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#17 それはコーヒーよりも苦く

コーヒーってさ、なんでこんなに流行ったんだろうな。流行ったというかみんな飲むようになったというか。おれも今飲んでるし。だんだん涼しくなってきたし、冷たいのをごくごく飲むってノリでもなかったからホットにしたけど、ちょっとずつ飲まないと舌を火傷しそうだ。ただ、熱いって以上に苦いってのが先に来る。混ぜ物を何もしないコーヒーってこんな味なんだな、苦さ95パーセント、それ以外の何か5パーセントみたいな感じ。5パーセントはなんだろ、甘いのとは違うし辛いわけでもない、酸っぱさはゼロだし渋いのとも違う。渋みと苦みって何が違うのかおれには分かんないけど。答えが出てこないタイプの考えをアタマの中でグルグルしながら、コーヒー自体を飲むのはやめない。滅茶苦茶おいしいと思ってるわけでもないのに、カップを口に付けて一口啜るって動きを繰り返してる。

カウンターの席には子連れっぽい博士がいる。博士っつったのは白衣着てるから。ペリドットでたまに見かける人のひとりだってことしか知らない。隣の子供みたいなのはやっぱ子供なのかな。背中向けてるから顔が似てるか似てないかは分かんねえ。店長さんはいつも通り、マジでいつも通り。カウンターでいろんな飲み物とか食べ物をテキパキ作ってる。バイトの子も同じ。注文取って料理持ってって、手が空いたら店にたまってる友達っぽいのと話してる。

で、客が来る。

「いらっしゃいませー」

来たのは、小鳥遊だった。

互いに目が合う、言い逃れできないくらいハッキリ。目つきがすぐ変わるのが分かった、なんでお前がここに? って言ってる、口じゃなくて顔で、顔でっていうか目で。躊躇いながらだけど店の中に入ってくる、躊躇いながら、戸惑いがちに。おれと目が合ったのにそのまま出てったら不自然だって思ったんだろうな、おれも小鳥遊の立場だったら同じ風にすると思う。

小鳥遊。思い出す、この間ペリドットで聴いた話のこと。一海と昔関係があったって話だった、あんまりいいことじゃない、一海のこと苛めてたとかって話だ。いい気持ちはしない、一海に嫌な思いをさせたってことだろうから。けど、何があったのか、何をしたのかってのは聞いておきたい。他の誰かに話すとかじゃない、おれの中で理解して答えを持っておきたい。一海も小鳥遊もおれの顔見知りってこともあるから。

「よう」

カップを持って小鳥遊の席まで行く。ちょうど店員の子が注文取りに来た、パープルコーヒーおかわり、追加でオーダーする。もうしばらくここにいるぞって意思表示。

「小鳥遊は?」

「俺は……同じの」

「パープルコーヒーのホット二つな、よっしゃ。ちょっと待っとってや」

しばらくもしないうちに飲み物が来る。湯気を立てるカップが二つ。熱いうちに飲まないのもヘンな話だから一口すする。小鳥遊は伏し目がちだ、こっちと目を合わせようとしない。合わせられないか、ああいうことあった後じゃ。おれが一海からどういう話聞いたか大体想像ついてるだろうしな。何言ったらいいのか分かんないのかも知れない、だったら先に口を開いた方がいい。

「今日は一人?」

「見ての通り」

「だな。涌井は?」

「いつも一緒ってわけじゃないからな」

「ちょっといいかな。水瀬さん――一海のことなんだけど」

曇る、露骨に、顔が。誰が見てもはっきり分かるくらいに。一海の言ってたことはマジみたいだ、じゃなきゃ「水瀬さん」って名前を出されたくらいでこんな顔になるわけねえし。店員さんが注文取ってる声がやけにクリアに聞こえる、耳に意識が集中してるってことに他ならない。

「同じ学校通ってたんだよな」

「小学校が同じだった、クラスも同じだったな」

小鳥遊と一海が通ってたのは北小だって聞いた。おれは東小だったから、向こうでどんな風だったのかはまったく知らない。だいぶ距離あったからな、行くことなんてない場所だったし。秋人と南雲もそこに通ってて、だいぶ前に南雲の友達も北小出身だって聞いたような気がする。高橋だったかな、顔見たことないからピンと来ない。

思い出したけど涌井も北小だったな。小鳥遊と同級生だって言ってた。あいつとだけは接点あったんだよな、スイミングで。スイミングでしか会わない女子っていう珍しいポジションだったから、一周回って記憶に残ってる。涌井と小鳥遊、この間会ったときつるんでたっけ。だからおれも涌井の名前出したんだけど。

