頭って身体の一部じゃん、見たら分かるけど。でも身体動かすのとは別にぐるぐる回ってて、今この瞬間と全然関係ないこと延々考えてたりする。おれは今プールでガシガシ泳いでるけど、頭の方はプールとは一ミリも関係ないことしか考えてない。それでも身体は前に進んで、壁突いたらスッとターンして回れ右できる。当たり前だって思ってたけど、ちょっと距離を置いて見てみると不思議だなって。
去年の夏に置きっぱなしにしてた頭が後からついて来てるって感じがする。夏の終わりから年明けまででおれの周りでたくさんの出来事がバンバン起きた。矢継ぎ早、ってやつ。それでもって、起きたのはおれの周りだけどおれに直接関わることじゃなくて、全部一海に絡んだこと。ひとつひとつ考える時間ってなくて、ああそうなんだって流したままここまで来たから、振り返りがしたくてしょうがなかった。こうやって泳いでると余計なこと考えずに済むから丁度いい。
出海さんと対面したこと。一海に紹介してもらった一海の叔母さん。どっちかって言うとおれが紹介されたって感じかも知れない、親に恋人を紹介しますって感じのノリで。なんかお土産でも持っていけばよかったかな、予想できなかったし持ってけなくても仕方ないか。綺麗な人だったな、一海とは少し雰囲気の違う人だった。落ち着いてて知的だけど、外出歩いてる時間の方が長そう。日焼けしてたし、真っ白な一海とは違う。どっちにしろ仲は良さそうだけど。
一海の母親ってどんな人だったんだろうな、出海さんに似てたのか、それとも一海に似てたのか。
小鳥遊が言ってたこと。一海が昔喋れなかったってこと、少なくとも人前では、小鳥遊の前では。おれは知らなかった、小鳥遊に聞かされて初めて知った。喋れない一海を見てムカついて苛めたってことも。ムカついて――本当はそうじゃないって分かってる、小鳥遊が一海をどう思ってたか、一海にとってどういう存在になりたかったかも。おれだから分かる、って言い方したら自惚れてるっぽく聞こえるけど、当たらずとも遠からずじゃねえかな。小鳥遊を可哀想だとは思わない、胸糞悪いことしたから。だけど今からまたそれを詰める気にもならない。
小鳥遊が哀れだから。可哀想とはまた違う似て非なる感情。おれもどう違うのか説明できないけど、百パーセント違うって言い切れる。
ユカリから聞かされたこと。一海が喋れないのは人前でだけ、なんだっけあれ、なんとかカンモク症ってやつだって。生まれつき喋れない訳じゃなくて、たくさんの人の前だとか苦手なやつ相手だと喋れなくなるって話。だったら納得だ、一海が小鳥遊にいい感情持ってるはずがない、今もまだ苦手意識持ってるくらいなんだから。ユカリは一海より付き合い長いから間違いない、おれよりずっと長い、十倍くらい。一海のことならおれより知ってるかも知れない、知ってるかも知れないって座りの悪い言い方だよな。
ユカリはユカリで、酒入ってなんからしくないことしようとしてたけど。あれ、なんだったんだろう。今でもうまく説明できない。
出海さん、小鳥遊、ユカリ。一海に関わった、関わってる人に会った、あれこれ話を聞いた。一海にそういうところあったんだ、って驚いたこともある。だけど、おれと一海のカンケイ、それ自体はちっとも変わってない。おれは一海のことが絶対好きで、一海もたぶんおれのことが好き。おれは絶対って言えるけど一海は一海だし、おれより海の方が好きとか言われても驚かない。なんかそっちの方が一海らしいって思う。もし海と同じくらい好きって言われたら嬉しいけど、海の方が好きって言われても一海っぽくて惚れ直しそうじゃね? おれはそう思う。
「先輩、俺と泳いでください」
「ん、分かった。上月ー、タイム測ってくれよ」
「はぁーい」
川村に頼まれて一緒に泳ぐ、タイムは上月が計測してくれる、ありふれた光景、いつも通りの風景。
