プール際で一海と話してると、前触れなしにガチャリとドアが開いた。おれが入ってきたのとは違う、反対側にあるドアだ。やべっ、職員さんとかじゃねえのかこれ。ここ、顔なじみだって言う一海はともかくおれが居ちゃいけない場所っぽい気がする。一海に目で合図する、おれここにいていいの? 一海が頷く、平気だよ、大丈夫。一海の知り合いですとか、同級生ですとか言えば見逃してもらえるかな。さっきまでとは別の意味でドキドキしながら、入ってきた人が姿を現すのを待った。まな板の上のコイキングみたいな思いだ。
「調子はどうだ、カズミ」
ぬっ、と顔を覗かせたのは、見知らぬ爺さんっぽい人。爺さんって言っても髪が白いのと顔に皺が刻まれてるくらいで、背筋はやたらピンと伸びてるし、足取りは滅茶苦茶しっかりしてるし、肌は陽に焼けて真っ黒だし、よく見ると結構筋肉も付いてる。担任の原田とかよりよっぽど強そうな爺さんだ。ヨボヨボとかの正反対にいる人。まず一海を見てから、次におれの方を見た。肝を据えて視線を逸らさずにじっと目を見る、って具合におれ緊張してたんだけど、別に怒ったり訝しんだりしてる様子は全然ない。あぁいるいる、って感じのフツーの顔だ。なんかちょっと拍子抜け。けど叩き出される心配はなさそうだ。
「君は……マキムラ君か」
「あ、はい。槇村です。槇村透」
「なるほど。これが初対面、になるな」
「知ってたんですか、おれのこと」
「カズミから話は聞いている。此処へ連れて来たい、ともな」
「そうだったんですね」
「ああ。さて、此方も名を名乗らねばな。私はここの館長を務めている、スズキという者だ」
「鈴木さんはね、おじいちゃんの親友だよ」
鋭い、けど柔らかさも伴った視線をおれと一海に投げかけながら、爺さん、もとい鈴木館長が自己紹介をした。簡潔に、過不足なく。そっか、一海の爺ちゃんの親友だったんだ。なら関係があるのも納得がいく。一海は元々爺ちゃんと二人暮らししてたから、爺ちゃんの知り合いと会う機会も多かったはず。親友だって言うなら、なおさらだ。
「普段ここは開放していない。こうやって、カズミが遊び場にするからな」
「だってここ、海と同じように泳げるんだもん」
「ここは海獣たちを保護する為の場所、海を模して作られている。海に似ているのは当然だ」
「ポケモンたちを保護してるんですか」
「ああ。理由は定かではないが、ムロの海にはしばしば生息域外の海獣が迷い込む。彼らを放置していて余り良いことは無い、故に此処で保護しているのだ」
「元々はね、大きな財団が出資して作った施設なんだって。今も一応関係は続いてるんだっけ」
「名目だけだがな。彼らも今尚我々のことを憶えているか如何か、最早怪しい処ではあるが」
口ぶり、すごくしっかりしてる。あといい声。威厳めっちゃある。厳かって言葉がピタッと嵌る感じだ。威張ってるのとは違う、静かだけど重みのある話し方。この人の前じゃ嘘は言えないなって空気を醸し出す人いるじゃん、まさにその手の人。自然とこっちも背筋が伸びる、ピンと、シャンと。
「さて、カズミ。十分遊んだだろう、奥の部屋へ来てくれ。仕事の手伝いを頼む」
「えーっ。透くん来てくれてるのにー?」
「すぐに終わる事は分かっているだろう。用事が済んだ後は好きにして構わん」
「はぁーい」
ちょっと口を曲げた感じの一海、すっげえ可愛い。こういう顔もするんだ、こんな話し方もするんだ。一海のこと、おれまだまだ全然知らないな。見たことなかった一海の表情を見られたってだけで得した気分だ。気分っていうか実際得してる。
「ごめん、透くん。ちょっとだけ待っててね。すぐ終わるから」
「分かった。終わるまで待ってる」
「ふむ。そうだ、マキムラ君」
「あ、はい」
「気が向いたらで構わないが、花子の話し相手になってやってくれないか」