「水瀬さんはさ」

「うん」

「三年生の時に転校してきてさ、俺のすぐ隣の席が空いてて座った」

「転校か」

「そう。前はどこにいたのかとかは分からない」

「そっか」

「新高でまた会って、その、驚いたっていうか、変わったなっていうか」

「四年五年会ってなきゃ、雰囲気とかそれなりに変わるんじゃね」

「それだけじゃない」

「どういうこと?」

「水瀬さんが……普通に喋ってる、口をきいてるって」

意味が分からなかった。理不尽とか身勝手とかそういう方向じゃなくて、ホント文字通り「意味が分からなかった」。一海が喋ってる、口聞いてることに驚いたってどういうことだ? 話の流れが意味分からなさ過ぎて全然言葉が出てこない。ただ、

「それ、どういうことだ?」

ってしか言えなくて。

「まんまだよ、まんま。喋れないって聞いたんだ」

「一海が?」

「そう。障害だって、生まれつきの」

「喋れない、一海が」

「自己紹介する時もさ、ノートに大きく字を書いてたんだ。『はじめまして』って」

自分で声出して喋れるならわざわざノートに書く必要なんてない、一海が冗談とか悪戯でそんな真似するはずがない。こういう状況で小鳥遊が何か嘘吐いてるとも思えない。けど、小鳥遊が言ってることは一から十まで意味不明だ。一海は喋れなかった、声を出せなかった、だからノートにメッセージを書いて自己紹介した。おれの知ってる一海じゃない、おれの知ってる一海は普通に口をきいて流暢に喋ってる。だから、マジで意味不明としか思えなくて。

「今は喋れてるじゃん」

「だから驚いたんだって」

「意味分かんない、どういうことだよ」

「俺もどうしてなのかは分からない、けど」

「けど?」

「あの時水瀬さんが声を出せなかったのは間違いないんだ。俺だけじゃない、みんな見てたし間違いない」

「分かった、分かったよ」

小鳥遊が言ってる「一海は喋れなかった」ってこと、ハッキリ言って信じられない。信じられないけど、小鳥遊がここでおれに嘘言ったってしょうがねえからな、なんにも得なことなんてない。ここでああだこうだ言ってたって前に進まねえし、今は聞いとくしかない。

「喋れないけど仲良くしてくれって、先生からそう言われて」

「ああ」

「当然さ、みんなそうしようって空気になってさ」

とりあえず「分かった」とは言った、言ったけど意味分かんないって状態は変わらない。一海は口をきけなかった、声出して喋れなかった。小鳥遊はそう言ってる。今はあんなに流暢に話してるのに? おれよりすらすら喋ってるってのに? どういう理由で声が出せなかったんだ? 本当に生まれつき? 疑問がサイダーの泡みたいにどんどん湧いてきて溜まっていって、気を抜くと口から飛び出てきそうだ。

だって、一海のことだから。おれの知らない一海のこと聞かされて、気にならないわけないじゃん。

「それで?」

急かしそうになる心を意識して抑える、言いたいこと聞きたいこと山ほどあるけど、おれのペースでどうこうできることじゃない。だから「それで?」だけで留めた。「何があったんだ」とか「喋れないからどうだったんだ」とかすっげえ言いたかった、けど言ったら多分小鳥遊は言葉を選ぶようになる、無難なように、意図が取りにくくなるように。それは悪意からじゃなくて、おれを刺激しないようにっていう気遣い、いわゆる配慮。自分がキレられるのを避けたいって気持ちも当然あるだろうけど。

こっから先の話、おれホントに聞きたいと思ってるのかな。口のきけない一海に小鳥遊が何したかとか、本心で聴きたいって考えてるのかな。聞きたい・聴きたいというより、聞かなきゃ・聴かなきゃダメだって気持ちの方がたぶん強い。この義務感なんだろうな、おれが一海の彼氏だから? 彼氏だからって彼女のこと何から何まで知ってなきゃいけないなんてことないのにな。自分でも分かんねえ。

「水瀬さんはさ、一生懸命だったんだ」

「自分でできることはちゃんと自分でやってた」

「それで、いつも笑ってた」

「誰に対しても同じ顔をして、同じように笑ってたんだ」

小鳥遊が机の上に置いた肘に重心を傾ける。かちゃん、とグラスとソーサーが擦れる音がした。コーヒーの存在を思い出して、取っ手を掴んで啜る。味はしなかった。何の味も。味覚に向ける神経の空きとか余裕とかがなかったからだろうな。小鳥遊の話に全部持ってかれて。

