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#07 On Your Mark

学校で練習すんのとジムでトレーニングすんのって違うのかって言われると、中身はあんまり変わらない。千メートルくらい泳いでストレッチして、また泳いで体解してって感じになる。屋外か屋内って違いはある。当たり前だけど外で泳いでると日に焼けてひりひりする。風呂入る時とか痛ぇんだけど、泳いだ後のだるさとかと同じで、滅茶苦茶嫌いってのとはまた違う。たくさん泳いだんだなって軽い達成感がある。掛けた時間とか泳いだ距離とかを自分の体で実感できるのが好きなんだ、おれ。

けど隣にいる秋人にはたぶん伝わらないだろうなって思ってる。泳ぐのは嫌いでもないけど好きでもないって感じだし、運動自体できるけどやらねえってタイプ。体育の時間にそこそこの記録出したり大体の種目をそつなくこなすけど部活はなんもやってないってやついるだろ、秋人はそのキャラ。言っておれも体育会系? って訊かれたら違ぇよって返すけど。そこまで熱意があるって自覚持ってないし、おれ。

「羽山さ」

「ん?」

「姉貴帰ってくるのいつだったっけ?」

「今年の冬。年末だって言ってたな」

「マジか、結構長いな。一ヶ月くらいとか思ってた」

「よく行くよな、宇宙とか」

「行くよな、すげえって思う」

秋人には姉貴がいる。四つか五つくらい離れてるって話だ。だいぶ前に秋人と商店街でぶらついてた時に声掛けられたことがある。基本明るくて元気なんだけど頭の回転物凄く速かったんだよな、ユカリから静都人的なウケ狙い要素を減らして代わりに頭の回転速度を二倍くらいにするとああなる気がする。マンタインってさ、表は黒の裏は白じゃん、色。で、そんな見た目だからどっか遠くの国だと「天使と悪魔が表裏一体になった畏れ多い生き物」って扱われてる、みたいな話が会話の中でフツーに出て来るんだ。マジかと思って後でネットで調べたらマジ話で余計驚いた。

一応弟の友達とは言え初対面のおれと一瞬で打ち解けて、頭の回転もカポエラーがグルグル回って穴掘る時より速くて、何者なんだこの人って思ってたら、秋人から「宇宙飛行士になったんだ」って聞かされて、ああって手を打った。この間ユカリが命名してた手ポンってやつ。小さい頃から宇宙へ行きたくてずっと勉強とかトレーニングとかしてたんだってさ。それで念願かなって、去年に宇宙ステーションの長期滞在者に選ばれたって流れだ。夢に向かって一直線に真っ直ぐ駆けてく、ドードリオみたいな人だなって思った。

行きたいからって宇宙まで行く根性すげえなって感じでおれは思ってるんだけど、秋人の方はなんかそうでもないっぽい。宇宙とかなんで行くんだよ、とか、行く意味が分かんねえ、って事あるごとにおれにぼやいてる。断っとくと秋人は姉ちゃんべったりってキャラとは違う、ただ自分の手が届かないところへ行くのがなんか面白くねえのかなって考えた。一人っ子だから想像するしかねえけど、なんだかんだで頼りにしてた上のきょうだいが居なくなるのって、それまで階段に付いてた手すりが無くなるようなもんなのかもな。登れるけどしっくり来ないっていうか。

「あのさ」

「うん」

「ポリゴンも一緒に行ったんだっけ、姉貴が前連れてた」

「イグゼだろ?」

「そうそう、その名前のポリゴン」

「行った。向こうで元気にしてるって連絡来た」

「宇宙でも活動できるってマジだったんだな」

「そういう風に作ったんだって、北川さん言ってたからな」

担いだ望遠鏡を直しながら秋人が言う。これから屋上へ行って太陽観測をするって言ってたな。秋人は天文部に籍を置いてる。メンバー少ないけど、一応部活としては成り立ってるみたいだ。水泳部も似たようなもん。おれと他数人が入ったからかろうじて廃部は免れたとかで。夏は星がよく見えるから観測には向いてるとか、けど冬の間にしか見えない星があるとか割といろいろ聞かされた、テンション高めに。中学ん時なんか、飯食ってぼんやりしてたら星見に行こうぜって言ってあっちこっち連れ回されたの覚えてる。ユカリもノリノリだったっけなあ、あの時は。

