朝のニュースは一応観るようにしてる。朝起きると親父がテレビ点けてNHKにチャンネル回してるから。曇りって言ってたんだよな、確かその時は。もう六月だし怪しいって思ったけど、雨傘のマークは一つも出てなかったんだ。だから傘いらねーよなって思って手ぶらでガッコまで来たってわけ。そしたらこのざま、土砂降りの大雨。ツイてねえ。家には一個しか傘ねーから、置き傘とかも当然してない。ユカリは先に帰ったっぽい、っていうか今日稽古日だっつってたからジム直行だろうな。秋人も満もいねえ。知り合いはみんなもう下校したっぽい。詰んだなこりゃ。
出かけるとき空気が湿っぽくてちょっと海の匂いがしたんだ、雨降りそうなときのあのえぐみのある匂い。あの時一瞬戻ろうかとも思ったんだけどさ、寝坊して出遅れてたから早く登校しないとやべえってなって無視したの、今めっちゃ後悔してる。元はと言えば昨日遅くまで配信観てたからなんだけど。途中の試合熱かったな、最後のひとりから三タテするなんてさ。ポケモンバトルでも滅多に見れない展開だったな、おかげで寝るタイミング逃がしたんだけど。
何かをするよりその何かを見てる方が気楽、当たり前だけどさ。ゲームだって同じとこがあるんだ、だから持ってるゲームでも自分で遊ぶんじゃなくて誰かが遊ぶとこを観たりすることが多い。将棋とかでもそうじゃん、見てる方が先が読めるっていうか、一歩引いて全体を眺められるって感覚あるだろ。自分でやってる時は目の前のことに集中するので精いっぱいだし。何かをする、何かを始めるってことは体力のいることなんだ。泳ぐのだって同じ。泳ぎ始めるまでが一番面倒くさいんだ。いざ泳ぎ始めたら案外大したことなんてないんだけど。
ざあざあ、ざあざあ。雨が降り止む気配はちっともなくて、土砂降りの集中豪雨で半端ない大雨だ。このまま一生降ってるんじゃねってくらいの。どうしよっかなあ、別にちょっと濡れたからってどうってことないじゃん、シャワー浴びればリセットできんだし。どっちにしろ汗かいたしシャツとかは全部洗濯器行きだもんな。ああ、靴はダメになるな。新聞紙突っ込んで干しても明日までに乾くと思えねえし。けどいつまでもここで突っ立っててもしょうがねえし、もう諦めてダッシュで家まで帰るかな。どうにかなるだろ。
それからすぐ飛び出してれば、隣に誰か立ってたってことにも気付かなかったと思うんだ。無意識、なんにも意識とかせずに右に目を向けたら、いつの間にか人が立ってたんだ。おれのすぐ隣、軽く手を伸ばせば届くくらいのかなり近い距離。陳腐な表現だけど思いも寄らない、想像もしてなかった人がおれの横にいたわけで。
(……水瀬さん?)
見間違えるはずなんてない。同じクラスにいる、全然絡みのない、けど確かに何度か目が合ってる女子生徒。肝が冷えるって物理的に冷たいものが走るんだな、肝臓辺りに氷でもぶっこまれた気分だ。サッとカバンに手を差し入れるのが見えた。突っ込むじゃなくて差し入れる、乱雑さがない。出て来たのは青いラベルの貼ってあるペットボトル、アクエリアス。おれポカリの方が好きなんだけど水瀬さんはアクエリ派っぽいな、前も飲んでたし。音を立てずに一口飲んで、ふう、と小さく息をつく。仕草一つ一つにいちいちドキドキする。
水瀬さんと関わるのは一ヶ月くらい前、海で偶然姿を見かけて以来。あれからマジで何も起きてない。怒ってるとかでもなさそうだったし。今はどうだろ、やっぱ怒ってる? 顔には出てない。けど顔に出てない方が怒ってると怖いってよく言うじゃん。なんだろ、今度こそ怒られるのかな。けど今ならちゃんと謝れそうだ。許してくれるかは向こうが決めることだけど、謝るってことをしないとおれの気が済まない。
ちらり、視線がこっちに向く。水瀬さん、あの時ごめん、って言いかけたおれの言葉はあっという間にブラックホールに呑み込まれて消えてく。こんなに綺麗な目は初めて見た気がする。言っていいのか悪いのか分かんないけど、おれとかユカリとかとは輝きが違う。宝石みたいだな、宝石の実物見たことないけど。おれの方を見てる水瀬さんは、やっぱり怒ってるとかじゃない。ただおれのことを見てるだけ。
こっちから喋った方がいいのかな、いいよな、あんなことあったんだし。バレないように、いやバレバレなんだけどバレないようにしながら深呼吸して、
「槇村くん」
