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#03 ファーストコンタクト

水泳部に入ろうって思う、ユカリにそう言ったら、自分泳いでばっかやな、水泳バカやな、って返された。ユカリが言いたいことは分かる。ジムでほとんど毎日泳ぎまくって、それでも足りずに部活でも泳ぐなんて、おれでもワンパターンだなって思う。ユカリの口ぶりは呆れてるとか馬鹿にしてるとかじゃなくて、言葉通り文字通りの意味だ。否定的じゃない、自分がやりたきゃやりゃいいじゃん、って感じの軽い肯定。きっとこういう反応するだろうなあ、って口に出す前から考えてたのとちっとも変わらなかった。

泳がずにはいられなかった。だんだん体が乾いてくみたいで、水に入ってたいって体が駄々捏ねるみたいにソワソワしてムズムズしてくる。プールがイベントで埋まってたりジムが休みだったりすると当然泳げねえから、やたらシャワー浴びたり長風呂したりしてごまかしてるくらいだ。けど、泳ぐとそういうウザったい気持ちが全部吹っ飛んで、頭も体も全部スカッとする。泳いでないと落ち着かないおれってちょっと変わってるよな、中学に入りたてくらいの頃ユカリにそう言ったら、うちも誰かと喋ってへんと落ち着かへんし、似たもんやろ、ってしれっと流されたっけな。軽い感じで言われて、ま、そんなもんかって思えたんだ。

おれが入ろうとしてる水泳部には人があんまりいないらしい、ジムでよく喋ってる一つ上のセンパイから聞いた。いるのは男子だけ、女子は誰もいないってさ。そりゃ残念っすねって口では言ったけど、正直あんまり残念って気持ちでもない。本音を言うと少しも思ってない。ユカリみたいに何年も付き合いがあってアレコレ知ってるって間柄ならいい、ろくすっぽ顔も知らない女子がいたってどうとも思わない、どうとも思わないって言うか、たぶん気兼ねするだけで終わるだろって気がする。女子なら誰でもいいなんて男子ならもうとっくに他所へ行ってるだろうし、女子の方だっておれと関わりたいかはそいつが決めることだろって思ってる。

月曜になったら入部届を出しに行く。何か紙に書いて出すのって、どうでもいいことでも緊張して胃がシクシクするんだよな。学校のテストもそう、雑誌とかのアンケートもそう。自分の意志を誰からも見られる形にして残すってことだもんな、読んだやつにちゃんと意味が通ってるかおれには分からない。ただ頭ん中で考えてるだけならおれにしか分からないし、おれだってどんどん忘れていく。川から海へ流れてく水みたいに。カタチに残るってことは、誰かから見られるってことなんだ。イラスト描いてるネットの知り合いが言ってたけど、絵だけじゃなくて人が作るもの全部がそうなんだよな、きっと。

何もすることが思い浮かばない時にすること、誰にだって一つか二つはあるよな。おれはこうやっていつも歩いてる道を歩く、こんな真昼間から歩いてることはあんまりなくて、たまたまジムが休みだったせい。ユカリなら小難しい本読むかトレモに引きこもってコンボ練習を繰り返すかのどっちか。あいつ安定コンでいいところを無理に魅せコン狙ったりフルコン欲張ったりするから、しょっちゅう途中で落とすんだ。で、おれがすかさず取り返して勝つ。何べんもこんなことがあって、今度こそキメたるって言ってコンボ練習ばっかしてる。ああいうのを性懲りが無いって言うんだ、たぶん。

左手に海があって、寄せて返す波の音が途切れずに聞こえてくる。いつ聞いても違うけど、同じ感じだ。決まりきってるわけじゃないけどリズムがあって、ブレてるけど安定してる。予想が付く範囲の中でバラバラな音がする。安心できる揺らぎ、って言えばいいのかな、とにかく心地よかった。音の出どころを見たくなっておもむろに目を海へ向ける。今日も変わらず青くて、どこまでいっても青いまま。たまにできる波が白を作るけど、ぼやぼやしてるうちに海の青に呑み込まれる。なんでもかんでも呑み込んで返さない、海って欲張りだな。飲んでも飲んでも足りない足りないって言ってるみたいだ。

