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#08 アオハル/パーマネント・ブルー

来た、海へ。榁の夏らしいカンカン照りの陽気、額にうっすら汗がにじむ。手の甲でそっと拭う。汗かいてるのは暑いからだけなのかな、たぶん違う。海、海へ行こうとしてるから。それに、海で水瀬さんに会おうとしてる。水瀬一海さん、おれのクラスメートの女子。おれは今から海へ行って、水瀬さんと二人になろうとしてる。ほんの少し前までは想像もできなかったって言うか、想像する気すらこれっぽっちも起きないような状況だよな、これ。

手にはカバン。くたびれたプールバッグ。中には水着とタオル、スマホと財布、あと半分くらい凍らせたペットボトル入りの水。学校行く時とかよりもずっと少ない荷物で、手に提げてもヒョロヒョロしてて頼りない。でもこんな荷物でも、おれが今ここにいる、現実でここに立ってるって気持ちにはさせてくれる。もし完全な手ぶらだったら、「水瀬さんと海で会う」っていうシチュの現実味の無さが限界突破して、そよ風でも吹いたらどっかに飛ばされちまいそうな気分だったに違いない。ぐっと手に力を込める。紐が手のひらへ食い込む。ほんの少し感じる痛みが頼もしい。

あの場所はあの場所だよな、誰に言うでもなく呟いた。ほとんど裸の水瀬さんが立っていたあの岩場。石の洞窟入口から十五分ほど歩いたちょっと奥まった場所。この時期になると大概の海辺で誰かが遊んでるってのに、あそこだけはいつ見ても誰もいない。それは今日も変わらず同じで、人っ子一人見当たらない、ついでにポケモンたちも。なんていうか、みんなこの場所を知らないっていうか、見えてないんじゃないかって気持ちになった。人は見えないものを見ることはできない、って当たり前のことなんだけど、誰にも言われずに「見えない」ことを「見えない」って意識するのは難しいから。だから、来ようって気持ちにもならないのかもしれない。

「海かぁ」

海。水瀬さんは海へ行こうっておれに行った。海へ行ってどうするのか、なんて分かりきってる。水瀬さんは泳ぐのが得意で、おれよりも速いって証明してみせた。海岸線に沿って砂浜をのんびり歩こう、ってノリじゃあないよな。濡れてもいい、濡れるための服に着替えてると思う。海へ行って濡れるってことは、まどろっこしくなく言うなら、海の中へ入るってことだ。

プールでは散々泳いでる。昨日だってあのあと一人で延々練習して、それでもなんか足りなくてジムにも行ってきた。泳いでる時はあんまり息継ぎしないけど、でもおれが生きてく上ではほとんど呼吸みたいなもので、自分を作り上げてる大きな一部だって自覚がある。息しないけど呼吸ってなんかヘンだな、ユカリが聞いたら鼻で笑いそうだ。水に入ることは何の抵抗もない。できるんなら一日中ずっと入っててもいいってマジで思ってるくらい。

でも海は違う。水の中へ体を沈めるっていう外面、外形的な部分は同じに見える。だけどおれのなかでは決定的に違うものだ。海はなんでも呑み込む、人もポケモンも関係ない、全部を呑み込んで一つにする。もしおれが海へ入ったら、瞬く間に融けて二度と戻ってこられなくなる、海の一部になってしまう。それは物理的な意味じゃなくて、もうちょっと抽象的で分かりにくい気持ちの問題。海に心が呑まれるって言えばいいのかな。何バカなこと言ってんだかって笑うおれと、そうだよなってマジになって信じてるおれ、二人の背中合わせ。

水瀬さんは、海でおれと何をするつもりなんだろう。何も分からなくて昨日の夜遅くまで悩んだけど、でも約束は破りたくなかった。だって約束破るのって最高にカッコ悪いから。おれはおれがカッコいいと思うことをしたい。だから腹を括って、こうやってちゃんと海までやってきた。

海沿いを歩く。もう水瀬さんはいるのかな、耳をすませて目を凝らす。一瞬視界の淵がキラリと光る。シュッと顔を動かして目線を合わせると、続けて声が聞こえてくる。槇村くん、槇村くん。川のせせらぎを想起させる声、他の誰でもない水瀬さんの声。聞き間違えることなんてあり得ない。水瀬さんは先に来ていて、おれが来たことに気付いたみたいだ。おれが水瀬さんを見つけるよりも先に水瀬さんがおれを見つけた。目がいいのか耳がいいのか、あるいはそのどっちもなのかも。おれも視力と聴力は自信あるんだけど、なんとなく水瀬さんには及んでないって気がしてるんだよな。声の出どころ、水瀬さんのとこへ行かなきゃ。ひょいと身を翻して堤防を下りる。

「おはよう、槇村くん」

「お、おはよう」

岩場の陰に居た、水瀬さんは。前と同じ格好をしてる、まったく同じ。あの後名前調べたんだよな、胸にぐるぐる巻く布のやつ。サラシって言うんだよな、あれ。下はキュッと褌を締めてる。この前遠巻きに見た時とまったく同じで、でも距離が百分の一くらい近いから見た感じが全然違う。あぁ、おれきっと今視線泳ぎまくってるんだろうな、ヘタれた感じなんだろうなって自覚する。水瀬さんの方はどうかって? ちっとも動じてない。学校ではまず見ないような柔らかい目をして、おれのことをじーっと、ちっとも目を逸らさずに見てる。寝てるポケモンを飽きずに見てる子供みたいに。

