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#22 曇天の海

寝転んだまま窓の外を見る。どんより曇り空、今この瞬間に雨が降ってきてもおかしくない。ほんのり海の匂いもする、雨が降る前に漂ってくるちょっとえぐみのあるアレ。あったかい春と太陽全開の夏に挟まれた梅雨って時期、おれは苦手だ。全然スカッとしねーしホント憂鬱。なんで梅雨なんてあるんだろ。季節の巡り方からして自然なのかも知れないけどさ、自然の事情だし。

梅雨の時期が苦手なのは、ただ鬱陶しいってだけじゃ無いんだけど。

空を見ながらなんとなく頭を働かせる。働かせるって言っても何かを生み出すわけじゃなくて、ただ動かすだけなんだけど。ちゃんと働かせたらいいアイディアとか浮かぶはずなのにな、そういう方面で使うのはてんで苦手だ。ただ思ったことを考えるためにしか使ってない。

(春原も言ってたな、あんな降り方した雨は後にも先にも一度きりだって)

年が明けて早々に豊縁全土へ馬鹿みたいな大雨が降って、榁もとんでもない被害を受けた。榁もって言ったけど、他のどこより被害がでかかったのが榁だった聞いたことも覚えてる。建物や船がいっぱい壊滅して、両手両足の指じゃ足りないくらいの人が死んだ。これ以上の被害を出そうと思ったら隕石でも落とさなきゃ無理だろって感じだ。春原の親は風雨で激しくなった波に浚われて、一海の爺ちゃんも同じようにして亡くなった。今こうやって思い出してみてもマジで見たことないくらいの酷い降り方してたな、あの時の雨は。

なんだろ。まるで――空が落ちて海へ還ろうとするみたいな。

あの時の雨じゃないけどさ、雨の日に親が消えたって言うならおれも同じっちゃ同じだ。海に消えていく母親の背中、それが今も目に焼き付いて離れない。たまに夢に出てきて、何も言わずに背中だけ見せてる。背中の印象があんまりにも強いから、もう顔も思い出せなくなった。まるっきり。どんな目をしてたか、どんな顔つきしてたか、全然浮かんでこないんだ。浮かぶのは背中だけ。消えたって言っても別に死んだわけじゃない、船に乗ってどっか遠く、海を越えておれの手の届かないはるか遠くへ行ったってだけ。おれにしてみれば死んだも同然で、なんなら生きてても死んでても変わんねえんだけど。

言ってみれば隣ん家のカレーみたいなもん。おれはカレーにジャガイモ入れるけど、隣の杉山さん家のカレーにジャガイモが入ってるかは分からない。けど入ってようが入ってなかろうがおれのカレーには何の関係もないし、それで何か人生が変わるって訳がない。おれにとって母親が死んでるか生きてるかってのは、杉山さん家のカレーにジャガイモが入ってるか入ってないかってくらいの違いでしかない。

カレーかぁ。そう言や最近ユカリ家に呼んでねーな、去年おれがカレー作って一緒に食ったの思い出した。またカレーにすっかな、しばらく作ってねーし。材料もだいたい揃ってたはずだし、って余裕かましてたんだけどさ、一個大事なこと思い出して。

「あっ、やっべ。サラダ油切らしてるじゃん」

朝目玉焼き作った時に全部無くなったの思い出した。目玉焼きん時も量がギリギリで容れ物真っ逆さまにして絞り出したっけ、もう買わなきゃ絶対無理って感じだった。ベッドから起きて台所行って棚を開けてみるけど、買い置きとかは見当たらない。カレー作ろうと思ったら先に野菜炒めなきゃいけないし、他にも使い道は腐るほどある。おれだけだったらなんか適当に作って済ませられるけど、今日は親父も帰ってくるからちゃんとしたものなんか作っとかなきゃいけない。どうしよっかな、頭がそう考える前にもう身体は動いてて。無いなら買いに行くしかねーだろって。

