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#22 対象#143796-2

身体が重い、身体の重さが感じられる。腕がだるい、だるさが実感として得られる。痛みは生きている証、意識のある証拠。真っ暗だった視界が滲むように広がって行って、その滲みも少しずつ薄れていく。これは覚醒、目が覚める時のやつだ。ああ、うちは今目を覚ましたんだ。いつもの何倍もの遠回りを経て、うちは目を覚ました。

居たのは昨日雨宿りをした路地裏。辺りは暗い、レインコートを着たままだったせいで中が蒸れてる感じがする。気持ちが悪い。せめて風通しを良くしたくて、レインコートだけでも脱ぐことにした。立ち上がってビニールのそれを脱ぎ捨てる。籠もっていた湿っぽい空気が出ていく感じがした。そして気付く。辺りが蒸し暑いことに。それだけじゃない。音が聞こえない、何の音も。ただ緩い風の流れる音が聞こえるだけ。

ずっと聞こえていたあの「歌」も、降り止まない雨の音も、何も聞こえてこない。

いつもと何かが違う、そう思った直後、炎の石を抱いて眠っていたミナとサニーも目を覚ました。あの夜を無事に越えられたみたいだ。まだ眠そうにしながら、きょろきょろと左右を見回す。ミナとうちの目が合う、ミナがうちを見ている、うちもミナを見ている。そして、気が付いた。

(ミナが……泣いてる?)

ミナの目にたまった涙。泣いていたのがはっきりと分かる瞳。無意識のうちに自分の目元に指を当てていた、うちも泣いてる、涙が溜まってる。なんで? どうして泣いてたんだろう? しゃがみこんだミナを抱き上げて、隣にいたサニーを見やる。自分たちと同じように、サニーもまた泣いていた。たまった涙が陽光を反射して、きらりと光る宝石のように――。

……陽光?

(そんな、まさか……!)

とっさに辺りを見回す。いない、どこにもいない、影も形も見当たらない。

陽介の姿が、どこにもなかった。

手荷物を引っ掴んで、ミナとサニーを連れて路地の外へ飛び出す。飛び出した瞬間目が眩んだ、とても強い熱と光が、暗い路地裏に馴染んでいたうちらの身体を容赦なく焼け焦がした。

「うそ……雨が、止んでる……」

止まなかった雨、ずっと降り続けていた雨。それが――止んでいた。雲一つない青空が広がって、ずっとずっと覆い隠されていた太陽が鬱憤を晴らすかのようにさんさんと照り付けている。青空はどこまでもどこまでも広がっていて、切れ目ってものがちっともない。トウキョシティに鎮座していた雨雲が一掃されて、完全な晴れが、空に訪れている。

いなくなった陽介、晴れ渡った空。どういう意味なのか、何が起きたのか。分からないほど馬鹿じゃない、理解できないほど鈍感でもない。

(陽介が、陽介が空を晴れさせたんだ)

呆然と立ち尽くす。傍らにいるミナも、サニーも、陽介の不在と快晴の青空を目にしてすべてを悟ったようだ。言葉を失っている、サニーがその場にへたり込んだ。掛けるべき言葉が見つからない、言葉なんて出てくるはずがない。陽介がいなくなったその理由を思えば、うちが何か言えるはずなんてなかった。

うちが苦しんでたから、陽介は空を晴れさせることを選んだんだ。うちが、陽介に力を使わせてしまった。うちの……うちのせいだ!

全部、うちが招いたことなんだ!

思わず膝を折る、崩れ落ちた。溢れる涙は雨のようで、どうやっても止めようがなくて。空の雨は止んだのに、心の雨が音を立てて降り始めた。うちが、うちが陽介を消してしまった。うちのせいで! うちが苦しんでるのを陽介が見過ごせるはずなんかない、自分を犠牲にしてでも止めるだろうって、最初から分かってたはずなのに! うちが弱かったから、痛みに耐えられなかったから、陽介をこんな目に遭わせちまったんだ!

跪いた先の地面に出来た水たまり、その底にきらりと光るものが見える。見覚えがあるもの、はっきりと見たことのあるもの。何度目だろう、言葉を失ったのは。それがそこにあるはずがないと分かっているからこそ、何の言葉も出てこなかった。

(……紅い、指輪……)

思わず拾い上げる。間違いない、見間違えるはずなんてない。陽介がうちにくれた蒼い指輪と対になる指輪、紛れもなく陽介がはめていたもの。あの指輪がこんなところに転がってる、何が起きたのかハッキリ分かる、分かりすぎる。陽介がその形を失って、指輪をはめていられないような存在になって、ここへ転がり落ちたんだ。自分から外すことなんて考えられない、外れたんだ、陽介の身体から。

指輪を握り締める。拳から血が出そうになるくらい、爪を食いこませて強く握り締める。悔やんでも悔やんでも悔やみきれなくて、そこから一歩も動けずにいた。何も感じられなかった、悲しみと悔しさ以外には。だから、自分の背後から誰かが迫ってきていることにも、気付くはずなんてなくて。

