コーヒーはおれも飲む。朝に親父が必ず飲むからおれが淹れるようにしてて、ついでにおれもって感じで中学くらいの時から飲んでる。飲んでるけど、その時は絶対クリープと砂糖入れてる。砂糖はブラウンシュガーって決めてる。だから、ってあんまり理由になってねえけど、一海が何も入れないブラック飲むって知った時は結構ビックリした。知ったの今さっきなんだけど。
「一海さ」
「うん?」
「ブラックじゃん。苦くない?」
「いつもこうしてるよ。家で飲む時も、ペリドットでもね」
ペリドット行きてーって思ったからペリドットに来てる、シンプルすぎるけど、どっか行く理由なんてだいたいそんなもんだろって思う。窓の外を見ると端っこの見えない青い海が見えて、中はずーっと昔っから時間が止まったみたいな古めかしい雰囲気に満ちてる。電話ボックスとかもう駅か此処でしか見ねえや。三段の本棚にぎっしり詰まった本とか、写真いっぱい貼ってあるコルクボードとか、おれが生まれるよりも前に引退した女優のポスターとか。他じゃ見ないようなものばっかなのに、家にいるみたいに落ち着く。
みんな似たようなこと思ってるんだろうな、ペリドットっていつ行っても大抵半分くらい席が埋まってる。満席ってことは無いけど、空席ガラガラってのも全然見たことないんだ。好きな時に来て、飲み物飲んで一息入れて、気が済んだらしれっと出ていく。榁じゃ他にこういう喫茶店ないからな、ペリドットの独り勝ちになっちゃうわけだ。駅前にドトールとかできたら分かんないけど、でもなんかペリドットに足が向きそうな気がする。少なくともおれは。
「家でもコーヒー飲む?」
「よく作って飲んでるよ。出海さんも好きだから」
「おれも。けどクリープと砂糖入れちゃうな。親父はブラックだけど」
「なんにも入れない、シンプルなコーヒーの味が好きなんだ」
「一海って大人だなぁ」
「わかんないよ、ただ背伸びしてるだけかも」
そっかなぁ。おれには自然な感じにしか見えないけどな。背伸びしてたってしてなくたって、おれが一海のことを好きだって気持ちは一ミリも変わらないんだけど。
「透くんが飲んでるのもおいしそうだね。レモネードだっけ?」
「惜しい。柚子ネードだってさ」
「柚子ネード? 初めて聞いたよ」
「おれも。静都の日和田でよく飲まれてるって書いてるな」
「あ、知ってる。ゆっちゃんの地元からすぐ近くだね」
「それそれ。ユカリもしょっちゅう飲んでるって言ってたし」
「この間まで無かったよね、これ」
「新メニューだって書いてあるな」
「ついこの間、日和田の方まで行ってきたから」
「あ、店長さん」
ペリドットの面白いところは、ペリドットの話をしてるとスーッと店長さんが入ってくるところ。今だってそう、柚子ネードの話をしてたから店長さんが来た。
「その時においしいなって思って、作り方を勉強してね」
「で、早速メニューに追加、ってわけか」
「どう? 槇村君。結構いい感じでしょ」
「おれは好きだな。いいと思う」
店長さんがうんうんって感じで頷く。なんかいい雰囲気だな、ペリドットの空気を作ってるのは店長さんがこういう人だから、っていうこともあると思う。
「ふむ。今日はゆかりちゃん一緒じゃないんだ」
「どっちに訊いてる?」
「両方かな。槇村君も水瀬さんも、ゆかりちゃんと一緒に来てくれる事が多いから」
「透くんもゆっちゃんとよく一緒に来てるの?」
「よく、ってほどでもないけど、たまに来ることはあるな」
「自分も。ゆっちゃんが行きたいって言ったら来る感じだよ」
「ふたりとも、もっとたくさん来ていいんだよ。毎週でも毎日でも、ね」
「店長さんったら」
「ここにユカリがいたら、それはそれで面白そうだな」
「透くんと自分に代わる代わる話してそう」
「分かる、想像つく。器用なやつだもんな、ユカリは」
「ホントにね。自分とは大違い」
笑う一海、かわいい。笑ってると可愛いじゃん、だいたいのやつって。で、一海は元々かわいい。かわいいとかわいいが合わさって最高にかわいい。かわいいって何回言ってんだろうな、おれ。
別のお客さんが店に来た。いらっしゃいませー、店長さんがおれたちから離れてカウンターまで戻ってく。またおれと一海だけの会話に戻る。
「ゆっちゃんかぁ」
「ユカリなぁ」
「どう思ってるかな、ゆっちゃんは」
「何が?」
「自分が透くんと付き合ってるってこと、気にしてないかな、って思って」
「幼馴染だもんな、おれとユカリ。一海とも友達だし」
「ゆっちゃんは大切な友達だよ、友達だって言えるの、ゆっちゃんくらいしかいないから」
「学校でもユカリと話してること多いしな」
「うん。だから気になっちゃって。気にしたってしょうがないけど、でもね」
「ユカリがおれのこと好きだったら……ってこと?」
「そうなっちゃうかな、うん」
一海とおれ、同じこと考えてた。それだけで楽しくなってるんだから、おれって単純だよな。自分でもマジで思う。ユカリの言う「可愛い」っていうのは、おれのこーいうとこを指してるのかも知れない。可愛いって言われて嬉しいわけじゃない、っていうかそうじゃねえだろとは思うけど、でもユカリが言うのも分かる気がする。分かるってだけで納得したわけじゃねーぞ。
「おれもさ、同じこと思ってた」
「透くんも?」
「うん。だからこの間、直接訊いてみた、ユカリに」
「わ、直に訊いたんだ。すごいね、透くんは」
「ユカリと話す時は正面からって決めてるからな」
「そっか。それで……ゆっちゃん、どう言ってた?」
「『うちらそういう関係ちゃうやろ』って。ハッキリ言われた」
「ゆっちゃんの声色にちょっと似てた」
「頑張って似せてみた」
「ふふっ。ゆっちゃんらしい答えだね、そんな風に言うんじゃないかって思ってたよ」
