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#23 暴露

季節が一巡するのって早いよな、って夏になるといつも思う。なんでか分かんねえけど春と秋と冬はあんまりそんな風には思わない。普通だったら春に浮かんできそうな感情なのに、おれの場合はどうしてか夏なんだ。夏が中心になるから、夏を基準に考えてるから、夏がおれにとって特別だから。それはあるかも知れない。ガッコは長い休みに入るし、プールとかでガンガン泳ぐし、お祭りとかもやってるし。あとユカリが小金に出かけていなくなる。いなくなって嬉しいとかじゃない、むしろ張り合いがないくらい。でも夏になるとユカリが隣からいなくなるから、普段と違う時間が続くっていうのは確実にあるな。

おれはプールで泳いだ帰り、ユカリは合気道の稽古帰り。疲れたわぁー、しきりに言うユカリからほんのり汗の匂いがする。シャワー浴びる暇もなかったって言ってたっけ、終わった後取り合いになること多いしな。泳いでると汗かいてるのか分かんなくなるけど、すっげえ喉渇くから水分出てるのは間違いない。だいぶ前に読んだ本に世界大会で優勝した女子選手の伝記みたいなの載ってて、練習激しすぎて水の中だってのに汗が流れる感触がしたとか書いてたのを思い出す。半端ねえ、って気持ちと一緒に、いっぺんそこまで自分を追い込んでみたいって気持ちになる。だから今日はキツめにやろうって意識したけど、あいにくそこまで行かなかった。

「やー、今日は春原先生おったから張り切ってもうたわぁ」

「来るって言ってたな」

「せやねん。最近ちょくちょく顔出してくれるわ」

「やっぱ先生いると違う?」

「そらちゃうで。手ぇ抜いとったりしたらすぐバレるし」

「ユカリって手抜けるの?」

「そらトッちゃんとちゃうからな」

「おれも今日は手抜きしたぞ」

「えっホンマ? いつも全開のトッちゃんが?」

「壁付いたら終わりまであと10秒しかなくてさ」

「うん」

「もう一本行けるかなって思ったけど行かなかった」

「いやトッちゃん、25mを10秒は無茶やで」

「他のやつがプールサイドに上がるまでのロスタイムも使って」

「何がロスタイムやねん」

「って感じで、あと一本行けたけどもういっかなって。手抜きした」

「基準がおかしいわ。やっぱトッちゃん常に全力やって、全力少年」

「なんだその全力少年って」

「明日さんが持っとるCDに入っとった曲」

ユカリとの会話は普通。中身もテンポもちっとも変わらない。年明けにああいう妙なことがあったって感じはまるでしないし、おれも今思い出すまで完璧に忘れてた。一応、今年に入ってからお互いの家に行ったり来たりってことはなくなったけど、それはユカリが「彼女持ちの家にずけずけと上がられへんやろ?」って自分から思いっきり理由を暴露してる。ユカリなりの気遣いとかかなって思うけど、こうまでハッキリ言われるとかえって気持ちいい。今日もまた他愛ないことを言い合いながらのろのろ歩いてる。

「トッちゃん知ってると思うけど」

「知ってるかなあ」

「絶対知ってるって。ジムに武道場二つあるって話やから」

「さすがにそれは知ってる」

「せやろ? でさあ、稽古終わってからちょっと冷やかしに行ったんよ、隣」

「今日は何やってたの? 柔道?」

「惜しい。剣道や」

「あっ、そっちか。そういやなんとか剣友会が使うとか札貼ってたな」

「それそれ。で、一個下の子でやたら強い女の子おるのん見えて」

「ひとつ下って分かったの?」

「学校におるのん見たからな。この間東原さんと一緒に歩いとったわ」

「ああ、そういうことか。東原って部長だろ?」

「その通りや。めっちゃ仲良うしとったし、次期主将最有力候補やで。ちなみに雰囲気は天野さんに似てる」

「えっ、誰その天野さんって」

「知らんのん? ほなええわ。スキだらけやなあトッちゃん」

「まーた自分の中で完結してるし、意味分かんねえ」

おれはユカリと話してると楽しい。とにかく口数が多いのもそうだし、おれが喋るための間も取ってくれる。ただ一方的に喋るだけのやつはつまんないって分かる、ユカリとは言葉のキャッチボールが成立するのがデカい。それもテンポよく。手持ち無沙汰になるってことが全然ない。

