泳いでるときに「泳いでる」ってこと以外のことを考えると泳ぐのが捗る気がする。いい意味で気が散るって言うか、いやでも気が散るっていい意味あんま無いよな。実際違うこと考えてると距離が短く感じるんだけど、なんて言えばいいんだろ。ながら泳ぎ? これもあんまいい感じしないよな。体の方はちゃんと動かしてるわけだし。テキトーこいてたら止まっちゃうからな、かといって泳いでるって考えてるわけでもないんだ、頭の方は。
じゃあ体とは別に頭の方で何考えてるか。水瀬さんのこと。一週間前に傘貸してもらってからもうずっと考えっぱなし。女子のこと日がな一日考えてるなんてさ、他のやつに知られたらヤだよな、だらしねーやつって思われそうで。顔とか口に出てないかいっつも気にしてる。気にしてるけど考えるのはやめられなくて、ホントどうすりゃいいんだか。
傘は返した、一応、しっかり。他の人がいない時を見計らって、だいぶそわそわしてたと思うけど、ちゃんと水瀬さんの目を見た。逃げるな自分って言い聞かせて。毎朝先に仕事に出てく親父から弁当箱を受け取る時に「ありがとう」って言ってるんだよな、おれ。親父に言うときの数十倍か数百倍くらい気合い入れて「ありがとう」って言った、水瀬さんに。気合い入れたから声はなんとか普通っぽくできたと思う、少なくとも裏返ったりはしてなかった。人生で四番目か五番目くらいに緊張してたけどさ、どうにかこうにかお礼言ったわけ。言う前は続けて「この間はごめん」とか言おうとしたけど、「ありがとう」って言っただけでもういっぱいいっぱいで。
そこへさ、ほんの少し頬が緩んでる水瀬さんの顔が飛び込んで来たらさ、くらっとするよな、おれじゃなくたって。
槇村くんが濡れなくてよかった、蕾のような唇が小さく開いて、おれにだけ聞こえるように出て来た言葉。すっげー柔らかな声だった。川のせせらぎが聞こえてくるみたいな声色って言えば伝わるかな。おれ例えが下手くそだってユカリによく言われるんだ。ちょっと自信ない。でも頑張って言葉にしたい。瑞々しいってこういう仕草とか言葉遣いを指すんだって思った。普段あんま使わないし意識もしないから新鮮さがすごいんだ、マジで。水瀬さんは海で見られたときのことを根に持ったりしてないみたいだ、ならわざわざ言う方が野暮って感じがした。だからおれはもう言わないことにした。しつこく引きずるのはおれの性分じゃない。
泳ぎ始めてから何回くらい壁ターンしたかな、途中から数えるの忘れてた。水に入って二十分くらい、流し気味だったから八百くらいかな。やっぱ別のこと考えてる方が距離意識しなくて疲れにくい気がする。余計な力が抜けるからだろうけど、それにしてもおれ水瀬さんのことしか考えてねえ。ほんの少し頭に思い浮かべた途端、水道の蛇口がめいっぱい開いておれの空っぽの頭をいっぱいにしていく。透明で青い水で満たされて、意識が海の中へ潜っていく。現実の音が篭もって聞こえて、視界も何見てるのかハッキリしなくなる。代わりに水瀬さんの声とか姿とか仕草とかが猛烈に鮮明になってくんだ。会ってからまだ三か月も経ってないから記憶の絶対量は滅茶苦茶少ないんだけど、少ない記憶がパソコンでコピペキーを押しっぱにしたときみたいに増えてく。やばい勢いで、洪水みたいに。
たぶんこれで千メートル、いったん上がってストレッチでもしよ。プールサイドへよじ登る。この時に感じる何とも言えない体の微妙な重さ。水の中にいる時はあんまり分かんねえんだけど、上がる瞬間になると全身フルに使ってるのを自覚させられる。別に気持ちいいってわけじゃない、でもちょっと達成感があるからどっちかって言うと好き。園田と湯浅に言ったら「そりゃねーよ」って返されたけど、おれの中にはあるんだ、確実に。
「マッキーせんぱーい」
「よっす、上月」
「泳いでたんですか?」
「今さっき終わったばっかだな」
水瀬さんって泳ぐの得意そうだけど、ジムに来たりはしてないのかな。月二千円かそれくらいで飽きるほど泳げるから、おれはヒマさえあれば来てる。もっと他にすることあらへんのか、ってユカリにしょっちゅう突っ込まれてるけど。他にすることって言ったら、家事か勉強かスマホくらいだし。あと時間が合えば配信とか観るくらい? 趣味らしい趣味ねえな、おれって。
「新高ってどんな感じですか?」
「あんま特徴ねえけどなあ。授業中に騒いだりするのはいないって感じ」
「あ、やっぱりいないんですね」
「そういうのは大体広高行くか出てくかするし」
