に言っていたあの話、本当に正真正銘何も思い当たることがなかったかって言うと、そうじゃない。とても弱いけれど、とても薄弱だけれど、関係あるかも知れないことが、ひとつだけあった。陽介には何も隠し事をしたくない。だから思い切って、何もかも全部話すことにした。口に出すのもつらいことだ、誰にも言ってなかった、言える気がしなかった、言っても信じてもらえると思ってなかった、言うこと自体がとても辛かった。
でも、陽介になら話せる、陽介になら言える、陽介になら明かせる気がする、陽介なら信じてくれる、陽介になら最後まで頑張って話せる。だからうちは、なけなしの勇気を全部かき集めて、陽介に打ち明けることにした。
あの日、あの時、あの場所で。己の身に何が起きたのかを。
「今年の初めに大雨が降って、ムロのあちこちで冠水したり、洪水が起きたりした」
「うちらの住んでた所も酷い有様になって、このままじゃまずい、避難しよう、そう言ってみんなで避難所へ急いだよ」
「でもその途中で大きな波が襲ってきて、お父さんやお母さん、珊瑚や頼子のお母さん、そして自分も、海へ呑み込まれた」
「他の人はみんな行方不明になって……二日経ってからうちだけが砂浜に打ち上げられて、あの佐藤って局員に見つけられた」
「ここまでは、前にも話したと思う。そうだよね?」
陽介が頷く。そう、ここまでは陽介にも話した、清姉も聞いてた。頼子やお祖母ちゃん、佐藤だって知ってること。ここからだ。ここからはうちの胸から一度も出したことのない、陽介にだけ打ち明ける話だ。
「海に呑み込まれてから、しばらくすると意識が戻って、自分が海の中にいるって感覚があったんだ」
「身体は動かなくて、喋ることもできなかったけど、でも、周りを見ることだけはできた。海しかない、水しかない、すごく暗い場所だった」
「そのままどうしようもなくて漂ってると、大きな……とても大きな何かが、ぐんぐん自分に迫ってくるのが見えた」
「『α』のシンボルが体に刻まれた、得体の知れない『でかぶつ』。直感だけど、そいつはポケモンだって気が付いた」
「そのポケモンはまっすぐにうちに近づいてくる。逃げようとしても身動き一つできなくて、それで、それで」
「そいつは――うちの中へ入って来た。無理矢理に、力づくで押し入って来た」
「中をぐちゃぐちゃにされた気分だったよ。心も体も、踏み躙られるような。思い出しただけで吐きそうになるくらい」
「痛い、苦しい、やめてくれ、そう思ってもどうにもならなくて」
「さんざん暴れ回って、うちを滅茶苦茶にしてから、そいつは出て行った」
「うちの中にあった『何か』を食いちぎって持って行って、代わりに別の『何か』を残して行ったんだ」
「食いちぎっていったのは身体の一部じゃない。心か意識とか記憶とか、目に見えない、けど大事な何かだ」
「ボロボロになって意識を失う間際に、あいつの後姿を見て思ったんだ」
「――あいつは『カイオーガ』だ。『カイオーガ』の一部だ、って」
思い出すだけでも身を引き裂かれそうになる。あの時のことは辛すぎて、お祖母ちゃんにすら口にできないくらい辛い経験だった。具体的に何がどうなったのかは分からない、生死の境を彷徨う間に見たただの幻覚かも知れない。だけど幻覚にしてはハッキリしすぎてて、何か意味がある出来事にしか思えなくて。でもその意味を考えようとするとと、うちが何をされたのか、何を持っていかれたのか、何を残されたのを考えることになって、とてもじゃないけど身も心も持たなかった。
「トウキョシティに来てからは、ずっと雨が降りっぱなしだったから、意識なんてしなかったんだけど」
「佐藤に救助されて元の生活に戻ってからも、分かるようになったんだ」
「『雨が降り出すとき』が」
「雨が降りそうになると、頭にざわざわとした『波』が……『波動』が起きて、ああ、雨が降るんだって気持ちになる」
「今までそんな感覚無かったし、他に同じ感覚あるってやつもいなかったから、うちは……うちは自分が気味悪くて、仕方なかった」
「たぶん、いや、間違いなく、うちが海へ落ちた時に、カイオーガに何かされたんだ」