「ようやく見つけましたよ、春原さん」

「本来は、対象#143796-2と呼ばなければならないところなのですが」

我に返って振り向く。そこに立っていたのは。

「……佐藤っ! てめぇ……!」

「覚えてくださっていましたか。私の名前を」

佐藤。案件管理局の佐藤だった。周りには手下っぽい局員が何人もいやがる、どうやらあの天気の中でもこいつらだけはうちをずっと捜し続けてたらしい。どうやって見つけ出したのかは分からねえけど、うちのところまで追い付いて来やがったのは間違いない。今こうやって、目の前で悠然と立ってやがるんだから。

「春原さん。貴女にはお伺いしたいことがいくつもあります」

「うちは、あんたに話すことなんて一つもない!」

「そうであっても、我々に同行していただく必要があります。それに――ここは、貴女がいるべき場所ではありません。私と一緒に、榁へ戻っていただきます」

「嫌だ! うちは陽介を、陽介を……!」

「……その方、対象#143796-1こと志太陽介さんについて、貴女に確認しなければならないのです。あのオブジェクトとの関連について」

佐藤が指差した先、そこに目を向ける。

「あれは……あれは……!」

大きな大きな光の柱。空を貫くようにそびえ立った……大きな『そらのはしら』。夢の中で見たそれが、今現実のトウキョシティにそびえ立っている。遠くに見えるスカイツリーよりもずっと高くて、どこまで伸びているのか見当もつかない。とても高い柱、空の向こうまで届きそうな『そらのはしら』。

「雨が止むのとほぼ同時に、あのオブジェクトが出現しました」

「春原さん。私は貴女を榁へ還すためにここへ来ましたが、もう一つここへ来た理由があります」

「あの――降り止まなかった雨を止める方法を探すためです」

「トウキョシティに降り続いていた雨は、年初に榁で降った大雨とよく似た性質を持っていました」

「確証はありませんが、あの時と似た『何か』が雨を降らせている。私はその仮説を立て、ここにいる局員たちもそれに賛同しています」

「ならば止めなければなりません。あの雨で喪われたものは少なくない」

「貴女も私も、あの雨には遺恨がある。大切なものを奪っていきました」

「あの時のようなことは二度と繰り返したくありません。だから私は、貴女を探していました」

「降り続く雨を止めるための鍵を握っていたのが……春原さん、そして志太さん。あなたたちだったんです」

あの時夢で見た『そらのはしら』、それが確かにここに在る。あんなものが自然にできるはずがない、あれは、陽介が作ったものだ。延々と落ち続ける空を止めるために、落ちようとする空を支えるために、陽介が『そらのはしら』になった。空を支えるために、これ以上雨を降らせないために。

でも、待ってくれ。ここに『そらのはしら』があるなら……まだ陽介はこの世界にいるってことだ。あの柱のてっぺん、空を支える柱の一番上に、陽介はいる! いるんだ!

(陽介がいる、だったら、うちは……!)

陽介は身を挺してうちを助けてくれた、死にかけていたうちを、あの怪物を止めることで助けてくれたんだ。もう痛みも苦しみもない、陽介がうちを助けてくれたから! 助けられっぱなしでいいのか、このまま陽介を放り出して逃げていいのか。答えなんて分かりきってる、言うまでもない、考えるまでもない! うちのすることは一つ、するべきことはたったひとつだ!

陽介を、助けに行く。

ミナとサニーの目を見つめる。うちの意志が伝わった。一二の三で前へ飛び出す、ただ走るだけじゃない。うちを取り囲む邪魔っけな案件管理局の連中を蹴散らしてからだ。空は陽介が導いてくれた太陽がさんさんと輝いてる。ミナもサニーも全力を出せるセカイができあがってる。

「本部へ連絡。対象#143796-2の身柄を確保。対象#143796-1の行方は不明。対象#143796-1とオブジェクト#143796との関連について、対象#143796-2をトウキョシティ第十二支局へ移送の上詳細についてヒアリングを行う。以上」

佐藤が目を離した、その一瞬の隙を突いた。

「今だっ! ミナっ、サニーっ!!」

「なっ……!」

あいつらが反応したときにはもう遅かった。密かに力を溜めていたミナが「かまいたち」を巻き起こして、その風に載せるようにサニーが「はなびらのまい」を繰り出す。辺りを風と花弁が舞い散って、佐藤たち取り囲んでいた局員たちを次々に襲う。隙間ができた! ここから逃げられる! 走るのが苦手なサニーを抱いて、うちはミナと一緒に素早く駆け出した。

「しまった! 追ってください! 確保に動いてください!」

佐藤が周りの連中に指示を飛ばす。佐藤自身も走って来た。なんとかして逃げ切ってやる、振り切ってやる! 

全力の全力で、うちは前に向かって走り出す。追手から逃れるために、そして、陽介の元へ向かうために。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。