年下か。川村どうしてっかな。今日は時間合わなくて顔見てねえや。けど上月が言ってたっけ、最近なんかスランプ気味みたいだ、戸惑ってる感じでいつもと雰囲気が違うって。あと一ヶ月もしないうちに大会だから緊張してるのかもって思うけど、緊張するにはさすがにタイミングが早すぎる。選手になるには他の連中に勝っていい記録を叩き出すのが条件だって言われてるし、早く本調子に戻ってほしい。おれが応援ってのもなんだけど、川村にはいい選手になってほしいから。

てくてく、なんて感じのペースがピッタリ来る調子でユカリと歩いてたら、古びた建物が視界を流れてく。喫茶ラピスラズリ、もう十年二十年くらい閉まったままの喫茶店なんだけどさ、今日に限ってはいつもと様子が違う。どう違うかって?

「ここさ」

「ラピスラズリやな」

「閉まってるよな」

「せやで。もうだいぶ経つなあ」

「なんで電気点いてるの?」

中の灯りが点ってる。まるで開店してるみたいに。どういうことだ? 閉店してるのに明るいって。

「閉店したんじゃなかったっけ?」

「なんかな、ちょっと前から開けとるみたいなんよ」

「けどアレだな、『Closed』の札は掛かったまんまだ」

「あれや、訳アリっちゅうやっちゃ」

「ユカリ何か知ってんの?」

「いやあ? うちはなんにも知らんでえ?」

ああこれ絶対なんか知ってるな、いくらなんでも分かりやすすぎる。知ってるけどしばらく秘密にしときたい、後でバラしておれの反応見たいって感じのアレだ。ガチで知らないかガチで黙ってたいときだったらさ、絶対こんな言い方しねえもんユカリ。匂わせたいってのがぷんぷん匂ってくる、そりゃもうわざとらしいくらいに。こういう時は訊いたって答えなんて出てこないんだ、好きなようにさせとくのが一番マシってことで、ラピスラズリの前はスルッと通り過ぎる。

道半ばかなあ、六割くらい来た? それくらいのタイミングだったと思う。ほんの少しの間ユカリが黙ったかと思ったら、急にその口を開いて。

「トッちゃんさぁ」

「うん」

「今年の夏休み、榁におるつもりやねん」

「小金に帰らないの?」

「そういうこっちゃ」

「なんだろな、なんかあったのか」

「なんかあったからとちゃう。なんもあらへんからや、小金に」

まあ、とユカリが一呼吸置いてから。

「榁の方でちょっと用事あるっちゅうんは事実やけどな」

「珍しいよな」

「初めてやからな、うちが夏に小金に帰らへんの」

「そうそう。毎年帰ってたし」

「どういう風の吹き回しだろうな。今年の夏、風向き変って雹でも降るんじゃね?」

「よう言うわ。うちかてたまにはイレギュラーな動きくらいするで」

「イレギュラーってお前」

「あとはな、トッちゃんの傍におった方がええなって思ったから」

「どういうことだよ、それ」

今年のユカリは小金に帰らない、どうやらこれはマジらしい。いつもと違うな、それがおれの正直な気持ち。ただ違うって思うだけで、小金に帰らないのがいいとも悪いとも思わない。お土産買ってきて貰えないのは気持ち寂しいし、夏もユカリがいて退屈しなさそうだって思いもある。なんでだろう、と考えなくもない。考えない訳じゃないんだけどさ。

「小金に行かん理由はいろいろあるけど、一番はうちがそれがええ思たからや。分かるやろ?」

ユカリは自分が思ったとおりにする。どんな時でも、どこにいても、誰が相手でも。それは間違いない。ユカリが自分を曲げるってことはあり得ないから。いつだって自分のしたいことをしたいようにする、この気質はおれでも変えられない、曲げられない。そうしようと思ったこともないけど無理だって確信してる。我が道を往くのがユカリってやつ。長く隣でいるから分かるんだ、おれには。