「スピカもな、寂しいよな。イグゼがいなくなってさ」

「そっちはマルマインか」

「そう。見てみろって、ボールの中にいるから」

「ボールの中にボール入ってるのちょっとウケるな」

「まあ見た目まんまモンスターボールだもんな、デカさは全然違うけど」

スピカ、秋人の連れてるマルマイン。もう四年くらい前か、進化する前の……あ、思い出した、ビリリダマだビリリダマ。ビリリダマだった頃に家の近くで転がっててあぶねえから捕まえたとか言ってた。その割には気に入ってるっていうか愛着あるみたいで、こうやっていつもボールに入れて一緒にいる。さすがに外に出しとくのはまずいみたいだからやらねえけど、おれとかしかいない時とかは割としれっとボールから出してる。転がって移動するんだけどさ、やたら速いんだよ。ちょっと気を抜くとおれと秋人が抜かれてるくらいに。

ユカリのハワード、秋人の姉貴のイグゼ、それから秋人のスピカ。トレーナーじゃないって人も大抵一体はポケモンを連れてる、相棒みたいに。おれみたいに誰も連れてないってのはちょっと珍しい。だからってポケモンを連れ歩きたいとか欲しいとか思ったことは一度もない。誰かの隣にいるってことは、その誰かに対して隣にいる責任を持つってことで、それが人間だろうとポケモンだろうと変わることなんてない。そう考えると、軽々しくポケモンを捕まえて自分のものにするってのはなんか違う気がするんだ。ユカリや秋人がそういうノリでハワードやスピカを連れてるってわけじゃない、単におれの身に置き換えたらそう思うだけって話。

ボールの中でくつろいでるスピカを見てたら秋人がサッとボールをカバンへしまって、それからおもむろに話を振ってきて。

「なあ透。前から思ってるんだけどさ」

「なんだよ急に」

「お前、海で泳ぐことってねえの?」

「海で」

「水泳部入るくらいだし水泳ガチ勢だと思ってるんだけど」

「ガチ勢なのかな、おれ」

「俺からするとEVOに遠征するくらいのガチ勢」

「水泳と格ゲーって合わなさそうだな」

「イメージできねえなあ。まあ、あれだ、なんか透が海ん中にいるとこ見た記憶ねえなって思っただけだから」

秋人のやつ、天体観測しててバカみたいに遠くのモノ見てるくせに、近くのモノまでちゃっかり見てるんだな、言う通り過ぎて返事が出てこない。確かにおれはもうずっと海じゃ泳いでない。おれが泳ぐって言ったらプールで、海にはもう長いこと入ってない。夏になってもそれは変わらない。海が嫌いなわけじゃない、なんにもせずぼーっと見てるのは好きだ、波の音を聞くのも好き、砂浜を散歩するのもしょっちゅうやってる。でも、入ろうとはしない。

もし海へ入ったら、何もかも、何もかもみんな、海へ持ってかれる気がしてるから。

「んじゃなー」

「じゃあな」

って具合で適当なところで別れて、くたびれたプールバッグをぶら下げて更衣室の方へ行く。おれ以外には誰もいない。中はほとんど換気されてなくて、水っぽさと塩素っぽさが入り混じった湿気た空気でいっぱいだ。ただ居るだけで体が水っぽくなってくる。ボタンを外したシャツに続けてランニングを脱ぐ。仄かに汗の匂いがして、鼻の辺りがくすぐったくなった。ズボンから足抜いて適当に折り畳むと、トランクスを脱いでサポーターと水着の順に穿く。股の辺りがごわごわした感じになったのをちょっと直す。学校指定の水着ってなんでブーメランの方なんだろうな、ケツの辺り妙にソワソワするし好きくない。キャップとゴーグルを掴んでロッカーの鍵締めて、鍵のゴムを左手に引っ掛ける。これで終わり。次はシャワー。