命は海から来た、みたいなことを言われたのをずっと覚えてる。命は全部海から来てる、だけど今おれたちは陸でしか生きられない。生まれた場所が目の前にあるのに帰れないって、悲しいって思うのが普通なんだろうな、ちっとも実感湧かないけど。おれたちはみんな海の子供だってしょっちゅう口に出して言ってたんだ、母さんが。海で子供を護る仕事がしたい、おれその時五歳だったから、何言ってんだかさっぱりだったな。海見ながらなんか言ってる、帰ってレゴ組み立てて遊びたいみたいなことしか考えてなかった。

普通思わないじゃん、話聞いてからちょっとしたら海の向こうのどっかに行っちまうなんて。

なんだっけ、そうそうアレだ、物心。物心ついた頃から親父と二人でぼちぼちやってるのが普通の光景だったからさ、今と違ってたらとかあんま考えたことがない。母親が家の中にいるって風景をうまく想像できない。だから、いや「だから」って繋ぐのおかしいかも知れないけど、いなくなったことを滅茶苦茶恨んでるとかはあんまないんだ、本当に。ただ、だんだん顔も声も思い出せなくなってきてる。あんな顔だったっけ、ああいう声だったっけ、自信無くなってきたな、どうしようもないけどちょっとざわざわする。こういう家の中のこと、ユカリにもあんまり言わないしあいつも訊いてこない。あいつは自分の知りたいことにしか興味がないんだ、だから気を遣ってるとかじゃないと思う、いい意味で。

頭ん中グルグルしてたからだと思う。おれは視界の中に見慣れないものがあることに、目で捉えてからだいぶ間を空けてから気が付いた。人は目じゃなくて頭でモノを見てるって言うけどあれはガチだな、風邪引いてすげえ熱出たとき無茶苦茶な幻覚いっぱい見えたんだ。家ん中いるのにスーパーの食品棚並んでたりとか、海凪にある博物館のゲートに居たりとかそういうの。おれはさっきまで現実の海じゃなくて現実の海っぽい幻覚が被さった風景を見てて、幻覚の中にないものが入ってきてもそれに気付かなかった。今になって現実が見えて、砂浜を歩いてる誰かの姿が頭の中にも入って来た。

あのさ、悪いけどおれあんまり語彙力無い方なんだ。ほらあの、神輿担ぐような祭りとかん時に胸にグルグル巻く白い布。どっかで名前聞いた記憶あるんだけど出て来ねえ。あれと、あと褌。こっちは思い出せた、ってか記憶にある。だいぶ前合同で寒中水泳やった時に締めてるやつがいたんだ、確か。上と下に白い布巻いて、砂浜を歩いてる女子がいる。女子なのは間違いない。誰なのかも分かった。知ってるやつだ、おれの。かろうじて知ってるやつ。

(――水瀬、さん)

長い黒髪、雪みたいに白い肌、泳ぎに向いてるって一目で分かるシュッとした体。ユカリとは大違いだ。身体つきもだけどなんであんな恰好してんだろ。意味分かんねえ。あんまじろじろ見ないようにしてるけど、あれだ、その、尻丸出しになってるし。気にしないのかな、布食い込んでるの。おれとか食い込むの絶対嫌でショーパン水着しか着ないのに。あとよく見ると髪も括ってない。上月とか泳ぐとき絶対髪括ってるし、女子はそもそもショートにしてるやつが多い。けど水瀬さんはどっちでもない。長い髪を揺らしてそのまんま海へ行こうとしてる。

っていうか、容姿も気になる、めっちゃ気になるよ。だけどそれより、なんだってこんな時期に肌晒して砂浜歩いてるんだろう。あの様子だときっと、いや絶対海に行こうとしてる。海へ行って何するのかって、そりゃ泳ぐためだろう。けど今は四月、豊縁全体で見りゃ海開きしてるとこもあるけど、榁はまだ、まだまだ先だ。おれだって何の理由もなしに海へ入ろうなんて季節じゃない、もっと暑くなってからでいいじゃんとしか思わない。周りの砂浜とか海とか諸々の情報が減ってどんどんぼやけていって、海に向かってく水瀬さんだけどんどんクッキリしていく。こんなところで何してるんだ、マジで。

海に向かっていく足が止まった。身体全体を百八十度振り向かせた。顔が見えた。目が見えた。瞳の奥から視線が伸びてきて――おれの視線と紐みたいに結ばれた。

唐突、滅茶苦茶唐突、マジのマジで唐突。水瀬さんがこっちを、さっきまでの背中の方に目を向けて、防波堤の上で突っ立ってるおれの姿をはっきり捉えてる。心臓をオオスバメの脚でガッチリ掴まれたみたいだ。おれの存在に気付いてる、絶対気付いてる、おれのことじっと見てるから。やべえ、やべえ以外の言葉が出てこねえ。どうにかしなきゃって思うけど、ハッキリ見られてるのにどうにかもへったくれもない。逃げるしかねえんだけど逃げ道なんてどこにもなくて、おれが水瀬さんを見てたってことが水瀬さんに知られたのはどう考えても間違いなくて。