一海は笑ってた、小鳥遊はそう言う。笑ってたってのはどういう意味か。言葉通り楽しいから、嬉しいから、って訳じゃないだろうことは分かる。一海が笑っていたのはどうしてか、誰に対しても同じ顔をしてたのはなんでか。おれは一海じゃないから一海の気持ちをピッタリ言い当てるなんてことはできない、だけど一海がどんな風に考えてたのか、それに近づくことくらいはできる。一海の気持ちをなぞろうとすることくらいはできる。

笑って人を遠ざけてたんだ。笑ってれば心配されないから、気を遣わせることもないから。

笑顔っていう薄い壁を一枚隔てて、他人の手を煩わせないように、それから自分が傷付かないように。ちょうど今の小鳥遊が、おれに向ける言葉をひとつひとつ選んでるみたいにして。小鳥遊は気付いてるのかな、自分のしてることが昔の一海と同じだって。おれは気付いてないと思う、こういうことしなきゃいけないシチュエーションって、余計なこと考えてる余裕なんてないから。

「いつも笑ってて、誰に向けても同じ顔して」

「それは俺も、俺にも同じで」

「でも俺は、そうじゃないだろって」

「言いたいことあるなら言ってくれよ、笑ってないで言えよ、って」

「口聞けないのに『言えよ』ってのも無茶な話だって、頭じゃ分かってるのにな」

「俺がどう思ってても水瀬さんは変わらなくて、それが引っかかって」

小鳥遊が俯く、おれから目線を逸らすようにして。追いかけたりはしなかった。そうしなくとも、今の小鳥遊が針の筵に座ってるような気持ちってのはよく分かるから。見てりゃそれくらいおれにだって分かるから。

「感情が抑えられなくて、手を上げた。そういうことか」

先回り。なるべく端的に、遠回りせずに。分かり切ったことを言わせるより、おれが言った方がいいと思ったから。おれにとっても小鳥遊にとっても。小鳥遊が過去にしたことはロクなことじゃないのは分かる、具体的に何をしたかまで言われなくても同じ。想像なんて簡単に付く、百パーセント一致してなくたって、九割くらいは合ってるはずだって確信がある。

何も言わなかった、小鳥遊は。答えが無いのは肯定の意味、そう受け止めるべき。おれも何も言わない、言うべきことは言ったから。小鳥遊から少し目を逸らして窓の外、海を見る。言ってる方も聞いてる方もキツいやり取りが続いてる、小鳥遊は当然おれにしたっていい気持ちはカケラもしない。別に聞かなきゃいけないことでもないはず、けど聞いとかなきゃダメだっておれの中の誰かが言ってる。誰だろう? おれにも分からない。おれ以外の誰でもないのにな。

「水瀬さんは」

「曖昧に笑ってた」

「怒るわけでもなく、泣くわけでもなく」

「ただ、曖昧に笑ってた」

手を上げた小鳥遊に、一海は何の感情も向けなかった。胸の中で何も渦巻いていないはずなんてないのに、それを一つも小鳥遊に見せなかった。怒りも悲しみも、恨みつらみも憎しみも。一海が小鳥遊に返したのは、ただ曖昧な笑顔だけ。

あの時の一海が小鳥遊を見てあんな様子になった理由が分かったように思う。小鳥遊に向けたい、向けるべき感情が多すぎて、だけどかつての自分はそれを全部抑え込んだ。喋れなかったから伝えようがなかったってのもあるだろうな、けど今は言葉を繰って気持ちを顕すことができる、おれなんかよりずっと上手に。それをしなかった――できなかったのは、相手が小鳥遊だったから。

一海にとって小鳥遊は、言葉でやり取りする相手じゃないんだ。今も昔も、何も変わらずに。

「俺は、見てみたかったんだと思う」

「水瀬さんの感情を、曖昧に笑ってるだけじゃない別の貌を」

「自分が、自分が水瀬さんにとって『ただの同級生』だったってのが」

「それが……それが、俺は」

小さくかぶりを振る。おれの仕草を見た小鳥遊が何か言うのを止めた。おれは何も言わない、何か言う必要なんて無かったから、何か言いたいことなんて無かったから。言う前に終わってるって分かった、小鳥遊の中で全部答えが出てる。それをわざわざ言わせるほど、おれだってむごい真似はしない。