いつも財布とか入れてるミニバッグを引っ掴んで外へ出る、ドアを開けて鍵閉めて、階段をカンカン言わせながら降りてって。外の空気は肌で感じられるくらい湿ってて、一秒後に雨が降りだしても全然不思議じゃない感じ。自転車乗るかな、歩いてくかな。今度は立ち止まって考える。普通なら傘持って雨に濡れないようにしていくけどさ、今日はなんか自転車乗って買い物したい気分だった。単純に急いでるってこともあったけど、それよりも「雨に濡れてもいっか」って気持ちが湧いてきて。ミニバックに入ってる鍵を引っ張り出したら、迷わず自転車へ挿し込んだ。

雨露に濡れてキラキラ輝いてる一海の姿がふわあっと脳裏に浮かんできたってのも、この気持ちと何か関係あるかも知れない。

自転車を大きく漕いで、いつも通ってる海に面した道路を駆け抜ける。ほんのり温さを帯びた風を頬いっぱいに浴びると、肌がじわじわ水気を帯びていくのをやたらと生々しく感じられる。崩れ出しそうな空と歩調を合わせるみたいに海も荒れ気味で、晴れてる時より打ち寄せる波にトゲがあるな。やっぱ好かない、好かない天気。一昨日ジムから帰る時ユカリ言ってたっけ、今年は雨を止める晴れ女の出てくる映画やるって。ちょっと海凪まで観に行ってくるわ、とも。こんなゴミゴミした空見てるとさ、その映画みたいに誰かが晴れさせてくれたらいいのにってマジで思う。

崩れそうで崩れない、でもいつ崩れてもおかしくない気まぐれな空の下で、目的地の食品スーパーまでどうにか辿り着いた。ここまでノンストップ、いい感じだ、自転車止めて中へ。まず忘れないようにサラダ油と、ついでに買っときたかった食べ物をいくつか。マトマペーストに木綿豆腐、あとビスケット。ビスケットはおれじゃなくて親父が食っててちょくちょく買い足してる。要るものはこれで全部かな、さっさと会計を済ませてエコバッグに詰める。帰るぞ、そんな気持ちで自動ドアをくぐってすぐに。

「あっ、先輩」

「川村」

ちょうど入ろうとしてきた川村と鉢合わせする。入口で立ち止まった川村の前まで歩み出て、出入りの邪魔にならないようちょっと横に逸れる。いたのは川村だけじゃない、一回り背の低い女子も一緒。顔は知らないけど誰かは分かる、川村の妹だ。妹いるって聞いたことあったからすぐピンと来た。

「買い物、だよな」

「はい。妹とポケモンセンター行ってきて、その帰りです」

「ポケモンセンター行ったのか」

「あのね、デデンネに会ってきたの」

「預けてたりするの?」

「去年家に入って電気食ってるとこ見つけて、妹が気に入ってキープしてるんです」

「あれか、まだ免許持てないから」

「そういうことっす」

ポケモンを捕まえられるのは十一歳になってから。川村が確か今十一だったから、妹の方はまだちょっとお預けってわけ。だけどそういう人のための抜け道……抜け道って言い方もアレだけど、こうやってポケモンセンターで目当てのポケモンをキープしとくっていう裏技がある。川村の妹もそうして免許が取れるまでデデンネを預かってもらってるってわけだ。デデンネ、ってさらっと言ったけどこの辺りじゃ見ないやつだよな、レアポケだ。アレだ、船に乗って外から来たのかも。

「いいな。引き取ったら大事にしてやれよ」

「うん。あのね」

「どうした」

「優美ねー、大きくなったらねー、ポケモンを治すお仕事するの」

「へぇー、いいじゃんそれ。しっかりしてるなぁ」

「ポケモンもいいけど、まず自分の方をしっかりしなきゃダメだぞ。この間だって風邪引いたんだから」

「川村は川村で、いい兄貴してるな」

「優美を護るんだって、父さんと約束したからです」

こういうことを面と向かって言えるのが川村なんだよな。悪い意味じゃない、真面目なやつなんだってニュアンス。やっぱりおれなんかとは違う、真剣に向き合ってる。自分にも、人生にも。年下だけど、対面してると背筋がしゃんとするんだ、川村ってやつは。