花子って誰だ、おれがそう思ったのとほとんど同じタイミングで、鈴木館長の背中からひょっこりと小さな、館長の半分くらいしか背丈の無い女の子が姿を現した。たぶん、あの子が花子ちゃんだと思う。出て来たところとか、鈴木館長にくっついてるところとか、その辺を考えて。小さな体でA4版のでかい図鑑を抱えてる。ただでさえサイズの大きいそれが身体との相乗効果でもっとでかく見える。
「花子です、鈴木花子といいます」
「えっと、よろしく。おれ、槇村透」
「トオルさんですね。よろしくお願いします」
「ハナちゃん、また後でね」
「はい、カズミお姉ちゃん」
とりあえず挨拶をする、おれの方はちょっと引き気味。初対面だし、年齢違いすぎるし、どんな風に接したらいいのか手探りだから。行くぞ、カズミ。そう言って館長が一海を連れて奥の部屋へ行ってしまう。おれもいつまでもプールサイドにいるべきじゃないな、博物館のことはきっと花子ちゃんの方が詳しい。苗字が鈴木ってことは、きっとあの館長と血のつながりがあるってことだろうし。花子ちゃんの側まで行って、待合室みたいなところある? って訊いてみる。あります、休憩室が。ハッキリした聞き取りやすい声で答えてくれた。しっかりしてるなこの子。案内しますね、そう申し出てくれた花子についていく。
ドアを出て近くの階段を下りる。博物館、外から見た時はそんなに大きいって思わなかったけど、中はだいぶ広いな。あんなでっかいプールもあるわけだし。けど他に来館してる人は見当たらない。展示スペースはがらんとしてるし、他の職員にもまだ会ってない。あんまり人来ねえ場所なのかな、展示物結構面白いって思うんだけど。夏休みの自由研究一回ぶんくらいのネタはあるだろうな。おれ自由研究とか何やってたっけ、木の実育てたりしたような気がする。ネタが無いやつは北にある石の洞窟行ってカイオーガの絵描いたりしてたな。あれ今もやってるやついるのかな、一時に比べりゃ減っただろうけど。あんなことあったし。
花子と並んで歩く。歩幅が小さいから花子に合わせてちょっとゆっくり。見た目の話するか、花子の。肌は褐色で、真っ白な一海とも、どっちつかずのおれとも違うって明確に言える。どっちがどう、とかじゃなくて「違う」。髪は金髪と銀髪を足してベージュで割ったみたいな色。サラサラしててよく手入れされてる感じがする。瞳の色は蒼、サファイアみたいな澄んだ蒼だった。おれの予想でしかないけど、多分他の国から来た子だと思う。どこかは分かんないし、どこでもいいと思う。あんまり見たことないな、それだけ思った。背丈はおれより二回りくらい低くて、小学校低学年くらいだ。でもその割に物静かで、なんか大人びた感じがする。一海のそれに近いかも。
休憩室へ入る。外よりちょっと強めに冷房が効いてて気持ちいい。自販機で飲み物売ってるのも見える。そう言えば喉渇いたな、何か飲もう。
「花子ちゃん、何か飲む?」
「いいのですか?」
「せっかくだし。おれも喉渇いたから」
おれはサイダーを買って、花子ちゃんは麦茶を選んだ。麦茶、家帰ったら作っとかないと。さっき全部飲んじゃったんだよな、今日親父帰ってくるから作っとかなきゃって思ったけど、たぶん日付跨ぐから急がなくてもいいや。適当なベンチに並んで座って、まずは飲み物に口をつける。泡の弾ける感覚が舌をざわざわさせて、それから喉をしゅわしゅわさせながら中へ下りて行った。喉乾いた時はこれが一番効く、いっつも飲んでるやつだ。一息ついたな、話をするのにちょうどいい感じだ。
花子ちゃんとは初対面でお互い全然知らない訳で、何から話そうって思ったときパッと思い浮かぶことがなかった。だけど気になることは一つあった。訊いても別に失礼じゃないかなとも思ったから、素直に口に出してみることにした。