シャワーって必ず更衣室とプールの間にあるよな、映画とかで見る黄色に黒のマークが付いたやべー実験室とフツーの場所の間にある滅菌部屋みたいに。身体に付いてるもん全部落としてから行き来しろっていうことで、考え方は同じなんだろう。手のひらで握りしめるタイプの蛇口……っていうかバルブの方が近いな、それを緩める。角が丸くて四角いアーチ状のパイプに空いたたくさんの穴から、待ってましたと言わんばかりに勢いよく水が吹き出す。冷てぇ。竹串みたいな水で肌をガリガリ削られる感じ、何回やっても背筋がビリビリする。けどいつも十秒も経たないうちに慣れてきて、まあこんなもんかって気持ちになるんだ。ベトついた肌を洗い流して、ついでに髪もよく洗う。

続けて準備運動。腕と脚を十分くらい使ってめいっぱい伸ばす。前屈して身体痛くないくらいでちょうどいい。特に脚はしっかりやっとかないと、自分で思ってるより簡単に攣ってヒドい目に遭う。小学校に上がりたての頃にこれで溺れかけてからすっげえ意識してるんだ、おれ。他に誰もいないおかげでおれのペースでやれるのはいい、ストレッチをテキトーに済ませるやつも少なくないからな。ちょっと汗かくくらいでちょうどいいと思うんだ、うざったくてもどうせプールん中入ったら全部洗い流されるんだし。筋肉がほぐれたか触って確かめてみる、いい具合だ、あったまってるのを感じる。

にしても、だ。マジで誰も来ねえ。先輩たちはジムの方行くって言ってたし、湯浅も用事、確か図書委員会があって遅れるんだっけ。おれ独りで練習すんのも別に悪くねえけどさ、やっぱ他に居た方が張り合いがある。誰か来ねえかなぁ、って思わず声に出して言いそうになったときだった。

「あれっ」

別の声が出た、思ってたのとは違う。出た声も、目にした光景も。更衣室から出てくる人影、おれが出て来た向かって右手じゃなくて左手の方から。バルブをひねる音、シャワーが吹き出す音、溜まった水が排水溝へ流れていく音、全部クリアに聞こえる。二十秒くらいかな、それくらい経ってシャワーが止まった。ペタペタと小さな音を立てて歩いてくる。水着から伸びる白雪の肌に零れて流れ落ちる水滴を拭うこともせずに、陽光に灼かれて乾ききったプールサイドにくっきりと水で足跡を作りながら。十二、十三、十四歩。立ち止まる。前に垂れた黒髪をさっとかき上げて、瞳が露わになる。瞳の向こうにいたのはおれ。おれの目に映し出されていたのは、

「水瀬、さん」

だった。

涼しげに潤んだ目、柔らかな視線。プールにいるのはおれと水瀬さんのふたり。聞こえてくるのはグラウンドで練習してるサッカー部連中の声と、ミンミン鳴いてる蝉の声ばっかり。水瀬さんはおれを見てる、自覚するのにいつもの三倍くらい時間が要った。傘貸してもらったときと同じように限界に面食らってたのは間違いない、フォロー入れるみたいに水瀬さんの方から声を掛けて来たから。

「びっくりした?」

「……あ、いや、えっと」

なんだこれ、なんだこの返答、全然まともに喋れてねえ。いや無理だって、いきなり過ぎだろ。なんでここに水瀬さんが来るんだって。言っとくと彼女が来たのが悪いってわけじゃねえんだ、新高水泳部は人数少なかったりとか大会前とかじゃなかったら部員以外が練習してもいいとかいうユルユルの部だから。だから来ておれと無関係に泳ぐってならおれが文句を言う筋合いはどこにもない。無関係、ってのはついさっき無くなったけど。

水瀬さんの全身を間近で見るのは初めてだった。すらりと伸びた脚、締まった腕と脚、おれと同じか少しだけ高い背丈。女子の中では高い方だった気がする。水泳に向いた躰だって感想が一番に出て来た。ジムにいる上月や崎山をもっとシャープにした感じだ。もし自由形で競争したらどうなるだろうな、きっと速いに違いない、けどおれも簡単には負けない。