「昨日は水着だったけど、本当はこっちの方が動きやすくて好きなんだ」

「あ……うん」

「槇村くん?」

「ご、ごめん。この間もだけど、おれ、じろじろ見たりして」

「珍しい格好だもんね。サラシに褌なんて」

「あ、あの」

「うん」

「あの時……六月入る前、ここで目が合って」

「そうだよね。自分も覚えてるよ」

「おれ、あの時ちゃんと水瀬さんに言えばよかったのに、じろじろ見てごめんって。なのにいきなり走って逃げたりして、それで」

「もしかして、気にしてたのかな」

「結構、真剣に。水瀬さんが見られたくないものを勝手に見たって思ってて、おれ」

ずっと喉の奥に引っかかってた言葉がやっと出て来た。ヘンな場所に入った魚の骨がやっと出て来た時みたいな、痛みを伴うけど何かから解き放たれる感触。もういいや、って口では言ってたけど、同じ状況になってみるとやっぱり謝らないと気が済まなかった。だって嫌じゃん、普通に想像したらさ。女子が別に親しくもないクラスの男子に裸に近い格好見られるなんて。水瀬さんの気持ちを勝手に想像してるおれもおれだけど、でもやっぱり、言わないとおれの気が収まらなかったんだ。

ふふふっ。水瀬さんが目を細めて笑う。屈託のないって言葉がバシッと当てはまる無邪気な笑顔。おれ、なんかヘンなこと言っちゃったかな。恐る恐る目線を上げてみる。

「面白いね、槇村くん。槇村くんが恥ずかしがることないのに」

「本当にごめん。もっと早く言えばよかったのに」

「大丈夫だよ、全然気にしてないから。あ、槇村くんだ、ってしか思わなかったもん。本当に」

「水瀬さん」

「そうじゃなきゃ、今の自分だって、こうやって槇村くんの前に立ってないよ」

「確かに、言われてみれば」

「でしょ? これで、槇村くんの気が晴れてくれるといいな」

泳いでいた視線がピタリと止まった。まっすぐ、まっすぐに水瀬さんの瞳を見る。キラキラ光るその様は、陽光を跳ね返して輝く海みたいだ。本当に海みたいな人だなって思う。瑞々しいところ、キラキラ光るところ、全部が海だ、水瀬さんは。

この着装ね、お爺ちゃんに教えてもらったんだ。胸に手を当てる水瀬さんの姿が見える。思い出を振り返ってるんだなって仕草で分かった。水瀬さんにとってのこの姿は、祖父から伝えられた、思い入れのあるれっきとした装束なんだって理解した。あんまり見ない、珍しいのは間違いない。だけどおかしな姿なんかじゃない。誰かから教わったやり方で髪を結ぶのと同じこと。そう思うと、だんだん気にならなくなってくる。それはそれとして、肌がいっぱい出てるのはドキドキするけど。

おれも水着に着替えないと、って思ったのが伝わったんだろうか、それじゃあちょっと外すね、と水瀬さんが気を利かせてくれた。岩場で水瀬さんを待たせたんだから、着替えでもさらにダラダラ待たせるのは嫌だ。どぎまぎして覚束ない手元をしゃんとしろって叱咤激励して、いつもの二割増しくらいの時間かかったけどなんとか着替え終わった。さっきからずっと心臓が滅茶苦茶になってる。やっぱその内バクハツすんじゃないかな、こんなのが続いたら。

水瀬さんが戻って来る、まるで見計らったみたいなタイミングで。着替えたおれを見た水瀬さんが、日焼けしてるね、と口にする。自分はあんまり焼けないから、ちょっとだけ羨ましいな、とも。水瀬さんの言葉は、嘘偽りだとか誇張だとかってものがちっともない。いつ見ても雪みたいに白くて、榁全域に降り注ぐ夏の強い日光をたっぷり浴びても何も変わらない。永久に溶けない氷を見てるような気持ちになる。おれが知ってる人は例外なく光を浴びれば日焼けするから、不思議だって思う。でも、でもだ。それ以上に、不思議だって思う以上に、綺麗だって思う。夜空に散らばった煌めき星が、光ってる原理を知らなくたって綺麗だって思えるのと同じで。

岩場へ置いていた水瀬さんのカバンから、青いラベルのアクエリアスのボトルが出てくる。すっと自然に口を付けて、音もなく液体を飲み下す。動きの一つ一つ、仕草の一挙手一投足が活き活きしていて、それから、やっぱり瑞々しい。瞬きもせずに見ていると、喉がカラカラになってくるのを感じた。口を離したと同時に、左目の視線がおれに向けられる。良かったら飲んで、その言葉といっしょにボトルが差し出された。さっと手を伸ばして静かに受け取る、おれの口をボトルの口へ触れさせる、傾ける、甘味の付けられた冷たい液体が流れ込んでくる、渇いていた喉が潤される。