「持ってるのさ、何の本?」
「はい。古生物の本です」
表紙を見せてくれた。色褪せてるけど題字はちゃんと読み取れて、「デボン紀古生物図鑑」と書かれている。デボン、デボン。聞き覚えがあるっていうか、しょっちゅう耳にしてるっていうか。
「デボン、かぁ」
「どうかしました?」
「直接は関係ないけどさ、おれの親父がデボンコーポレーションで働いてたなーって思いだして」
「あ、知っています。このデボンが由来だと聞きましたです」
へぇー、地層の年代が由来だったのか。地味に初めて知った。デボンってなんだろうって割とずっと思ってたから。なんかこう、オレンジとかミカンとかの柑橘系の果物の仲間? とか勝手に思ってたし。でもなんでそれを会社の名前に持ってきたのかな、今度親父に訊いてみようか。
「わたしは海の古生物が好きです。ですから、こうやってよく本を読んでいるのです」
「好きなのは……あれかな、見た目が今の生き物と違ってなんか面白いから、とか?」
「はい、見た目も好きです。それに」
「それに?」
「いちばんは、歴史を感じるからです」
「歴史、かぁ」
「昔から今までずっとつながって、カタチを変えて生き続けていると分かるからです」
「あぁ、それわかる。さっき展示見ててさ、こいつ、今も海を泳いでるマンタインのご先祖様だ、って思ったりしたから」
古代の海にいた生き物たち。みんながみんな、ってわけじゃないけど、今も形を変えておれたちの側で生きてる。唐突にどっかから現れたとかじゃなくて、長い時間を掛けて今の海で生きられるように自分の在り方を変えて来たんだ。変わっていく過程を追っかけたり、元の姿を探ったりするのは確かに面白そうだとおれも思う。もちろん、中にはここまで辿り着けずに姿を消した生き物もいる。彼らがなんで生きられなかったのか、生きていた頃はどんな風にして暮らしてたのか、そっちもそっちで調べたら面白いだろうなって感じた。
言われてみれば、夏の初めに一海と海へ潜ったときに見たポケモンたちって、まさにカタチを変えて命を繋いできた生き物なんだよな。花子ちゃんと同じこと、おれもあの時海の中で考えてた気がする。
「あのさ、前に海へ潜ったんだ。一海と」
「カズミお姉ちゃんとですか」
「一緒に泳ごうって言われて、水着に着替えて潜って」
「はい」
「その時おれ見たんだ、いろんなポケモンがいるの。シェルダーとか、ハリーセンとか」
「どちらも知っています。わたしもよく海で見かけるのです」
「うん。それでさ、シェルダーは硬い殻で身を護ってて、ハリーセンは毒針で敵を寄せ付けないじゃん」
「そうです」
「たぶん元々は殻も針もなくて、だんだんそういうのができるようにカタチを変えてったんだなあって、泳ぎながら思ったんだ」
「トオルさん、その通りです。とてもよく分かります。わたしも、今と昔のカタチの違いを見ることが好きなのです」
花子ちゃんが好きなのってきっとこういうことじゃないかな、おれがそう思って話してみたら上手くハマってたらしい。あの日海の中で見たポケモンたちのカタチ、それにはみんな「昔」があって、繋がり繋がった果てに「今」を生きてる。たぶん、一海に海へ連れて行ってもらわなかったら、ぼんやりとしか考えられなかったと思う。今は違う、具体的にこれこれこうだった、って自分の言葉で話せる。この違い、結構でかいと思ってる。
なんか勢いでおれの方からあれこれ喋っちゃったけど、そういや花子ちゃんってここで何してるんだろうな、気になってきた。今度は向こうに話してもらおう。
「ちょっと話変わるけどさ」
「はい」
「花子ちゃんって、ここで何してるの?」
「スズキさんのお手伝いをしています。ご飯を作ったり、資料を整理したりしています」
