ジムの受付近くの空間ってなんて言うんだろうな、待合室? エントランス? そこのベンチに座ってる、飲みかけのアクエリアスのペットボトルを床に置いて。荷物を持った川村がこっちに歩いてくるのが見える、はっきりとおれに向かって歩いて来てる。家に帰らずに居残ってるのはあいつを待ってたから。川村がおれと話がしたいって言ってきて、おれもちょっと話したいって思ったから。
プールで川村と競争したんだ、百メートル自由形で。川村の方から俺と泳いでくださいって頼んできて、断る理由もないから引き受けた。競争って形だけど、腕試しって感じじゃなかった。マラソンでランナーの隣に付いて一緒に走る人、ペースメーカーっているじゃん、あれと似たようなことしてくれってやつだ。おれが川村を引っ張って、川村がもっと速く泳げるようにするってわけ。同い年の連中じゃなくておれなのは、川村が本気出せるのがもうおれくらいしか居ないから。おれもいつまで川村をリードできるのか、ちょっと分かんなくなってきてるけど。
そういうことがあって川村の横のレーンでクロールしてきたけど、なんて言うか、泳ぐたびに速くなってるな、あいつは。力を付けてるってのを実感する。一秒でも速くゴールまで泳ぎ切りたいって気持ちはおれも持ってる、数字にも出てる。けど川村はもっと速くて、もっと早い。だから、手は抜けない。本気にならなきゃなって思った。夏休み初日に一海と競争した時みたいな。本気になるとおれも前しか見えなくなる、隣のレーンは見えなくなって、自分が目指さなきゃいけないゴールだけが視界に映るようになる。川村も同じだ。おれが隣で引っ張ってるけど、見てるのはあくまで自分のゴールだけ。いつでも前だけをまっすぐ見てる、泳いでる時もそうじゃない時も。前にあるものだけを見て全力で突き進んでる。
おれの行かなかった道、おれとは違う道を進んでいってるんだ、川村は。
「先輩、ありがとうございました」
「また速くなったじゃん、川村」
「前に先輩に教えてもらったこと、意識してみました」
「そっか」
「はい」
「だったら、ヘンなこと言えねえな」
最初に言っとくけど、川村に間違ったこと教えたりなんかはしてない。おれがちゃんと知ってることとか実践してることを伝えてるだけで、変な癖がつくようなことは言ってない、これはハッキリ言える。ただ、そういう次元じゃなくてさ、川村はおれを信用してくれてるわけで。その信用に、おれはちゃんと応えないとダメだって思ってる。川村は速く正確に泳げるようになりたい、シンプルだけど難しいこと。おれだって完璧な正解を持ってるわけじゃない。「今のところはいい」と思うことを伝えるのが精いっぱいだ。
「俺、先輩みたいになりたいです」
「おれ? 川村みたいにマジメじゃないぞ」
「でも先輩、俺が知ってる中で一番真面目な人です」
「川村、先輩をからかうのは良くないぞ」
「からかってないですってば」
川村はおれをマジメだって言う。おれがマジメだって? そんなことねえだろ、って思うばっかりだ。練習中にしょっちゅう別のこと考えてるし、全力出さなくてもいいなって思ったら力抜いて流してるし、川村みたいになんか目標持って泳いでるわけでもないし。おれにしてみたら、川村の方がよっぽどマジメだ。だっておれ、選手になりたかったけど途中で止めたし。川村よりもずっと早く、すっげえあっさり諦めたし。
水泳選手。川村が目指してるもの、おれも目指してたけど止めたもの。なんで選手になりたいのかって前に聞いたっけ。川村は親父を亡くしてて、母親と妹を養うために鍛えてるとか。おれが泳いでるのは、ただ泳ぎたいから。川村が目的地に向かってまっすぐ歩いてるとすれば、おれは当てもなくあちこちフラフラ彷徨ってるようなもん。違うよな、全然。志ってやつが根本的に違う。
「川村は選手になりたいんだよな」
「そうです」
「おれもなあ、あの時勝ってたら違ったのかな」
「先輩よりずっと早い人がいたって話ですか」
「それ」
「その時は負けたけど、今競争したらどうなるか分からないんじゃないですか」
「おれはあんまりそういう気しないんだよな」
「なんでですか」
「泳ぎ終わってプールから上がった後、そいつと目が合ったんだ」
「はい」
「なんかこうさ、住んでる世界が違ってるっていうか。あっ、こいつはおれにないものを持ってるって、そう思って」
間。そこで話が一度切れた。気まずいって感じじゃない、一区切りついたって言うか。別の話題が出てくるのを待ってるってやつ。どうせ急ぐようなこともねえし、川村が何か言うのを待つ。年下が先輩に付き合ってるってことはさ、何か話したいことがあるってのが自然だと思うんだ、おれは。悩みごととか相談とか。中身によっちゃおれじゃ答えられないけどさ、聞く分には聞いてやったほうがいいんじゃねって。
「女子かぁ」
なんかこう、如何にも話したいことがありますって感じで、川村がため息交じりに呟いた。相手の口からなんか出てきそうだって思うと大体当たるんだよな、だからおれの方からは何も言わない。
「なんかあったか、川村」
「あの、こないだ別の先輩が話してたんですけど」
「うん」
「選手って、どっかの会社に所属するじゃないですか」
「だよな」
「そういうのって、女子の方が声掛かりやすいって言ってました」
「あー、なるほど」
「どうなんですか、先輩。先のことだけど、俺ちょっと気になります」
「別に男子の選手だっているじゃん、普通に」
「はい」
「川村が女じゃないからダメって、そういうの無いと思うけどな、おれは」
「先輩」
「それにさ、川村が女子になりたいとかってわけじゃないだろ」
「違いますよ、それは無いです」
「まあそうだよな」
「俺男だし、女子になるとか想像もできないです」
「男から女になるとか、簡単にできることじゃねえしな」