「けど、あの近くにカイオーガはいなかった。だからもっと邪悪な、『カイオーガに取り付いていた力』って言うべき何かが、うちを作り変えたんだ」
妄想じみてると思う、無茶苦茶なことを言ってると思う。だけど、今やトウキョシティ全体が無茶苦茶の滅茶苦茶になってるんだ。今更うちが何を言ったって、だからどうしたって感じだ。陽介は瞬き一つせずにうちの話を最初から最後まで聞いて、一度もその表情を崩すことをしなかった。真剣に、本当にうちの身に起きた出来事だって思って聞いてくれてる。ありがたい、ただその気持ちしかなかった。陽介に打ち明けて本当に良かった。
うちは海に呑まれて、『カイオーガに取り付いていた力』に何かをされて、そのおかげで生き延びた。だけどその『何か』のせいで、雨が降るのが事前に分かるようになった、自分が自分とは思えなくなった。だから頼子がうちを『影の子』だって言った時、完全には否定できなかった、ほんの一部だけど、それを正しいと思っている自分が居た。海へ落ちる前と後で、自分が一貫してるって感覚が持てずにいたから、別の誰かの身体に意識が移動してる、あるいは体はそのままで別の誰かが自分の中にいる、そんな得体の知れない気色悪さをどうしても拭えなかったから。
「ありがとう、瑠璃さん。辛いはずなのに、僕に全部話してくれて」
「お返し、ってわけじゃないけど、僕も話をさせてほしい」
「僕がどんな病気で入院してて、その最中に何が起きたのか、を」
心のどこかで予感していた。うちがすべてを打ち明ければ、陽介もまた全部話をするだろうって。陽介がただ者じゃないことはうちも知ってる、けど陽介の過去に何があったのかは知らない。それを知って初めて、うちは陽介を、志太陽介という人間を知ることができる。だから、どんな話でも聞こう、嘘偽りの無い事実だと信じよう、最後まで決して目を背けず耳を塞がず、ありのまますべてを聞こう、そう決意を固めた。
「僕は、ずっと太陽を見たかった。太陽を見たいと願っていた」
「病気で入院してたってことは、瑠璃さんにも話したよね」
「その病気っていうのは、『日が出ている間は起きていられなくて、日が沈んでからしか活動できない』っていうものなんだ」
「僕以外に誰にも症例がなくて、お医者さんも手の施しようがなかった」
「いくら検査しても異常は見つからなくて、けれど僕はどうやっても日中起きていられない」
「僕は太陽が見られない、どんなに願っても、僕は太陽と同じ時間を生きられない」
「このままずっと暗闇の中で生きていくのかな、そう思ったときに、サニーと出会ったんだ」
「サニーもね、僕そっくりの不思議なカラダだったんだ。キマワリなのに昼間は起きてられなくて、夜にしか動けない」
「僕らは夜の世界で知り合った。太陽のない暗い世界で見つけた、小さな『たいよう』だったんだ」
「僕にとってはサニーが、サニーにとっては僕が、他でもない『たいよう』だったんだ」
「友達になった僕とサニーはいつもいっしょに遊んでいたんだけど、しばらくすると僕は夜も眠気を覚えるようになった」
「昼間起きていられなくて、夜も起きていられない。ずっと眠ってる、何度昼夜を迎えても、永遠に覚めない眠り」
「それはつまり、死ぬってことで」
「僕は死ぬんだ。太陽を見られないまま。そう思うと悲しかった。でも、サニーに会えたことは幸せだった、この幸せを抱いて眠ろうって」
「でも、その時だった。サニーも強い眠気に襲われて、どっちも立っていられなくなった。サニーも僕と死ぬのか、そう思うと、やっぱり悲しくなった」
「悲しみを抱きながら、サニーの前で僕は眠った。僕の前でサニーも眠った。とてもとても深い眠りに落ちたんだ」
目を閉じて切々と語る陽介の顔から、何度も目を背けたくなった、でも最後まで聞いた。辛い話だ、あまりにも辛い話。太陽が見たい、ただそれだけの願いが叶わなくて、同じ境遇のキマワリ――サニーだけが友達で。でも、やがて夜も起きていられずに、朝も夜も眠り続ける、死に等しい状態になろうとしていた。陽介がどんな思いだったか、太陽にどんな想いを抱いてたか、想像するに余りある。うちのちっぽけな胸を全部満たしてあっという間にあふれるくらいの、大きな大きな悲しみに包まれて。