「槇村くんはこれから練習、だよね」

「あ、うん。水泳部だからさ、おれ。ジム行こっかなあって思ったんだけど、今日せっかくプール空いてたし」

「泳ぐの、好きなんだね」

「ま、まあ。あのっ、けど水瀬さん、なんでここに」

「えっと、それは」

「あ、いや、来てもいいんだ、全然いい、悪いって言いたいんじゃない、それは絶対違う。人少ねえし来るのは全然オッケーなんだ、マジで」

「槇村くん」

「けど、あのさ、だったらおれここに居るの邪魔じゃねえかなって。水瀬さん泳ぐんだったら、おれ」

言いたいことが上手く伝わらないのって猛烈に歯がゆい、これじゃおれが水瀬さんを迷惑がってるみたいじゃん。違うんだ、プールにいたって構わない、おれがどうこう言うことなんてちっとも考えてない。そうじゃなくて、その、水瀬さんがおれに声を掛けてきたのはなんでだろう、って。

「あの、槇村くん」

「いっ」

「いきなりだけど――勝負してくれる?」

全部吹っ飛んだ、考えてたこと、言おうとしてたこと、まとまらない思考、こんがらがった言葉。全部。紙吹雪を扇風機でぶっ飛ばしたみたいに、思いっきり跡形もなく。

「五十メートル泳いで、先にゴールした方が勝ち」

「ってことは、水泳」

「お互いプールにいるし、水着着てるしね」

「そ、そりゃそうか」

「もし、競争して自分が勝ったら、槇村くんにひとつお願いを聞いてほしいな」

「ええぁっ」

滅茶苦茶変な声が出た。どういう展開なんだって思う。水泳で競争? おれと水瀬さんが? なんでこんな流れになってんだかさっぱり分かんない。水瀬さんもなんか考えがあるんだろうけど全然思いつかない。

「槇村くんが勝ったら、自分もお願いを聞く。これでおあいこ」

「おれが、水瀬さんに」

「なんでもいいよ。自分にできることなら、なんでも」

で、負けた方が勝った方の言うことを聞くって賞品付き。何から何まで意味不明っていうか、突飛もないっていうか、夢でも見てんのかって。かんかん照りの太陽はくそ暑いし、シャワーを浴びたところだけは濡れて冷たいってハッキリ分かるから、夢じゃないのは間違いないけど。

ただ、ただ、だ。競争はしてみたい。戸惑いっぱなしの心の中で、泳ぐ速さを競ってみたいって気持ちだけはちっともブレてなかった。純粋に力を試してみたい、おれと水瀬さんの。泳ぐのがもう完全に日課になってるせいかな、泳がないと落ち着かなくなってシャワーとか浴びてごまかすくらいだし。どんな感情よりも先に、競争したいって思いが一番乗りでおれの頭へ突っ込んでくる。

先のことは後で考えればいい。受けて立ってやる。

「分かった。50メートル一本、おれと水瀬さんで競争だ」

「うん。そう来なくちゃね」

口元がほころぶ、ほほが緩む、目が細くなる。誰が見ても笑ってるって理解できる水瀬さんの顔、おれに向けられた表情。もしちょっと前まで準備運動して体あっためてなかったら、心臓発作起きてあの世行きになってたかも知れないくらい、ドキッとした。ユカリが持ってたすっげー古い少女マンガ読んだことあるんだけどさ、男キャラがクサい台詞を吐いてさ、主人公女子がそれに「ドキッ」みたいなシーンがちょくちょくあったんだよ、マジで。こんなんマンガだけだろ、しかも古くさいやつ、誇張しすぎってシラけてたんだけどさ、実際似たシチュに置かれてみたらあれ結構リアルなんだな、今でも通用するんだな、古くさくなんてないなって分からされたよ。男女の立場逆だけど。