ユカリのこと、一海も分かってるみたいだ。付き合い長いんだろうな、小学校入ってすぐぐらいとか言ってた気がするし。違う学校にも友達いるって結構すげえって思う。おれもいることはいたけど、それはスイミングで一緒だったってのが理由だし。ユカリはそういうのじゃなくて、単純にたまたま会ったから、で一海と友達になった。フットワークあるってこういうことだよな。あいつフツーに足も速いし。
「ゆっちゃん今日はどうしてる?」
流れでユカリの話になったからかな、一海の方からユカリの話が出て来た。
「朝からジム行くってLINQ来た。合気道の稽古やって、ついでにバトルもしてくるとかって」
「元気いっぱいって感じだね。自分といるときもそうだけど」
「ユカリのやつ、体力めっちゃあるからな」
「自分ももっと体力付けたいな、走るとすぐ息切れしちゃうから」
「一海だってすっげえ泳げるじゃん、おれよりずっと」
「海は別だもん。海にいるとね、体がすっごく軽くなるんだ」
おれも泳ぐの好きだけどさ、ずっといると逆にだんだん重くなってくるんだよな。やっぱ一海はすげえや、休んだりせずに延々泳いでても大丈夫だってことだし。何が違うんだろ、食べてるモノとか? こないだ一緒に夕飯食ったときは全然普通だったけど。海の物が好きって聞いた気がするから、魚とかよく食べてるのかも知れない。おれあんまり魚食わねえんだよな、ちょっと増やしてみっか。
一海が海で泳いでるのは知ってる、っていうかよく一緒に遊んでる、一海の遊び場だし。逆はどうだろ。一海がおれのよく泳いでる場所に来る、ってのは無いのかな。
「知ってると思うけど」
「うん」
「おれよく学校とかジムのプールで泳いでるんだけど、一海は行ったりしないの?」
「そうだね。自分から行く、ってことはしないかな」
「海で泳ぐ方が楽しいかなぁ。最近おれもそんな気がしてきたけど」
「もちろんそれもあるし、あとね、プールで泳ぐの、ちょっと苦手なんだ」
「そうなの?」
「水の中にいるはずなのに、海にいる時は違う感じがして、なんだか落ち着かないよ」
「マジか、あの時あんなに速く泳いでたのに」
「あれはね、透くんと泳げる、そう思って嬉しくなったのと」
「うん」
「透くんに勝ちたい、勝負に勝ってお願いを聞いてもらいたい。そう思ったらね、力が湧いたんだ」
艶のある黒い前髪、シュッとした指先で軽くいじる。一海の何気ない仕草、特別何か意識してるわけじゃないってアタマの方じゃ分かってても、ココロのドキドキは抑えきれない。どうしてこんなにも綺麗なんだろうな、一海の言葉ひとつひとつに、おれのココロはタテタテヨコヨコ、縦横無尽に揺さぶられて。
一海の可愛さと綺麗さに、目の前がクラクラしそうになる。やべっ、おれもっとシャキッとしなきゃ、一海にかっこ悪いとこ見せたくねえから。
ドキドキしっぱなしじゃマトモに話すに話せない、一海以外のモノでも見てちょっと落ち着こう。なんて気持ちで目線をすぐ隣のカウンターの方に向けてみる。ポケモンと目が合った、小さい鳥みたいなポケモン。割とよく見るやつだ、名前なんだっけ。思い出した、スバメだ。スバメがカウンターの上に座ってる、ちょこんと。そいつから見て一番近いのは婆ちゃんみたいな人、多分あの人のポケモンだろうな。向こうもおれに気付いたっぽい、こっちをじーっと見てきた。ちょっと楽しそうだ、人懐っこい顔してる。おれはポケモンと絡む機会あんま無いけど、ポケモン自体が嫌いって訳でもない。人並みには好きだって思ってる。人並みってどれくらいだろうな、分かんねえけどそんなもんだ。
おれと目が合って嬉しそうにして、ちょっとこっちへ飛んできそうな雰囲気を見せてたんだけど、急にピタッと足が止まった。なんだ、と思ってスバメの目線を追っかける。
(一海?)
ちょっと俯いた一海、スバメが見ている先にはそれがあった。間を置かずにスバメは婆ちゃんの陰に隠れて、一海から思いっきり目を逸らしてしまう。どういうことだ、スバメが一海を怖がってる? 意味不明すぎて目を白黒させるおれを、寂しげな目をした一海が見ていて。
「さっきの話の続きだけどね、ジムには行かないって話」
「う、うん」
「自分がいると、ポケモンが怖がっちゃって」
「じゃあ、あのスバメも一海を見て……?」
「多分、ね。ほら、透くんには馴れてるみたいだったし」
「それで……けど一海、海にいる時は全然そんなことなかったじゃん。向こうから普通に寄って来たりしてたし」
「海にいるポケモンとは仲良くなれるんだけど、陸にいるポケモンとは全然。昔からこうなんだ」
「そっか。それじゃあ、ポケモンのいっぱいいるジムには行きづらいよな、だからか」
「うん。みんなを怖がらせちゃいけないし。透くんはよく行ってるんだよね」
「小学校に上がる前から常連。スイミングスクール通ってたし」
通ってた、って過去形で言ったけど、どうなんだろうな。川村とかの年下連中の練習見たりしてるし、ただ単に月謝払って教えてもらう、って形になってないだけで今も通ってるようなもんだよな。
「実はね、昔通いたいなって思ってたんだ。スイミング」
「一海が?」
「うん。小学校に通う前から泳ぐのが好きで、将来の夢にも『水泳選手』って書いたりして」
「選手になりたかったんだ。今からでも遅くないって、一海だったらぜってー天辺取れるって」
「透くんに褒められるの、嬉しいけどちょっと照れちゃうな」
「本気でそう思ってるから、おれ。今はもうなりたいって気持ち無いの?」
「そうだね。ちょっといろいろあって、結局途中でやめちゃった」
「うーん、そっかぁ。勿体ないなぁって思うけど、一海がやめるって言うならしょうがないか」
「今は、海で自由気ままに泳ぐのが好きだよ。海にいると、自分になれる気がするから」
「うん。おれもその方が似合ってると思う、一海は。水泳選手かぁ、おれも――」