「夢を見た。見たことも無い夢、現実じゃないって分かるのに、すごく現実みたいな夢」
「とても背の高い大きなポケモン……僕とサニーが肩車したって届かないような大きなポケモンがいた」
「『Ω』の紋様が刻まれた、この世のものとは思えないポケモン、怪獣のようなポケモンだった」
「『グラードン』。知らない誰かが夢の中で僕に名前を教えてくれた。だから僕はそのポケモンを『グラードン』と呼ぶことにした」
「隣にはサニーもいた。僕と一緒に、天まで届きそうな、天を貫かんばかりに大きいグラードンを見ていた」
「グラードンが空を見上げると、底には光り輝く大きな天体――」
「――『太陽』、そう。『太陽』があった」
「それからグラードンは空気が破れそうなくらい大きな声で叫んだと思うと、僕に強い、とても強い光が降り注いだ」
「身体が焼けるようなすごい痛みが走って、何もかもが焼けていくのを感じた」
「僕、このまま死んじゃうのかな、そう思って、もがき苦しみながら、僕は夢の中で意識を失った」
「それから、どれくらい時間が経っただろう。僕とサニーは目を覚ましたんだ。夜じゃない、朝に目が覚めた」
「僕らはそれ以来、太陽の出ている時間に起きていられるようになったんだ」
不思議な経験を経て、陽介とサニーは太陽の出ている時間に目覚めていられるようになった。経緯は全然違うけど……でも、得体の知れない空間で見たことも無い大きなポケモンに出会った、その点でうちと陽介はよく似てる。ちっとも疑う気になれなかった。自分の身に起きたことを思えば、それを陽介が信じてくれたことを考えれば、陽介の身に起きたことはホントのことだとしか思えなかった。
「それだけじゃない。僕は、ある事に気が付いた」
「雨が降っていた日だった。晴れてほしいな、そう思って空に願いを掛けたら、すぐに晴れを呼べたんだ」
「瑠璃さんにも何度も見せた通り、空を晴れさせられた」
「何度も繰り返して、それが思い込みなんかじゃないってことに気が付いたよ」
「僕は、晴れを呼べる。あの日から使えるようになった、僕の力だ」
「退院してから、僕はサニーと一緒にポケモントレーナーになった」
「サニーの得意な晴れを呼んで、バトルをして暮らすようになったのは、それからだよ」
陽介はここまで話して、ふう、と息をついた。ありがとう、陽介。話を聞かせてくれて。うちがその気持ちを込めて陽介の肩に手をのせて、それからぎゅっと抱きしめた。陽介もうちの背中に手を回してくれる。誰かと抱き合うのっていいな、それが好きな人なら尚更。どんなに寒くたって、こうしていればたくさんのぬくもりを得られる。陽介が好きだ、好きで好きで、ただ好きで。陽介のことが好きで、たまらない。
「大変な病気だったんだね、陽介」
「こうやって、今うちの前にいてくれることを、嬉しく思う」
「ありがとう、陽介」
今一度、陽介を強く抱く。強く、とても強く。
「瑠璃さんも、辛いことたくさんあったんだね」
「僕は、瑠璃さんが生きていて、一緒にいてくれたことが、すごく嬉しい」
「ありがとう、瑠璃さん」
陽介もうちを強く抱き返してきた。うちよりも力を込めて、すごく強く。
「カイオーガとグラードン、神話じゃお互いに殴り合いの喧嘩をしたって言われてる」
「僕らとは大違いだね。僕らはこんなに仲良しだったんだから」
「古くさい神話なんかより、今のうちらの関係の方がずっと大切だ」
うちの中に宿ったカイオーガ、陽介に力を与えたグラードン。神話とか言い伝えとか、そういうカビの生えた古い物語じゃ、お互い激しくぶつかり合って殴り合って、セカイのカタチを変えたって言われてる。けど、うちと陽介はどうだろう? ケンカなんてする気はさらさらないし、セカイのカタチを変えるつもりもちっともない。ただ、二人でずっと一緒に居られればいい。それだけを願っている。
「ずっと一緒にいよう、陽介」
何度繰り返したか分からない、陽介への言葉。今度のそれもまた、気持ちを確かめるためのちょっとした言葉――そのつもりだった。