「川村は風邪とか引いたの見たことないな」

「気を付けてます。選手になったら体調管理も大事ですから」

「言う通りだな。立派な仕事になる」

「ただ、この間プールで足打っちゃって」

「あれか? ターンする時か」

「あっ、はいっ。そうです。大したことなかったですけど、ちょっと血が出て」

「ちゃんと処置しとけよ。破傷風になるぞ」

「まったく同じこと、上月先輩にも言われました」

それじゃあな。川村にそう言って別れる。川村はしっかり傘持ってるのが見えた、雨に濡れたって構わない、なんてテキトーなおれとは全然違う。こういうのが意識の差、ってやつだと思う、さりげない仕草とかにしれっと現れるんだ。きっとあいつはいい選手になれる、おれと違って。

何気なく目を向けた空からは、大粒の雨がひっきりなしに降り注いでいた。

 

降りしきる、というより打ち付けるような雨の中を走る。全身ずぶ濡れもいいとこ。こっから走って十分くらいかな、自転車でもそこそこ掛かるんだ、家からあのスーパーまでは。口にまで遠慮なしに雨水が入り込んでくる。何の味もないただの水、空から海へ落ちてく途中の水。身体を湿らせ濡らしてくそれに身を晒す、おれもなんでこんなことしてるのかは分からない。ただこれが自然だって思う、理由なんてひとつもありはしないけど。

川村とした話、健康に気を付けてるって話。それで思い出したことがある。大会で優勝して強化選手に選ばれたやつがいたんだけど、「血液検査」で引っかかった、って噂。水泳部で泳いでた時だったかな、湯浅がそういうこと言ってたんだ。意味分かんなかったな、誰よりも速く泳げるから大会に優勝したわけじゃん、それくらい速く泳げるってことは絶対体鍛えてるわけじゃん、病気とかだったら鍛える云々以前の話だから健康に決まってるじゃん。

それで「血液検査」に引っかかるって、どういうことなんだろう。

とかなんとか考えてる間も雨脚はガンガン強くなっていって、顔が濡れてマトモに前も見えなくなる。この辺りは車の通りが少ないからいいけど、車道走らなきゃいけない時にこんな雨に降られたらマジでヤバいって思う。視界曇ってるし霧も出てきたしでロクに先が見通せねえや、いつもより少し自転車のペダルゆっくり漕いでる、危ないから。前から何も来ないのを見てから一瞬右に目を向ける、飛び込んできたのは海。さっきに輪を掛けて荒れてるや、普段見てる穏やかなそれとは全然違う、別人みたいな貌してる。陸から海を見てるけど服とか体は雨でびしょ濡れの水浸しで、まるで海の中にいるみたいだ。

だけどさ、不思議だけどさ、気持ち悪いとかうざったいとかそういう気持ちにはならねえんだ。濡れてても気にならない、別にそれでいいんじゃねって感じで。服をすり抜けて体を濡らしていく雨水を、おれのカラダは全然拒絶してない。なんでだろう、おれなりに考えた。生き物っていうのは本来みんなハダカで生きてて、服っていうのはニンゲンが考えた仕組みに過ぎない、言ってみればうわべだけのもの。雨はそんなのお構いなしに通り抜けてカラダを濡らしてくる、それが自然だから。一海の姿が脳裏に浮かぶ。たぶん、一海も似たようなこと考えてるんじゃないかな。一海も雨に濡れるの平気な顔してたから。

そろそろ前を向こうかって思った時だったんだよ、砂浜に人影を見つけたのが。それもおれの知ってる人だっていうんだから、前を向こうにも向けないな。一目見て気が付いた、そこにいたのは出海さんだって。出海さん? そう出海さん、一海の叔母さんの。雨の中でも見間違えないくらいハッキリ分かった。傘も差さずに砂浜に立って沖を見つめてる、普通じゃない、絶対普通じゃない。胸の内側がぞわぞわして騒いでる。考えるより先に手が動く、キキーッ、と音を立てて自転車にブレーキがかかった。話をしに行こう、何してるんですかって。