おれレーン作るからさ、その間に準備運動してて。一言断って、隅っこに丸めて置いてあったコースロープを引っ張っていく。ありがとう、水瀬さんの声が耳から流れ込んで鼓膜を揺らす。頭をぐわんと揺らされる感じ、心をがしっと掴まれる感触、体がふわふわ浮く感覚。たった五文字の言葉に体と頭と心の全部が滅茶苦茶翻弄されてる。いや違うんだ、五文字の言葉なんかじゃない。言葉を作り上げてる音の一つ一つ、それが底まで見える混じりっけの無い透明な水みたいに澄みきってて、綺麗なものに慣れてないおれをガンガン揺さぶってくる。同じ女子でもユカリや上月と話してる時とは全然違う、別の世界と繋がってるみたいな感覚だ。

いつもより少しだけ手こずったけど準備はできた。サッとプールサイドに上がって水瀬さんに目くばせする。準備運動は済んだみたいだ、頷いて応じてくれた。揃って飛び込み台に立つ。合図は自分が出すよ、水瀬さんの言葉に同意する。ゴーグルに手を掛けて、ちらりと彼女の様子を伺う。涼しい顔をしてまっすぐ前を向いている。おれの姿は見えてないに違いない。いい構えだ、水泳はあくまで個人競技、敵は隣のレーンのやつじゃなくて自分自身だ、水瀬さんはそれを分かってる。じゃあおれも本気で応えるのが筋ってもんだ。親指で水滴と曇りを拭い取ってからスッとゴーグルを下ろす。水瀬さんの姿はもう見えない。見えているのは自分が突っ切るレーンだけ。ゆらゆら揺れる透明な水面、シンクロするように落ち着いていく。もし俺が勝ったら? 勝てた時に考える。今はそんなことどうだっていい。やるからには全力でやる、相手が誰々だからって手を抜いたりするの、おれは嫌いだ。

「スタートっ!」

一瞬の遅れもなく壁をキックする。身体が水を力強く切っていく感覚、ぞくぞくする。右手で水を掻く、ぐんと前へ進むのが分かる。左手が続く。感覚的にはもうプールの中ほど、おれは体感を信頼してるからたぶん当たってる。水を蹴る脚が推進力を生み出して、水を掻く手がゴールを手繰り寄せる。泳いでる時はすごく純粋になれる、ただ前へ進めって、ゴールまでぶっちぎれって。普段てんでバラバラな頭と心、それから体が、たった一つの目的のために一丸になる。銃から撃ち出された弾丸にでもなった気分。好き、すごく好き。生きてるって感じがするんだ。

誰と競争しているか、今のおれにはどうだってよかった。今はただおれより速く泳ぐだけ。一年前の、一か月前の、一週間前の、一日前の、一時間前の、一分前の、一秒前のおれより速く泳ぎたいって気持ちしかない。指先が壁をタッチした、ターンして壁を蹴るその一瞬だけ、水面から顔を出して息を吸う。人間なのが悔しいな、もしおれが水に棲んでるポケモンなら、ずっと水の中にいても息苦しくならないのに。ポケモンみたいにずっと水に潜ってたくて、風呂の中で息止める練習ばっかしてた頃があった。けどおれは人間で、どうやったってニンゲンで。おれがニンゲンだってことが歯がゆくて、遮二無二前へ突き進んだ。

壁に頭をぶっつけそうな勢いでゴールする。腕でガードして勢いを殺した。顔を上げてゴーグルを外す。おれ誰かと競争してたよな、ああそうだ、水瀬さんだった。勝ったのはどっちだろう、どっちだっていいけど、けど結果は知りたい。手でぐしゃぐしゃと水を拭って、左のレーンを泳いでいた水瀬さんに目を向ける。

「水瀬さん」

「自分の勝ち、だね」

タッチの差、本当にタッチの差で、水瀬さんがおれより先にゴールしてた。やりきったって顔、涼しげだけど満足そうな表情。おれの胸がどくどく言ってるのは、全力で泳ぎ切ったからだけじゃない。それだけだったら、十秒もすれば落ち着いてくるから。短いスパンで口から息を吸いながら、目は水瀬さんの瞳に釘付けになってる。