「そっかぁ。じゃ、私も新高受かれるようにがんばろっと」
「凪高は考えてない?」
「考えてないです。私ジモティーなんで」
「ジモティーって」
「え? センパイも言いませんか? ジモティーって」
「言うけどさ」
「言いますよね」
「けど上月が言うとちょっと面白い」
「えー」
「けど極端だよな、一生ジモティーか一生帰ってこないかのどっちかって」
「ですよねー。あ、でも」
「でも?」
「この間、旅立ってた友達が帰って来たんです。で、また榁で暮らすって」
「マジで?」
「マジです。楓子ちゃんって言うんですけど」
「カエデって字書く方? 風じゃなくて」
「知ってるんですか?」
「ユカリから聞いたことある、大分前だけど。剣道やっててさ、更衣室でたまに一緒になるとか言ってたな」
「それです、その楓子ちゃんです。ちょっと前に帰ってきて、また稽古始めたんですよ」
息乱してるとことかいっぺんも見たことないな、水瀬さん。どんな時でも落ち着いてる。体育の授業の後でも汗ひとつかいてなさそう。いや見たわけじゃないから分かんねえよ、さすがにそこまでジロジロ見てるわけじゃねえから、おれだって。泳いでる姿はまだ見たことないけど、できれば一回見てみたい。きっと綺麗なフォームで泳ぐって確信してる。男子でも女子でもどっちだっていい、早く泳げるやつはすげえってのは揺るがない。
「川村くん、来てからずっと泳いでますね」
「すげえよな、川村は。あんなガチなやつ他に見たことない」
「センパイも大分マジメキャラだと思いますよ」
「それはない」
「えー。自覚ないんです?」
「おれそういうキャラじゃねーし。もっと緩いから」
「自分で緩いとか言っちゃう辺りがバレバレですよ」
「分かんねえなあ」
「川村くんとたまに競争しますけど、ちょっと気を抜くとあっさり負けますし」
「大塚なんてさ、あいつと泳ぎたくねーってちょくちょく言ってるからな」
「いい勝負になっちゃうからです?」
「どっちかっつーと負けるからっぽい」
「それで、センパイにお鉢が回ってくると」
「おれもギリギリ川村より速いくらいだし、その内抜かれるって思ってる」
「ふえぇ、センパイ達観してるぅ」
「いや、実際負けたら悔しいって思うと思う。けど、相手が川村だしなって」
「川村くんだから」
「諦めてるとかじゃなくてさ、そうなるのが当然ってどっかで分かってるんだ」
「はい」
「あいつプロになりたいっていっつも言ってるだろ。ちょっと前のおれもそうだったけど。けど、おれよりずっと本気だから、そりゃおれが負けてもおかしくねーなって」
「センパイも選手になりたかったって、前言ってましたね」
「言ったよな。けどさ、四年ときの大会でおれよりずっとすげーやつがいてさ、こいつバケモンだってなって」
「すごいってなった」
「今こんだけ速いのにさ、強化選手とかなったらもうぜってーヤバいことになる、見てえって思っちまって。で、戦意喪失」
「なんか、ずいぶんあっさり」
「上月はどういうの想像してたんだよ、だいたい想像つくけど」
「ほら、もっとこう、実力の壁にぶつかる、激しい葛藤、苦悩の果てに悟りを開いた……的な」
「ないない。それはない。おれ観る方も好きだから。観る方が好きかも知れない」
「やっぱりセンパイ、悟ってますって」
「そりゃゴールした瞬間は悔しかったけど、それよりこんなやべーやつと泳げたんだってのがデカかった」
水瀬一海、涼やかでいい名前だなって勝手に思ってる。海がすごく似合う、っていうか海から生まれてきたみたいな雰囲気の名前だ。ホントは海じゃなくて誰かの腹から出て来たってのは分かってるんだけど。名前からして綺麗ってビビるよ、本人のイメージにピッタリすぎる。すっげーしっくり来る、合わないとか奇妙とかそういう感覚が全然ない。違和感とかもうゼロゼロのゼロ。昔から知ってるみたいな錯覚あるんだよな、初対面、高校入ってからなんだけど。
「なんか、ゆかり先輩と正反対ですね」
「あー。あいつ、絶対自分でやらなきゃ気が済まねー性質だもんな」
「昨日もバトルしたんですけど、もう強くて強くて」
「上月もだいぶ強いのにな。リーダーからもアテにされてるし」
「たまにお手伝いさせてもらうくらいですよ」
「まあ、ハワードがやべーのは分かる。あいつ無茶な強さしてるから」
「ですです。でも、ゆかり先輩本人も凄いんですよ」
「ちょっと分かんねえなそれ」
「分かりません?」
「だって戦うのはポケモン同士じゃん」