マンガとかでたまにあるじゃん、男子と女子が入れ替わってー、ってやつ。おれもいくつか読んだことある。見てる分には面白いけど、あれ現実に起きたら絶対ワケ分かんなくなると思わね? 入れ替わった相手になりきるとか普通できねえよな、おれ絶対途中でバレる自信ある。自信ってなんだそれ。ユカリとかと入れ替わったらどうだろ? しょっちゅう一緒にいるしワンチャンあるんじゃね? いやごめん、無理だ。ユカリの喋くり真似すんの無理だ。静都弁、聞くのはできるけど喋るのは百パーできねえ。
脱線しちまった。川村が言ってるのはただ選手になりたいだけじゃなくて、飯の食える選手になりたいってこと。今からそこまで気にしてるのかよ、って内心ちょっとだけ驚いてる。気にしてるっていうか考えてるっていうか。おれ小四の時とかホント何も考えてなかったからな、泳ぐのと夕飯何作ろうとかそういうことしか頭になかった。女子の方が広告塔に選ばれやすいってのは、あながち間違いでもない。間違いでもないけど、正解ってわけでもない。最後は結果を残したやつが選ばれる、おれはそう思ってる。
「同い年で川村に食い付ける女子、誰も居ねえだろ」
「いません。俺、女子には負けたくないです」
「男子だから?」
「男子だからです」
男子とか女子とか、一番こだわる時期だもんな。女子に負けるのは恥だとか、そういうやつ。おれの周りでまだ水泳やってる女子、ほとんどいなくなったな。だから意識する機会も減ったって言うか、なくなったって言うか。
「おれも分かるけどさ、こないだおれより速い女子がいてさ」
「マジですか」
「あ、いたいた。川村くん、叔母さんが迎えに来たって」
同級生なんだけど、喉まで声が出かかったところで、横からおれでも川村でもない声がすっ飛んできた。はいっ、と声を上げた川村がサッと立ち上がって、おれに一礼する。ここまでだな、喉の辺りに留まってた言葉を唾ごと飲み込んで、くたびれたバッグを提げて走っていく川村の背中を見送る。入れ違いになってこっちへ歩いてきた女子に目を向けると、一秒もしないうちに視線が合った。普通に、自然に、そいつがおれの隣に付く。
「いたんだ、涌井」
「今日は向こうでランニングしてたから」
「そっか。陸上やってるって言ってたもんな」
「たまには泳いだりもするけどね」
スポーツバッグを足元に置く。中学の時から水着とか入れるのに使ってるやつだ。涌井とはたまにジムで顔を合わせて、どうでもいいお喋りをだらだらするってことが時たまある。おれあんまり面白いこと喋れねえから涌井の方はいつも退屈そうにしてるんだけど、その割には顔が合うとこうやってエントランスで揃ってぐだぐだしてる。こういうの、暇つぶしって言うんだろうな、正しく。
「前にも言ったけどさ」
「うん」
「槇村君ってさ」
「おれか」
「部活で泳いでジムでも泳いで、泳いでばっかじゃん」
「学校始まったらできなくなるしな」
槇村君らしい答え、言葉だけだと呆れた感じっぽく見えるけど、口調がそれっぽくない。納得してるって感じがする。涌井の言いたいことも分かるけどな、おれがヒマさえあれば泳いでるってのは間違いないし、ユカリにも自分水泳バカやんってしょっちゅう言われてるし。
やっぱ速いの? 涌井に訊かれる。先輩と同じくらいには、おれが返す。大会とか無いの? 髪をさっとかき上げる涌井。部員足りてねえんだよな、締まらねえ解答。練習してても意味なくない? もっともだ、めっちゃ正論だよな。泳いでること自体が楽しいから、先輩と話してる時にも感じたこと、そのまま口に出す。絶対そう言うと思った、涌井が小さくため息をつく。
「さっき川村と喋ってたじゃない」
「うん」
「川村みたいに選手目指すとかないわけ?」
「ないな」
「ないんだ」
「だってさ、おれより速いやつがいるって知ってるし」
「うん、まあ」
「知ってるよな、涌井も」
「見てたしね」
「名前忘れちまったんだけど」
「うちも覚えてない。誰だったかとかいちいち覚えてらんないし」
「もう一回競争してえんだけどな」
「水泳やってるか分かんないじゃん」
「そっか」
「うち今陸上やってるし」
「その割には焼けてないな」
「日焼け止め塗ってるから」
「なるほどな」
「っていうか常識っしょ」
「おれ焼けても気にしないけど」
「そりゃね、槇村君はね」
女子は気にするのかな、日焼けしねえようにって。女子じゃないから分かんねえや。日焼けしないって言えば一海も全然だな、いつ見ても真っ白だ。それと比べれば、涌井はちょっと焼けてるって言えるかな。一海みたいに真っ白ってわけじゃないし。
「けどさ、あれさ」
「あれって?」
「槇村君が負けた時の話」
「水泳大会か」
「それ。もう七年も前じゃん」
「もうそんなに経つのか」
「小四のときだったし。今高一でしょ」
「七年経つな、確かに」
「だからもう忘れても良くない?」
「そういうのとはちょっと違っててさ」
「違うんだ」
「あれでさ、おれは『もういいかな』ってなったところあるから」
「もういいかな、か」
「うん。そいつすげえって気持ちの方がでかかったから」
「女子なのに?」
「男子も女子も関係ないな。速い方が強いってだけだ」
「うん、槇村君が言いそうな答え」
「言ってるのおれだしな」
一海、今どうしてるだろ。もう六時回ってるし、家で夕飯作ってたりするのかな。おれも帰って支度しようかなって思うけど、例によって親父は出張でいないし、別に適当でもいいかなって気になってる。冷蔵庫になんかあったかな、ほとんど何も無かった気がするしなんか買って帰ろう。肉食いたいな、脂身の無いやつ。適当に野菜炒めでも作るか、楽だし。
「夏休みも終わりかぁ。つまんなかった」
「どっか行ったりしなかったの?」
「別に。行きたいとことか無いし」
「おれも結局どこにも行かなかったな、いつも通りだ」
「どうせどっか行くならさ、都会出ていきたい」
「やっぱ涌井も?」
「ま、みんな同じこと思ってるっしょ。ここに居る気はないって」