ガチャリ、とペリドットの扉が開く。ベルが鳴って誰かが店に来たことは気付いたけど、おれただの客だし誰来ても関係ねぇや、って感じで目は変わらず一海に向いたまま。だけど、そのドアの方向いてる一海の顔つきが急に変わったりしたら話は変わってくる。しかもそれがニコッと笑ったりするいい感じのやつじゃなくて、明らかに表情が強張ったりしたら尚更。一海の視線を追っかけて、同じものを見ようとする。ぐっと背を向いて、閉じかかったドアを見やる。
一海が見ている先には、小鳥遊がいた。
小鳥遊。同級生の男子、たまに喋ったりするくらいの間柄のあいつ。小鳥遊は店に入った途端足を止めて、おれたちの方――ちゃんと言うなら一海を見てる。見開かれた目は、今の状況に驚いてる、予想もしてなかったって気持ちをかなりハッキリと表してる。小鳥遊は一海を見てる。一海も小鳥遊を見てる。小鳥遊を瞳に映す一海の表情は、なんて言えばいいんだ、今まで一回も見たことのないような、色の無い顔をしてる。一海が普段見せてくれる真摯さとか無邪気さとか、或いは艶やかさみたいな「色」がひとつもない。魂が抜け落ちたみたいな表情を浮かべていた。
いい雰囲気じゃない、一海と小鳥遊の関係はさっぱり分からないけど、いい雰囲気なんかじゃないってことだけは確かだった。
おれが隣でじいっと見てたからだろうな。向こうも、小鳥遊の方もおれの存在に気付いて、ちらり、と目を向けて来た。目が一段と大きく開く、お前がどうしてここに? って今にも口から飛び出してきそうな顔をしてる。ここにおれがいるなんて思ってもなかったって顔に書いてある。おれだって言いたいことはある、一海とお前なんか関係あったのか、って。尋常じゃない一海の様子を見てたら、思わずにいられるかってんだ。
見合ってるのに堪えられなくなったみたいだ、一海も小鳥遊も顔を伏せて目を逸らした。一海からは辛そうにしてるのが伝わってきて、小鳥遊の方もこれ以上関わる気はないってのが分かる。何かあった、小鳥遊と何かあったんだ、ユカリに「鈍い」ってしょっちゅう言われるおれでもこれくらいは察する。何があったのかは知らない、知りたいとも思わない。ただ、一海が苦しそうにしてることだけが気掛かりだった。
「いらっしゃい、小鳥遊くん。向こうの席空いてるよ」
店長さんが小鳥遊に声を掛ける。空気を察したんだろうな、それとなく遠い席を選んで案内してくれた。喫茶店やってると雰囲気読む力付きそうだし、何にせよ助かったのは間違いない。そそくさと席まで歩いて行って、目線の置き場所を探すようにメニューを手に取った。小鳥遊はこれ以上関わってこねえはず、気にする必要もない。
「一海」
「……あ、透くん」
おれが気にしなきゃいけないのは、一海の方だ。パッと顔を上げた一海は、いつもよりちょっとだけ強張った顔をしてたけど、さっきに比べれば大分マシにはなってた。
「透くんごめんね、ヘンな雰囲気になっちゃったね」
「その、訊いていいのか分かんねえんだけど」
「いいよ。訊いてみて」
「あいつと、小鳥遊となんかあったのか。言いにくかったら言わなくていいけど」
「ううん、ちゃんと話すよ」
小声で、だけどハッキリ、一海は応えた。これから何を話すんだろう。いろんなことが思い浮かんできて、思わずごくり、と唾を飲み込む。
「小鳥遊くんとはね、小学校の頃一緒で……だけど、あんまりいい関係じゃなかったんだ」
「苛められてたのか」
回りくどいのはよくないと思った。だからあえて、他に意味が取りようのない「苛められてた」って言葉を使って訊ねた。一海が頷く。やっぱりそうだったか、っていうのが本音。一海の小鳥遊を目にした時のあの反応は、昔関わりがあって酷い目に遭わされた、ってやつのそれにしか見えなかったから。正直いい気はしない、小鳥遊にどんな事情があったか知らねえけど、一海を怯えさせるような真似をしたってのは間違いなさそうだったから。
たぶん、自分が無口で鈍くさかったからかな。続く一海の言葉を、おれはただ聞くに留めた。おれは一海が無口で鈍くさいだなんてまったく思ってない、そんなこと言うやつはろくなもんじゃないって気持ちだったけど、これは一海が一海なりに過去に折り合いをつけて、そこから出て来た言葉でもある。肯定はしない、けど簡単に否定もしない。ただ一海の言葉を聞くべきだ、おれはそう思った。
「一海、思い出さなくていい、無理しちゃダメだ」
「透、くん」
「学校で何されたかとか無理に思い出させて、一海に苦しんでほしくない。話して楽になるとかだったらいくらでも聞く、全部聞く。だけどそうじゃないなら、何も言わなくていい」
「ありがとう、透くん。せっかくだから、少しだけ話させてほしいな」
一海が話したいなら、おれは一言も逃さず聞くだけ。分かった、おれが頷くと、一海は氷の解けかかったアイスコーヒーを一口飲んで、それからすっと口を開いた。
「今の小学校には途中から入ったんだけど、クラスであまり馴染めなくて」
「それで、うまくみんなに着いて行けなかったんだ」
「何か言われても、言い返さなかったし、できなかったから」
「学校行くの、辛かったな。居場所がないのって、本当につらいよね」
何があったのかは大体察しが付く。察しは付くけどムカつくのは抑えられない。お前らに一海が何をしたってんだ、なんで一海につらく当たるんだ、怒りと疑問がごっちゃになった気持ちがぐらぐらと湧いてくる。どうせろくでもない理由しかねえんだろうけど、だからって一海が苛められる理由になんてこれっぽっちもならないし。カケラもありゃしねえよ、そんなもの。
「だからね、小学校にはあんまりいい思い出がなくって」
「中学に上がってからは、そういうの無くなったし、みんなとうまくやれるようになったけどね」
「ほら、こうやって誰かと面と向かって話せるようにもなったし」
「前はこういうのも苦手だったから、自分も変われたんだって思うよ」
頷く、静かに何も言わず、ただ頭を垂れる。一海が話してる時は耳に全部の神経集中させて、一言も零さないぞって気持ちで聞いてる。ユカリとか相手なら、別に大事そうな話じゃなけりゃ「ながら」聞きでも別にいいかなって思っちゃうけど、一海は違うから。聞き逃したら二度と分からないくらいのノリ、そんくらい気合い入れて話を聞いてる、耳を傾けてる。一海がおれの話をどう聞いてても構わないけど、おれは一海の話を全力で拾いたいから。