カゴに突っ込んだエコバッグの口をきつく縛って中身が濡れないようにしてから、自転車に鍵掛けて階段を駆け下りる。砂浜もぐしょぐしょだ、雨の降りっぷりが尋常じゃない。それでも止まらずに早歩きして、うるさい雨の中でも声が届くかなってところまで来てから、おれは。

「出海さん」

「槇村君」

呼び掛けた、すぐ気付かれた、落ち着いた調子で返された。おれがここにいるってことに動揺してたりは全然ない、むしろいて当然みたいな顔してる。隣に立った、話が始まる気がしたから。

「どうしてここへ?」

「買い物の帰りだったんです。それで、向こうから出海さんいるの見つけて」

「目がいいのね、よく見つけたわ」

「視力検査はいつも満点です」

雨に濡れながらする話、じゃねえよなこれ。出海さんもおれも雨のことなんてどうでもいいと思ってるようにしか見えない。実際どうだっていいしな、さっきも言ったけどこれが自然だと思ってるから。不自然なのにな、雨に濡れながらカノジョの叔母さんと二人で向き合ってる、すっげぇ不自然だ、でも自然に思える。自然ってなんだろ、そうあるべき姿って解釈でいいのかな。

「出海さんはここで何を」

「ただ海を見ていただけよ、雨の海を」

「海を、ですか」

「ええ。過去を忘れないようにするためにね」

見ている、雨の海を、おれも出海さんも。荒れて波打ってる、いつもの風景とは違う海。胸騒ぎを覚える風景だ。どうしてそんな海を見てるんだろうか、何を忘れないために海に目を向けているんだろうか。おれは出海さんのことを知らない、だからただ疑問を覚えることしかできない。

「ここで会ったのも何かの縁。少し付き合ってくれるかしら」

「おれでよければ」

「槇村君だから……いいえ、槇村君でなきゃね」

おれに何か話したいことがあるってことかな、あるいはおれに何か訊きたいことがあるのかも。どっちにしろいい機会だ、おれも出海さんと話がしたい。

「最初にひとつ残念な話をしておくと、一海は今ここにいないの」

「てっきり海で泳いでると思ってました」

「ええ。一海ならこの海でも喜んで泳ぐでしょうね」

「今は家に居たりするんですか」

「海洋古生物博物館、鈴木館長のところ。検査を受けるためにね」

「検査、ですか」

「一海の身体能力を調べるためよ。毎月受けているの」

「泳ぐのが速いとか肺活量が凄いとか、ですか」

「そんなところ、ね。先月にいつもと少し違う数字が出たと鈴木館長が言っていたから」

おれは何も言わない。一海の何かが変わったっていうことに、思い当たる節がないわけでもない。その、具体的に身体に障るようなことしたって訳じゃないけど、気の持ちようは変わったかもって思うし。なんていうか、おれが実際にそうだっていうのもあるから。

気を紛らわせるために目線を動かす。たまたま向いた先に、きらりと光るものを見つけて。

「案件、管理局」

「知っていたのね」

「あ、はい。見たことあって、それで」

「今私が働いてるのはここよ」

「じゃあ、この間佐藤さんと一緒にいたのは」

「仕事上の同僚、というわけ」

納得した。出海さんが佐藤さんといた理由も、いつも忙しくしてることも。案件管理局は二十四時間体制で仕事してるって前に聞いたことがある。そこで調査とか研究とかしてるわけだから、帰宅するタイミングが不規則になるのも当然だよな。海には変わった生き物多そうだし、ヘンな何かに出くわす機会も多そうだ。

