小学生の頃って男子と女子が一緒に遊んだりってあったと思う、普通に。休みの日とかにさ、自転車に乗って公園まで行ったりして。家に呼んだりすることだってある、普通に。トレーナーになるかならないかくらいって歳になるとなんかこっぱずかしくなって離れていくもんだ、普通は。じゃあおれとユカリはどうかっていうと、なんかまだ一緒に学校へ行ったりしてる。幼馴染って言うやつなんだろうな、いまいち実感湧かないけど。
家が隣同士ってのがデカいと思うんだ。おれの家には親父しかいなくて、ユカリの家には伯母さんしかいないってのもある気がするな。小さい頃はどっちがどっちの家なんだって感じでお互い遠慮なしに行き来してたよな、今はそこまでじゃなくなったけど。夕飯一人で食べるのおもろないやん、とか言って弁当箱にご飯とか全部詰め込んでおれの家に着たりしてたっけ。
隣で三つ編み揺らしながら歩いてるユカリはどう思ってるんだろう、案外なんとも思ってなかったりして。おれも特におかしいとか変だとかは思わない。横にユカリがいるってことに不自然さがちっともなくて、そっちが普通になってるって感じだ。
「昨日な、明日さんがチーズケーキ買うて帰ってきてん。夜のおやつに食べよ言うて」
「食べた?」
「食べた食べた。いやー腹立つわ、ほんま腹立つ。こんなありえへんわって思うわ」
「すっげぇマズかったとか」
「ちゃうちゃう。おいしいねん」
「あー、そっちか」
「何切れでもいけるわってくらい。うちチーズめっちゃ嫌いやねんけど」
「チーズ嫌いだったよなユカリ」
「うん嫌い、納豆の次ぐらいに嫌いや」
「おれ納豆好きだけど、ユカリ全然ダメだよな」
「だってうち根っこは小金民やし」
「納豆食べない人多いんだっけ」
「多い多い。で、それの次くらいにチーズ嫌いやわ」
「うん」
「せやけどな、チーズケーキは食べてまうねん」
「チーズケーキは食べるのか」
「食べてまうんよ、チーズのケーキやのに」
「チーズのケーキなのにな」
「腹立つわあ。うちチーズ嫌いやねんで、ホンマに」
「給食でアーモンドチーズ出た時も絶対食べなかったよな」
「あれめっちゃ嫌いやったわ」
「で、あとでおれが食べてたっけ」
「大体トッちゃんやったな」
「いらねーって言ってるのに渡してくるんだからさ」
「ええやん、減るもんとちゃうし」
「減らないけどな、増えるけどな」
「たまに別の子に食べてもろたりしてたけど、みーちゃんとか」
ユカリの言うトッちゃんっていうのはおれのことだ。槇村透(とおる)、だからトッちゃん。ユカリの付けるあだ名は大体こんな感じだ、男子も女子もなんとかちゃんって呼んでる。大ざっぱと言うか大らかというか、ざっくりしてる。性格もざっくりしてて分かりやすい方じゃないかな。友達いっぱいいるみたいだし。チーズは嫌いなのにチーズケーキは好き、みたいな微妙に面倒くさいとこはあるけど、そう言うおれだって大根おろしがダメでおでんの大根は食べるから似たようなもんだ。
揃って海に面した道を歩いてる。影は三つ並んでる。おれとユカリ、それからユカリの連れてるハワード。ハワードっていうのはコジョンドのニックネーム。人間につけるあだ名とは全然ノリが違うな、ちょっとカッコつけた名前してんなって突っ込んだら、ユカリがそらそうやろ、とあっけらかんと返してきたのを覚えてる。ハワードはすました顔をして悠々と歩いてるけど、歩幅が小さいから足をちょこまか動かしてる。口に出しては言わないけど結構かわいい、怒らせると怖いから言わないけど。
「トッちゃん昨日ジムおったやん」
「温水プールで泳いでた」
「うん。あっ、おるおるーって思て声掛けようとしたらリーダーに呼ばれてもてん」
「あー、だからか」
「だから?」
「昨日トウキさんと話してたの」
「あ、せやせや。見てたんや」
「帰り際に見えた」
「リーダーに呼ばれててん。なんかな」
「うん」
「今度トレーナー来るから相手したってくれ言われて」