全身に、水が行き渡る思いがした。

ふぅ、と息をつくおれ。蓋を受け取ってからしっかり締めて水瀬さんへ返却する。ありがとう、その言葉と一緒に。うん、と頷いて、水瀬さんがペットボトルを仕舞う。ほとんど裸のおれと水瀬さんが正面から向かい合う。

「じゃあ、槇村くん」

「行こっか、海へ」

ごくり、と唾を飲み込む。こうなることは分かってた。水の中へ、海へ入るために姿を変えたのだから。

水瀬さんが歩き出す。おれも先へ進もうとする、少なくとも気持ちは。でも、身体が付いて来ない。足が竦んで動けなくなってる。水瀬さんも付いて来ないおれにすぐ気付いた。踵を返して歩み寄ってくれる。そっと肩に手が置かれた。ひんやりしていて心地がいい。水瀬さんの繊手が、千々に乱れていた意識がひとつにまとめていく。息を吸う、息を吐く。バラバラの思いを必死に束ねて言葉にする。水瀬さんへ伝えるために。

「海が嫌いってわけじゃない、そうじゃないんだ」

「槇村くん」

「ちょっと遠くから凪いだ海を見たりとか、波の音を聞いたりとか、潮の匂いを感じたりとか、おれは好きだ」

「うん」

「だけど、海は何もかも呑み込む、おれも呑み込まれそうって気持ちがずっとあって、おれ」

「うん、うん」

「もし海へ入ったら、おれが海の一部になって、海がおれとひとつになって、二度と出られなくなる。そうに違いないって」

訳の分かんない思い込みだって頭では分かってる。おれもなんでこんなところで足踏みしてるんだって怒鳴りたいくらいだ。なんでおれ、海にこんな気持ちを抱いてるんだろう。考えたことも無かった、考えるってことすら考えなかった。だけど今ここへ来て、海へ入るんじゃない、っておれの中のおれが喚き散らしてる。なんでだよ、なんでそんな風な言い方をするんだ。理由を訊ねても分からなくて、それはおれがちゃんとした理由を出すことができないから。言いたいことをはっきり言えない自分が、水瀬さんの足を止めてる自分が、彼女の前で迷ってる自分が、歯がボキボキに折れそうなくらい歯がゆかった。

コンクリで固められたみたいになってる足を見てらんなくて、逃げるように顔を上げる、視線を上向きにする。水瀬さんがいた。おれを目の中に捉えた水瀬さん、瞳が煌めいてる。底なんて見えない深い黒の向こうにちっぽけなおれがいて、海へ投げ出された子供みたいな画になってる。水瀬さんの目っていう海の中にいるおれ、たぶん彼女は意識なんてしてないに違いない。おれが見ているのはおれの目から見たおれを見る水瀬さんで、水瀬さんの目がおれをどう捉えているかなんて分からないから。

微笑む。微笑むのが見えた。無駄な力が抜けている、優しい気持ちが溢れてるって分かる、そんな顔をしてる。おれの感情、気持ち、考え、思考、思ってること、全部見透かされてるみたいだ。だけど嫌な気はしない、根拠なんて一つもないけど、それが自然だって思えるから。困った素振りも嫌な顔もひと時たりとも見せずに、彼女はおれを見つめ続けて、それで、それから。

「槇村くんは海、海は槇村くん」

「いっしょに、ひとつになろう」

時間が止まる。止まったって分かったんだ、時間が。何億倍にも引き伸ばされたゼロコンマ一秒の中で、おれの感覚全部が水瀬さんを捉えてる。逆かも知れない、全部が水瀬さんに捉えられてる。捉えられてる、捕らえられてるのほうが正しいかも知れない。水瀬さんの姿以外何も感じない、聞こえない、見えない。ものすごい質量の無の中に、たったひとつの有として水瀬さんがいる。水瀬さんがすべてで、すべてが水瀬さんで。ああ、これ大分クラっと来てるんだな。かろうじて残ってるおれの中の他人のおれは、そう言うのが精いっぱい。

手が伸びてくる。固まってるおれの手のひらへそっと結ばれる。人の手で丁寧に湿らせた濡れタオルのような感触がした。繋がった、おれ、水瀬さんと繋がったんだ。あっちこっちに絡みついてたものが溶けてくみたいだ。水瀬さんの手から、冷たい熱が伝わってくる。内側から何かがにじみ出てくる、湧き水みたいに。止める方法なんてどこにもなくて、あっという間に全身に伝わってく。寒気や怖気なんかじゃない、冷たいけれど気持ちいい感覚、感触。

「行こ」

ほんの少し身体がよろめいた。水瀬さんが前へ駆け出す、おれの手を握ったまま、強く強く引いて。自然と足が動き出す。前のめりだったのは最初だけ、いつしか自分の意志で駆け出して、水瀬さんと足取りを合わせる。手を引いて走る水瀬さんの目はキラキラしていて、輝いて、瞬いて、煌めいていて。やっぱり星みたいだって思った。やべえくらいの引力でおれを吸い寄せて、吸い込んで、呑み込まれそうなくらいだ。