「でさあ、一海ちゃんのことやねんけど」

急に話題を変えるのもそう。自分が話したいと思ったことを躊躇わずに口にする。かと言って押しつけがましいとかとも違う、会話が一区切りついたタイミングを見逃さずにスッと新しい話題を差し込んでくるんだ。格ゲーで一歩前へ歩いて狙いすました中足を差してくるみたいに。

「具合、まだ悪いんかな。終業式の日から顔見てへんし」

「みたいだ。今日もLINQにメッセージ来てたし」

「『今日も休みます』かぁ。うちに来たのんと同じやな」

「一海ってさ、今まで体壊して休んだりとかってあった?」

「ううん、うちも見たことあらへん、心配やわ。せやけど……」

せやけど。これに続くのがどういう言葉かなんとなく予想できてたし、おれも同じこと考えてたってのが正直なところで。

「『うつると良くないから』って言われたら、お見舞いだって行くに行けないし」

「行かれへんわな、どう考えても行ったら迷惑やし」

「頭では分かってるんだ、来られても一海が困るだけだって。けど歯がゆい、すっげえ歯がゆい」

「具合悪かったらお菓子とか持ってっても食べられへんやろうしなぁ」

行きたいねんけどなぁ、ユカリが繰り返す。おれだってそうだ、一海が寝込んでるって言うなら傍にいてやりたい、なんならおれが看病したい。そう思ってる。だけど当の一海が来ないでほしいって言ってるなら、それを無視して突っ込むのは違うんじゃねって。ユカリは自分のしたいようにするって言ったけど、相手のされたくないことはしないってのもセットだ。そこはおれも通じるところがある。

だけど。この場でユカリには伝えてないことがひとつある。後ろめたさを覚えながら、それもまた一海の家へ足を運ばない、運べない理由のひとつになっていて。

(一海から離れるなら今しかない、出海さんはそう言ってた)

雨の中で出海さんの口から伝えられた言葉の意味を、あの日からずっと考えている。意味を考えてる? まだそこまで行けてない。言われたこと自体がショックすぎて受け止めきれてない。噛み切れない筋張った肉みたいにいつまでも口の中に残って、なんとかして噛み砕こうと必死にもごもごしてるって感じで。考えるのは飲み込んでからで、飲み込むまではただありのままそのままおれの中に居座り続ける。

どうして? どうして出海さんは、あの時おれに「一海から離れるなら今しかない」と告げたんだろう。答えはおれの中にはない。あるとしたら出海さんの中で、おれの目には見えないところに隠されてる。一海から離れるなら今しかない、どうやっても飲み込めないその言葉が喉に引っかかって、出海さんのいる一海の家には行きづらいって感じてる。

それがいいのか悪いのか、正しいのか間違ってるのか、正直おれにも分からないんだ。

「あっ――」

ニンゲンは目じゃなくて頭でものを見てる。目から入ってきた光を頭が処理して「見える」ようにしてるって聞いた。それを一瞬で思い出すような出来事がすぐ目の前で起きた。目の前で起きたって言うか、目の前にいるってことに今になって気が付いた。

「槇村、君……」

「涌井」

涌井だ、涌井がいた。こんなところで出くわすなんて思わなかった、そう顔に書いてある。たぶん俺の顔にも一言一句違わないことが書かれてるはず。マジで思いもよらなかったから。考え事しててロクに前見てなかった――目線は前向いてたけど頭で視てなかったから、涌井が目と鼻の先にまで寄って来るまで存在自体に全然気付かなかった。ここまで気付かないもんなのか、って。頭いっぱいに一海のことばっか考えてたにしてもビックリだ。

ビックリしたのは一瞬だった。なんでって? もっとビックリするようなことが起きたから。

「おやぁ? 誰かと思たら涌井ちゃんやん。こんなところでどないしたん?」

聞いたこともないような声だった。声色には聞き覚えがあるし、イントネーションだって知ってるやつだ。けど、今のに一致するような物言いをしてる様子は一度だって見たことがない。涌井の顔つきが一気に固くなる、おれの方じゃなくてその隣をじっと見てる、瞬きもロクにせずに。