「形の上ではそうです。でも」
「でも?」
「トレーナー同士も、お互い気迫のぶつけ合いをしてるんです」
「そういうこと」
「そういうことです。ゆかり先輩はそれがすごく強くて」
「前に出るって気持ち強そうだもんな」
「ホントにそうです。その通りです」
けど意外って言うか考えもしてなかった、ユカリと知り合いだったとか。見てると結構仲良いっぽいし。全然接点無さそうなんだけど、おれの知らないところでなんか仲良くなるきっかけあったんだろう。ユカリとまったく面識ない連れならおれにだっているしな、園田とかあの辺。何があって知り合ったのかは気になるっちゃ気になる、でも訊いていいかって言われると微妙だ。あくまでユカリと水瀬さんの関係だもんな、おれが関わっていいかはおれが決めることじゃない。
小中って別だったのは間違いない。アルバム見たけど川上中には水瀬って苗字の女子はいなかった。川上中は校区内の三つの小学校から上がってくるけど、そのどこにもいなかったってところまでは分かった。家とかかなり離れてるんじゃないかな、住所知らねえけど。っていうか教えられてもないのに住所知ってたらやべーだろ、おれストーカーじゃん。水瀬さんのことアレコレ考えてるのは自覚あるけど、付きまとったりはしてない。おれはそういうのカッコ悪い、ダサい、みっともないって思ってる。おれはおれがカッコいいと思うことをしたい。
「全然違う話しますけど、センパイ今日何作るんです? 夜」
「辛いもん食いたいから、麻婆豆腐でも作ろっかなって思ってる」
「なるほどぉ。今度お姉ちゃんから食べたいもの訊かれたら言おうっと」
「上月が作ることもあるんだろ」
「ありますあります。遅くなる時とか」
「作るのもまあ面倒だけど、洗い物が面倒なんだよな」
「わっかるぅー。食器見るとげんなりしちゃって」
「親父が大体やってくれるんだけどさ、一人ん時おれがやらなきゃいけないし」
「よく出張行くって言ってましたね」
「しょっちゅうだよ。あちこち行って大変そうだし」
「ほんと、センパイくらいですよ、お父さんのこと鬱陶しがってないのって」
「親父いない方がよっぽど鬱陶しいって。家事全部おれがやるわけだし」
「センパイらしいですね」
「上月の中でおれがどんな風に見えてるのかわかんねえな」
「大丈夫ですよ。センパイと話してると、お父さんのこととか素になれて、落ち着きます」
私、ちょっと泳いできますね。上月がベンチから降りて端のレーンへ歩いていく。そろそろ泳ぎたくなってきたな、軽く体ほぐしておれも行こう。立ち上がって伸びをしてから、腕の付け根とアキレス腱を重点的にストレッチする。軽く動かすだけで微妙に感じてた痛みが氷が融けるみたいに引いてくのは身体があったまってきた証拠だな、この感覚は悪くない。
それじゃ、行くとするか。
危ねえ危ねえ、麻婆豆腐作るぞって意気込んでたのに肝心の豆腐買い忘れるところだった。途中で気付いたからセーフだなセーフ。どっちかっつーとアウトなんだけど。
辺りは見えるけど薄暗くて、暗幕でも掛かってるみたいな風景。見慣れてるっちゃ見慣れてる、けど落ち着くかって言うと落ち着かない。微妙な時間帯だな、夕方から夜になろうとしてるのって。変な例えだって承知で言うけどさ、一日を人生に置き換えたらってたまに考えるんだ。朝日が昇ると暗闇から光のある世界になる、生まれたての空って感じだ。それからどんどん明るくなって、真昼間でちょうど十歳くらい。一番輝いてる。で、そっからだんだん暗くなってって、明るいだけじゃないってなるのが夕方、おれくらいの年齢。後は暗くなるだけ、大人になったらお先真っ暗。実際真っ暗ってわけじゃないのかもだけど、楽しそうにしてる大人はあんまり見ない。ペリドットのマスターとかリーダーくらいかなあ。
こういう訳わかんないこと考えながら歩いてたから、後ろから誰か近付いて来てることにマジで気付かなかった。
「槇村」
「お、小鳥遊」
誰か、は小鳥遊だった。同じクラスの男子、背はおれよりちょっと高い。体つきは普通かな、運動やってますって感じじゃない。チャラくはないけど地味って感じでもない、クラスの中心に近いけど中心にはいないタイプ。ダーツの的で言うと中心から二番目と三番目の円の間くらいに刺さってそうなキャラ。おれはどこだろ、四番目の真ん中くらい? 高校に上がってから話すようになった、てかそれまで接点全然なかった。繋がりを持ちようがなかったって言うのが正しいな。