今はもう全然そんなことないよ、同じクラスにいるから分かると思うけど、他の子たちとちゃんと付き合えてるし。もしまた何か言われても、今ならしっかり言い返せるよ、自分には自分なりの考えがあるんだー、って。ゆっちゃんとも指切りで約束したからね、言いたいことがある時は遠慮せずにちゃんと言うって、ゆっちゃんを見習って、ね。一海の声色がだいぶ落ち着いてきた、もういつも通りだ。ユカリを見習う、それはおれもいいなって思う。ユカリくらいドンドン言う方が、お互い気持ちもスッキリするだろって思う。
「そう、ゆっちゃん。ゆっちゃんのおかげだよ、自分が明るくなれたの」
「なんだっけ、助けてもらったとか言ってたっけ」
「うん。ちょうど……小鳥遊くんたちに取り囲まれちゃった時だったかな」
「あいつ、そういうことしてたのか」
「虫の居所が悪かったのかな。小四の終わりぐらいだったと思う」
「うん」
「どうしようもなくて黙り込んでたときに、ゆっちゃんが割って入ってくれて」
「やるなあ、ユカリ」
「本当に凄かったよ、向かってくる子をやっつけちゃって」
「合気道やってるしな、そこら辺の男子より体力あるし」
「ね。それにね、ゆっちゃんすごいんだよ、誰にも言い負けたりしないの」
「おれもあいつと口喧嘩したらぜってー勝てねえって思う」
「したことある?」
「うーん、記憶ない。あいつの言うことちゃんと筋通ってるから、ふざけておちょくり合う以外言い合いしたことねえや」
「筋が通ってるって認められる透くんも立派だと思うな、自分は」
「おれもちゃんと理屈通して話さないとなぁ。あ、悪い。続けて」
「ゆっちゃんは強いね。男子からちょっかい出されてもぜーんぜんへっちゃら、どこ吹く風って感じだったっけ」
「だよな、こっちでも同じ感じだった。マイペースのカタマリって感じだったし」
「あんな風になれたらいいなって、憧れてたっけ」
何から何までまんまユカリと同じってのはどうかと思うけど、いいって感じた部分は取り入れていけばいいんじゃね、とも思う。何から何までまんまユカリと同じってのはどうかと思うけど。おれ同じこと二回言ってるな。
ゆっちゃんと仲良くなったのはそれからだよ、自分といつも一緒にいてちょっかいを出されないように守ってくれたんだ、それが今も続いて仲良くしてもらってるの。一海はここまで喋って、ふぅ、と一息ついた。たぶんこれで一通り終わった感じだって思う。終わった、って一海が言ったわけじゃないけど、そういう空気だから、雰囲気だから。おれだってそーいうのは読める、分かってるし。
「話してくれてありがとな、一海。そんなことあったんだ」
「ごめんね、こんな時にこんな話しちゃって」
首を振る、横に何度も。一海が話したいって思うならいつだっていい、おれに話して一海の気持ちが落ち着いたり整理できたりするなら、延々喋ってくれたって構わない。お互いに気兼ねせずに話せるようになるのがいいカレシとカノジョの間柄ってやつ、おれはそう思ってるから。
「もしまた何かあったら、おれに言ってほしい」
「できることがあるならなんでもする、やってやる」
「一海を傷付けるようなやつはタダじゃおかないから」
ちょっとカッコつけて言ってみたけど、なんか前のめり過ぎるな。おれが何でもかんでも知りたがってるように見えたかも。そうじゃなくて、一海が苦しい気持ちを抱えたままにしないで欲しい、ってことを言いたかったんだよな。楽になるならどんな方法でもいい、別におれだけに話せって言いたいわけじゃないんだ。男のおれには言えないこととか言いたくないことくらい、一海にだってあるはずだし。
「えっと、ちょっとごめん。おれに言いづらかったら、ユカリとかに言ってくれてもいい」
「ユカリの方が相談しやすいこととか、絶対あると思うし」
「喋りっぱなしであちこちテキトーに見えるけど、あいつ信頼できるやつだからさ」
なんかちょっと締まらねえな、でもこれが正直な気持ちだし。ちらっと視線を上げて一海を見る。一海は――笑ってた。影の消えたとびっきりのいい笑顔、ずっと見たいと思ってた、ずっと見てたいって思える笑った顔。嬉しそうだ、おれも嬉しくなるくらい。おれ、ちょっとでも一海の支えになれてるってことかな、自惚れかも知れないけど、それくらい自信もって付き合ってた方がいいんじゃねって思う。
もう無くなりかけで氷も解けかけのアイスコーヒーで、ほんの気持ち喉を潤した一海が、山ん中を静かに流れる澄み切った川の音みたいな声で言葉を紡いで。
「大丈夫。今は幸せだよ。だって」
「うん」
「自分のすぐ目の前に、透くんがいてくれてるから、ね」
「おれ?」
「うん、透くん。透くんがいるから幸せ、そういうことだよ」
「えっと、そういうこと?」
そういうことってどういうことだよ、っておれがおれに突っ込む。おれだって分かんねえよ、どういうことか。目をぱちぱちさせてるおれを一海が見て、ふふふっ、と頬をゆるめてる。一海、名前だけ口から出て来た、それから先は追い付いてない。ほっぺたの辺りが夏の暑い日にプールで泳ぎまくった後みたいに熱くなって、あっこれ照れてるんだな、って後から感覚が湧いてきた。
とんでもないことを平気で言うんだよな、一海は。しかもそれが嘘とはちっとも思えない。バクダンみたいなすっごい言葉を正面正直正確にぶっつけてくる。一海と付き合ってるとこれがあるからうかうかしてられない。
「透くん、これからかってるんじゃないよ。ホントのこと、本当の気持ちだから」
「一海がウソなんか言うわけないっておれも分かってるけど、けどおれ」
「だってね、ずっと思ってたから。こうやって透くんと話せたらいいなって」