「そんなもんかぁ」
「槇村君基準で考えちゃダメだって」
「おれなんかヘンなこと言ってる?」
「ヘンって言うかズレてる」
「お前ズレてるって、ユカリにも言われたっけなあ」
「四条さんって小金に行ってるんだっけ、夏休みの間」
「そう。たぶんもう帰ってきてるけど」
八月終わりになると、ユカリから決まってLINQで「お土産なんかいる?」ってメッセージが来るんだ、ここ数年。あれ見るとさ、今年の夏休みももう終わりなんだなって気持ちになるわけ。点けっぱのテレビからサザエさんが流れてくると、日曜終わりなんだなって感じるのと似てるかも知れない。それが来たのが一昨日、間を置かずに「551買ってきて」って返したのを妙にハッキリ覚えてる。毎年同じもんリクエストしてるけど、ユカリは毎年訊ねてくる。意味分かんないところで律儀だからな、あいつ。
「あいつさ、夏休みになると小金行くんだ。ほとんどずっと、宿題とか全部持ってって」
「向こうに親戚いるとか?」
「いや。前住んでいた家に戻ってっさ、独りで暮らしてるって」
「ふぅん」
「向こうでトレーナー相手にバトルばっかしてるんだってさ。勝った勝ったってたまに連絡寄越してくるし」
「バトル強いの? 四条さんって」
「うん。すっげえ強い。リーダーがアテにしてるくらい。バッジ六個集めてるようなやつ相手に前座張ったりするって聞いた」
「知らなかった。本人が空手かなんかやってんのは知ってたけど」
「合気道だって言ってたな」
「ごめん合気道だった」
「涌井ってユカリとなんか絡みあったっけ」
「別に。槇村君と一緒にいるから顔見たってだけ」
「そっか」
「学校も違ったし」
「水瀬さんと同じだったっけ、涌井は」
「そう。その割には四条さんと水瀬さん、友達同士だったみたいだけど」
一海とユカリが仲良いってのはおれも知ってるけど、学校違ったんだよな、小中って。ユカリはおれとずっと一緒だったし、逆に一海は校区が違って顔を合わせる機会も全然無かった。どこで知り合ったんだろうな、一海とユカリ。榁狭いし、別に顔見知りでもおかしくなんかねえけど。
「槇村君さ」
「うん」
「水瀬さんと付き合ってるんだっけ」
「付き合ってる」
「そっか、水瀬さんと」
「水瀬さんと何かあったとか?」
「何もないって。転校してきて同じクラスになったくらい」
「転校生だったんだ。どっから来たんだろ」
「さぁね。隣の席だったけど全然話さなかったし」
「こういうこと訊くとまたおれっぽいって言われそうだけどさ」
「何?」
「昔から泳ぐの得意だったの?」
「言われなくても分かってるでしょ。うちじゃ全然勝てなかったし」
「ああ、そういうことか。やっぱ速いやつは昔から速いんだ」
「ほんっと、槇村君らしい」
「ほら言った」
「言うし」
「けど意外だったな、涌井と水瀬さんが同級生とか」
「顔知ってるってだけ。向こうはこっちのことなんか忘れてるでしょ」
「おれも小学生の頃誰が隣だったかとか覚えてねえしな」
「ま、そんなもんだって」
「そんなもんか。なんか、小鳥遊は気にしてたっぽいけど」
なんだろうな、全然前触れなく顔が浮かんできたんだ、小鳥遊の。会いてえとかそういうんじゃなくて、理由もなしにスッと。この間涌井と一緒にいて、今涌井が隣にいるからかも。それくらいしか思い当たることがないとも言うけど。
「小鳥遊とクラス同じだったっけ」
「そう。家も近くだったし」
「なるほどな」
「トレーナーになるんだって言ってた、昔っからね」
「実際なったしな」
「けど、戻って来たし。戻って来るって思ってなかったし」
「おれさ、トレーナーになろうって思わなかったからかも知れないけど」
「興味無さそうだもんね、槇村君は」
「実際あんまり。普通戻ってこないもんなのか、一度出てったら」
「そりゃ戻り辛いっしょ。負けて帰って来るとか、ミジメそのものじゃん」
あんまりカッコ良くはないな、確かに。けど、戻る以外に道がないことだってあるはずだし、そこまで突き放す気にはなれない。涌井と小鳥遊の間でなんかあったって言うなら別だけどさ。
「こないだ乗ってたじゃん」
「乗ってた?」
「小鳥遊のラプラスに」
「ああアレ」
「どんな感じなの? ポケモンに乗るって」
「こう言っちゃなんだけど」
「うん」
「普通。何かも普通って感じ」
「特に面白いもの見たとかじゃないんだ」
「何もなかったし。珍しいって感じでもないから」
「何回か乗ってるとか?」
「割としょっちゅう。別に何するわけでもないけど」
「よく分かんねえな、涌井と小鳥遊」
「槇村君と四条さんも似たようなもんでしょ」
「着かず離れずっていうか?」
「え、分かってるじゃん」
「おれが分かってたらおかしいみたいな顔してる」
「実際おかしいし」
「ちょっと納得行かねえ」
「付き合い長いの? 四条さんと」
「小学校入ってすぐぐらいからだな」
「そりゃあそんな感じにもなるか」
会話の合間を縫って窓の外を見る。もう完全に陽が落ちてて暗い、ジムも大分人がまばらになってきた。ここに居る理由も特にないし、腹も減ってきた。
「涌井、おれそろそろ帰るわ」
「ん。じゃあね、槇村君」
まだちょっと何か言いたそうにしてたっぽいけど、涌井は特に引き留めてこなかった。言って大したこと話してないし、延々続けるような会話って感じでもなかったし。荷物を手に持ってベンチから立ち上がって、自動ドアから外へ出る。涼しかったジムの中とはうって変わって、夏らしい湿っぽい空気がワッとおれに覆いかぶさってくるのを感じた。何も考えずにスタスタ歩く、家に向かって歩いてく。もう? って言いたくなるくらいすぐ、海沿いの道まで出て来た。
暦の上ではもう夏は終わって、秋だってことになってる。カレンダーはそう言ってんだけど、空気はまだ全然夏のまま。蒸し暑くて湿気ってて、夏の匂いが色濃く残ってる。すぅーっと大きく息を吸って、胸を、っていうか肺を膨らませる、空気で満たす。息してるなあ、おれ。生きてるって実感する、陸にいるんだって気持ちになる。死んでたら息なんてできないし(だから「息を引き取る」って言うんだろうな)、海の中じゃ息そのものができっこないから。