「へぇ、秘書みたいなものなんだな」
「ヒショ?」
「偉い人の側について、仕事のお手伝いとか身の回りのことをしたりする人のことだよ」
「なるほど。またひとつ、新しいコトバを知りました。カズミお姉ちゃんはもう知っているでしょうか」
「秘書って言葉? 知ってると思うけどな、おれは」
一海なら「秘書」って言葉の意味くらいとっくに知ってるはず。花子ちゃんがなんであんなことを口にしたのかはちょっと分からない。そもそも一海と花子ちゃんってどういう関係なんだろ。
「一海ってよくここに遊びに来るの?」
「はい。お休みの日になると、いつも来てくれます」
「なるほどな。お姉ちゃん、って呼んでるのも納得したかも。よく遊びに来る親戚みたいなものだし」
「ここで一緒に遊んでもらったり、コトバの勉強をしたりしています。あと、波乗りを見てもらっています」
「波乗りって……サーフィン? 花子ちゃんが?」
「はい。大きな波に乗るのが好きなんです。気持ちいいですよ」
「いっぺんおれも見てみたいな、花子ちゃんがサーフィンしてるとこ」
おれと花子ちゃんでそろって一海の話をしてたからかな、当の本人がひょっこり姿を見せて。元の服に着替えた一海が休憩室まで来てくれた。
「あ、いたいた。透くん、ハナちゃん」
「一海」
「カズミお姉ちゃん」
「お待たせ、二人とも。透くんに見せたいもの、他にもいっぱいあるんだ。ハナちゃんも一緒に来てくれる?」
「はい。一緒に観たいです」
一海に連れ出されて、展示スペースへ戻っていく。一海と花子ちゃん、古生物に詳しい二人が一緒だから、おれ一人で見て回るより何倍も楽しめそうだ。元から好きだって思ってるものがもっと良くなる、炊き立ての白いご飯に好きなふりかけを掛けるみたいな感覚だ。
展示物を見て回って、花子ちゃんと一海からその展示物に関わる面白え話を山ほど聞かせてもらって、時計の針がいつもよりずっと早く回ってくのを感じた。夜に向かって時間が経つと、当然空は暗くなる。入口にある自動ドア越しに見えた風景はあかね色に染まっていて、もうすっかり夕刻って感じの空模様。で、ちょうどこの時間になると閉館ってことらしい。花子が正面玄関の戸締りをしている。自動ドアのセンサーが切れて、近付いても開きませんって状態になった。「閉館」の立て看板も置いて作業終了。どこかで仕事してたっぽい、鈴木館長も裏方から出て来た。
これからどうしようか、フツーに考えたら閉館だし帰るよなって思うけど、一海が外へ出ていく気配はない。おれもなんかもうちょっと一海と一緒にいたい。今日って日がこのままスルッと終わるのは勿体ないじゃん。このまま家に帰ったって誰もいねえし、一人で飯食っても味気ないし。とかなんとか、おれがあれこれ考えてると。
「透くん、これから用事あるかな」
「おれ? 特に無いよ」
「じゃあさ、ここでご飯食べてこうよ」
ここで? ってきょとんとしながら訊ねたら、ここで! ってすっげー力強く返された。どっかに炊事場とかあんのかな、館長と花子ちゃんってこの近くに住んでるのかな。
「自分ね、よくこうやって一緒にご飯食べてるんだ。鈴木さんとハナちゃんと」
「そっか。おれ、居ても大丈夫?」
「ぜひご一緒したいです。トオルさんがいてくれた方がいいです」
「私も構わん。二人居ようと三人居ようと同じことだ」
あっさりOK出たな、ずいぶん。おれ今日初めて館長と花子ちゃんに会った、言ってみれば部外者なのに。一海の知り合いだから信用してもらえてるとか、そんな風に考えればいいんだろうか。けど、一緒に飯食ってくってのは賛成だ。一海とも居たいし、花子ちゃんや鈴木さんからもまだいろいろ話を聞いてみたい。博物館のこととか、おれのいない時の一海がどんな風にしてるかとか。知的好奇心ってやつだな、これ。自分たいがい知りたがりやな、ってよくユカリに茶化されるっけ。おれも自分のこと知りたがりだって自覚してる。してるから、できるだけ失礼にならないようにしなきゃな、って言い聞かせてる。