「……瑠璃さん」
覇気のない沈んだ声が陽介から帰って来たことに気付いて、ハッと顔を上げる。なんなんだよ陽介、なんでそんな声を出すんだ。うちが……うちが側にいるんだぞ。一体どうしたって言うんだよ、なあ、陽介。陽介の肩を掴む、真正面から顔を見る。陽介の顔、陽介の瞳。
そこには思わず絶句するくらい深い、とても深い悲しみが宿っていた。
「ごめんね、瑠璃さん。僕はまだ、一つだけ話していないことがあったんだ」
「話してないこと……? な、なんだよ陽介、話してないことって、いったい……」
「辛い話かもしれないけど、でも最後まで聞いてほしい。これが、最後になるかもしれないから」
「最後って……どういうこと? ねえ、陽介、どういうこと?」
訳が分からない。陽介は、陽介は何を言おうとしてるんだ。うちはこれから、陽介から何を言われるっていうんだ。それに、それに最後ってなんだ、最後になるかもしれないって、どういうことなんだ。何も分からない、何も分からないぞ! 教えてくれ、陽介。うちに教えてくれ、陽介!
うちが肩に握っていた手をそっと退けると、陽介が立ち上がってレインコートを脱ぐ。続けてシャツに手を掛けて、そのまま全部脱いでしまう。なんでこんな時に服なんか脱ぎ始めたのかさっぱり分からない、けど、冗談のつもりじゃないってことだけは確かだった。こんなに寒いってのにジョークで服を脱ぐやつなんているわけない。ましてや真面目な陽介がこんな時にバカなことをするはずがない。だから、今から起こる事、目にすることは、冗談でもジョークでも何でもないんだ。
「瑠璃さん、背中を見て。清音さんたちには見えなかったみたいだけど、僕には見えるんだ」
すっと背中を向ける。瞬き一つできないまま、うちは息が止まるのを感じた。呼吸ができなくなった。
「見えるかな? きっと見えるよね、瑠璃さんには」
答えられない。応えられない。堪えられない。尋常ではないもの、あり得ないもの、あるはずのないものが、陽介の背にハッキリと浮かんでいる。まるで何かを――空だろうか、罪だろうか、なんだっていい。何かを背負っている、うちの目はそれを確かに捉えていた。
荒々しく刻みつけられた痛々しい文様。無意識のうちに、それが「Ω」のカタチをしていると脳が理解する。理解したことに後から気付く居心地の悪さ、うちが海の中で「α」の紋様を刻み付けられたカイオーガのような何かを目にした時と同じ感覚だ。同じ、同じなんだ。うちに起きたことと、陽介に起きたこと。陽介に刻み付けられた「Ω」は光の強さを増してるように見える。そして、対照的に――。
「陽介……体が! 体が消えかかってる!!」
唐突だけどさ、ゲームとかでキャラクターが半透明になる事あるだろ、あれが、あれが陽介の身体に起きてるんだ。腕や背中が時折透けて、向こう側が見えそうになる。とても不安定な状態、いつ全部消えてしまってもおかしくないような。消える? 陽介が消える? 自分で思い浮かべた言葉に、自分で意識を失いそうになった。陽介が自分の前から消えてしまう、今一番恐ろしい、一番あってほしくない、最悪の、最悪の最悪の出来事だ。
「ああ、瑠璃さんには見えたね。僕の予想通りだ」
「陽介……陽介っ……!」
「僕が晴れを呼ぶたびに、紋様がはっきりと浮かんできたみたいなんだ。気付いたのは、つい最近だけれど」
「晴れを、呼ぶたびに……」
「それと合わせて、昔の病気みたいに、いくら寝ても眠くなるようになってきた」
「だから、あんなに眠そうにしてたのか……」
「瑠璃さんが見たように、身体も消えかかってる。いろんなことが起きてるんだ」
今にも消え入りそうな声で、陽介がうちに語り掛ける。
「僕が空に往く時、それが近付いて来ているんだ」
陽介が空へ往く。言ってしまえばそれは、この地上からいなくなってしまう、うちの今いる場所から別の所へ行ってしまう、そういう意味だ。うちがそれを許容できるかって言われたら、できるわけねえだろバカ野郎、としか言えない。陽介が消えるなんて、絶対に嫌だ。あっちゃダメだ、そんなこと!