弾けてるんだ、笑顔が。こんな姿、おれ今まで見たこと一度もない。

手を繋いで駆けていった先は海、言うまでもなく海。逡巡するヒマなんて一秒たりとも与えられないまま、勢いに身を任せて走り続けて。海水を帯びた砂を踏んで、海へハッキリ足を踏み入れるまでコンマ数秒。あっけない、すっげえ呆気ない。さっき水瀬さんに手を繋いでもらった時の濃厚な時間に比べたら、風が吹けば飛ぶティッシュみたいなぺらっぺらな時間。あっさり海へ踏み込んで、足首の辺り、そのちょっと上、膝の下辺りまで浸かる。太腿の辺りまで海へ入ってる、もう走るのは無理だ、底がグッと深くなったのを感じる。わずかに残った勢いを使って身を思いっきり投げ出す、スカイダイビングするみたいに、全身を脚の束縛から解き放つ。

顔が海水に浸された。ちゃんと閉じてなかった口にしょっぱいものが広がってく。プールにいる時と全然違う、全身を揉まれてるみたいだ。立て直そうとしてうまく行かないってことを幾度か繰り返す。瞼をぎゅっと力いっぱい閉じてる、幼稚園へ上がってすぐぐらいに初めて泳いだときもこんな感じだったのを覚えてる。閉じられた瞼の向こうにある目は何も見ることができなくて、光を断たれた目は何も捉えることができずにいる。おれはまだ海の中で何も見ることができてない。生まれたての子供が、自分の目を開けられなくて何も見られないのと同じように。

「槇村くん、力を抜いて」

聞こえるはずのない声、でも確かに聞こえた声。海の中でニンゲンは喋れない、今までおれが信じてきたジョーシキってやつ。水瀬さんはそれをヒョイと飛び越えて、おれに海の中で語り掛けてきた。清らかな、心洗われる、瑞々しいあの声で。水瀬さんが言ってるんだぞ、何疑うことがあるってんだよ、おれ。体が海の中でもがくのをやめる。頭がレゴブロックのバケツひっくり返した後の床みたいになってたのが整理されてく。心が水瀬さんに全部委ねるんだって気持ちひとつになる。泳いでる時と同じ、全部が一丸になる感じがした。瞼を上げる、目が光の世界へ戻っていく。

見えた。海が、海の中が、海の世界が、おれにも見えた。

見渡す限りどこまでもどこまでもどこまでも、明るくて蒼いカバーが掛かってる。水は透明なのに海が青いのは、海が光を曲げているから。光はたくさんの色になりうるけれど、海は青が強く見えるって聞いた。ぼやけたものがひとつもない、底抜けにクリアな世界。おれが見ているものは海で、海が光を使って作った世界で。おれは光を見てるんだ、光をおれの目が視てるんだ。何度も頭の中で繰り返す。

人の目は光しか見えない。遠い昔、誰かに言われた言葉。人の目は光しか見えない。今もずっと記憶に残ってる言葉。人の目は光しか見えない。誰かも忘れた声が、記憶の中で無限に繰り返されてる。

海の中にあった光の世界に圧倒されまくってる心身に、少しだけ余裕が戻って来た。気が付くとおれは泳いでいた、いつもと少し勝手は違うけど、でも溺れることなく海を征くおれを感じることができてる。体に倣うみたいに視線を泳がせて、辺りに何があるかを探る。

浅い海の底、閉じていた殻がそっと開いた。あいつなんだっけ、思い出した、シェルダーだ。二枚貝ポケモン。とぼけた目をしておれを見ると、ぺろりと舌を出すのが見えた。可愛いんだか可愛くないんだかって感じだ。マイペースに生きてそうだなって思う。けどシェルダーの殻って滅茶苦茶硬いんだよな、銃とかでも壊せないくらい。もっとちっこい頃は分からなかったんだ、なんでそんな殻硬くしてんだろって思ってさ。ちょっと前に理解したんだ、護らなきゃいけないものがあるからなんだ、って。シェルダーの殻が硬いのは、護りたいものがあるから。シェルダーって種はそうやってここまで生きてきた。今ここにいるやつも顔は抜けてるけど、確かにその命脈を継いでるんだ。

小さな影が側を横切った。テッポウオだ。進化すると全然違う見た目になるってよく言われてるポケモン。ゆらゆら泳ぐのが得意そうなフォルムから、海底をのっそり這いずってそうな感じになるの。ユカリもおれもやってる色塗り合って陣取りするゲームにいる「タコ」っていう昔の生き物によく似てる。タコってああ見えて魚の仲間だったとか? テッポウオがあんな風に進化するってことはなんか理由があるとは思ってる。シェルダーの殻がくそ硬いのと同じように。おれがあれこれ考えてる間も、テッポウオは小さな群れを成して海を征く。くっつくマンタインを探してたりするのかもな、人間が新しい土地で家を探すのと同じように。

テッポウオの「ウオ」は「魚」が由来だって昔習った。ってことは、ケイコウオの「ウオ」も「魚」が由来でいいのかな。ひらひらヒレを翻して泳ぐケイコウオに訊いたってたぶん分からないだろう。ケイコウオだって、自分が「ケイコウオ」って呼ばれてることも知らないかも知れない。或いは知ってて、おれには別のちゃんとした名前があるのに、ニンゲンってのはバカなやつだな、くらいは思ってるかも。ポケモンは賢いからな。ケイコウオが暗い海の中で光るのも、仲間に自分を見つけてもらうのと、外敵に「こいつなんかやべえぞ」って思わせるためだもんな。