「榁で起きている案件、中でも海獣に纏わる案件を担当しているの」

「見たことのない生き物とかですか」

「まさにね。常識が通用しない存在と対峙することも少なくない」

「そうですよね」

「常識とは薄氷の上を歩くようなもの。一度足を踏み外せば、瞬く間に海へ呑み込まれてしまう」

闇の中で未知に立ち向かい、光の中で人々が世界を歩けるようにする、それが局の仕事よ、出海さんが付け加える。大変そうな仕事だって、真っ先にそれが浮かんだ。常に未知のモノと向き合う訳だろ、二十四時間三百六十五日、気が張りつめそうだ。なんでもない風に言ってのける出海さんは「大人」だ、おれとは全然違う「大人」だ、心の底からそう思う。

ざあざあ、ばしゃばしゃ。雨は降り止まない、むしろ強くなる一方。けど出海さんもおれもここを離れようとしない、それが当たり前、常識みたいに。なるほど、確かにその通りだ。常識なんてモノは移ろいやすい、簡単に変わってしまうものなんだって。

「こんな仕事だから、一海と接する時間があまり取れない……そう言ってしまうのは、卑怯だと理解しているのにね」

「けど一海、出海さんが帰って来るって日は嬉しそうにしてますよ。おれ、見ましたから」

「それは救いね。今はその言葉に甘えておこうかしら」

一海は出海さんのことが好きだ、それは間違いない。逆はどうだ、出海さんから見た一海はどうだ。大切にしたいと思ってる、おれはそう感じた。距離があってうまく接することができてない、出海さんの言葉にはそういうニュアンスが滲んでる。けどそれは多分、出海さんが自分に厳しいから。自分に厳しいというか、理想が高いって言った方がいいかな、今の在り方に満足できてないんだ、きっと。

「これは前にも訊いたけれど、また訊かせて、槇村君」

「はい」

「一海のことをどう思っているか。変わらず好きでいるか、彼女だと思っているか」

「変わりません。今までも、きっとこれからも」

「なるほど。一海が好き――その意志はずいぶんと強いようね」

出海さんは海を見ている、変わらずに。けど少し動きがあった。身に着けている長袖の服、それを何気なくさりげなく、スッとめくり上げて。

(あれなんだろ、マークが入ってる)

真っ白な一海とは違う色黒の肌、その腕に入った白い紋様。アンノーンにあんな形のやつがあった気がする、アルファベットの「A」に似た形だ。どうなんだろうな、アンノーンがアルファベットに似たのか、アルファベットをアンノーンから作ったのか。気になるけど今はどっちだっていい、出海さんの腕に「A」に似たシンボルが入ってる、そっちの方を気にしなきゃいけないし、おれも気になるから。

「それは」

「若気の至り、とでも言っておこうかしら」

「タトゥー、ですよね。雨で濡れても消えないですし」

「刺青よ。昔入れたものだわ」

「何の模様ですか」

「さあ、何かしら。ご想像にお任せするわ」

このシンボルが何を意味するものであれ、今の私には縁遠いものだけれど。付け加える出海さんはどこか寂し気で、何か自嘲的で。なんだろ、どういう意味があってなんでタトゥー……刺青って言い直してたっけ、刺青を入れたのか、どっちもおれには分からない。ただ、出海さんの様子見てたら、単にファッションで彫り込んだってわけじゃなさそうってことだけは分かる、おれにだって。

「簡単には消えず、消せず。例え消えてほしいと思っても」

「消したい、って思ってたりしますか」

「できることならね。けれどそれはできない。これを消すことは、背負っているものを下ろすことになるから」

何も言わない、言えないって方が正しい。あのアルファベットの「A」みたいな刺青には何かが宿ってる、出海さんはその何かを背負っていて、下ろすことに躊躇いを感じてる。下ろしたくとも下ろせないもの、あるいは下ろしちゃダメだって思ってるもの、思わされてるもの。向き合いたくなくても向き合わなきゃいけなくて、その度に痛みを覚える枷のようなもの。