でも、陽介をこんな風にしてしまったのは――「晴れ男」の力を使わせたのは、他でもない自分だ。自分が言いだしたことなんだ。
「……うちのせいだ。全部うちのせいだ! うちが、うちが陽介の力を使って、晴れを呼ぼうなんて言ったから!」
「違うよ、瑠璃さん。違うんだ、瑠璃さんのせいなんかじゃない。瑠璃さんは何も悪くなんかないよ」
「でも! でも……陽介が、陽介が……っ!」
「瑠璃さん。僕はね、僕がここにいる理由を知りたかった。誰かに必要とされていたかった」
「陽介……」
「晴れを呼んでみんなを笑顔にできる、瑠璃さんは僕にそのことを教えてくれた。僕はここにいるんだ、ここにいていいんだって実感を持てた」
「っ……くっ、うぅっ……!」
「だから、僕は瑠璃さんに感謝してる。心から、心の底から。瑠璃さんが、僕を救ってくれたんだ」
消えかかった体を寂しげに見つめる。存在が不安定になっている、それは陽介自身が一番よく分かってること。どうにもならない、その遣る瀬無さがうちの心をズタズタに切り裂いて、まだ足りないまだ足りないまだ足りないって言って、粉みじんになるまで切り刻み続けている。胸が痛む、のたうち回りそうなくらい痛む。頭がおかしくなりそうなくらいに。
「もし……僕が消えたら、瑠璃さんは悲しむよね」
「ばかやろう。何言ってんだ、陽介が……陽介が消えるわけなんか、消えるわけなんかないだろ!」
「瑠璃さんがそう言ってくれて、僕はうれしいよ。すごくうれしい」
「なあ、陽介。今からでも遅くない。もうこれ以上力を使っちゃダメだ、絶対に、絶対に使っちゃダメだ」
「瑠璃さん……」
「そうすればきっと元通りになる。何の変哲もない、普通の人間に戻れるんだ」
「僕から光の力がなくなっちゃったら、闇の力を使う瑠璃さんと釣り合わなくなっちゃうね」
「ばか。こんな時に何言ってんだ」
寂しい笑顔、いつも見せてくれてた太陽みたいな笑顔とは程遠い、自分の終わりを悟ったかのような、とても寂しい笑顔。見ていられない、見ていると視界が滲んで何も見えなくなってしまう。でも、でもだ。一瞬でも目を離したら、その瞬間陽介は消えてしまいそうなんだ。うちが陽介を見てなかったら、誰が見てるっていうんだ。目を離しちゃいけない、何があっても、どんなことが起きたとしても。
気を強く持とうとする。だけど――だけどだ。身体に異変が起きてるのは、陽介だけじゃなかった。
(また……頭がっ……! くそったれ、こんな時に……っ!)