博物館の裏方、スタッフルームのさらに奥まで案内される。二人がこの近くに住んでるっていうおれの予想、半分当たって半分外れ。近くっちゃ近くだけど、博物館の中に居住スペースがあるってのが正解だった。台所っぽい部屋と書斎っぽい部屋、寝床っぽい和室がある。本棚を見ると海洋生物や古生物の本がぎっちり詰まってて、他のジャンルの本はほとんど見当たらない。ああ、鈴木館長と花子ちゃんの本棚だなぁって一瞬で分かる。荷物を隅へ置いた一海はすっかりリラックスして、ぐーっと体を伸ばしてる。自分ちにいるみたいでちょっと可愛い。
「よし。じゃ、自分が腕を振るっちゃおうかな」
「あのさ、一海。おれも一緒に作らせてくれ」
「いいの? 透くん」
「親父と二人で暮らしてて飯作ったりしてるし、足手まといにはならないと思うから」
「頼もしいよ。ありがと、透くん」
おれも何か作るって一海に言って、一海はそれを受け入れてくれた。いろんな思考や感情が渦潮みたいにグルグル回ってるのを感じる。結構人数居るのに一海ひとりに全部やってもらうのは申し訳なかったってのはある、それと同じくらい、おれも食べる物作れるんだってところを一海に見せたかったってのもある。でも一番でかかったのは、一海と一緒に台所に立ちたいって気持ちだ。だっていいじゃん、好きな人と一緒に飯作って食べるのって。外へ出かけるのとはまた違う、もっと近い距離に相手を感じられるっていうか。
冷蔵庫の食材どれ使ってもいい? 花子ちゃんに訊ねる。好きなように使ってくださいです、と返事があった。館長からはノーコメント。普段台所を管理してるのは花子ちゃんだなって察する。野菜室を確かめてみた、転がる蓮根、横になった牛蒡、その隣にある人参と里芋。冷蔵室を開けると、どれか分かんないけど鶏っぽい肉と舞茸もある。出汁や酒もちゃんと常備されてる。それじゃああれだ、煮物だ、ごった煮を作ろう。家でよく作ってるやつ。食べられないってやつほとんど居ないだろうし、テーブルを賑やかにするにはちょうどいい。よし、作るぞ。
まな板と包丁借りるぞ、一海に一言断って準備に取り掛かる。材料をざっと並べてさっと水洗いして、蓮根と里芋は皮を剥いてざくざく適当な大きさへ切る。人参と牛蒡も同じ。鶏肉は火が通りやすいように小さめに。切った感じはワカシャモっぽい、食用の。おれがいつも食べてるのと同じだ。材料、傍から見たらたぶん雑に切ってるように見えるよな、でも食べやすいように意識してるんだ、実は。牛蒡は熱湯で下茹でするのも忘れない。煮込むものが全部揃ったところで、だし汁の準備だ。おれと親父が食べる時は味を濃くしがちだから、いつもより少し薄味を意識する。フライパンに油を敷いて先に鶏肉を炒めてから、遅れて他の材料と出汁を入れて十五分くらい似てから、最後に砂糖と醤油を適量入れてもうちょい煮る。後は適当なところで火を止めれば完成。何も引っかからずにできたな。
一海の方をちらっと見てみる。こっちはメインになるものを作ってくれてた。でっかいヤドンの尻尾だ、切れ目をたくさん入れて火が通りやすいようにしてある。底の深い鍋にだし汁とヤドンの尻尾を入れて、火を点けてしばらくすると蓋をするのが見えた。蒸し焼きにするつもりだ。ヤドンの尻尾、おれあんまり料理で使ったことないんだよな。うまいってのはよく聞くんだけど、味付けが難しいって結構あちこちに書いてある。でも一海は慣れた感じだし、上手い具合に作ってくれそう。どんな出来になるか今から楽しみだ。
「これってさ、ヤドンの尻尾ってさ」