「ユカリが? ハワードって強くね?」
「だいぶ強い自信あるで」
「じゃあ相手もすっげえ強いとか」
「みたいやわぁ。でな」
「うん」
「本気出してええ言われてん」
「あれ使えるじゃん、いつも使えないーって言ってるやつ」
「デッドリーレイブ?」
「それ、デッドリーレイブ」
「やっとやで、出せる挑戦者さん来てくれんの」
「姿勢を低くして突っ込んでって、殴る蹴る殴る蹴るして最後に『はどうだん』でぶっ飛ばすやつ」
「ちゃんと覚えとってくれたんや」
「あれカッコいいし」
「せやろ、指示するうちもカッコいいやろ?」
「うん、まあ」
「なんなんその歯切れ悪い返事」
「バトルの時ポケモンばっか見ててトレーナー見てないから分かんないんだ」
「あー、まーそらしゃない。今度からはうちもちゃんと見るんやで」
合気道やってるって聞いた、もう八年くらい続けてるらしい。ハワードと組んだのもそれくらいだったっけ。海外旅行に行った時に仲良くなったとか言ってたかな確か。おれがプールで泳いでるときは、たいていユカリが武道場で稽古やってる。横通るとたまにでかい声出しててビビるんだよな。こう見えてだいぶ強くて、年下に型とかいろいろ教えてるみたいだ。横で歩いてる今は全然そんな感じしないけど。おれだって年下の川村とかに泳ぎ方教えたりすることくらいはあるけど。けど武道ってきつそうなイメージあるし、何年も続けてるユカリは結構マジですげえって思う。
向こうで飛んでるのはキャモメかな、スバメはもっと小さいはずだし。キャモメは榁と海凪を行ったり来たりしてる。いつ見ても平然と風に乗って飛んでるんだ、あいつら。速い船でも二十分は掛かるから言うほど近くもないはずなんだけど。翼があれば海とか簡単に越えてけるんだろうな。おれはただの人間だから泳ぐことしかできなくて、無理矢理頑張って泳いだって海凪までは絶対もたないし、たぶん途中で溺れてあの世行きになる。遠くまで行けたら何か変わるのかな、海の向こうのそのまた向こう、こことは違う別の海まで。でもどうだろ、実際はただ行ってただ帰ってくるだけのような気がする。行く前の自分と帰って来た後の自分が何も変わってなかったら、帰って来た後のおれはどうすりゃいいんだろうな。めっちゃ気合い入れて遠くまで行って、それで何も変われなかった自分が残るだけって考えたら、後ろから不意打ちで膝カックン食らったみたいな気持ちになる。
「あのなトッちゃん」
「なんだよ」
「また同じ学校やな、うちら」
「だよなあ」
「こないしてまた一緒にだらだら学校行くわけや」
「そうなるな」
「小中合わせて六年、ほんで高校入ってまた三年」
「うん」
「合わせて九年や。人生の半分くらい一緒におる計算やで」
「数字出されると長えって感じすごいな」
「凄いなほんま。こんな長いこと一緒におるんか」
「実感湧いてこねえなあ」
「おるんが当たり前になったからかも知れん」
「空気みたいな?」
「空気みたいな」
「おれにとってユカリは空気なのか」
「うちおらんかったら死ぬやん自分」
「死ぬはないだろ」
「いや死ぬって自分。たまに宿題忘れるやん、宿題」
「あーうん、まあ」
「あとご飯も炊かれへん」
「それはもう炊ける」
「なんやできるようになったんか」
「ちょっと前おれん家にカレー食いにきてたじゃん」
「カボチャとかナスとかマトマとか山盛りに入ってたやつ?」
「そうあれ。おれが作ったやつ」
「えっ、あれサトウのごはんやと思った。レンジでチーンって」
「ちげーよ普通に炊いたって」
「無洗米?」
「ちゃんと研ぐやつ」
「自分嘘言うてるやろ。あかんで」
「なんで嘘言う必要あるんだって」
「まああれや、うちがおって面倒見たらなあかんってことで」
「テキトーなまとめ方だなあ」
「今の時代これくらいのまとめ力要るで。うち頭の回転早いからな」
「自画自賛かよ。まあけどユカリ勉強得意だもんな、もっと上の高校行けたんじゃね」
「そないなったら海凪行かなあかんやん、船乗って」