海。隣でゆらゆら揺れてる暗い海。陽が沈んだ後の海は今の宙に負けないくらい暗くて深くて、底ってものがちっとも見えない底なしの世界だ。たまに言うじゃん、何とかを見てるときその何とかもこっちを見てるってやつ。深淵だ、深淵。あのワードがビビるくらいピタッとハマるんだ、今の海。小さい頃たまに眠れなくなることがあって、そういう時は大抵海のことを考えてた。間違って頭に浮かべちまったって感じで。おれの中で海はなんでも飲み込んで、全部一つにしてしまうとてつもなくでかい存在に感じられて、もし自分が入りこんだらどうなるだろうとか、そういうことばっか繰り返し考えるんだ。
それこそ、果てのない宇宙に飛び出したちっぽけなニンゲンみたいに。
気付いたら視界が海でいっぱいになってた。海に目が釘付けになってる、それを自覚するまで五秒くらい掛かった。小さく息をつく。おれ、やっぱり海が好きなんだ。ただ見てるのも、波の音を聞くのも、潮の匂いを嗅ぐのも。だけど、だけどだ。一度足を踏み入れたら二度と抜け出せないって思いが抜けなくて、ずっと躊躇ってた、怖がってた、畏れてた。それを破ってくれたのが、おれを海へ導いてくれたのが、他でもない一海なんだ。一海がおれに、海の中に広がる世界を見せてくれたんだ。
顔が浮かぶ、一海の顔。学校で目が合って惹かれてから、もうずっと気になりっぱなしだ。ちょっと古くさい言い回しだけど、首ったけって言うんだっけ、こういうの。海に対する気持ちに似てる、大好きだけど触れちゃいけないって思ってたところが。海と一海、一海と海。その両方に、一海はあっさりおれを飛び込ませた。夏の初めに海で遊んだ時の記憶は、これから何年経ったって忘れない、忘れられない、忘れられるわけなんてない。
「海かぁ」
一海と海のことを考えてたせいだと思う、勝手に足が堤防の方、ちゃんというと海の方に向かって行った。近付いて見た海はもっと広くてデカくて、ただ息を飲むばっかりで。どくんどくん、って胸が高鳴ってる、気が昂ぶってる時の反応だ。もっと近くへ行きたい、なんなら海へ入りたい、ワケわかんないくらい強い衝動を感じてる。なんでだろうな、理由なんて分からない。気持ちを落ちつけたくて、視界を無理矢理上へ持ってった。空が見える、無数の星が瞬いて、満月の浮かぶ黒い空が。少しだけ落ち着いた気がする、気がしただけかも知れないけど。重力に従うように、また目線が下に戻ってって。
その時だったんだ、海で何かが光るのを、煌めくものを目にしたのは。
あれは――口に出しかけて言葉が詰まった。見たことある、前に見たことある気がする。似たような光景を春先に見た、光が海を泳いでるのを。思わず目を見張る、ずっと追ってたけど、見てるだけじゃ物足りなくなってきて。そんな時近くに階段が見えたら、もう下りずにはいられないよな。あっという間に駆け下りてった。
「泳いでる」
光を纏って泳いでる、確かに見えた。砂浜に降りてひときわ大きく目を開く。泳いでるのは誰だ、誰だって言っときながら、もうほとんど答え分かってて。見覚えのあるシルエット、それが海で泳いでる。思い当たるのは一人しかいない、他に誰も当てはまるやつなんかいない。
「一海っ!」
声を上げてた、頭で考えるよりも先に。海から顔が上がるのが見える、暗い中でも瞳はきらきら煌めいてて、一海以外の誰でもないってすぐに分かった。ぶんぶんと大きく手を振ってから、また海へ潜ってこっちに向かって泳いでくる。おれも海の方へ走ってく、前のめりになる体に脚が必死で追い付こうとしてる。おれが海の淵まで来たのとほとんど同時に、一海がざばあと姿を現した。
透くん、水みたいに透き通った声でおれの名前を呼ばれる、それだけでぞくぞくした。張りのある肌に海水を纏ってる、浮かんだ一滴一滴の雫が宝石のように輝いてる。本当に全部が綺麗だ、一海は。一海が目の前にいるってのがただ嬉しくて、一海の方も笑顔が溢れてる。ただ見かけて名前呼びあったってだけなのにな、おれも一海も。それだけで新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいに笑ってる。不思議だよな、カレシとカノジョのカンケイってやつは。
「泳いでたんだ」
「うん。今日は海が凪いでたし、泳ぎたいなって思って」
「わかる。海に居た一海、すっげえ楽しそうだった」
「海は楽しいよ、ずっと泳いでてもいいくらい。でも、よく見つけてくれたね」
「キラキラって光ってたんだ、海が。それを追いかけてったら、一海がいたってわけ」
夜空に浮かぶ月、その光に照らされた一海の肢体。眩いくらい輝いて、目が眩むくらい艶めかしくて。サラシに褌っていう泳ぐときのいつもの姿、この夏で何度も見たはずなのに、実際目にすると胸が高鳴りまくって口から飛び出してきそうだ。生きてて一度も見たことないほどの綺麗な躰に、屈託ない無邪気な笑顔を添えて。にこにこ笑ってる一海は、ただただ美しくて。あれだな、見惚れるってこういうこと指すんだよな。見て、惚れる。惚れてるから見っぱなしになる。今のおれ、言葉通りのありさまだ
「ね、透くん」
「水着着てきてもいい?」
「えっ? 分かっちゃった? 遊ぼう、って言おうとしたの」
「勘。けど、おれも一海と遊びたかったから」
「えへへ、うれしいな。自分が言おうとしてたこと、透くんから先に言われるの」
「おれも一海の言いたいこと分かれて嬉しい。じゃあ、ちょっと待ってて」
「うん」