ずっと抱えてた頭痛が激しさを増してきた。内側から頭が割れそうなくらい痛んでいる。思わず顔をしかめる。ダメだ、このままじゃ陽介に気付かれる、感付かれちまう。何でもない風を装いたい、けど痛みはどうしようもない。酷くなる一方だ。何か言わなきゃ、何か言わなきゃって気持ちだけが逸って、でも言葉ひとつ発せないくらい頭が痛い、今にも割れそうだ。いっそ割れて痛みが外に飛び出してった方が楽になれるかもしれないってくらいの、おぞましい苦しみ。
「瑠璃さんも、僕と同じように何か起きてるんじゃないかな」
陽介は察しがいい。見逃すはずなんてなかった。うちの突かれたくないところを、とても的確に突いてくる。優しい瞳で、うちを気遣う声で。一番言われたくないことを言う。
「痛いよね、辛いよね。ごめんね、僕のせいで」
「な……なんでだよ! 陽介は何も悪いことなんかないぞ。なんでもない……痛くなんか、ないから! だから……うぅっ、くそっ……!」
瑠璃さん、悲しげな声。悲しみに染まった顔。うちがどうなってるか、陽介にはもう全部分かってる。分かってるのに、うちがそれを認めようとしないだけ。うちがいくら否定したって仕方ないのに、それでも認めたくない気持ちでいっぱいで。
「空が晴れれば、瑠璃さんの苦しみもきっと晴れる。だから」
「瑠璃さん、僕に本当のことを言ってほしいな」
「答えて、瑠璃さん」
「『空が晴れてほしい?』」
嫌だ。そんなことをしたら陽介が消えちまう、嫌だって言ったら嫌なんだ! 必死に首を振る。横に、横に、何度も、何度も。頭が痛いことも忘れて、「イヤイヤ」を繰り返す子供みたいに。
「そんなこと……ない! ないって言ったら、ない……!」
「もし陽介がまた力を使ったら、今度こそ陽介は消えちまう。そんなの耐えられない、嫌だ!」
「だからダメだ、絶対に、絶対にダメだ!」
うちが耐えれば、陽介が力を使わずに済む。陽介が力を使わないでいれば、消えずにここに居続けられる。だから、だから、うちが耐えれば、耐えれば、それで……!
風が一段と強く吹いている。雨の勢いは増すばかりで少しも弱まらない。粉雪はいつの間にか吹雪になり、近くに雷が落ちたような音がひっきりなしに響き渡る。空が壊れて全部落ちてきてる、空そのものが落ちてこようとしてるみたいな苛烈で猛烈な天気だ。空模様はまるでこの世の終わりみたいで、このまま世界が破滅するんじゃないかと思うほどの有様だ。
「うきゅ……」
「きゅう……」
炎の石がもたらす小さな熱に縋らないといけないくらい、ミナとサニーは苦しんでる。モンスターボールの中に入ってれば、雨露もしのげたし寒さだって感じずに済んだ。今はそれが壊れちまってる。どっちも寒さには弱いって知ってるから、今置かれてる状況が辛いのは痛いほどよく分かる。何もしてやれない自分が歯がゆくて、無力感に包まれるほかなくて。
酷くなるばかりの空に歩調を合わせるみたいに、頭痛も階段を上るみたいに悪化していく。もう何かを考えることさえ難しい、頭はただただ痛い痛いの一点張りで、ちっとも働かない。七月の路地裏で聞こえて来たあのおぞましい「歌」、幾重にも反響する破壊的で破滅的な「歌」が、頭の中に響き渡り始めた。空で何かが歌っている、うちに呼び掛けてきてる。けどそれは言葉じゃなくて、解釈のしようのない得体の知れない何かでしかない。
ダメだ、もうこれ以上は意識を保つことさえ難しい。どうにもならない。誰か助けて、今にも口を突いてそんな言葉が飛び出しそう。でも、でも! ここで助けを求めたら、陽介はためらわずに力を使うだろう、自分がどうなるかも顧みずに、うちを助けようとするだろう。だけどその後に待ってるのは、陽介の確実な消失。陽介のいない世界に、うちは耐えられる? 無理だ、そんなの考えることさえできない。耐えられるわけがない。
「瑠璃さん、聞こえる?」
「僕は瑠璃さんを助けたい。もう、瑠璃さんの苦しむ姿を見たくない」
「だから、答えて。瑠璃さん」
「『雨が止んでほしい?』」
陽介が問い掛ける。違う、そんなことない。そう答えようとしても、口も手も何も動かない。痛みの海に呑み込まれて、ただ真っ暗になっていく視界に任せるしかなかった。
瞼が下りていく。情報が喪われていく。すべての感覚が閉じていく。何も見えなくなり、何も感じられなくなる。何もかもが落ちてしまう間際、その間際。
「瑠璃さん」
「僕は、瑠璃さんを助けるよ。必ず助けるから」
陽介の声が――大切な人の声が、聞こえた気がした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。