「こうやっておれと一緒にいて、一海は幸せ、なんだよな」
「そうだよ、透くん。透くんの言う通り」
「だったらおれ、一海の『幸せ』だって気持ちが続くようにしたい」
おれも一海といると楽しいから、嬉しいから。だから、一海に笑っていてほしい。一海が微笑んで、それから満面の笑みに変わって。おれが言いたかったこと、一海にちゃんと伝わったみたいだ。口下手だからどうしてもうまく言えないけど、おれの気持ちを一海は丁寧に拾ってくれる。甘えちゃいけないって分かってるけど、その姿勢が嬉しいって気持ちも確かにあって。
「昔のことは変えられない。もう起きちゃったことだからね」
「思い出して辛くなることだってある、それは……しょうがないよ」
「無かったことにしたい、そう思っても、叶うことはないから」
「でも、昔のことは昔のこと。これからのことは、これから決めていける」
「透くんに会って、ゆっちゃんに会って、後ろを見てるんじゃなくて、前を向こうって決めたんだ」
「前を向いて歩いて、これからのことをドンと受け止めていきたいな、自分は」
かっこいい、ってぽろりと口から言葉が零れた。意識して気の利いたこと言おうとしたわけとかじゃ全然なくて、ホントにただ思ったことが、口からそのまま。かっこいい、何の捻りもない短いコトバ、だけどおれの気持ちを言い表すのに一番合ってるって思いもある。一海の言ったこと、その通りだと思ったし、かっこいいって思った。それがおれの嘘偽りのない感想だった。
「おれも一海の真似していい?」
「いいよ、透くんなら」
いい感じで場が和んだ、元の空気に戻ったって言った方がいいかな。小鳥遊のことは気になるけど、一海が笑顔になったんだったらもうそれでいいじゃん。おれは一海が笑ってるのを見てたいって思うし、一海だって笑って居られた方がいいはずだし。
お互い飲み物もほとんど全部飲んじゃって、これからどうしよっかな、とか考え始めた時だったと思う、多分。壁に掛かったすっげー古そうな時計をチラッと見た一海が、誰に言うでもない独り言って感じでぽつりと呟いて。
「うーん、もうちょっとかな」
「なんか他の約束あるとか?」
「うん。でも、透くんと一緒にいるってのは変わらないよ」
「えっ、どういうことそれ」
「ちょっとビックリするかも」
「ビックリって、おれが?」
「もちろん。確か、これくらいの時間になるって言ってたから」
なんだろ、誰か来るとか? って言おうとしたけど、まるで狙ったみたいにペリドットのドアが開いたんだ、これが。今までも何人かお客さん来てて別に気にしてなかったけど、一海の言い方からしておれたちの所に誰か来るみたいだし、「これくらいの時間になる」ってそいつが一海に言ってたらしいから、やっぱ見ちゃうんだよな。入ってきたのはちょっと日に焼けた感じの女の人だ。あんま歳食ってるって感じじゃない。
「一海」
「待ってたよ、出海さん」
あの人かな、違うかな。そわそわしてたおれに、ばんっ、って答えがぶつけられた。今入ってきた人が一海の待ち人で、その人は……前から何回か話聞いてた、叔母だっていう出海さんだった。そっか、出海さんか。へぇー、あんな人だったんだな、イメージしてたのとあんま違和感ないや。一海の家族だし、連絡とって待ち合わせしても全然おかしくないよな、とか思って、何よりも先に納得した。
えっ、出海さん? って時間差でビックリした、後から。先に納得して後から驚くとか普通逆だろ逆、おれもそう思う。そう思うけど、現実その順番で来たから仕方ないじゃん。現実ってのは理屈だけじゃないんだ、とか分かった風なことを言ってみる。いいやそれはどーでも、それより出海さんだ。マジで出海さんなのか、この人が。って言っても一海が嘘言うわけないし、冗談とかでも何でもなく出海さんなんだよな、今ここに居るの。
目の前にいる出海さんを見て思わず目を見張る。長袖の服着てて露出は少ないけど、見える箇所だけでも陽に焼けてるのがハッキリ分かる小麦色の肌に、強く青みがかった長い黒髪。なんていうか、色々な物事を詳しく知ってそうな感じがする知的な風貌の人だ。一海に負けず劣らず綺麗だけど、それと同じくらい思うのが一海とは全然雰囲気が違うってこと。一海の叔母さんとはちょっと思えない、歳もそうだし、見た目もそう。
やっぱ緊張する。おれと一海はカレシとカノジョ、それはどっちも認めてる。ってことは、目の前にいるのはカノジョの叔母さん、他に家族いないって聞いたから実質的に親みたいな人。カノジョの親と対面、そういうわけだ。おれの方から何か言わなきゃ、いつまでも黙ってちゃ印象だって良くない。せっかく一海が場を設けてくれたんだし。驚いたけど、いつか絶対こういう日が来るよなって思いもあった。
軽く息を吸う、落ち着いてきた。普通にすればいい、一海が出海さんに見せたいのは普段のおれだって分かってるから。なるべくちゃんと声が聞こえるように、いつもより気持ち口を大きく開けて。
「あのっ、槇村です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。改めて、私は出海。一海の叔母よ」
ここ、座っていいかしら。出海さんが一海の隣の席を指す。どうぞ、っておれが言って良かったのかな、前のめりになっちゃってるかも。けど一海も出海さんも気にしてないっぽい、普通に座って普通にしてる。普通にしてるってなんだ、別に変わったところはないってこと。おれと出海さんが見合う形になる。正面から向き合ってるとやっぱ緊張する、なんだろな、おれ本番に強くない方だと思ってるから、意味分かんないこと言わねえように気を付けなきゃ。
(あれ、もう一人誰かいる)
出海さんが来るっていうから、一人だけだと思ってたんだよな。違うんだそれが、出海さんの隣に別の人が立ってるの。見覚え無い若めの男の人、出海さんよりは年下っぽく見える。誰だろ、一緒にいるし出海さんの知り合いとか?