ちょっと走って近くの岩陰まで行く。バッグを地面へ放って水着を引っ張り出す、濡れた水着もう一度穿くのってなんかヘンな感じするな、気色悪いってほどでもないけど、あんま記憶にない感触がする。こんな時間から海で遊ぼうとしてるのもヘンだよな、それもめちゃくちゃ楽しみにしながら。何もかもヘンで、全部がおかしくて。おかしくて、可笑しくて、今にも笑い出しそうだ、腹の底から目いっぱい。
着替えた、これで思う存分泳げる。一海のところまで走ってく、一海を待たせたくない、おれも速く一海と遊びたい。逸る気持ちを抑えたりなんかせず、まっすぐ一直線に走ってく。
「一海っ、着替えて来た」
「バッチリだね。裸の透くん、好きだよ」
「服着てたら泳げないもんな」
「そうだね。海はみんなが裸でお付き合いをする場所だから」
手をつなぐ、一海と。導かれてく、海へ。ざぶん、足が海へ浸かる。一歩入ってしまえば、後はなすがまま、なし崩し、なり行き任せだ。
ニンゲンってさ、服を着る生き物だよな。他の生き物で服を着る生き物はいない、おれは見たことないし知らない。ポケモンだってそうだ、服を着てるポケモンがいるなんて話は聞いたことない。服を着るっていうのはニンゲンだってことの証、そんな風に考えられる。けど、服を着たままじゃまともに泳げない。海で何かすることなんてできっこない。海へ入るには裸にならなきゃいけない、服を着たままじゃ入っちゃいけない。服を着てない今のおれは海へ入れる、だけどニンゲンかどうかはあやふやだ、おれがニンゲンだって主張してるだけで、ニンゲンだって証拠がないから。
今のおれは服を着てない、かろうじて海パン穿いてるだけ。体全部で海を感じて、全身びしょ濡れになってる。海と一つになってるな、今のおれ。一海と一緒にはしゃぎ回って、水を掛け合ったりしてバカ騒ぎしてる。かと思ったら深く潜って、夜の海に生きてるポケモンを見せてもらったりしてる。ケイコウオって名前からして光ると思ってたけど、マジで蛍光塗料塗ったみたいに光るんだ。どういう仕組みなんだろ、今のおれじゃ分かりそうにない。光ってて綺麗だよね、一海の言葉に頷く。綺麗だけど、なんで光るんだろう。揺蕩うケイコウオを見て、おれが思う。
「光るのは、見つけてほしいから。だよ」
えっ、おれが一海を見る。一海は頬をゆるめて笑って、それからこくんと頷いて。ケイコウオが光るのは、仲間に自分の存在を知らせるためだよ。みんなとはぐれないように、仲間に見つけてもらえるように、ここに自分がいるんだ、って。言葉の届かない海で、でも一海はおれに確かにそう語り掛けてくる。語り掛けてるっていうか、どこかから聞こえて来るっていうか。耳からじゃない、ココロに浮かんでくるんだ。一海の言葉が。聞き間違えるわけなんてない、海みたいに透き通った一海の声が。
息が続かなくなって顔を上げた。海の中にいると息苦しくなって、海から離れると生きてる、息してるって実感が湧いてくる。海の中でずっと堪えてた息ができるのは気持ちいいけど、でも何か物足りないっていうか、残念だっていうか。前も思ったけど、おれは海の中じゃ生きられないんだな。一海みたいに延々潜ってたって平気だってカラダだったらよかったのにな、おれも。
「どう? 夜の海、お昼とはまた違うでしょ」
「全然違う。前に見たのと違うポケモンがあっちこっちにいたし」
「透くんに見せたかったんだ、この夏の間に」
おれも見られてよかったよ、一海。キラキラ煌めく瞳に射抜かれて、おれは素直にうなずくばっかりだ。
泳いでるのか、浮かんでるのか、立ってるのか、座ってるのか。よく分かんない感じになりながら、一海と一緒に海に体を預けて話してる。外の空気が熱いから、冷たい海水が半端なく心地いい。たまにポケモンが寄ってきて、軽くちょっかいを出してきたりする。飽きなくていいな。今日は雲一つない完璧な快晴、カップ麺の容器の底に爪楊枝で穴いっぱい開けて、部屋暗くして上から懐中電灯で照らしたみたいな空模様。数えきれないくらいの星がおれと一海の上で瞬いてる。海に身を任せて、いっぱいの星を見ながら、一海と気ままに話してる。なんだろうな、こんなことしてておれ訴えられないかな。贅沢しすぎ、って。
「この間の博物館さ、昔から行ってるんだっけ」
「うん。四つか五つの時から」
「十年くらいかぁ」
「うん。好きだったんだ、中がちょっとずつ変わってく、その様子を見るのが」
お爺ちゃんと鈴木さんが親友同士だったからね、目を細めて一海が言う。仕草一つ一つが綺麗で、愛らしくて。ちゃんとしっかり話は聞いてるけど、ついつい見惚れてる自分に気付く。おれ、ほんとに一海の隣にいていいのかな。ちょっと不安になるくらい、一海は素敵なんだ、これが。惚気ってこういう感じなんだろうな、おれじゃない誰かが同じこと言ってたら「うへぇ」ってなりそうだ。
自分が生まれる前から仲良しだったみたい、一海が言う。じゃあもうずっと昔からなんだ、おれが応じる。三十年来だって聞いたことあるよ、三十年ってすげえな、素直に感嘆する。まだ三十年生きてないからってのもあるけど、そんなに長く付き合いのある相手がいるってのが想像できない。一番付き合い長い知り合いでユカリ、次がだいぶ飛んで秋人くらいだし。家族も入れていいなら親父もか。一海とずっと一緒にいて、あっという間に三十年経っちゃったなぁとか、そういうこと言い合えるようになりたい。
「お爺ちゃんね、漁師やってたんだ」
「たまに船出てるの見たことあるけど、その中にいたかも知れないのか」
「かもね。海に出てる時に間違って捕まっちゃった子を、館長さんに引き取ってもらったりしてたみたい」
「なるほどなぁ。どっちも海に関わる仕事だもんな」
「うん。知り合ったのも、それが切っ掛けだって言ってたね」
館長さんには自分もハナちゃんもひっくるめて可愛がってもらってるよ、今もね。だよなあ、おれも納得する。博物館のアクアリウムを遊び場にして、しれっと一緒に夕飯食ったりしてるわけだし。鈴木さんの孫だって言われても違和感無いんじゃないか、花子ちゃんとも姉妹みたいだったし。二人とは肌の色だけ違うけど、それはまあそういうもんだって言えばいいし。