変なところで息が止まってもう少しでむせるとこだった。無理矢理抑え込んで飲み込んで水瀬さんの方を改めてみる、なんだなんだ、一体全体どうしたってんだ。水瀬さんは身体をおれの方に向けてる。おれも水瀬さんの方を見る、横目とかじゃなくて正面から捉えて。水瀬さんは口を閉じてる、キュッとっていうか、ゆるく、隙間ができない程度に。ヘンな力が入ってない。あちこちカチカチになってるおれと違って。
ここまででもだいぶおれは混乱してたよ、ランターンのあやしいひかりでも食らったみたいに。内心すげえテンパってた。なんでなんでって感じで。だけど、だけど、だ。
「あの……これ、使って」
とても、柔らかな声といっしょに――傘、傘が出て来た。シンプルな透明のビニール傘。サイズはたぶん七十センチ。サイズとかどうでもいいことに目が行くくらい訳分かんなかったって思ってくれればいい、それで合ってる。今の状況をできるだけシンプルに言うと、水瀬さんがおれに向かってビニール傘を差し出してきた。「使って」、って言いながら。傘を使うってことはあれだよな、差して雨露を凌いでほしいってことだよな、それ以外用途思い浮かばないし。
おれがよっぽどビックリした顔してたんだと思う。水瀬さんはちょっと顔を伏せて、「驚くのも当然か」って感じの顔をしてる。それでも傘を差し出した手はひっこめる気配が無くて、傘を受け取ってほしいって強い意志を感じる。ふざけてるとかからかってるとかじゃ断じてない。水瀬さんはそういうことするキャラじゃないって誰が見ても分かる。だからこれは本気で、嘘偽りなしに、おれに傘を貸してくれようとしてる。
手を伸ばしかけて半分くらいで止まる。水瀬さんが持ってる傘は一本だけ、折り畳み傘があるって感じにも見えない。おれが傘を借りたらそれでおしまい。じゃあ、水瀬さんはどうするんだ? 濡れて帰るのか? いやいやいや、そんなことさせられっこない。おれが自分で濡れるのは全然構わないけど、おれが水瀬さんの傘を使って水瀬さんがずぶ濡れになるのは全然構わなくない。
「いや、けど、それじゃ水瀬さんが」
「自分は、濡れても平気だから」
「平気、って……」
彼女が一歩前に出てくる。傘をおれの手にそっと握らせる。あくまで丁寧に、無理強いはしなくて、でもはっきりとした強い意志で。すごくしっとりした手だ、瑞々しい。息が止まる。息ができなくなる。こんな風に手を繋がれたのは初めてだ。心臓がすっげードクドク言ってる。おれと手繋いで嫌じゃないのかな、嫌じゃないからこうしてるって思っていいのかな。水瀬さんの手に少しだけぐっと力が篭もるのを感じる。頭ん中真っ白になりそうだ。
どうしようもなくて、おれが水瀬さんの手から傘を受け取る。そうしないと水瀬さんは決して手を離さないと思ったから。おれが傘を受け取ったって分かったみたいだ、水瀬さんがそっと手を離す。彼女の掌に包まれていた手の甲が外気に晒されるのが分かる。感覚が滅茶苦茶敏感になってる。
「槇村くん」
「風邪、引かないでね」
歩いていく。軽やかな足取りで、おれに背中を向けて。水瀬さんは降りしきる雨に打たれながら一度も立ち止まらずに歩き続けて、あっと言う間も無く視界から外れてしまう。言葉が出てこなかった、何か一言くらい言いたかったのに、言うべきだったのに、言えたはずなのに。持って行きようのない気持ちが胸につかえる。思わず掌に力が入って、手にしたビニール傘の感触が伝わってくる。
無言で傘を差す。広がった傘が雨粒を弾いてるのが見える。一歩前に踏み出す、体が濡れない。おれは今確かに傘を差してる。持って来なかったけど水瀬さんがおれに貸してくれた。雨の中歩いてる、傘を差して塗れずに。その傘は水瀬さんから渡された。いくらなんでもちょっと現実味がなさすぎる。口の中をそっと噛んだ、普通に痛い。夢とか妄想とかみたいな現実以外の何かじゃなさそうだった。
なんで――なんで水瀬さんは、なんでおれに、なんで傘を貸してくれたんだろう。なんで。その言葉ばっかり繰り返されて、頭の中でゴム毬みたいに延々弾んで止まらない。これ、いつか答えが分かるのかな。いつか分かる時が来るのかな。
今のおれじゃ、答えが分かるのかどうかも分からない。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。