「うん」
「甘い甘いってよく言われてるじゃん」
「だよね。おやつみたいって言う人もいるし」
「だよな。一海はこれ、どんな風に味付けとかするの?」
「ヤドンの尻尾はね、蒸すと甘味が程よく落ち着いて、代わりに奥の方にある旨味が出てくるようになるんだよ」
「へえ、知らなかった」
「そのままでも甘くておいしいけど、ご飯のおかずにはちょっと合わないからね。ひと手間でぐんと変わるんだ」
蒸したて熱々の尻尾にお醤油を少し垂らして食べると、ご飯がいくらでも食べられちゃう。おじいちゃんがよく作ってくれたんだ。一海の声が弾んでウキウキしてるのが伝わってくる。好物なんだな、好きな食べ物なんだな、ってのが誰から見ても分かる感じだ。一海の好きなもの、おれも好きになれたらいいな。同じものを見たり食べたりして、どっちも「好きだ」って思えたら、一人で同じことするより絶対楽しいって思うから。
色褪せて少しよれたエプロンを身に着けた一海、隣に立って使い古されたフライパンの様子を見てるおれ。一緒に台所に立って、それぞれ料理を作ってる。満足感って言うのかな、居場所があるって気持ちで胸が満ちてくんだ。ただ見てるだけじゃなくて、おれもおれで何か作ってるってのがいい。一海が口元をゆるめておれの作ってるごった煮をチラ見するのが見えた。おいしそうだね、柔らかな声がおれの心に沁みる。一海からもらえる言葉はなんだって嬉しい、でも今の言葉は普段に輪を掛けて嬉しい。別に対抗心とかじゃなくて、おれもこういう風にできるんだってことを、一海に知ってもらいたかったから。
「透くん」
「ん?」
「透くんと一緒に、こうやって台所に立ってみたかったんだ、自分」
「いつも同じこと言ってるって言われるかもしれないけど、おれもなんだ」
「いいよね、こういうの。なんだか、夫婦みたいで」
言ってから恥ずかしくなったみたいで、一海がちょっと目線を下に向けて泳がせてる。おれもどぎまぎしてる、いつも以上に。一海、言っちゃうんだ。言っちゃうんだ、夫婦みたいって。おれが面食らうけど、でも驚いたのは最初だけ。今のおれたち、他のやつが何の気なしに見たら、きっとこいつら連れ合い同士だって思うに違いないから。一緒に台所立って飯作ってるって、夫婦っていうかそういう男と女の関係にしか見えねえもんな。すごいソワソワする、ソワソワっていうかゾワゾワ。くすぐったいにも程がある、程があるけど、どうしてかいつまでも続いてくれって思うおれがいて。
「新婚っぽい、よな」
「同じ家で一緒に暮らし始めて、すぐ、みたいな」
口がかゆくなるのを覚悟であえて「新婚」とか言ってみる。一海が顔を上気させて、「同じ家で一緒に暮らす」なんて返してくる。こっぱずかしいなんて次元じゃない、恥ずかしい、ただ恥ずかしい。お互い相手の顔を紅くさせるゲームでもやってるみたいだ。恥の上塗り、恥の上塗りだ。本来の意味とは全然違うけど、でも今の状況は恥の上塗りのやり合いとしか言えない。バカなことしてるなあって思うよ、そりゃ。でも、一海とだからこんなバカできるんだよな、とも。一海はなんとか普通っぽい顔を作ろうとして、でも口元が緩んで、無理にきゅっと締めてるって感じの顔してる。おれも今にも笑いそうになってるから、あんまり一海のことどうこう言えないんだけど。
言葉。コトバって不思議だな、隣り合って交し合うだけで、顔が紅くなったり笑顔を生み出したりする。料理の様子見てなきゃいけないから手も繋げないのに、一海との距離は限りなくゼロに近く感じられる。一海の言葉におれの言葉を返して、おれの言葉に一海の言葉が応じる。おれ、クサいこと言うの苦手なはずなのに、一海の前だとそういうのがスルッと口から出て来そうになる、何度か出てきてる。言ってから恥じ入るわけだけど、一海の方はいつだって嬉しそうにしてくれる。おれの言葉が一海に届いて、一海がそれを受け入れてくれる。おれの体に口付いてて良かった、マジメにそんな風に思う。