花子ちゃん、館長とどんな関係なんだろ。やっぱり孫娘? けどちょっと雰囲気違うんだよな、遠い国の人って感じがする。いやそういう意味だと館長も別の国の人っぽいんだけど、花子ちゃんと館長もお互い別の国にいた人って雰囲気がするって言うか。
「あのさ一海。花子ちゃんってさ」
「ハナちゃん? うん」
「あれかな、館長の孫なのかな」
「そうみたい。顔は全然似てないけどね」
「やっぱ一海もそう思う?」
「思うよ、もちろん。鈴木さんはゴツゴツしてて、ハナちゃんは丸みあるねって」
「言っちゃアレだけど、誰かから引き取ったとかかな」
「かも。気にしたことなかったけどね、二人とも仲良いし」
「館長は仕事一筋で、花子ちゃんがあれこれ見てあげてるって感じだもんな」
「お料理も上手だしね。あ、ちょっと待って。ハナちゃん、ここで生まれたって言ってたっけ」
「ここってことは榁?」
「榁。生まれも育ちも榁だって聞いたの、さっき思い出したよ」
「マジか、ちょっと分かんねえな。けどいいか、鈴木さんと仲良くしてるし」
「大事なのは今、そういうことだね」
そう、そういうこと。大事なのは今、一海の言葉が全部だ、足す必要も引く必要もない。
「花子ちゃんと話してる時に聞いたんだけどさ、サーフィン上手いんだって?」
「すっごく上手だよ。自分が知ってる中で一番上手いかも」
「サーフィンやったことねえけど、花子ちゃんがやってるとこ見てみてえな」
「言えば見せてくれると思うよ、もちろん晴れた日にね」
「雨ん時は危ないもんな」
「うん。ハナちゃん本人が『荒れてる時は海に出てはいけないのです』って言ってるからね」
「言いそう、そっくりそのまま言いそう」
「透くんもハナちゃんのこと分かって来たみたいだね。ハナちゃんも『お兄ちゃんのようです』って言ってたから」
「おれ一人っ子だからなあ、弟とか妹とかいたら、とか考えたことなかった。花子ちゃんのサーフィンかあ、夏っぽいうちに見てみたいな」
「きっとビックリするよ。出海さんも『やるじゃない』って褒めてたしね」
一海が海水を手ですくってパシャパシャと顔を洗う。つられたのか、そういうわけじゃないのかは分からないけど、おれも濡れた手で額に浮かんだ汗を拭った。海に浸かった部分と外に出た部分で感じる温度がだいぶ違う。纏わりつくみたいな夏の空気は暑くてちょっとうざったい、だけどこれからだんだん涼しくなっていって、気が付くとどこにもいなくなることをおれは知ってる。鼻をすんすん鳴らす、潮の強い匂いに夏の残り香が混じってる。
それから微かに、本当に少しだけ。ここに一海がいるんだって分かる、仄かな香りがした。
「叔母さんだっけ、出海さん。お母さんの妹」
「うん。歳が六つくらい離れてたって」
「六つかあ。おれと花子ちゃんと同じくらいかな」
「あ、確かにちょうどそれくらいかも」
「って考えたら、結構離れてるよな」
「歳の離れたの妹がいるのってどんな感じなのかな、お母さんいたら訊けたのになぁ」
「そっか、そうだよな」
「お爺ちゃんがいてくれたから、寂しくは無かったけどね。でも」
でも。一海はそこで言葉を切った。母さんが居なくなって、お爺ちゃんに面倒を見てもらってた。そのお爺ちゃんも亡くなって、今は叔母さんと暮らしてる。今まで聞いた話を素直に繋ぎ合わせると、そういうことになる。ふっ、と手が浮き上がるのを感じた。水面を割って外に出ていくと、見えない紐で引っ張られていくみたいにして、おれと一海の手が重なり合った。意識しないままに力を込めて、そっと握る。
透くんは優しいね、耳から入って来た一海の声が脳を揺さぶる、ココロを柔らかい布で包まれる感触がする。一海のふとした仕草、なんてことない言葉ひとつで、地球がぐらぐら揺れるくらいのでっかい波になっておれに伝わる。一海は海だ、おれっていう地球にとっての海だ。一海、って名前も、海とひとつ、海そのもの、って感じだし。黒い髪に零れる水滴がキラリと光って、ただの海水なのにどんな宝石よりも綺麗に見えて。おれ、今すげえもの見てるな、マジでそう思う。
「出海さんが来てどれくらいになるんだ?」
「家に来てくれてから、もう四年になるかな。ずいぶん早いね」
「四年かあ。前は都会で働いてたって言ってたよな」
「そうそう。大きな会社で研究とかしてたみたい」
「研究する人って頭良くないとなれないって聞いたぞ。すげえな、出海さん」
「その分、お仕事だいぶ忙しかったって聞かせてくれたけどね」
今も遅くまでお仕事してて、あんまり家に帰ってこないんだ。一海から言われて、たちまち親父の顔が浮かんだ。おれの親父に似てるかも、忙しくてしょっちゅう家を空けるし。おれの言いたいこと全部伝わったっぽい、お約束の似た者同士だね、目を細めて言う。おれの目も細くなる、多分口元も緩んでる。一海の前だと気持ちが全部表に出そうになる、だからヘンなこと考えないようにしないと。一海のこと、ヘンな目で見たりしたくないし。
「あっ、でも仲悪いとかじゃないよ。そういうのじゃないよ」
「写真見せてもらったっけ。頭良さそうだけど、怖そうとかキツそうって感じじゃなかったな」
「落ち着いた人だよ、大人っぽい感じの」
「おれからすると一海も大人っぽいよ」
「自分はまだ子供だよ、海でわーわー言って遊んでたりするし」
「そっかなぁ。そういうもんかなぁ」
「ほら、自分と違ってよく本を読んでるし」
「本読んでるんだ。どんなのか分かる?」
「分かるよ、海にまつわる本。図鑑とか、論文みたいなのとか。あと、小説も」
おれも本読まないとなあ、最近全然読んでねえや。読むなら小説読みたい、出海さんが読んでるっていう海の小説ってなんだろ。題名聞いてみたいな。
「時間ができたら、出海さんに紹介したいな、透くん」
「ちょっと緊張するな、一海の家族と顔つき合わせるのって」