「すいません、この人は?」
「申し遅れました。私は佐藤、案件管理局の者です」
「途中でたまたま鉢合わせして、そのままペリドットまで来た、というわけね」
「ええ。出海さんとは仕事の関係でよく話をしています」
海洋生物の研究をされていて、その関係から……ですね。今日は非番で、こうしてご一緒させていただきました。出海さんと一緒に来た男の人、佐藤さんって言うのか。その佐藤さんが付け加える。仕事仲間、か。それだったら普通にありそうだなって思う。
って、案件管理局? それだったらおれも知ってる、聞き覚えるし、ちょっと関わったこともあるぞ。ほんのちょっとだけだけど。
「えっと、案件管理局って……あのテレビとかでやってる?」
「その通りです。ご存知でしたか」
「おれ、小さい頃に自販機でヘンな飲み物売ってるの見て、局の人に報せたことあります」
「あの案件ですね。情報提供いただきありがとうございました。こうして届けてくれたおかげで、当局で管理できるようになりましたから」
また何かありましたらいつでもご連絡ください、我々が収容に向かいますから。佐藤さんが丁寧に言ってくれてるんだけど、なんか横から店員の……この間ユカリと話した例の新しく入った女の子がスイッスイッって歩いて来て。
「ちょっとちょっと、佐藤さん佐藤さん」
「ああ、すみません。立ったままで」
「お姉ちゃん見たってや、ちょっとスネとるやん」
なんか面白いこと言ってるから、店長さんの方を見てみる。マジでちょっと口をへの字にしてて笑いそう、もちろん本気で怒ってるとかじゃなくて、店員の女の子と一緒に面白がってやってる感じ。たぶん佐藤さんと店長さんって顔なじみなんだろうな、そうじゃなきゃこんなやり取りしねーだろうし。
「せっかく来てくれたぁ思たら、なーんや綺麗な人連れて来とるやん」
「ははは。彼女は仕事の知り合いですよ、仕事のね」
「ほんま? ほんまやんな?」
「本当ですって、私は嘘をつかない主義ですから」
「……ま、佐藤さんがそない言うんやったら、ほんまなんやろな」
「ええ。さて、カウンターの方に座ってもいいですか? 一人ですし、店長さんとお話させていただきたいので」
「もちろんや。ほな、うちと一緒に向こうまで来たってや」
佐藤さんがカウンターへ向かう、迎える店長さんが微笑む、佐藤くん、いらっしゃい。こんにちは、パープルコーヒーを一つ――いつも通りっぽいやり取りが始まって、店員さんは仕事へ戻る。てか、店員さん思いっきり静都弁で喋ってるな、ユカリみたいだ。いっつもユカリと喋ってるから何言ってるかは大体分かる。ユカリの言葉遣いとそっくりっていうか、そのまんまな気がする。出身が同じ場所とか? あり得なくもないな、夏休みの間に他所から来たって聞いたし。けど姉妹なんだよな、店長さんと。どーいう関係なんだろ、ちょっと分かんねえや。
いっけね、思いっきりよそ見してた。出海さん来てるからこっちに意識向けないと。向こうもちょうど二人で雑談してたみたいだ、今から話すよって感じになってる。軽く息を吸って目を前に向ける、しっかり、脇目を振らずに。
「じゃ、改めて。透くんだよ、出海さん。自分が言った通りの感じでしょ」
「素敵な人だ、としか言われた記憶ないけれどもね」
だってそうなんだもん。おれといる時に見せてくれるみたいな屈託のない笑顔で出海さんに返す。この感じだと二人とも仲いいのかな、おれと親父みたいな感じかな。もうちょい距離近いかも。親父とおれ、あんまりあれこれ喋るって感じじゃなくて、お互い言いたいことは言うけど言わなくてもいいことは言わないって風だし。
「透くんには前言ったよね、出海さんに紹介したいって」
「聞いた。思ってたよりちょっとタイミング早かったけど」
「今日は仕事が早く終わるって聞いたのと、透くんがペリドットに行こうって言ってくれたから」
「私が来ること、槇村君に前もって言ってあげればよかったのに」
「ちょっとサプライズ感を演出したくて」
「ほんとビックリしたけど、嫌とかじゃないな。ビックリしたってだけで」
「ほら、いきなり自分の家に案内するのに比べたら、ペリドットの方がハードル低いかな、そう思ったんだ」
「あぁ、言われてみるとそうかも。家に来て、って言われたら絶対緊張するし」
「素直な子ね、一海と相性がいいのも分かるわ」
喉が渇いたわ、何かオーダーさせてちょうだい。メニューを取って渡す、ついでに店員さんを呼ぶ。
さあ、本番っていうか本題というか、そういうのはこっからだ。
「まあ、素敵な人――という以外にも、少しは聞いていたかしら」
「おれのこと、一海はどんな風に言ってました?」
「率直で真面目で、はしゃいだり騒いだりしない大人びた性格だ、といったところね」
「一海から見たおれ、真面目だって風に見えてるのかな」
「うん。透くんは真面目、それは間違いないよ」
「どうなんだろうなあ。おれは不真面目に生きてるつもりなんだけど」
「部活の練習に欠かさず出て、学業もそつなくこなして、家事まで引き受けてる不真面目な人間。設定が破綻してるわ」
出海さんが笑ってる。自分のことあんまマジメだって思ってなかったし思ってないけど、他人から見るとやっぱ違うっぽい。あんまり真面目だって言われてもこそばゆいし、なんかちょっと気恥ずかしいんだけどさ。
「おれからすると、一海の方がずっと大人っぽいと思うけど」
「そうかしら。どう思う? 一海は」
「うーん。自分のこと大人っぽいって思ったことないけど、透くんが言うなら」
「どちらも自覚がないのか、それとも謙遜してるのか。いずれにせよ、大人びてる人は下手に背伸びをしない、そこは相通じるかも知れないわ」