身体動かしてると頭落ち着いてくるからいいな、おれはそう思う。
「槇村君」
ジム出てすぐ、十歩歩いたかってところで。
「鈴木……館長?」
結構久しぶりだと思う。半年ぶりくらい? 海洋古生物博物館の鈴木館長がいた。いたっていうか、歩いてたのかなこの辺、博物館からだいぶ離れてるけど。散歩してたって感じはあんまりしないけど、じゃあ他にここにいる理由なんて無さそうだし。おれを見つけて声を掛けてきてくれた。ひょっとしておれになんか話があったとか? んなわけないか、考えすぎだな。
「久しぶりだな。以前カズミと遊びに来た時以来か」
「はい。お久しぶりです」
「少し私に付き合ってくれないか。君と落ち着いて話をする機会が欲しかった」
「いいですよ」
言いながら歩いてく、歩調を合わせて並んで歩く。鈴木館長の足取りはしっかりしてる、おれがちょっと意識して遅れないようにしなきゃいけないくらい。見た目通り体力ある人なんだな、おれも爺さんになるならこういう爺さんになりたい。
「博物館、最近どうですか」
「変わるところなどない。せいぜい新しい海獣を保護したくらいだ」
「今度はなんです」
「バチンウニだ。本来なら此処から程遠い冷たい海に棲息している筈だが、何処かから流れ着いたらしい」
「どんな……海獣ですか」
「全身に鋭い棘を生やした棘皮種、それも只の棘ではない。一つ一つが帯電している」
「ああ、だからバチンウニ」
「そう云う事だ」
バチバチしてるウニっぽい生き物だからバチンウニか。こういう名前誰が考えて付けるんだろうな、みんな納得する名前考えなきゃいけねえし、ラクじゃなさそうってことだけは分かる。おれも誰も見たことない新しいポケモン見つけたら名前付けられるのかな、付ける権利くらいはありそうだけどめんどくさくなって誰かに丸投げしそう。
たまには遊びに来てもいいぞ、花子が会いたがっている。鈴木館長に言われて目がまん丸くなった。おれに花子ちゃんが? チグハグな感じで答えちゃう。君はいい話し相手になると言っていた。そうかなあ、おれただ花子ちゃんに言われたことふんふんって頷いてただけだけど。あとは一海に教えてもらったことそのまま言ったくらいで。面白いこと言った記憶とか全然ない。
「おれ行かせてもらってもいいですけど、一海の方が花子ちゃん楽しいんじゃないですか」
「カズミとはもう付き合いが長い。君の方が好い刺激になるだろう」
「いつから知ってるんですか、一海のこと」
「生まれてすぐだ。あやしたことも一度や二度ではない」
「赤ちゃんの時からっすか」
「そうだ。カズミがどう思っているかは別として、私にとっては孫のような存在だ」
「一海の爺ちゃんとは友達でしたっけ」
「もう少し生臭い間柄だ。共に在った時間が誰よりも長いことは確かだがな」
生臭い。どんな意味で使ってるんだろう、って思うし、ああなんとなく分かるなって気持ちも湧いてくる。鈴木館長と一海の爺さんのそれとは違うだろうけど、おれとユカリもちょっと説明しにくい関係だ。付き合いがすげえ長くて、ただ仲が良いってだけの間柄を超えてるんだろうなって。いいところも悪いところも全部知ってて、ある意味自分よりよく分かってる部分だってある、みたいな感じなのかも。
「あいつが海へ出ている間、私がカズミを預かっていた。昔は人見知りのする静かな娘、だったな」
「人前で喋れなかったって聞きました」
「誰からだ」
「ユカリって女子からです。おれの友達で」
「あぁ、あの姦しい娘か」
「あいつです。やっぱうるさいですか」
「もしカズミが十人いても、あの娘の半分も言葉を口にせんだろう」
「でしょうね」
「確かに、カズミの声を聴く事は長らく無かった。それは確かだ」
「鈴木館長の前で話すようになったの、いつ頃ですか」