「速かったね、槇村くん。すごく速かった。本気出しちゃった」

ふっ、と瞼が下りた。小さく息を吸う。すごく落ち着いてる、呼吸がちっとも乱れてない、おれと違って。見た目で勝手に泳ぐの速ぇだろうなって思ってたけど、マジで半端ない実力だった。同級生の男子には大体勝てる自信あるし実際勝ってるけど、水瀬さんはもっと速かった。負けたんだな、って気持ちになる。悔しいって気持ちが義務的っていうか条件反射でちらっと浮かんでくるけど、やりきった、満足した、すげえ人と競争できたって想いが後からわーっと湧いてきて、しょぼい気持ちをあっさり押し流していく。

水瀬さんがそっと水を拭う。何も言えなかった。言葉が何も浮かんでこなかった。おれ、今水瀬さんのこと見てていいのかなって気持ちになってる。珠のような雫を艶やかな肌に浮かべて、零れるモノは零れるままに任せて。綺麗ってただの二文字で言い表すのが勿体ない、もっといろんな言葉で飾らなきゃって思う、けどありのままでこんなに美しいのにむやみに飾るのはヤボでしかなくて、やっぱり綺麗ってシンプルに言うのが正解なんじゃないかって気持ちに落ち着く。でも、だけど、それだけじゃ足りないって気持ちがまた浮かんできて、同じルートをたどって沈んで。同じところを自分の尻尾を追っかけるエネコみたいにグルグル回ってる。

「ありがとな、水瀬さん」

「槇村くん」

「水瀬さんが先にゴールした、だからおれの負けだ。けどおれ、全力出せて楽しかった。ホントに、凄かった」

何か言おうって前に口が動いてた。出て来たのはお礼の言葉、フルパワーを出させてくれた水瀬さんへの感謝の気持ち。勝ち負けどうこうが大事な瞬間だってもちろんある、大会とかそういう場じゃ大切なのは分かってる。でも今は違う、負けたって何かが終わるわけじゃない。むしろ、おれより速く泳げる人が近くにいるって分かったのが嬉しかった。目標になる人が居たってのが嬉しかった。男子も女子もくそもない、おれよりデキるやつは目標にするってだけのことだ。水瀬さんが目を大きく開けて、百万円出しても買えそうにない硝子玉みたいな瞳をおれに向ける。

そこには紛れもなく、おれの姿が映ってる。

「自分からも。ありがとう、槇村くん。槇村くんの言葉、力があるよ」

「そんな、おれ大したこと言ってねえし」

「ふふふっ。それじゃあ、最初に約束した通り、ひとつ、お願いを聞いてほしいな」

なんて言われるんだろう、さっきまでと違う理由でドキドキしてる。宿題代わりにやってほしいとか? 水瀬さんってあんま勉強苦手なイメージ無いな、センセイに当てられても涼しい顔して答えてるし。じゃあなんだろ、駅前のカロ飯屋でなんかおごるとかかな。それくらいなら全然大丈夫、ちょっと小遣いきついけど。あとは……マジで思いつかない。なんかおれの弱みを握りたいって感じは微塵もミリもミクロも感じない。だから、本当に何言われるのか分かんなかった。

「明日、自分とふたりで、海へ行ってほしいな」

何を言われてもおかしくないって思ってたけど、けど、出て来た言葉はおれの想像のはるか上、まるで宇宙からおれひとり目掛けて降り注いだ光線みたいで。

「この間の場所で、待ってるから」

水瀬さんからこの間の場所って言われて、おれが思い当たる場所はひとつしかなくて。

ざばあ、と軽やかな水音を立てて、水瀬さんがしなやかな脚をプールサイドへ上げる。ペタペタと柔らかな足音を残しながら、シャワー室の方へ姿が消えていく。

おれと海へ行きたい、水瀬さんの言葉は、おれの中心ど真ん中をぶち抜いた。

「水瀬さんが――おれと、海へ」

かろうじて発した言葉は、夏の熱を帯びた風にさっと紛れて、雲一つない真っ青な空へと瞬く間に融けていった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。