それってさ、なんかさ、覚えがないわけじゃないんだ。おれ自身が背負ってるって訳じゃない、割と近くにいるやつが似たものに苛まれてるのを見たから、見せられたから。

「刺青。これがどんな意味を持っているか、槇村君は知ってる?」

問いかけを通して出海さんがおれにどんな答えを求めてるか、これもそう、根っこは同じだ。おれの中で言葉としては全然纏まってない、でも何か言えることはある。暗雲と豪雨と荒海を背にして立つ出海さんに気圧されそうになりながら、おれはできる限りの言葉を集めて、なけなしの答えを作って口へ持ってった。

「罪を犯したことを刻むためのもの、だと思います」

「よく知ってるじゃない。満点をあげるわ」

「前に本で読んだことあります。そういうことしてた時代があったって」

「お上が彫れなくなったというだけで、刺青の持つミームは今も生きているわ」

「悪事に関わってるってイメージ、ですか」

「ええ。罪を犯した人間の身体に刻まれる消えない紋様。言わば罪の証。その文脈は消えていない」

「それが、刺青」

「或いは――消えない罪を背負って生きていく。そう言いかえることもできる」

出海さんが上げていた袖を下ろす。服の布地に隠されて刺青が見えなくなる。最初からそこには何もなかったんだ、まるでそう主張するみたいに。

「こうして表向きは隠されてしまうこともある。人の目に付かないように」

「見えなくなっても罪は消えない。罪と向き合わなければならない事実は、決して消えない」

だけど出海さんの言葉は、目には見えなくなった刺青とはまるっきり正反対の鏡写しで。見えなくなっても消えることはない、そうハッキリ言ったんだ。逃げ場なんてどこにもない、言外にそんな意味を込めている。おれの頭はそう解釈した。何があったのかマジで分からない、なんだったんですかって訊くこともできない。訊きたがりの知りたがりを自覚するおれでも、そこまで踏み込む度胸も覚悟も持ち合わせてない。

尋常じゃない、それだけは確かだ。

「空を見て御覧なさい。今は雨が降っているでしょう」

「降ってますね。止みそうにもないです」

「そうね。でも――この雨は、あと数時間もすれば上がってしまう。自然現象に過ぎないから」

「自然現象、ですか」

「ええ。超常的なものではない、捩じ曲がってもいない。自然界の常識として見做されている、道理に沿ったあるべき事象」

目の前に佇む出海さんが、おれに向かって何の話をしようとしてるのか、頭で考えるよりも先に心が考え始めて。

「雨を永遠のものにしようとした者たちがいた。この世界の海を拡げようとした者たちがいた」

四年前の――止まない雨の話だって。

「海に住まう海獣たちすべてを統べる存在」

「永劫に続く雨を降らせる強大な力を持った海の『帝王』――」

「――あるいは、『怪物』」

「彼の者の力を呼び覚まして、海獣たちの楽園をこの『星』へ生み出そうとした」

「浄罪。『星』に対する罪を重ねてきた人間たちを浄化する、その意図も込めて」

「少なくとも、善意で動いていたのは事実よ」

「それが歪んでいたのも、また事実だけれど」

誰かが言っていたことを唐突に思い出す。四年前に榁を襲った集中豪雨、あれは永い眠りから覚まされた古代の海獣が引き起こしたものだ、って。単なる御伽噺の類だと思ってたんだ、テレビで偉い人がその通りのことを発表するまでは。榁の北にある石の洞窟、そこにある壁画に描かれてる碧い、蒼い、蒼い海獣。どれほど月日が経とうと決して色褪せることのない、永遠のブルー。