光るのは、見つけてほしいから。

(あれ、なんだ今の)

聞き覚えのないフレーズだった。無意識のうちに頭ん中を流れて、氷が融けるみたいに体へ染み込んでいく。誰の言葉だっけ、なんで今出て来たんだっけ。何も分からない。けど違和感はない。知らないけど懐かしい場所みたいな感覚のする言葉。寝ぼけてる時にあるんだけどさ、普段全然やってない習慣のはずなのにいつもやってることのように自然に思えること、あの感覚に近い。スッと受け入れて、後からなんだっけ、ってなる感じだ。

に、してもだ。海って半端ないな。ホントにすげえ。こんなにたくさんポケモンがいるなんてマジで知らなかった。いるのはメノクラゲくらいで、四年か五年くらい前からクズモーとかプルリルとかを見かけるようになったくらいだって人づてに聞いてたからギャップが凄い。みんな活き活き生きてて、休まず動いてる存在で溢れてる。生きるために活動して、そのおかげでやたらと賑やかな世界になってる。命がひしめき合って、空から差し込む光を纏って輝いてる。陸とは色の違う、命のお祭り騒ぎだ。

輝き、瞬き、煌めく光。いっぱいの光の中で、太陽よろしくひときわ強く光る星。水瀬さんだ。宙を旅する流れ星のように、水中を思うままに舞う。軽やかに身を翻して、くるりとその天地を逆さまにする。水瀬さんを中心に世界が回っていて、おれは水瀬さんの周りを回る小さな星のよう。どう? 海はこんなところなんだよ。素敵だよね、みんな生きてるって感じがするから。普段物静かで必要なこと以外口にしない水瀬さんが、全身で雄弁に語っている。言葉よりも真っ直ぐに、おれの心へ直結している。水瀬さんは笑ってる。微笑んでるんじゃない、笑ってる。子供が親と遊んでもらっているときみたいに、満面の笑顔で。

楽しい? 水瀬さんが問う。理性が全部吹き飛んで、ただ頷く。頷いてからおれが頷いたってことに気付いた。感じるよりも速く、考えるよりも前に出て、体が真っ先に反応した。陽の光を浴びて輝く水瀬さん、彼女が生み出す光を、おれの目は確かに捉えている。

ふと、頭にキンとした痛みが走った。海へ潜ってから今に至るまで一回も息をしてないことをやっと思いだして、思い出したら急に胸が苦しくなってきた。おれはニンゲンなんだ、って自覚する。ニンゲンは海のポケモンみたいにずっと水の中にいるってことができない。海から出て外の空気を吸わなきゃ生きていけないんだ。たぶんしかめっ面してるんだろうな、だいぶ苦しいから。上を目指して泳ぐ。殻を破って外へ出てくる雛鳥みたいに海を割って、口を大きく開く。

はーっ、はぁーっ。大きく大きく息をする。呼吸できない苦しさから解き放たれていく。やっぱりおれはニンゲンなんだ、ポケモンじゃない。前にも似た感覚あったなこれ、あの時のことを思いだしそうだ。肺に新鮮な空気が満たされて、風船がしぼむように一息で外へ出ていく。まとまらなかった思考がまたまとまるようになって、考えるってことができるようになった。

おれ、今海にいるんだな。海にいるんだ、おれ。海がいっぱいいっぱいに抱えてる途方もない数の命、その中のひとつになって、海へ融け込んでる。大きなものに身を委ねるのってこういうことだって確信があった。なんだろうな、おれの記憶にはないけど、あれだ。母親に抱かれてる子供って、こんな風な思いをするのかな。想像してみると、案外合ってるような気がするんだ。

ざばぁ、水面が裂ける音がした。水瀬さんが水中から顔を出す。ぜいぜい言ってるおれとは対照的に、ちっとも呼吸を乱してない。まだまだ余裕で潜ってられるって感じだ。おれに合わせて水中から出て来てくれたんだと思う。見たことのないものを見て、触れたことのないものに触れて、感じたことのない気持ちで頭がぼんやりしているおれを、水瀬さんが微笑んで見てる。見てると自然と余計な力が抜けていく、自然体でいていいよって言われてるみたいで。

「海の中、どうだったかな」

口が開く。さっきみたいに、考えることや感じることよりも早く、本能とかそういう部分が体を動かす。

「光ってた。全部、キラキラしてた」

自分の発した声を他人の耳で聞いてるような気分だ。そんなことより先に言うことあるだろ、後から何かやいのやいの言うことだけは得意な思考が茶々を入れてくるけど、真っ先に出て来た言葉は他でもない「光ってる」だった。余計なものを全部取っ払って、海の中で感じたことをいちばんまっすぐストレートに伝えるなら、「光ってた」を置いて他に何もなかった。他になんか続けて言うべきなんだけど、言葉が続かない。海の中で見たものが凄すぎて、言葉っていう海の外でしか通用しないやり方じゃ上手く表現できない。