「大丈夫だよ、リラックスしてて大丈夫。透くんなら、出海さんきっと気に入ってくれるよ」
「だといいんだけどなあ」
「それに、透くんのこと知ってるって言ってたし」
「マジか。どっかでおれのこと見たのかな」
全然記憶ねえや、出海さんと顔合わせたことあるとか。けど、たぶん理由は分かる。一海から「出海さんだよ」って言われて写真見せてもらって、おれその時写真の中の人と「出海さん」が結びついたわけじゃん。見せてもらうまでの出海さんは「出海さん」って名前の付いてないただの通りすがりの人で、道行く人の顔なんていちいち覚えてないわけで。だからおれがちっとも覚えてなくて向こうが覚えてるってのは、まああってもおかしくねえよなって思う。
「ね、透くん」
「ん?」
「家族に彼氏紹介するのってどんな感じなのかな、今からワクワクしちゃう」
「あのさ、その」
「うん」
「こう、面と向かって彼氏って言われると、やっぱこそばゆいな」
「ふふっ。自分は透くんの彼女だよ」
「もっとくすぐったいって」
繋いだ手にそっと力を込める。ガラス細工を扱う時みたいにして、ガラス細工を実際に触れたことなんてないけど、でも心持ちはやっぱり、ガラス細工を扱う時みたいにして。右手と左手、おれと一海。海水に沈んだ手は冷たくて、だけど繋いでる部分だけあったかい。ちょっと力を入れる、一海が手を握り返す。強く繋がってるのを感じる、結ばれてるって分かる。ドキドキは収まらないけど、それとは別に気持ちが落ち着く。こうしてるのが当たり前、って言えばいいかな。
海に浸かったまま一海と手を繋いで、ただじいっと水平線の向こうを見てた。ぼうっとはしてなかった、隣に一海が居たから。
「あっ、透くん」
「どうした?」
だから、急に声を掛けられてもパッと応えられて。
「見て、空を」
すぐ顔を上げる、空を見上げる、途端に目が見開くのを感じた。星が瞬いてる、それはいつものことだけど、いつもとは輝き方っていうか、煌きが違う、全然違う。音を立ててキラキラ光ってる、星が生きてるみたいだ。いつもより強い光を発して、その強さが遠い遠い地球にいるおれにも届いてる。テキトー言ってると思うけど、でも普段おれの上にある空とは何か違うってのは確かだ。なんで違うのか、違うとどうなのかは分からない。ただ、違うのは確かで。
「違う……よな。いつもより星が強く光ってる」
「よかった、透くんにも分かるんだ」
「分かる。違うからどうなんだってのは分かんないけど、違うのはおれにも分かるよ」
繋いだ手を解いた一海がすっと立ち上がる。目線は空を向いていて、ずっとずっと遠くを見つめてる。見る者すべてを吸い込む星みたいな瞳が、空の向こうで輝く星を捉えて光る。星と星が引かれ合う様に、おれはぐっと惹きつけられてて。
「今日、星が落ちるよ」
一海が、そう口にした。
「星?」
「うん。空から来るんだ、煌めき星が」
変貌した空の様子に引きずられるみたいに、海がゾワゾワするのを感じた。思わず立ち上がる。大きな波と小さな波が不規則に打ち寄せて、いつものテンポじゃなくなってる。隠し事をピタリと言い当てられた時の心臓みたいにリズムがおかしくなってる。これから何が起きるんだろう、そう考えた後、これから何か起きるのは間違いないんだ、時間差で自覚する。こんな海と空を見るのは初めてだし、これから生きててまた見られるとも思えない。
星が落ちて来るって一海は言った。そんなことあるのかよ、おれのジョーシキが疑ってかかるけど、一海の言ってることだぞ、とおれの本音が一蹴する。一海が何か嘘を言ったことがあるかって言われたら、無いってすぐ答える。あるわけないって言い切っていい。空から星が降ってくるんだって一海が言ったなら、おれはそれを信じる。信じるっていうか、そうだよなって思うっていうか。
一海が胸にそっと手を当てる、しっとり濡れた張りのある胸。なんで一海はこんなにも綺麗なんだろうな、考えたって答えなんて出てこない。ただ目の前にある彼女の美しさだけが答え。ふっと目を閉じて空を仰いて、それから大きく瞼を開く。髪から一滴ぽたりと小さな雫が零れ落ちて、大きな海へ還った瞬間。
「来るよ」
来た。一海の言葉と共に、それはやってきた。
「――星だ」
それは、流れ星だった。
ひゅうん、という音が聞こえた。耳が聞いたホントの音だったのか、ココロが聞いた仮初めの音だったのか。どっちだって構わない、違いなんてありはしない。大きな、とても大きな、ばかみたいにでかい流星が空を走ってった、それに比べたら小さい、すっげえ小さい、バチュルの足跡とかよりもっと小さい事だから。あんな流れ星見たことない、流れ星自体ろくに見たことなかったのに、あんなのを間近で見られるなんて。
海が照らされるなんてことあるんだな、真っ暗だった海がわあっと明るくなったんだ、流れ星の放つ光で。海にフツーに光を当てたってあんなに明るくなることなんてない、おれだってそれくらいは分かってる。よっぽど強い光を持ってたんだ、さっき空を流れてったあのほうき星は。どんだけすごいかって? 光の飛行機雲ができてたんだ! いや雲じゃねえって分かってるけど、でもアレは飛行機雲だよ、どう見たって。
「星が……海へ落ちてくよ」
一海の言葉が終わるか終らないか、そのくらいのタイミングで、落ちていった星から光が消えた。微かに海が揺れたのを感じる、ただ水面が揺れただけとは違う「海が揺れた」って分かる感触。星が海へ落ちて、海が星を飲み込んで。今はもう一つになって、境目なんてものはなくなった。どこからが星でどこからが海か、もう誰にも分からなくなったってことだ。
星が海を目指したのか、海が星を呼び寄せたのか。あるいは、その両方なのかもしれない。星が海へ落ちたのも、海へ星が落ちたのも、裏返しただけで同じことだから。
海が星を飲み込んで、星が海へ飛び込んで。ふたつがひとつに交わり合ってすぐのことだった。
(……歌?)