「そういうもの、なんですかね」
店員さんが蜜入りレモネードを持ってきた、出海さんがオーダーしたやつ。手に取ってストローで一口飲む、すぐグラスを置いた。一海は大人っぽいと思ってたしそれは変わらないけど、出海さんの方はホンモノの大人だって思う。仕草とか振る舞いとか、そういうの全部ひっくるめて、一から十まで大人だって。
「あとは……そう、泳ぐのが好きだ、とも」
「好きです。好きっていうか、泳いでないとなんか落ち着かない感じがするんです」
「根っからなのね。所属しているのも水泳部と聞いたし」
「そうです。夏場は部活で練習して、そうじゃない時はジム行ってずっと泳いで、って感じです」
「成程ね。海へは行かないの? 榁なら泳げるスポットは幾つもあるはずだけれど」
「前までは行かなかったです。その、なんか気が進まないっていうか」
「だけど、ね」
「うん。夏休みに一海と二人で泳いで、海ってすごい場所だって思って」
「一海に連れ出されたのね、海へ」
「はい。それからは、海で泳ぐのもいいって思いました。プールで泳ぐのが好きなのは変わりませんけど」
「水中にいる方が活き活きしてるのは、一海によく似てるわね」
「ねっ、ねっ。自分たち似てるって、透くん」
似てるのかぁ、おれと一海。おれは一海みたいにずーっと息止めてられるほどじゃないけど、そう言われるのは嬉しい。当たり前だけどおれと一海は違うから、おれは一海にはなれない。けど、一海にはいいところがいっぱいあって、それを少しでもおれのものにできたらいいな、とは思ってるから、似てるって言われるのはホントに嬉しい。
あとそれと、と出海さんが前置きして。
「もうひとつ、料理も上手だって言ってたかしら。家で作る事あるの?」
「いつもおれが作ってます。おれと親父しか家にいないし、親父は仕事で忙しいから」
「この間館長さんのところで作ってくれた煮物、おいしかったよ」
「古生物博物館へ行ったのね。鈴木さんのところの」
「一海に連れてってもらいました。見せたいものがある、って誘ってくれて」
「楽しいのは分かるけれど、あまり槇村君を振り回しちゃダメよ」
「そんなことないよ。振り回したりしてないってば」
一海、いつもより気持ち幼いっていうか、子供っぽい感じがする、いい意味で。一海もこういう顔するんだ、こういうこと言うんだ、知らなかったところが見えてく感じが気持ちいい。おれってやっぱ知りたがりだな、ユカリにああ言われてもしょうがない。そこはお互いさまってことにしといてくれよな、ユカリ。って、今ここにあいつはいねーんだけどさ。
なんで知りたがるのか、なんで新しいことを知ると嬉しく思うのか。当たり前だって思ってるけど、何がどう当たり前なのかは説明できない。今嬉しく思ってるのは、一海の新しい姿が見れたから、一海の新しい姿を見れて嬉しいのは、おれが一海のことを好きだから。相手のことに興味があって、その興味が刺激されるから、なのかな。
「逆の話をするわ。私のこと、一海から何か聞いてるかしら?」
「仕事が忙しい、って聞いてました」
「そうね。あまり胸を張って言えることでもないけれど、事実ではあるわ」
「あとは……思い出した、よく本を読んでるって」
「なるほどね。なら、ひとつずつ話しましょうか」
もう割と普通に出海さんと話してることに気付く。出海さんが話しやすい空気を作ってくれてるからだろうな、これ。
「私は海洋生物……平たく言えば、海に棲むポケモンの研究をしているの」
「メノクラゲとかハリーセンとか、ですよね」
「ええ、その通り。ポケモンの中でもとりわけ不思議な性質を持つ種が多いの。彼らの生態を解き明かすこと、それが私たちのしている仕事よ」
「そうなんですか」
「ひとつ例を挙げましょうか。シェルダーは知っているかしら?」
「はい、知ってます。あの二枚貝ポケモンの」
「そうね。そして二枚貝ではないシェルダーもいる。ヤドランに寄生している巻貝型のものね」
「そうだ、あれもシェルダーだって言われてたっけ」
「ヤドランが存在しているということは、あの形状のシェルダーも存在しているはず――けれど」
「けど?」
「あの個体、まだ単独での発見報告が上がっていないのよ。世界中、あらゆる組織や機関からの報告と照らし合わせてもね」
「本当ですか?」
「見つかるのはいつもヤドランの一部として。あるいは……進化の分岐先である、ヤドキングの頭にターバンのように噛み付いた状態で」
「言われてみると確かに、あれが一人でいるところ見たことないような」
「あの巻貝型のシェルダーは、何処から来て何処へ行くのか。そういったことを調査しているの」
「おれ、そういうの興味あります。一海と海へ行った時、見たことなかったポケモンがたくさんいて、なんでこいつらはこんな姿してんだろう、って何度も思ったりして」
「それなら、私も動機は似たようなものね」
「出海さんもですか」
「シェルダーの姿形なんて他愛ないことと思う向きもあるでしょうけれど、知らないことを知ろうとするのは、原初の人の姿だから」
「知らないことを……知ろうとする」
「私は知りたいの、海に棲むポケモンたち――海獣達の在り方を」
出海さんの言葉が胸に入り込んでくる。おれは自分のことを知りたがりだって思ってる、ユカリからも言われるくらいだから多分間違いない。それってどうなんだろって思ってたけど、原初の人の姿、という出海さんの言葉でハッとした。人間誰しも知りたがりなんだ、度合いが強いか弱いかってだけで。度合いが強いとおれや出海さんみたいになる、そういうことなんだ。
何が正しいって話じゃない、一つの度合いに過ぎないんだ、
「仕事以外の話をしましょうか、読んでいる本とか。と言っても、海洋生物の本だけれども」