でも、水瀬さんは分かってくれたみたいだ。微笑みが笑顔に変わる、微妙だけど劇的な変化。頷いている、繰り返して、強調するみたいに。

「槇村くんの言葉には力があるね。うれしいよ」

おれの言葉に力がある。欠片も自覚してなかったのに、水瀬さんが言うならそうなんだって気持ちがバーンとでっかく広がっていく。水瀬さんってすごいな、おれの気持ちを一瞬で切り替えちまう。影響する力が凄いっていうか、水瀬さんの言葉なら無条件の掛け値なしで信じられるって思えるんだ、おれ。

「槇村くん」

「うん」

「こうやって海にいること、不自然じゃなくなったかな」

「おれが、海に」

「海のこと、好きになってくれたかな」

「わからない。まだ、ちょっとわからない」

でも、と続けて。

「今おれがここに、海にいることは、嫌なことなんかじゃない」

海にいるおれを受け入れたことを、水瀬さんに伝えた。

水瀬さんが手を伸ばす。伸ばした手をおれの手が取る。水瀬さんの手は冷たい、汚れひとつない清流に触れたときみたいに。でもそれに負けないくらい温かい、母親に手を繋いでもらったときみたいに。

「槇村くんに、海のこと、もっと好きにさせたげる」

まるで胸をがしっと掴まれるような、強く心惹かれる水瀬さんの言葉。艶やかな色を帯びた声色って、こういう時に使えばいい表現なのかな。心臓が跳ね回ってるのが滅茶苦茶ハッキリ分かる。でも、彼女の口ぶりに邪なところは一ナノも見当たらない、でっかい研究所で使うような超高性能顕微鏡を持ち出したって無理、見つかりっこない。ありもしないものを見つけることなんてできやしない。雲一つない青空のような心持で、おれを海へと誘う。ひとつになろう、そう言っておれの手を取る。水瀬さんと融け合って、やがて境目が分からなくなるビジョンが見えた気がした。

逆らえるはずなんてない。逆らう気持ちがどこにも無いんだから、当然ってやつだ。つないだ水瀬さんの手にそっと力を入れる。繊細なものを壊したくないという思いと、水瀬さんといっしょに海と一つになりたいっていう想い。ともすると相反する二つの気持ちを、彼女の手を握る手に託して。

「あそぼう、いっしょに」

海へ潜る水瀬さんに連れられて、おれは再び海とひとつになった。

 

未知の世界、って言葉はあんまり使いたくない。知らない光景を見た時、その場所にあった驚きとか衝撃とか感動とか、そういうのがクシャッとちり紙みたいに潰されて丸められる気がするから。けど、おれがまだ知らなかった世界っていう言葉通りの意味があるのは確かだ。昨日、どころか数時間前まで頭の片隅にもなかった新しい風景が、おれのジョーシキってやつを押し返して、押し流して、押し潰していく。

なんだろな、目の前にすげえ綺麗なものがあって、なんか気の利いたことを言おうとしても言えないってことあるじゃん。友達から滅茶苦茶上手い絵を見せられたときとか、センパイ同士でド派手なバトルをやってるときとか。海でコトバは使えないけど、もし海が声を発せてそれが外に伝わる世界だったら、おれは絶対こう言ってたね、「すげえ」って。

何処までも広がってて、陸じゃ見れない景色が広がってて、おれの知らないものだらけで、ふわふわ浮いてる感じがして、声が伝わらなくて、それからおれみたいなニンゲンは息できないから生きてけない。なんか、海ってアレにそっくりだな。

宇宙。宇宙そっくりだ。

いつだったっけな、冬の中間テスト前だった気がする。おれ一人で秋人ん家行って、最初のうちは一応ちゃんと勉強してたけど、こーいうのって長続きしねえじゃん、どっちともなくふざけだして、なんかもう飽きたなっつってマンガ読んだりし始めるの。あの時もそうだった。あいつの部屋にあった……題名出てこないけど、宇宙でなんかサバイバルする話、あれをぼんやり読んでたんだ。向こうも似たような事してた気がする。で、急にこんなこと言い始めた。

「海と宇宙って似てるよな」

「いきなりどうした」

「いや、似てるよなって思って」

「どの辺が?」

「息できないだろ」

「できないな」

「無茶苦茶広いだろ」

「確かに広い」

「泳いで移動するじゃん」

「宇宙遊泳って言うからな」

「透お前、詳しいな」

「羽山が前言ってたから覚えてた」

「そっか。あと言葉が伝わらない」

「音聞こえないもんな」

「あと、俺は宇宙になんて行きたくない。透も海に行きたがらない」

「それからどっちも『う』から始まる」

「マジだ。それは気付かなかった」

「おれもさっき気付いた」

「似てなくないか」

「似てなくなくもない」

「どっちだよ」

「たぶん似てるって言いたかった。あんま実感ないけど」

宇宙と海は似てる、海と宇宙はそっくりだ。確かにそんな話をした。おれ以外にも同じこと思ったやつがいるってことは、おれだけの思い込みってわけでもなさそうだ。ってことはおれ、今宇宙を彷徨ってるようなものなのかもな。ゆらゆら、当て所なくどこまでも。陸の上と時間の流れ方が全然違う気がした。気が遠くなるくらいゆっくりで、でも空模様はいつもの倍速くらいの勢いで変わっていく。