「榁だと新高が一番偏差値高いしなあ」
「くっそ面倒やん、いちいち船乗って学校行くのんとか」
「向こうで家借りるとか」
「余計めんどいわ。だいたいうちそないなお金あらんし」
「まあなあ」
「というわけで、や」
「というわけで?」
「高校でもうちが面倒見やなあかんっちゅうことやな」
「なんだそりゃ」
行く先は新高に変わった、通る道も反対になった。けどユカリがいるのは変わらない。変わらないでくれって思ってるわけじゃないけど、変わってくれって思ってるわけでもない。ただ変わらないってだけ。変わらないのがいいのかな、たまには変わらない方がいいときもあるんじゃないか。ユカリがどっか遠くへ行ったら、おれはたぶん寂しいって思うと思う。思うと思うってヘンな言い回しだな、電車に乗車とかと同じ。国語の先生に赤ハネ付けられるやつだ。ユカリはこういうのもめざとく見つける。頭の回転が速いってのはマジだ、ちっこい頃からずっと掛けてる眼鏡は伊達じゃない。おれも認める。
ゆるい坂道を歩く、校門をくぐる、グラウンドで朝練してるやつらを横目で見る、上履きっていうかスリッパに履き替える。高校は白い上履きじゃなくて青いゴムのスリッパなんだよな、なんでか分かんないけど。おれは一年生だから二階へあがる。高校まで行くやつって割と珍しいらしいって聞いたことある。トレーナーになって地元に全然帰ってこないやつの方が多いとか。分かる、おれの知り合いもそんなんばっかだ。中学に上がる前に八割くらいいなくなって、戻って来たのは二、三人くらいしか知らない。関わり薄いから何があったのかもよく分からない。踊り場で折り返す、階段を上る。おれは一組、ユカリは三組。
ほな、うちこっちやから。そう言うユカリにじゃあな、と言って背中を見送る。カバンからシュッとイヤホンを取り出して耳に付けるのが見えた。あいつ何聴いてるんだろ、ゲームして遊んでるとよく「うちこの曲好きやねん」とか言って鼻歌唄い出すんだよな。勝つか負けるかってときに音楽聴けるのって結構やべえと思うし、音聴いてるからって気が散ったり油断したりとかもない。フツーにおれが負けたりする。
一組は半分くらい席が埋まってる。全部で三十席行くか行かないかくらい。知らない顔が七割くらいあって、知ってる顔もイコールよく喋るってわけじゃなくてまんま顔だけ知ってるって連中がほとんど。グループもできてるのかできてないのか微妙で、おれもなんだろうけどソワソワした初々しい空気がフワフワ漂ってる。カバンを机に置いてノートを机に突っ込む。教科書は大体置き勉。ユカリは毎日全部持って帰ってるつってたけど正直いらねーだろって思う。あいつは趣味が勉強みたいなもんだからしょうがないけど。
今日ジム行くかな、川村が特訓したいって言ってた、おれに見ててもらいたいとも。あいつだけ他の年少組とちょっと雰囲気違うって思ってて、プールにいる時ヘラヘラ笑ってるの一回も見たことない。別に怒ってるわけじゃないんだ、ただマジなだけで。昔のおれってもっと不真面目でテキトーだった、自覚あるから間違いない。けど川村はよくおれに話しかけてきて、見ててくれとか隣で泳いでくれとか頼んでくる。いや、おれ以外にも頼んでるけどどういうわけかおれの出番が多い。で、直したほうがいいとことかおれが言うとすぐさま直してくる。ホントすぐ、次の25メートルから。だから迂闊なことは言えない。おれもマジにならなきゃって。年下とかどうとか、ハッキリ言ってあんま関係ない。
誰かが教室に入ってくる気配がする、ふと視線がドアの方へ動く。ぼんやり浮かんでた温水プールの風景がパッと消えた。黒い髪、肩より長く伸びてる、水みたいにサラサラしてる。白い肌、降ったばっかの雪みたいだ。前髪をそっと上げる仕草。無表情。透明で澄み切ってる。