ユカリを、十年一緒にいて一度も見たことがないような顔をした――侮蔑と嘲笑でいっぱいの、怖いくらいに歪んだユカリの顔を。

「ただの散歩? せやったら突っ立ってんと早よ行ったらええやん」

「それともアレか? うちになんど用事でもあるんかいな」

涌井は明らかに、どこからどう見ても、疑う余地なく、ユカリのことを恐れている。それこそ、ユカリと何の絡みがあったのかさっぱり分からないおれから見ても一瞬で理解できるくらいに。ユカリはぎろりと涌井を睨んでる、怖いくらい明確に「睨んでる」。対する涌井の方は、視線を合わせていられずに目を逸らして、隣にいたおれに目を向けてる。逃げ場を探してるみたいに、家事の建物で煙に巻かれて非常口を探してる人のように。

手癖で前髪を軽く弄ってから、黙り込んでいた涌井が声を発して。

「水瀬さんは……一緒じゃないのね」

一海の名前を出してきた。おれがユカリと一緒にいたからだと思う、涌井には一海と付き合ってるって話をした記憶があるから。ユカリといる理由は知ってたかな、話したかどうか覚えてない。てかどう返せばいいんだろ、涌井が何訊きたくてああ言ったのか分かんねえし、そもそも――。

「なあ」

ざり、靴とアスファルトが擦れる音がした。それをかき消すように響く、腹の奥に響く、低く尖った声色。ユカリの声、のはず。とてもそうは思えない、けどこの場にはおれとユカリと涌井しかいない。おれは何も言ってない、涌井の出せる声じゃない、だとすると消去法で口に出したのはユカリってことになる。単にあり得ないことを除外してった先の機械的な結果だってのに、こんなに背筋がゾクゾクしたのは初めてだ。胃を利き手できゅっと掴まれたような思いを抱えながら、おれはユカリを見た。

そこにいたのはユカリじゃなかった。ユカリだけどユカリじゃなく、だけど――ユカリだった。

「自分、一海ちゃんの名前口に出せる立場やと思とるんか。そのひん曲がった口で、一海ちゃんの名前を!」

思わずのけぞって一歩後ずさるのを見た。涌井がユカリの剣幕に押されて、物理的に後ろへ下がるのを、おれはハッキリ目の当たりにした。尋常じゃない目をしてる、ギリギリと歯を軋ませながら、ユカリが思いきり涌井を見下している。上から睨みつけて押さえつけるように、そのまま押し潰そうとせんばかりに。

「なんやったらここで自分が一海ちゃんに何してくれたんか、洗い浚い全部ぶちまけたってもええねんで」

「うちは一向に構わんわ。自分の気持ちがどないとかまったく知らんけどな」

「ひょっとしたら、言われたくない聞かれたくない、そないなこと思とるんと違う?」

「せやったら尚更言うたらななあ、一から十まで、ぜーんぶ開けっぴろげにしたるんが礼儀っちゅうやっちゃ」

「なあ? 涌井ちゃん?」

獰猛な、って形容詞がガッツリ当てはまる顔してる。ユカリの顔を「獰猛な」って言葉で飾ることなんて無かったし、この先も絶対無いって思ってた。思ってた、というか考えもしなかった。どうして涌井に噛み付くのか、噛み千切ろうとするくらいに強く。ぼんやりと思い当たる節はなくもなかった。思い当たるのはこれしかない、少なくともおれが知ってる中では。

(虫の居所が悪かったのかな。小四の終わりぐらいだったと思う)

(どうしようもなくて黙り込んでたときに、ゆっちゃんが割って入ってくれて)

(本当に凄かったよ、向かってくる子をやっつけちゃって)

去年の夏の終わり、一海がおれに話してくれたことがある。苛められてた所をユカリが割って入って助けたってやつだ。一海とユカリの絡んだ何か大きなことって言ったら、正直これしか思い付かない。そこに涌井もいた、一海に暴力を振るってた連中に混じってた、ってことか。