カイオーガ。陸に住む人からの呼び名。そいつが雨を降らせた。あの日の、何もかもを洗い流して浄化せんばかりの強い雨を。

「どうしてああなったのかしらね。計り知れないほどの財産が失われた、多くの人々が喪われた」

「そして今なお、その恢復は終わっていない」

「皆があの力を見ていたのよ。海獣たちの帝王を『怪物』たらしめた、人智を超越した神の如き力を」

「誰も気付いていなかった。あの人も、あの男も、そして……私も」

「あの力もまた、私たちを見ていた。その、当たり前の事実を」

出海さんを見つめる。誰として? 風雨に晒される一人の女性として? 彼女である一海の叔母さんとして? 案件管理局の局員として? 違う。今は、その誰でもない。

かつてあの大雨を起こした人々の一員だった――『イズミ』さんとして。

「すべて見抜かれていたのよ。私たちの行いは真に海獣のことを思ったからではないと」

「赤い血を流す、陸に住まう人間に対する報復が動機なのだと」

「私たちは船に乗っていた。海に住まう怪物を追うひとつの船に、報復を成し遂げるために」

「誰もが皆熱に浮かされていた。船長がその身とその言葉から発する情熱に、熱狂に」

「あたかも熱病のように次々と伝染していく様を、すぐ間近で見ていたから」

「人は罪深い生き物だと……海獣に青い血を流させる存在だと。何度も繰り返し口にしていたわ」

空から落ちる雨が出海さんに叩き付けられる。出海さんはそれを拭おうともしない。ただ打たれるがまま、濡れるがままに任せてる。身体を雨露に晒して、全身でもって受け止めているんだ。

罪を。過去に犯した過ちを。

「あの人の言葉は正しかった。確かに人は罪深い、業に塗れた生き物よ」

「一面的にはね」

「郷里の住民に致命的な被害を齎して、あの人は二度とその地を踏めなくなった」

「人は罪深い」

「我が身を以ってそれを証明したのよ」

「本当に、本当に愚かだった」

「救いなんてどこにもありはしなかった」

出海さんの目はおれを見ていない。空を――いや違う、海を――それでもない、出海さんの言う「あの人」を見てる。そこにはいない、記憶の中に存在する「あの人」を。それが誰なのかはちっぽけな問題だ。彼なのか彼女なのか分かんないけど、そいつが出海さんにとってとてつもなくでかい存在だってことに絶対間違いはないから。ここにいなくたって姿形をありありと想像できるくらい、脳が深く深く記憶してる存在なんだって。

「そう。人は愚かな生き物、何度でも過ちを繰り返す」

「私が血気に逸ったのは、この海で血を見たからよ」

親指を口元に当てて顰め面をすると、出海さんが歯を立てて指の皮を僅かに引き千切るのが見えた。こちらへ親指を向ける、血が滲んでる。赤い血、真っ赤な血。周りのどの色とも調和しない、違和感がカタチになったみたいな赤い色の血が流れてる。

「榁の海で人とポケモンが死ぬ事件が起きた」

「刃物で刺されてね、どちらもほぼ即死だった」

「青い海に血が流れて赤く染まったことを今もよく憶えてるわ。それこそ夢に出るほどに」

「死んだのは他でもない――」

海に向けられていた出海さんの目が、ハッキリと明確に、おれに向く様が見えて。

「――私の、姉」

「つまり」

「一海の母親よ」

出海さんの姉、言い換えれば一海の母さんが、この海で死んだ。他に取りようのない言葉でもって、出海さんはおれへ告げた。

「一海が生まれて、まだ半年も経たない頃だったかしら」

「姉は……晴海姉さんは、他でもないこの場所で死んだ」

「死んだというよりも、殺されたと言うべきね」

「手を下したのは男。私も知っていた人間」

「一緒にいた海獣も殺された……いえ、むしろあちらを狙っていたように思う」

「晴海を殺すつもりは無かった、遠い昔、どこかでそう言ったのを聞いた気がしたから」

言葉が出ない、何も出てこない、ただ聞いていることしかできない。一海の母親に起きたこと、この海で起きたこと、過去に確かに起きたこと。血で海が赤く染まる鮮烈な風景が、もやをまとった実感のないカタチで脳裏に現れてくる。明瞭なのか曖昧なのか分からない有様を、おれはただ思い浮かべることしかできなくて、何かしないといけない言わないといけないと思いながら、カラダはまるで動いちゃくれなくて。