「槇村くん」

潤いのある声、艶やかな声だった。叫んだりもしてない、ただ呼び掛けただけ、なのに今まで聞いたどんな音よりもでかくて何重にも反響してる。水瀬さんの声は石みたいに固まってたおれをさっと解かして、寝ぼけまなこにバケツで氷水をぶっかけられたみたいになった。跳ねてる、滝を上るコイキングみたいに、おれの心臓。バクハツすんじゃないかってくらい。息をするのもやっと、ってかまともに息できてない。真っ白になってく頭ん中。消しゴムで全部消されてくみたいだ。何か言わないと、どうにかしないと。どうにかってなんだ、何かってなんだ。知るかよ、おれの方が聞きてえよ。

おれが水瀬さんのこと勝手に見てたってのはもう誤魔化せない、それだけはハッキリ分かる。全然絡みの無い男子に自分の裸、いや一応布は巻いてるけどほとんど裸だし、そんなの見られて気にしないって女子がどんだけいるんだよ。じーっと見てたってぜってーバレてるし、周りにおれと水瀬さん以外に誰もいないし、ああもう訳分かんねえ。

名前呼ばれたんだぞ、なんでもいいから返せよ、返事すんだよ、早くしろよおれ、何やってんだおれ、いい加減にしろよおれ、頼むよおれ、なんとかするんだよ、おれ!

「……ごめん! 水瀬さん、ごめん!」

精いっぱい、ほんとにこれが精いっぱい、点数をつけるなら二十点がいいとこだ、満点は言うまでもなく百点。何がどう「ごめん」なのかもあやふやで、謝ったってことは悪いことしたんだって自覚があるってことで。水瀬さんを見てられなくて、背中を向けて走り出す。視界から水瀬さんが見切れるほんの一瞬、彼女がこっちに手を伸ばしたような気がするけど、とても最後まで見てらんなかった。自分より強えやつに出くわしたポチエナみたいに尻尾巻いて逃げてく。だせーことこの上ない、ほんとダサい。

胃が痛ぇ、すっげーキリキリする、間違って釣り針でも呑み込んだみたいだ。昔魚食ってたら骨で喉切って涙出るくらい痛かったけど、あれと同じくらいだ。穴でも開いたのかって感じの痛み。全部自業自得なのが余計にキツい、マジでツラい、半端なくエグい。口の中が酸っぱくなって、やべっ、と思って溜まった唾を無理やり飲み下す。ゲロ吐きそうって思うの久しぶりだ、こないだユカリが家に来て飲んだ時以来かも知んない。

おれ、なんてことしちまったんだろう。すっげーだらしねえじゃん、クラスメートの女子のことジロジロ見るとかさ。言い訳のしようがねえよ、ホントに。さっきまでの自分をぶん殴ってやりたいって気持ちしか浮かんでこない。マジでどんな目してたんだろうな、ぜってーロクなもんじゃねえよ。人んことバカみてーに眺めるようなやつにだけはなりたくないって思ってたのに、いざって場面に出くわすとこれなんだもんな。おれってマジでしょうもねえやつだ。いつだってそう、今だってそうだった。

明日月曜じゃん、どうしようって思うよな。どんな顔して水瀬さんと一緒の教室にいりゃいいんだろ、誰かおれに教えてくれよ。もうさ、できるだけ顔見ないようにしてさ、接点無い他人ですって装うしかないかな。仲良しになりたいってわけじゃなかったけどフツーに挨拶できる関係くらいにはなりたかった、けどもう百パー無理だろコレ。全部おれのせい、何もかもおれのせいだから、余計にやるせない。

はぁーっ、くそでかいため息が出る。ここが舗装されてなきゃ穴掘って埋まりたい。そのまま埋まっちまいたい。心の底からマジでそう思ってて、身体にも胃が痛いって感じで出てる。だってのに、だってのに、頭ん中はすっげーボケてて。

(……綺麗だったな、水瀬さん)

この馬鹿っ、どうしようもねえうすら馬鹿っ、いったい何考えてんだっ、もうくたばっちまえっ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。