水瀬さんだ、名前が出て来るのに五秒くらい掛かった。今年一緒のクラスになった女子、元々別の中学に通ってたっぽいって誰かが話してるのを聞いた。接点は全然ない。少なくともおれは初対面だって認識。榁は広くないし、ひょっとしたら星宮神社のお祭りとか水泳大会とか清掃活動とかで顔くらい合わせてるかもしれない、そんなレベル。綺麗かどうかで言ったら綺麗だと思う。だけど誰かと付き合ってる、彼氏がいるって雰囲気じゃない。人と付き合うことにあんまり興味無さそうって顔してるんだよな。浮いてるわけじゃないけど絡みに行こうともしなくて、独りでいるのが好みって言うか。
だから。おれは水瀬さんのことをそんなキャラだって思ってたから。
(えっ)
視線がおれの方を向いた時、頭ん中の前提と目の前の出来事がズレまくってて、頭が追いつかなくなった。おれの姿を視界に捉えてる、瞳の中におれがいる、思い込みとかじゃなくてガチのガチで、おれの視線と水瀬さんの視線が結ばれてるってハッキリ分かる。自意識過剰じゃね、とかフツーなら思う。そういうことがちっとも考え付かないくらいだって言えば伝わるかな。
水瀬さんが、おれの目を見た。
流水みたいにさらりと通り過ぎていく。苗字そのまんま。おれが視界から外れると、左から二列目、後ろから三番目の席まで歩いていった。なんだったのか分からない、おれに訊かれてもさっぱりだ。水瀬さんがおれの目を見た、他の誰も気づいてないっぽいけど見られたおれは気が付いた。だからどうした、そりゃおれが訊きたい。なんかヘンなことしてたかな、絡みまったくないから何もしてないしできねえよな。授業中とかうるさいから「こいつ……」みたいな感じで見て来たとか? いや、おれ授業中一言も喋らないからな。あと目の感じもそういうんじゃない。睨む、じゃなくてただ「見てた」。水瀬さんのキャラ分かんないからどんな時にどんな目するのかさっぱりだけど、怒ってるって雰囲気じゃないのはおれにも分かる。分かるけど、じゃあなんだって言われると、なんなんだろうなってしか言えない。分かんねえ、ほんと分かんねえ。
ちらっとだけ、ほんのちらっとだけ視線を左に向けた。窓の外を見てる、ほどほどに雲が出てる青い空。開いた窓から入って来たゆるい風が微かに髪を揺らしてる。カバンからペットボトル、あれはアクエリアスかな、蓋開けて飲みはじめた。飲み終わって片付ける。退屈そうだな、誰か喋りに行ったりしないのかな。おれが気にすることじゃないんだ、本当は。さっきのことがあるから気になる。どうしておれを見たんだろ、知らない間に貧乏ゆすりしてて気に障るとか、いやないな、おれ貧乏ゆすりはしないから。ユカリに言われて直した。最近貧乏ゆすりせんようになったな、やればできるやん、とか言われたばっかりだ。だからホントにどうしておれが見られたのか、全然理由が思い浮かばない。
分かんねえな、本当に。
カチャカチャと流しの方から皿が擦れ合う音が聞こえる。目はスマホの画面に釘付け。紫の石が七つ繋がってピカピカした演出が入る。今の周回終わったらちょうどいいから止めよう、電池もうあと13パーしかないし。にしてもワダツミマジで硬ぇな、おれの持ってるやつで一番火力出せるセット組んでるのに一周が馬鹿みたいに長い。もうちょいサクっと倒せねえのかな。トールをスキルマまで上げたらラクになるとか聞いたけど、面倒くせえんだよな。
終わった終わった、やっと相手がダウンした。ふっと顔を上げたら親父がリビングに来るのが見えた。洗い物終わったみたいだ。定位置になってるソファの右側を空ける。そこに座るのが当然ってな具合で親父が座る。おれは真ん中を開けて左端に膝立てて座ってる。何時ぐらいからこの位置関係が決まったんだっけな、気付いたらこうなってんだよな。別におれが右に座って親父が左に座ったっていいはずなんだけど、別にそうしたいとか思わないわけだし。
思い出した、明日新聞の集金来るんだった。銀行からお金下ろす前に一言言っとかないと。最近新聞の折り込みチラシ減ったんだよな、あれこれ見比べてどっちが安いかとか調べるの割と好きだったんだけど。これもフケイキってやつなのかな。