一海の母親はこの海で死んだ。誰かに殺されて、この海に赤い血を流した。出海さんの言葉が繰り返し繰り返し、心の中で反響し続けていて。

「あの子は人の親を知らない。自分の親が何者で、どんな存在なのかを知らずに育った」

「だから海が親になった」

「生みの親が眠る海を遊び場にして、海を育ての親に見立てて生きてきた」

「海で生まれたあの子にしてみれば――それは、自然なことなのかもしれないけれど」

「いずれあの子は海で生きていくことになる。海と共に、海の中で、海に呑まれて」

引き絞った弓から放たれた矢で、心臓を射抜かれるような思いがした。感覚の後に理屈が追い付く、出海さんがおれを見てる。まっすぐにまっすぐに、他のモノを何も視界に入れないようにして、ただおれだけをまっすぐに。どうしておれを見るんだろう、そういうシンプルな疑問しか浮かばなかった、浮かべられなかった。理由や背景が思い付かなくて、ただ目の前の行為の直接的な理由だけを探してて。

しかも、おれは勘違いしてた。思いっきり、とびっきり大きな勘違いを。

「槇村君。これは忠告よ、貴方のためを思っての」

まだ出海さんから「矢」は放たれていなかった。

「一海から離れるなら、今しかない」

あれはまだ、構えただけだったんだ。

「このままあの子と共にさらに先へ進もうとするなら」

「貴方は何れ、海に呑まれることになる」

「それは誰にとっても幸せに繋がらない」

「あの子もまた、例外ではなく」

出海さんが言ったのは、ざっくり言えば「一海から離れろ」ってこと。そうしないとおれが海に呑み込まれる、それは誰にとってもいいことじゃない、一海も含めて。言われたことをそのまま繰り返しただけなのに、頭を新品のトンカチで思いっきりぶん殴られたみたいな感覚が走った。一海から離れろ、そうしなきゃ海に呑まれる。出海さんが何を言いたいのか分からなかった、言ってることは分かるのに、なんで言ったのかが全然浮かんでこない。

どうして一海から離れなきゃいけないんだ、おれは一海のことが好きで、一海もおれのことが好きだって言ってくれてるのに。そうじゃない? そういうことじゃないのか、おれと一海が好きか嫌いかって話じゃ収まらない、出海さんはそういうこと言いたいわけ? じゃあなんでだ、どうしてだ。どうして? 疑問で頭がいっぱいになって、外から突いたらバクハツしそうなくらい膨れ上がってる。

どうして、なんだ。

「情愛と理性、ふたつを天秤に掛けなさい」

「人は理性を以って生きる者。理性を失えば、それは人ではなく獣」

「それが海に住まうなら、海獣と言えるでしょう」

「あの子は……一海は、海獣の子供よ。人の理から半歩外れている」

強くなるばかりの雨の中で、出海さんはおれだけを見ている、おれだけを見つめている。見られているおれはどうだろう。何も言えない、何も言わない。出海さんの言葉はちゃんと受け止めてる、耳だけじゃない、体と頭と心、その全部で受け止めてる。受け止めたうえで、受け入れるわけには行かないって思ってる。一海と離れるべきだ、そんなことに簡単に「はいそうです」なんて言えるか、言えるはずがない。おれは、一海のことが好きだから。

だけど。だけど、それだけでいいのか。初めて心に影が生まれて、心臓をそっと掴み取るのを感じて。

「あくまで一海といる。気持ちは譲れないという訳ね」

諦めたように、けれどどこか初めから分かっていたようにも見せながら、出海さんが呟く。足が動き始めてる、この場を離れるんだ、すぐさま理解に至る。言うべきことは言った、伝えるべきことは伝えた、表情からそんな風に言ってるのが読み取れる。だけどそれと同時に、助言したよりも先には踏み込んでこなくて、あくまでおれの考えに任せるつもりだ、ってことも。

「気を付けなさい。私ではなく、貴方自身に」

立ち去る出海さんの背中を目で追って、すっかり姿が見えなくなってから、続けておれもその場を立ち去る。

(一海から、離れろって)

どうやっても拭えない戸惑いが、胸でじくじくと疼くのを覚えながら。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。