最初に「どこ中?」って訊いた時「行ってない」って言われたから。
「どこ行ってたんだ?」
「ジム」
「ポケモン連れてたっけ」
「おれは連れてない。体動かす方」
「ああ、そっか。そっちの方」
「普通ジムって言ったらポケモンの方思い出すよな」
「まあな」
「小鳥遊は特に」
「あんまり言ってくれるなって」
トレーナーやめて新高に編入してきたんだってさ。編入つっても普通に試験受けたらしいけど、内申書見ない代わりに面接があったとか言ってたな。へぇーってなるよな、おれ全員同じ方法で入ってくるもんだってばっかり思ってたから。ジョーシキだって思ってたから。常に疑っていかなきゃな、ジョーシキってのは。
あちこち回ったって聞いた。敷衍とか比和槙とか、名前は聞いたことあっても行ったことない場所ばっかだ。ただなんだ、小鳥遊本人は淡々としてるっていうか、それだいぶいい方に捉えた見方だな、感情あんまりこもってない感じだったから、そっかぁ、くらいしか言えなかった。どっかで地元のやつと偶然出くわして、成り行きでバトルしたらボコボコにボコられて、それでもう止めようってなったらしい。こう言われたらさ、あー、とかしか言えねえよな。だいたいどういう気持ちか分かるし。
「泳いでた?」
「泳いでた」
「すげえな槇村。それで水泳部も入ったんだろ」
「入った。まだ活動全然してねえけどな」
「夏に入ってからだっけ」
「そ。それまでは自主練。けどまともにやってるやつ誰もいないな」
「お前やってんじゃん」
「泳いでないと落ち着かなくて」
「筋金入りだな」
「自覚ある」
小鳥遊は特に部活とかはやらないらしい。どっかでバイトしてるとか聞いたけどなんだったか忘れた。おれ聞いても忘れること結構あるんだよな、人の顔と名前も覚えにくいタイプだし。他人にあんまり興味がないのかもしれない。だから水瀬さんのこと一日中考えてるのは異例ってやつだって自分でも思ってる、マジで異例。水瀬さんの顔がひっきりなしに浮かんでくるって自分でもどんな状態だよって思うけど、嘘偽りナシでそんな有様なんだからどうしようもない。関係ないけど「どうしようもない」って「如何しようもない」って書くんだよな。同じ漢字使った「如何ともしがたい」ってあるじゃん、アレと同じ意味になるとか。この前ユカリが言ってた。こういうことはスイスイ浮かんでくるんだよな、主にユカリのせいで。
「あのさ」
「どうした」
「たまに別のクラスの女子と歩いてるの見るけど」
「三組の四条だな」
「四条っていうのか、あいつ」
「あんまない名字だよな」
「まあな。でさ、なんていうか」
「うん」
「あいつとどういう関係なの?」
「関係?」
「そう関係」
「あれだよあれ、幼馴染っていうやつ」
「幼馴染なのか」
「ああ、幼馴染だったんだ」
とか言ってたらユカリの話が出て来た。おれとユカリ、他人から見たらどんな風に見えてんだろうな。彼氏と彼女とか? ユカリが聞いたら「あんたの目ぇ節穴やろ」くらい言ってのけそうだ。彼女っていうのがどういうポジションっていうか存在なのかぼんやりしてるけど、ユカリはシンプルに友達だって認識で、もっと言うとしょうもないこと一緒にやる気の置けるツレだって思ってる。いや違う、気の置けないだった。なんで否定してる方が仲良いって意味になるんだろうな。さっぱり分かんね。
「幼馴染ってさ」
「うん」
「こうやって口に出して言ってみると結構こっぱずかしいな」
「あんま口に出して言う言葉じゃねーしな」
「だよなあ。そっか、水瀬と一緒にいるの、四条ってやつだったのか」
「なんか一緒にいるのよく見るんだよな」
「四条と学校違うはずなのにな、どこで知り合ったんだろ、水瀬」
「小鳥遊さ、お前水瀬と同じ小学校だったって言ってたよな」
「一応な、一応」
泳ぎまくって火照った頬を、夜が冷やした風がなでていくのを感じる。今日の空気は軽い。もうじき夏って感じるぼってりした質量のあるやつじゃなくて、スッとする軽やかな空気。これは純粋に気持ちいいから好きだ。夏っぽい方はどうだろうな。鬱陶しいしじめじめするし、好きって程じゃない。けど大嫌いかって訊かれるとそれもまたちょっと違う。もうすぐ夏なんだって実感は確かに得られるから。あってもありがたくないけど、無いと物足りなくなる。ホントに空気みたいだな、空気だけに。
今年もまた、夏が来る。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。