「好きなんですね、海のポケモンが」
「一度身に付いた嗜好はそう変えられないものよ。そうそう、一海と一緒に博物館へ行ったのよね?」
「はい。夏休みに」
「そこで女の子……花子にも会ったでしょう? あの子と趣味が通じるところがあるの」
「そう言えばでっかい本持って読んでました、花子ちゃん」
「鈴木館長の助手をしてるだけのことはあるわ。行く末が楽しみね」
あとは、と出海さんがカバンに手を伸ばして、中から薄長いスマホみたいなやつ、そうだタブレット、タブレットを出すのが見えた。サッサッって画面に指先を何度か滑らせてからおれの方に向ける。小さめの字でびっしり埋まってる、なんだこれ本? あれだ、電子書籍だ。こういうの読んでる、ってことかな。
「小説を少しね。これは『白鯨』、有名な海外小説よ。槇村君も今度読んでみるといいわ」
「ありがとうございます、覚えときます」
レモネードがまた減る。間が空く、話が変わりそうな雰囲気だ。今までより一歩か二歩踏み込んだことを聞かれそう、ほとんど水だけになったグラスのストローをごく軽くすすって喉を潤す。面接やってるみたいだ、やったことないけど今みたいな空気なんだろなって確信してる。
何訊かれたって構わない、正直に自分の言葉で伝えるだけだ。
「槇村君」
「はい」
「少し込み入った問いだけれど、一つ訊かせて」
「なんでしょうか」
「一海のことを――槇村君はどう思っているかしら」
「一海のこと、ですか」
「ありのままの答えを聞かせてちょうだい。いつも海へ行くことばかり考えてる、とか」
「ちょっとちょっと、自分だって他のことも考えてるよ」
一海のこと、おれがどう思ってるか。すっげー直球の質問来た、こういうこと訊かれるだろうなとは思ってたけど、思ってたよりずっと真っ直ぐ、どストレートな訊き方だ。真剣に応えて答えなきゃダメだよなこれ、元からふざける気なんて無いにしろもういっぺん気を引き締める。今おれの頭の中で考えてること、口に出して言いたいこと、形になるようにまとめる、整理する。緊張するな、水泳大会で飛び込むほんのちょっと前の気分と同じだ。
言うぞ。ちゃんと、しっかり、前向いて。
「大切な人です」
「綺麗なんです。顔だけの話じゃなくて、声や心が」
「一緒にいるとおれも清められてく、そんな風に思います」
「出会ってまだそんなに経ってない、半年も経ってないけど」
「今こうやって彼氏と彼女でいられること、おれはすごく嬉しいです」
言った、言いたかったこと全部言った。自分で言っといて何だけどすっげえ恥ずかしい、恥ずかしいけど、照れ隠しに曖昧なこと言うのはもっと恥ずかしい。どストレートな質問にはどストレートな回答がいい、おれはそう思ったから、何も隠さずに全部言った。こっぱずかしいとか照れくさいとか全部押し込んで、思ったことそのまま口に出した。言った後からぞわぞわーってなってるけど、もうしょうがない。言っちまったんだから。
ずーっと出海さんの方向いて話してたけど、当たり前だけどこれ一海も全部聞いてるわけで。いったいどんな顔してるだろ、ちらっと右に目を向けてみる。
「透くん……」
目が合った。一海とおれ。照れてるのが一瞬で分かる顔してる、いつもは雪のように真っ白な頬が、この時だけ林檎みたいに赤くなって。見てるとなんかどぎまぎしてくる、なんか良くないこと言っちゃったかなとか、悪いこと口に出しちゃったんじゃないかって。
「おれ、なんかヘンなこと言っちゃったかな」
「ううん、ヘンじゃないよ。まっすぐ、すごくまっすぐだったよ」
「一海」
「うれしいな、透くんにそう言ってもらえて」
「ふたりともお似合いね、本当に」
顔真っ赤にしながら微笑んでる一海、隣でほんのりニヤついてる出海さん。ヘンなこと言ったわけじゃなかったっていう安心感と、じわじわ湧いてくるこそばゆさのサンドイッチになって、どういう風にしたらいいのか分かんねえや。いい雰囲気ってのは分かるんだけど、なんか、なんかもぞもぞする。背中の辺りとか、わき腹ら辺とか、すっげーもぞもぞするんだ、今。
ずっと見てるけど、出海さんと一海、気軽に軽口言い合って割と仲良さそうな感じがする。叔母と姪ってことになるけど、若い母親と娘みたいにも見える。いいよなこういうのも。おれと親父とまた違うカンケイが見られて面白いなって思う。
出海さんが残ってたレモネードをすすーっと全部飲んだ。前髪軽くいじって壁に掛かってる年季の入った時計にちらっと目を向けてから、
「先に出るわ、若い二人はお構いなく」
って言って、千円札一枚置いて席を立った。スッスッスッと歩いてって、そのままペリドットから出ていく。いいなあ、おれもいつか「若い二人はお構いなく」って言ってクールに席立つの、やってみたい。する機会あるのかどうか分かんないけど。
で、またおれと一海の二人だけになったってわけだ。
「透くん」
「出海さん、いい人だな。来た時はやっぱビックリしたけどさ」
「驚かせちゃってごめんね。透くんのこと、どうしても紹介したかったから」
「ううん、おれも話せてよかったと思う」
一海とずっと一緒にいたいって思ってるから、一海の家族ともちゃんと挨拶しときたい。だから今日一海がこういう場を作ってくれて助かった、今ならそう思える。
「彼氏を家族に紹介するのって、こんなにドキドキするんだね」
「そりゃあ、なあ」
出海さんともうまくやれそうで、おれも笑ってて、もちろん一海も喜んでて。
(うまく行ってるなあ、全部が)
そう思わずには、いられなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。