「四年ほど前からだ。丁度――あいつが海へ消えてからになる」
沈黙が挟まる。空気が重いって感じはしない。そのタイミングだったんだ、一海が館長の前で口開いたの。ありのまま事実を受け入れる。館長と何を話したのかとか、一海がどんな風な様子を見せてたのかとか、気にならないって言ったら嘘になる。だけどおれが訊いていいことでもないってことも分かる。一海と館長のことで、おれが割って入っていくのは違うから。館長が小さく息をつく、クルマのシフトチェンジみたいな感触。館長から何か言いそうだったから待つ。
「カズミとはどう云う関係になった」
「彼氏と彼女です」
「ほう」
「おれが告白して、一海がいいって言ってくれて」
「そうでなくてはな」
そうでなくては。館長がリピートする。だよな、おれもそう思う。告白するのは男からだろって思ってるから。
「今もその気持ちに揺らぎはないか」
「変わりません。一番好きな人です」
「迷いがないな」
「全然。迷うことなんて無いです」
「カズミの何を好いている。君はカズミに何を見出している」
少しだけ時間を貰った。言いたいことが多すぎて、順番に口にしてたら前後不覚になりそうだったから。たくさんの言葉を集めていくと、それはだんだん一つのカタチを成していくのが理解できて。
言うべき言葉を見つけたおれが口を開く。
「海みたいだから。一海は、海みたいだから」
館長は何も言わない。おれがさらに何か言うのを待ってるのが分かる。だからおれは続ける。一海が海みたいだって思う理由を、おれから見た一海がどんな存在なのかを。
「広くて」
「深くて」
「大きくて」
「それから、なにより」
「綺麗、だから」
全部抽象的だと思う、全然具体的じゃないと思う。だけどこれ以外に正しいコトバも無いって思う。一海が好きなのは、どこそこがいいから、何々が好みだからっていう細かい理由じゃない。全部が好きだから、一海が他の誰でもない一海だから。
海のようにたくさんの煌めきを抱えているから、おれは一海が好きなんだ。
「カズミは海のよう、だからか」
「云い得て妙だ」
「あの娘は、カズミは――海で生まれたからな」
思いもしなかった言葉で視線が大きく館長の方へ動く。一海が海で生まれた、言葉から意味が読み取れなくて、続きを聞きたい気持ちでいっぱいになって。
「海で生まれた?」
「そうだ。カズミがこの世に生まれて何よりも先に触れたものは海だ」
「それって、どういう」
「言葉通りだ。難しく考える必要はない」
館長の言葉通りだとすると、一海は。
「カズミは海で生まれた。取り上げたのはイズミだ」
「出海さんが」
「妹だからな。カズミの母親の」
「じゃあ……一海の母さんは、海で出産したってことですか」
「そうだ」
どうしてそんなことを、とか思ってたら。
「どうしてだ。君はそう思っているだろう」
首を縦に振って頷く、素直に。マジでその通りだったから、何も間違っていないから。
「カズミの母親が望んだからだ。カズミには初めに海へ触れさせたい、そう言ってな」
「昔から常識の通用せん娘だった。型に嵌ることを嫌っていた」
「さながら、海のように」
言っちゃ悪いけど、変わった人だったのかなって思う。海に触れさせたいとか気持ちは分かんなくもないけど、だからって海で出産するってのはだいぶ無茶だ。しかも出海さん、つまりは自分の妹に取り上げてもらってるってことは、付き添いの医者とか助産師とかいないってことだろうし。型に嵌らないって館長は言ってる、分かる。嵌るどころか型破りな人だよな、一海の母親って。
言ってるおれの母さんはどうだったんだろ。普通じゃなさそうだな、ってなんとなく、ぼんやりとは思ってるけど。
「海が好きだった。あいつと同じように」
「一海、ですか」
「そうだ、血は争えん。顔つきもそっくりだった」