おれが見てるごった煮と一海が見てる尻尾の蒸し焼きができあがる間際、茶の間からトコトコと花子ちゃんが歩いてきた。
「もうすぐできるよ、ハナちゃん」
「俺の方もあとちょっとだ」
「トオルさん、カズミお姉ちゃん、ありがとうございます。これでおかずはバッチリです。ご飯を炊いておいてよかったです」
ぴっ、と花子ちゃんが指差した先には、おれと一海がわちゃわちゃやってる間にお米を炊き上げて保温してくれてる炊飯器が。ご飯のことすっかり忘れてたけど、花子ちゃんが仕掛けておいてくれたのか。
「きっと、これくらいの時間にお夕飯になると思いましたので」
「花子ちゃん、マジ有能じゃん」
「さっすが、抜け目がないね」
「どしどし褒めてください。わたしは褒められて伸びるタイプです」
胸を張る花子ちゃん。真面目なんだけど冗談も言えるんだな。関係ないけどおれも褒められて伸びるタイプだ。できるだけ叱られたくない。あんまり叱られた記憶ないけど。
「ご飯だけですと物足りないので、朝のうちにあら汁も作っておきました。コンロが空いたら温めましょう」
「天才かよ」
「ホントに!? あら汁大好きだから嬉しいよ」
台所でわいわいがやがやしてるおれと花子ちゃん、それから一海。仕事の後片付けをして戻って来たっぽい鈴木館長が、久しぶりに孫が帰って来た爺ちゃんみたいな顔して、おれたちを眺めてるのが見えた。
おれの作ったごった煮、一海の作ったヤドンの尻尾の蒸し焼き、花子ちゃんが作ったあら汁とご飯。一海の盛ってくれたご飯はみんな気持ち大盛りで、あら汁には刻んだばかりの活きのいい白ネギが散りばめられていて。いいな、今日の献立。おれ一番好きなやつだ。一海も花子ちゃんも食べたくてうずうずしてる感じだ。鈴木館長だけは落ち着いてるけど、目線は料理の方を向きっぱなし。そりゃそうだよな、どれもこれも見るからにうまそうだし。ちょっと小さめのちゃぶ台に四人が身を寄せ合って、夕餉の時間が始まる。
いただきます、と全員で手を合わせる。みんな思い思いに箸を伸ばしてく。おれはヤドンの尻尾に、一海はごった煮へ、館長はあら汁をすすって、花子ちゃんは炊き立てのご飯を食べる。解した身を茶碗を受け皿にして近くまで持ってくると、息をふーっと吹きかけて少しだけ冷ましてから、おもむろに口へ放り込んだ。白身の魚をもう少ししっかりさせた感じの肉質に、押し込められた甘味と旨味が噛むたびに口の中に際限なく広がってく。垂らした醤油が味をさらに引き立てて、飯が進むことこの上ない。ヤドンの尻尾ってお菓子みたいに甘いってイメージしかなかったから、知ってる味といい意味でギャップが合ってすっげえ驚いた。うまいかって? うまいに決まってる。後で作り方聞きてえって思ったくらいだ。続けてごった煮も食べてみる、蓮根を箸で掴んで口へ持ってく。いい感じに味が染みてるな、食べるのにちょうどいい具合だ。おれはそう思うけど、みんなはどうだろ。ちょっと見てよう。
箸、みんな伸ばしてくれてるな。花子ちゃんは具材を口へ運ぶたびにいい顔してる、大丈夫そうだ。館長は何も言わないけど、おれたち四人の中で一番よく食ってる。それから一海を見た。小さく切った鶏肉が一海の中へ入っていく。よく噛んで、歯で咀嚼してから、ごくりと飲み込む。口の中をすっかり空っぽにしてから、視線をスッとおれに投げかけた。いつの間にか一海に目が釘付けになってたみたいだ、気恥ずかしくて鼻をかくおれに、一海が頬をゆるめる。
「おいしいね、透くん」
一海からこの言葉をもらえただけで、おれ、作った甲斐あったなあって思う。本当に、心の底から。満足してるって今のおれみたいな気持ちだよな、絶対そうだ。