特別な誰かでありたかったんだ、小鳥遊は。他の誰でもない、一海にとっての誰かに。

「最初は俺だけだった、俺がただちょっかいを出すだけで」

「小鳥遊」

「そうしたら段々、他のやつらも加わって」

「小鳥遊、お前」

「教科書破いたりとか、上履きをどっかに隠したりとか」

「言うなよ、これ以上」

「それで……喋れないって分かってて、それで」

「言うなっつってんだろ!」

腹の底から声が出た。火にかけっぱなしの鍋から、蓋が思いっきり外れて床へ転げ落ちるようにして、思ってた五倍くらい大きな声が。

「お前、今誰に向かって何話してるのか分かってんのか」

誰か。おれは誰なのか。小鳥遊に「分からない」とは言わせない。前もっておれが「誰」なのかは伝えてるし、小鳥遊に分かるような伝え方だってしてる。だってのにくだらないことを延々言われるのはシャレにならない。おれはお前のカウンセラーなんかじゃないし、漫画とかに出てくる牧師とか神父でもない。懺悔だの告白だの、そういうことは他所でやれってハナシだ。

これ以上何か言う気にもならない。ただ「哀れ」だって気持ちしかない。

間が空く。どれくらい経ったか分からない。ペリドットにいると元々時間の流れがよく分からなくなるし、おれと小鳥遊の微妙な空気がそれを加速させてる。

「俺は」

「もう水瀬さんに関わるようなことはしないから」

「自分のしてたことがどういうことか、どれだけくだらなかったか」

「それが、よく分かったから」

小鳥遊の声が震えてる。おれにしか分からないくらいに、おれにはハッキリ分かるくらいに。

「外に出て自分にどれくらいの価値っていうか存在意義があるのか、そういうのが分かったから」

「身を以って」

「だからもうこれ以上は何もしない」

何もしない、小鳥遊の言葉の意味を確かめたくなって、おれが上から重ねて言う。

「何もしないってのは、昔やったことを謝ろうとかそういうのも無しでいいよな」

「一海はそういうの、一番困ると思うから」

頷くのが見えた、力が感じられない、ただ頭を下げるって感じのモーションで。

「俺が言うのもなんだけど」

「うん」

「透、お前は水瀬さんの傍にいてほしい」

小鳥遊がスッと顔を上げておれの目を見た。失ってた力を取り戻して、まっすぐ見据えるようにして。ちょっと気圧されそうになるくらいの勢いを感じて、おれは出かけた言葉をごくりと飲み込んだ。

水瀬さんの傍にいてほしい、おれに。小鳥遊がなんでそんなことを言うのかは分かる、理解できる。小鳥遊が水瀬さん――一海のことをどう思ってるか分かるから。その気持ちが小鳥遊にどんな結果をもたらしたのかも併せて。小鳥遊のことを可哀想だとかそういう風には思わない、今の状況は小鳥遊が作ったものとも言えるから。だけどだからって、これ以上言葉で鞭打つ気にもならない。

「頼んだぞ」

冷めきったコーヒーを一気に飲み干して席を立つ、会計を済ませる、ドアを開けてペリドットから出ていく、背中を追う、ベルとともにドアが閉まる。ペリドットは元の静けさを取り戻して、後に残ったのはおれ一人だけ。三分の一くらい残ったコーヒーカップを見つめて、小鳥遊と話したことを振り返ってみる。

一海の傍にいてくれ、か。小鳥遊に言われなくたってそうするつもりだった。あいつがなんであんなことを言ったのかは理解できる、共感はしないけど。理解と共感は違うよな、おれは違うって思ってる。小鳥遊の考えてることや思ってることを筋道立てて「こうじゃね」って説明はできるけど、じゃあそれで同じ気持ちになるかっていうと違う。違うって思いっきり言う。

(一海が喋れなかったっていうの、なんだったんだろうな)

小鳥遊よりも気になったのは一海のこと。言われた時からずっと気になってる、一海が喋れなかった、声が出せなかったってのはなんなんだって。そんな話初めて聞いた。一海からも聞いてない、出海さんからも聞いてない、付き合いの長そうな鈴木さんも言ってなかった、花子ちゃんも。今の一海は普通に言葉を発してて、おれとかユカリとか、あと東原とかとも話してる。聞き違いとかじゃない、一海は今普通に喋ってるんだ、言葉を発して。

何があったのか、気にならない訳じゃない。けどそれを一海に訊いていいのか分からない。訊きたい自分、訊くべきじゃないって言う自分。風邪引いて熱出しながら寒がってるのと似た感じがして、居心地が悪くてしょうがない。

「おれ、声出して喋れるのにな」

おれはこうやって普通に声出して喋れるのに、言うか言うまいかで迷って何も言えないなんて皮肉もいいとこだ。

結局これからどうするのか。こんな短い時間で結論なんて出せるわけなくて、喉の奥の方で絡まってるウヤムヤを冷めたコーヒーの残りでぐいっと押し込むと、おれはペリドットからそそくさと出ていった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。