「当たり前ですけど、会ったことあるんですよね、一海の母さんに。館長は」
「あいつもよく博物館へ遊びに来ていたものだ。今のカズミと同じようにな」
「一海と同じように」
「海を好いていた、海に生きる意味を見出していた。だから海で子を産むことを選んだ。型破りとはこのことだな」
ただ者じゃない、やっぱそう思う。ぶっ飛んでるなって思ってから、だけど一海の母親ならあり得なくもない、むしろそれっぽいって気持ちが段々生えてきて。一海は無茶苦茶とかじゃない、全然そんな風には思わないけど、おれのジョーシキが通用しないって思うことは結構ある。長い間水の中に平気で潜ってられたりとか、全然日焼けしないところとか。一海からしておれの知ってるようなちっぽけな型に嵌りっこないんだから、母親はもっとデカい存在だって言われても違和感なんてない。
母親がいる――ってことは、当然、一海にも親父がいるはずで。母親一人で子供産むのは無理だからな、絶対誰か父親に当たるやつがいるはず。でも話を聞いたことがない、ただの一度も、ただの一言も。出海さんからも、館長からも、一海からも。母親の話はこうやって出て来たのに、一海の親父の話題はただのひとつも出てこない。一海を初めて取り上げたのも出海さんだって言ってた。
(相手は、父親は)
誰だったんだろう。どんなやつだったんだろう。一海は母親にそっくりで、だから母親はきっと一海みたいな人だったんだってことは分かる、納得がいく。じゃあ親父は? 父親はどんなやつで、一海に何が受け継がれたんだろう、って。
「槇村君」
あっ、はい。考え事してたら名前を呼ばれた、すぐ返事をする。
「ひとつ頼みがある」
「おれにですか」
「カズミの傍に、いてやってくれないか」
まただ、また言われた。一海の傍にいてほしいって言葉を、おれに向けて。これが最初じゃない、これで――二回目だ。
「君なら、私から言われずともそうするだろうが」
「はい」
「私は敢えて言葉にしておく。君が私の言葉という形で思い出すことができるように」
敢えて言葉にする、館長の言葉が胸に響く。ああ、だから言葉にしたんだ。言葉にされると、こうやっておれのどこかに引っかかって確かに残るから。一海の傍にいてほしい、その言葉も同じようにして引っかかる。引っかかっていつまでも存在をおれに意識させて、事あるごとに思い出させる。
一海の傍にいてほしい。館長がおれに引っ掛けたコトバ。
これで失礼する、そう言って分かれ道で館長が別の道を歩いてく。その背中を少しの間見送った。背中に書いてることを読み取ろうとして。だけどおれには読めない。男は背中で語るって言うから絶対何か書いてるはずなのに、おれの目じゃ館長が何を言ってるのか読み取りきれない。おれの目が子供だからかな、おれと館長じゃ生きてきた時間も見てきたモノの数も違う。
「一海の傍にいてほしい、か」
鈴木館長に言われた、そして小鳥遊にも言われた。全然接点のない、言うならせいぜい一海と関係があるってだけの二人が、どうしてまったく同じことをおれに言ったんだろう。鈴木館長は分かる、一海と付き合い深くて孫娘みたいなもんだって思ってるから。小鳥遊は分からない。本当はなんとなく思い当たる節はあるけど、正しいのかどうかが分からない。
なんだろう。どうして誰も彼も、一海のことをおれに話すんだろう。
(一海は海で生まれた、初めて触れたものは海だった)
これも普通じゃない、少なくともおれの常識には当てはまらない。一海のことは前から不思議だとは思ってたけど、ますます不思議だって気持ちが膨らんでく。おれの想像を超えて、霧みたいに広がってく。掴みどころがない、頭がこんがらがってく。
一海は、いったい何者なんだ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。