みんな静かに飯食ってる。おれも普段食事中に話したりしないから違和感ない。物を食べることに集中するこの空気、おれは好きだ。別に喋っててもいいとは思うけど、でも本音を言うと飯を食う時は静かに食う方がいい。今日みたいに旨いものが並んでるなら尚更。ご飯の炊き加減はほんの少し柔らかめで食べやすくて、かと言ってべたついてたりもしない。あら汁は解れた身がうなるほど入ってて、出汁の方も骨の髄まで絞りつくしたって感じでいくらでも飲めそう。花子ちゃん、よく本読んでるしサーフィンしてるっていうし飯作るの上手だし、なんかすげえ子だな。おれあの歳くらいの時何できたっけ、ちっとも思い浮かばないや。
今こうやって同じ食卓を囲んでる顔ぶれを見ると、不思議な気持ちになる。博物館の館長の鈴木さん、ここに住んでる花子ちゃん、同級生でカノジョの一海、それからおれ。ぱっと見どういう繋がりか分かんないやつらが、当たり前のように同じテーブルに着いてる。誰も今の状況をおかしいと思ってない、もちろんおれも。初めてなのに懐かしくて、派手じゃないのにすべてが新鮮。ここにおれがいるってこと、それ自体がなんか無性におもしろくて、飯がいつもの倍くらい旨い。
右隣の一海と向かいの花子ちゃんを見る。「お姉ちゃん」って呼んでるってだけあって、花子ちゃんは一海に懐いてる。懐いてるって言うか、自然体でいるっていうか。小麦色の肌に明白色の髪、それから蒼い瞳の花子ちゃん。雪のような白い肌に深遠な黒髪、髪に並ぶくらい黒い目の一海。見た目はてんで似てないけど、そう言うのとは関係なくふたりが姉と妹、姉妹みたいに見えて仕方ない。一海は大人びててお姉ちゃんっぽいところあるんだ、おれもよくそんな風に見えるって思うから。家には妹とかいないって言ってたけど、花子ちゃんが妹みたいなもんなんだろうな。クールだけど柔らかい雰囲気が結構本気で似てるし。白い歯を見せる花子ちゃんの笑顔が眩しいや。
花子ちゃんと隣り合う館長を見る。見た時から思ってたけど、館長と花子は血のつながりがあるって感じがしない。花子ちゃんはすぐに豊縁の生まれじゃないなって分かるけど、館長も館長であんまり見たことのない顔だ。外人っぽい。で、館長と花子も雰囲気がかなり違う。どういう経緯があってここに居るのかは分かんないけど、あんまり興味もない。だってここに居るのは事実で、経緯は過去の出来事でしかない。過去がどうでもいいってわけじゃないけど、おれ、今と未来の方が興味あるから。館長に戻るけど、この人絶対フツーに歳食ってるようには見えない。危険だとか修羅場だとかを潜り抜けて来たって感じの、せい……思い出した、精悍な顔つきだ。この前読み方分かんなくてユカリに笑われたんだよな、あっぶねえ。
「透くん」
「ん?」
「どう? おいしい?」
「最高。いつもの倍くらいご飯食えそう」
「よかった。顔を見てたらそうじゃないかなって思ったけど」
「うん」
「言葉にしてハッキリ言ってもらえると、やっぱり違うね」
「作ってくれたものもうまいし、一海が居るってだけで全然違うな」
「自分も。透くんと一緒に食べられて嬉しいよ」
「おれ、一海のご飯がすすむ存在だといいな」
もう、透くんったら、ご飯食べてる時に笑わせないでよ。おれがなんとなく口にした言葉がツボにハマって、一海が大笑いしてる。一海が笑ってるとおれも楽しいから、つられて同じように笑っちゃう。飯食ってる時に笑うの、あんま良くないって分かってるのにな。いいじゃん、細かいことは気にしなくたって。
今が楽しいのは、間違いないんだから。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。