歌? 歌、誰かが唄ってるのが聞こえる。聞こえる? 耳で聞いてるってわけじゃない、音が生じてるのとは違うから。空気を揺らす音としてじゃなくて、耳が受け取った後の頭が処理する信号としての「歌」、伝わるかな。耳が音を拾ってるんじゃなくて、脳が歌を受け止めてる。受けた音を脳が濾過して、心へ流れ込んでくる感じだ。頭ん中に知ってる曲を思い浮かべた時の感じに似てる、だけど流れてるのは知らない歌。知らない曲。何もかも知らない音の連なり。
何もかも知らないはずなのに、なぜか――なぜか、懐かしくて。
おれが歌に身を委ねてたのはほんの数秒で、気が付くと跡形もなく消え去ってた。最初からカタチなんて無かったし、痕跡が残るようなものでもなかったけど。一瞬のはずなのにとてつもなく長く感じられて、永遠に終わらないんじゃないかって思うほどの密度で。なんだったんだろうな、今の。
「ね、言ったとおりでしょ?」
隣から声が聞こえた。耳がしっかり捉えた確かな声。
「言った通りだ。一海の言った通りだった」
微笑む一海、おれの頬も緩む。気持ちも一緒にゆるんだ、ってわけじゃないけど、どちらともなく相手に近づいてく。おれは一海に、一海はおれに。足が動くたびにざぶざぶと音を立って、小さな波が辺りに起こる。吸い込まれるみたいに、吸い寄せるみたいに、おれと一海がぴたりと距離を詰めて。
「来て」
カラダが触れあう、重なり合う。自然と腕を背中へ回す、一海も同じようにする。ぎゅっと力がこもるのが感じた、おれの腕にも背中にも。ぎゅう、って音がしそうなくらい強く抱き締める一海に応えて、おれも力いっぱい一海を抱擁する。付き合ってから一ヶ月くらい経つけど、お互い抱き合うの今日が初めてだ。一海のカラダを全身で感じられる、ひとつの生き物になったみたいだ。
濡れた一海の躰はしっとりしていて、でもふわふわしていて心地いい。泳ぐの得意だからがっちりしてるのかなとか勝手に思ってたけど違ってて、すっげえ柔らかいんだ、一海のカラダ全部。誰かとハグし合う、ってこと自体今までちっともしたことなくて、ハッキリ「抱き合ってる」って意識したのは絶対今が初めてだ。抱き締め合うのってこんな風なのか、ビックリするくらい気持ちいい、やべえくらい心地がいい。もっと一海を感じたい、もっともっとってカラダがせがんでる。
海に潜って冷たくなってたはずの体が抱き合った熱で温まってく。一海と熱を交換して、いっぱいに増やしてから相手に返してる。ドキドキしてる、いっぱい気持ちいい、一海はどう思ってるんだろ。シンプルにただ抱き合ってるだけなのに、頭ん中がいろんなものでパンクしそうだ。よそのカレシとカノジョがこうやって抱き合う理由、おれにもようやく分かった。これはクセになる、マジで。一回知ったらやめられない、タバコみたいにキケンな魅力ってやつがある、ぜってー間違いない。
「透くん」
「一海」
名前を呼びあう。今までで一番近い場所から聞こえた声。カラダを通り抜けて、ココロの奥へと沁みこんでいく。まるで水みたいに、水を飲むかのように。
「ちょっと恥ずかしいね」
「おれもかなり恥ずい、けど、その」
「気持ちいい?」
「うん。すっげえ気持ちいい」
「よかった。透くんが気持ちいいって言ってくれて」
「痛くない? 抱き方ヘンじゃない?」
「ううん。ちっとも。自分も初めてだしね」
だから、透くんの好きなようにしてくれていいんだよ。今の自分、すごく幸せだから。言われてるおれも幸せだ、幸せだってハッキリ自覚できる。寝ぼけたこと言ってるなっておれも思う、けどそれが素直な気持ちなんだからしょうがない。誤魔化したってどうしようもねえから。こういう時は素直になった方がいい、おれの中のおれがそう言ってる。
「夏休みも今日でおしまい。だからかな、ちょっと大胆になっちゃったのは」
「ドキっとした、すごく」
「ホントに?」
「本当だって」
「嬉しいな、自分のことで透くんがドキドキしてくれて」
「一海といてドキドキしないことの方が珍しいけど、さっきは今までで一番だったかも」
「ふふっ。じゃあ、これから一番をどんどん塗り替えていかないとね」
無邪気な顔してサラッととんでもないことを言う。これだけでもうドキドキしちゃってんだから、どうしようもない。一海に首ったけ、その通り言葉通りの有様。
「明日から学校かぁ」
「席替え、近くになるといいな」
「教室じゃこんな風にはできないけど、一緒にいられるのは嬉しいよ」
「おれも。同じ場所にいるってだけでなんかテンション上がるから」
明日からまた学校行って、教室で授業受けるって毎日が続くんだけど、明日からの教室は夏休みが始まる前の教室とは違ってて、そこに一海がいる、同じ時間を過ごす場所って位置付けに変わるんだ。一海とカレシとカノジョの関係になったってだけなのに、見える風景はきっと全然別だって確信してる。
「あっという間だったね、夏休み」
「だよな。ほんと早かった」
「早く終わっちゃうのはいつもと同じだけど、でも」
「でも?」
「今年はちょっと、ううん、全然別物だったよ。何もかもが違って見えたから」
「一海、それは」
おれはそこから続けようとしたけど、言葉が出てこなかった。声が出せなくなった。
口をそっと塞がれたんだ、とても、とても柔らかなもので。
だから、おれは何も言えなかった。何か言う必要なんてないって思ったから。
言葉よりも強くて確かな方法で、一海が教えてくれたから。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。