「父さん」
「どうした」
「明日新聞の集金来るから、お金下ろしてくる」
「ん、分かった」
通帳とキャッシュカードは普段家に置いてあって、出金するときだけ銀行に持ってってる。親父は家にいない時間の方が長いから、お金の管理をしてるのはおれだ。月にどのくらい使ってるかとか、光熱費とか水道費とかでいくら引かれてるかとか、その辺おれが全部見てる。見てるからどうなんだって言われるとどうもしないけど。他のやつらになんとなく訊いてみたら、家の金勘定やってるのはおれだけだった。だからってやっぱりどうもしないけど、おれだけだったってのは事実だ。
小学校行ってる時だったかな、この話したらそん時友達だったやつから「好きなだけ金使えるじゃん」って言われた。でもおれピンと来なかったんだ、そいつの言ってることが。だっておれが変な風に金使ったらさ、水道とか電気とか止められちまうわけだろ、だったら本当に要るもんだけ買ってできるだけ余裕作っとくのがアタリマエってやつじゃん。おれおかしなこと言ってるかな、って親父に訊いたら、親父は何も言わなかった。何も言わなかったけど、おれがどっか間違ってたら「そりゃ違う」ってすぐ言うのが親父だから、たぶん間違ってない。
明日晩飯何作ろっかな。同じものばっかだと飽きてくるし、けどすぐには思いつかない。石なしで回せる晩飯ガチャとかねえのかな、出てきたの作るようにすればいちいち考えなくて済むし。
「なんか食べたいものとかある?」
「明日か?」
「うん明日」
「んー。なんでもいい、って言うと透が困るか」
「困るって程じゃないけどできたら候補出してほしい」
「じゃあ、何か魚でも焼いてくれ」
「どの魚かおれが決めていい?」
「ああ。透に任せる」
食べたいものあるかって訊かれたときに、ちゃんと自分の食いたいものを言ってくれるのって助かるんだよな。逆になんでもいいって言っといていざ作ろうとしたらあれはダメこれは嫌とか言われるのマジで腹立つんだ。バトンを渡されたってのにまだバトン持っててウジウジやってるみたいで。だからおれは誰かから訊かれたらその時食べたいものをできるだけ言うようにしてるし、本当に思い付かない時は何になっても絶対文句は言わない。誰かにバトンを渡したらグダグダ言うのはやめろって思ってて、何も言わないのがカッコいいって考えてる。おれは、自分がカッコいいと思うことをしたい。他の人がどう思うかは置いといて、おれはおれがカッコいいって思うことをしたい。
テレビの上に掛かってる時計を見た。もう八時半だ。今日は九時ぐらいからユカリの言ってた生主の配信があるんだ、今のうちに風呂入っとこう。どうせまたユカリから観た感想訊かれるだろうし、ユカリが絶対観てって激推ししてたからおれも気になってる。ユカリが好きって言う時はガチだ、あいつは自分がマジで好きなものしか好きって言わない。
「おれ風呂入ってくる」
「ん」
風呂場に行く途中に台所の横を通る。炊飯器の時計が「5:30」になってるのが見えた。晩飯の時に今ある飯を全部食べ切ったから、洗い物した後に仕掛けてくれたんだな。親父のご飯はちょっと硬めなんだけど嫌いじゃない。
家にいるのはおれと親父のふたりだけ。おれが風呂炊いたり洗濯したり晩飯作ったり買い物したりして、親父が掃除したり朝飯作ったりゴミ捨て行ったり洗い物したりしてる。たまに入れ替わったりもする。やる必要があるからやる、やってもらう。ただそれだけ。それでだいたい回ってるし、不便なこともあんまりない。
「ああ、そうだった。透」
「何?」
「次の月曜、斤摂まで出張になった」
「戻りいつ?」
「木曜の、えーっと、昼過ぎだな。向こうから直帰する」
「おれジム行ってるなぁ。家の鍵開けといて」
「分かった」
明日は追い炊きでいいから、楽だ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。