図鑑とかテレビとかでしか見たことのない海のポケモン、それが今おれの目の前にいる。手を伸ばせば触れられるくらいの、っていうか何度か手で触れた。触れたことのないものに触れた指先が好奇心に沸いているのを感じる。あのハートみたいなカタチしたやつなんていったっけ、確かラブカスだったかな。写真で見た時もハートっぽいとは思ってたけど、実物はマジでハートだって思わずにはいられない。そりゃゲン担ぎのネタにもなるよな、捕まえたら恋が実るとかそういうやつ。だけどラブカスにしてみりゃいい迷惑だろ、ハートが愛のモチーフとかニンゲンでしか通用しない狭い考えじゃん。おれだって好きでこんなカタチしてんじゃねーぞお前ら、くらい思っててもおかしくない。

まあでもタッチしたらやべえよなってやつもいる。それくらいおれでも分かる。水瀬さんの横でプクーってふくれっ面してるやつ。ハリーセンだっけ。針だらけの風船みたいなやつだからハリーセン。分かりやすいって言うか安直だけど、他の名前思い付くかって言われたらちょっと出てこない。なんだかんだでセンスあるって思うんだよな、ポケモンの名前付けたやつって。シェルダーが防御を固めて今まで生きてきてるんだとしたら、こいつは毒針で敵を寄せ付けないようにしたってところか。同じ「生き残る」って目的でも辿る道は全然違う。当たり前っちゃ当たり前、だけど実感したのは初かも知れない。

名前は分かんないけど、明らかにポケモンだって生き物もいっぱい見かけた。やる気のないハッサムみたいな感じの青いポケモンもそれ。ハサミ持ってて強そうなんだけど顔にちっともやる気がねえの。おちょくってんのか遊んでんのか分かんねえけど、テッポウオがちょっかい出しに行ってるな。けど無気力ハッサムみたいなポケモンはのそのそ動いてるだけ。動く速さっていうか、生きる速さもみんなバラバラだ。おれとかユカリとか秋人とかの同い年の連中は、誰からってわけじゃないけどだいたい同じ速さで生きろって言われてるのと大違いだ。どっちがいいって話じゃない、ただ違うってだけのこと。

みんな星みたいだなって思った。広い広い海で、それぞれが光って生きてる。おれ、また海を宇宙になぞらえてるな。秋人が宇宙と海は似てるって言ったせい? いや、おれも同じこと考えてた、秋人に言われたって思いだす前から。意識してないだけで影響は受けてるかもしれないけど。顔を上げて外の空気を吸う、おれがニンゲンなのがホントにじれったく思う。けど息をする瞬間、おれも生きてるんだとも思う。息苦しさから解き放たれて、胸を空気でいっぱいにする瞬間、打ち上げ花火が爆発したときみたいにスカッとするんだ。

隣で舞う水瀬さんを見た。自由、自由すぎる、自由が水瀬さんのカタチをしてるみたいだ。海とひとつになってるって心の底から思う。前にも感じたな、綺麗なんだけど綺麗って言葉じゃ物足りない、でもゴテゴテ飾り付けるのも違うって気持ち。あれがまたよみがえって来た。白い肌は青い海で一際輝いて、一等星より煌めいてる。星々の連なる海を征く旅人のよう。おれのどこにこんな中二病みたいな言葉あったんだろうな、たぶんユカリのせいだ。あいつ中二の時マジで中二病だったから。秋人の時みたいに知らない間に影響受けてる。きっとそう、たぶんそう。

「かわいいよね、この子」

水瀬さんがマンタインの子供みたいなポケモンを伴って泳いでる。どこから聞こえてくるんだろう、水瀬さんの声は。どこからでもよかった、おれに声が聞こえてて、それが今まで聞いたどんな音よりも綺麗だってことに変わりは無いから。今水瀬さんの声を聞いてるのはこの世界でおれだけ、ちょっとだけ誇らしい。あ、でもあのマンタインの子供とかにも聞こえてるかもな。可愛いって言われてニコニコ笑ってる、ちゃんと意味とかも分かってそうだ。やっぱポケモンって頭いいよな、だからおれトレーナーにはなれねえなって思ったんだ。おれと同じかそれより賢いやつに命令するとか、おれ絶対無理だもん。向いてねえし。

ポケモンたち、みんな水瀬さんに寄ってきてる。怖がるってことが全然ない。おれはほとんどのやつにちょっとずつ距離を取られてる。寂しいけどしょうがない、海に入ったばっかの新参だし。水瀬さんはきっとしょっちゅうこういう風にして海と戯れてるんだろうな、なんていうか、海の中にいる方が「自然」って感じがするんだ。陸にいる時は他所行きの服を着てる、海にいる時は裸になってる。服装、ほとんど裸みたいなもんだし。でも水瀬さんの気持ちも分かる気がした。だって海の中、誰も服なんて着ちゃいない。素っ裸で自分をさらけ出すのが、海の中のルールってやつなのかもなって思う。

どれくらいこうやって、水瀬さんと二人きりの海で遊んでたんだろ、完全に時間の感覚がぶっ飛んでた。息をするときふと空を見上げたら、すっかり日が傾きかけてた。鮮やかな赤っぽい橙色の空、青がいっぱいの海を浴びるように見て来た目にはとびっきり新鮮な風景。青に赤、それから水瀬さんの白。普段見ないものを見まくった目が喜んでるのを感じる。そうだよな、普段スマホばっか見てるもんな。ちょっと反省する。

「いい時間だね。そろそろ家に帰ろっか」

「うん」

二人して海から顔を出した。岸に向かって泳いで行って、足が付くところまで戻って来た。全身がくたくたになってるけど、この上なく気持ちよかった。海から上がるのが名残惜しいくらい。クセになりそうっていうか、たぶんもうなってる。昼飯も食わずに延々海で遊んでたんだから。

砂浜を歩く。荷物を置きっぱなしにしてる岩場まで百メートルくらい。ゆっくり歩いてく、一歩ずつ、地に足を付けて。なんか歩くのすごく久しぶりって感じだ。いつもやってることなのに戸惑いそうになる。泳いでる時と勝手が違いすぎるから。右足、左足、また右足。踏みしめるように歩を進めていると、胸がじくじくと疼いてくるのを感じる。痛みでも苦しみでもない、熱くて抑えの利かない感情。

おれは水瀬さんをどう思ってるんだ? おれがおれに問い掛けてくる。おれは水瀬さんとどうありたいんだ? 畳みかけるように、上から重ねて。おれは水瀬さんとどうしたいんだ? おれがぐっと前に出てくる。おれは水瀬さんとどんな間柄になりたいんだ? 答えを出せって詰め寄られてる気がした。おれはいつまで縮こまってるつもりだ? 滅茶苦茶煽られてる、おれが、おれに。

おれは、水瀬さんとどうありたいんだ?

(今しかない)

伝えるなら、今しかない。この瞬間を逃したら、もう次は無い気がした。

「ありがとう、水瀬さん」

「槇村くん」

「水瀬さんがおれを海へ連れて行ってくれたから、知らなかったものをたくさん見られた」

「まだ、上手く言葉にできないけど。でも、これだけは言わなきゃ」

前に出るんだ、前へ。自分の気持ちに従え、おれが誰よりも正しいって信じろ。根拠なんてなくたっていい。当たって砕けろ!

「おれ、水瀬さんのことが、好きだ」

おれは、水瀬さんのことが、好きだ。

言えた。詰まらずに言葉が出てきた。

「今日みたいに、また二人で海を泳ぎたい」

「海だけじゃない、いろんな場所に行ってみたい」

「水瀬さんと、一緒に」

ああ、言ったよおれ。言えたって言うか、言っちまったっていうか。好きだって、水瀬さんのことが好きだって。また二人で海を泳ぎたいって。他にもいろんな場所に行ってみたい、って。

おれは確かに言った。言ったってことだけでいっぱいいっぱいになってたけど、おれが言ったからには水瀬さんにも聞こえてるってわけで。おれの言葉を聞いた水瀬さんは、どう思ってるんだろう。何を感じたんだろう。つばをごくりと飲み込んで、機能停止してた目に血を通わせる。光を捉えて、水瀬さんの姿を映し出す。

瞳の向こうの水瀬さんを、おれは目の当たりにして。

(――紅い)

夕陽に照らされた水瀬さんが、鮮明な紅に染まっている。陽に照らされるからだけ? おれがおれに問い掛ける。たぶんそう、そんな気がする、ちょっと違うかも知れない、何か違う気がする。目まぐるしく遷移する感情に頭が追いつかない。違う、そこで感情がストップした。紅い光を浴びてるから、だけじゃない。もっと鮮やかな、もっと奥ゆかしい紅が、水瀬さんを彩ってる。

折り曲げた右手の指を当てた口元が微かに緩む、上目遣いでおれを見る瞳が海のように潤む。そこにはおれがいる、水瀬さんの瞳の中におれがいる。水瀬さんは、おれを見ている。

「……やっぱり」

「水瀬さん?」

目元を軽く拭う。水瀬さんは微笑んでる、憂いの無い晴れやかな顔。おれの視線が釘付けになる。

「やっぱり、槇村くんの――透くんの言葉には、力があるよ」

透、おれの名前。水瀬さんが、おれのことを名前で呼んだ。

いや、「呼んでくれた」。そう言った方が、きっと正しい。

「透くんの『好き』って言葉、届いたよ。胸の奥深く、いちばん奥まで」

「『好き』。好きだよ、透くん。自分も、透くんのことが好き」

「自分も、透くんといっしょに……いろんなところへ行ってみたい」

おれが告げた「好き」という言葉。水瀬さんの応えは、「好き」、だった。

「透くん」

名前を呼ばれる。

「自分のこと、名前で呼んでほしいな」

「一海、って」

自分がおれのことを名前で呼ぶように、おれにも自分の名前を呼んでほしい。わかる、おれもそうしたいって思ってたから。何の違和感もない。

小さく息を吸う。ちゃんとした姿勢、ちゃんとした在り方で、その言葉を口にしたかったから。体を駆け巡る波を抑え込むイメージを持つ。ざわついていた心が、嵐の後の凪いだ海のように静まっていく。今なら言える、確かな言葉で。

おれはおれを信じる。今のおれなら、絶対大丈夫だ。

「一海」

おれは、確かにそう口にした。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。