だとしたら、おれはユカリが言うことを全部聞いとかなきゃいけない。こいつが一海に何をしたのかを、何をしてくれたのかを、何をしやがったのかを。

「しょうもないこと、ようけしてくれたやんなぁ? うちは覚えてるで、何もかも」

「一海ちゃんの上履き隠したりとか、そういうみみっちい嫌がらせや」

「聞いたでぇ? 一海ちゃん裸足で学校歩かせたんやってなぁ。冬の寒い日に、霜焼け作って歩く一海ちゃん見て笑とったんやろ?」

「自分の靴、ここでズタボロにしたろか? なぁ」

「今日の空見てみぃ、カンカン照りや。道路も熱々やなぁ。ええ具合に足焼けると思うで、真っ直ぐ歩かれへんくらいになぁ」

カチカチと歯が鳴る音が聞こえる。涌井が額に冷や汗をじっとり浮かべてる。何か言おうとして、だけど言葉にならない。ただガチガチと歯が鳴るばかりで、声らしい声は何一つ出てこない。ユカリは一手一手涌井を袋小路へ追い詰めるみたいに、言葉で涌井を締め上げてる。

こんなんまだ序の口や、他にもあるやろ。ユカリは責める手を緩めない。情けとか、そういうのは一ミリもない。ほんの一かけらも見当たらない。

「今日みたいなくそ暑い日やったらしいなぁ、九月言うてもまだ夏やもんな」

「一海ちゃん、体育倉庫に閉じ込めたのん。覚えとらんの?」

「まあ、自分が覚えとらんかっても別にええわ。一海ちゃんとうちはしっかり憶えとるからな。自分はどうでもええんよ」

「いやぁー、一海ちゃん今も生きとって良かったなぁ。自分もそない思うやろ?」

「『もし』があったら、自分こないしてお天道様の下歩かれへんところやったねんで。一海ちゃんに感謝しいや」

口の中に酸っぱいものが込み上げてくる。嫌悪感が味覚になって表れるのを感じずにはいられない。涌井のやつ、一海にそんなことしてたのか。涌井に対して憎悪が湧いてきたし、理不尽な暴力を振われていた一海のことを思うとただただ居た堪れない。どんな理由があろうと関係ない、涌井がしでかしたことを許すわけには行かない。もし一海が許したとしても、おれが許すことは考えられない。

おれは一海の彼氏で、一海はおれの彼女だから。

「まだ終わりちゃう。自分かて思い当たる節山ほどあるやろ? な?」

「一海ちゃんが着とった制服、ゴミ箱に叩き込んだりした言うとったやん」

「うちが側で聞いとるの知らんとなぁ、自分から胸張って」

「着替えあらへんで泣いとった一海ちゃんのこと、自分ら皆で指差して笑っとったんやろ?」

「情けないやっちゃなあ、ほんま情けないわ。自分、みみっちいやっちゃなあ」

「あの時一海ちゃんのこと笑とったんやろ? なぁ? 今はどうや?」

「こないしてうちに指差されて笑われとるんや! これが因果応報や。自分、一個賢なったなあ、えらいえらい」

ユカリの涌井に対する憎悪がおれにも伝染してきて、そしておれもそれを丸ごと受け入れてるって自覚する。けど何も悪いとは思わない。ユカリは嘘を言うようなやつじゃないって知ってる、だから今涌井に向かって言ってることは全部事実なんだって思う。涌井だって言い返さない、ただの一言も。目を見開いて、視線の行き場を失くして、顔を青白くさせてるだけ。

言われたくないホントのことを目の前で思いっきり言われてる時の顔、それ以外だったらなんだってんだ。

「そうそう。こういうのんもあったっけなぁ」

「一海ちゃん、お手洗い行きたいのに行かせんようにして、人前で粗相させたっちゅうやつや」

「ボンクラの涌井ちゃんに向けてもっと分かりやすう言うたろか? うちは優しいからなぁ」

「よう聞きや、教室でおしっこ漏らさせたっちゅうことや。せやろ? 知らんとは言わさんで」

「人前で一海ちゃん喋られへんって分かってて、自分もちゃあんと分かってて」

「それでトイレに行かさへんかった、気ぃ弱い一海ちゃんに付け込んで、皆見てる前で大恥かかせた」

ユカリが提げていた道着袋を道路へどさりと落とす。眼鏡をクイッと上げると、手をボキボキと鳴らして、腕に力を込めてるのが分かる。涌井はもうガタガタ震えることしかできなくて、とても何か口に出して言えるような状態じゃない。哀れなのにな、ちっとも憐憫の情が湧いてこないんだ、おれ自身可笑しいくらいに。もうこいつの顔も見たくねえ、そういう心境になってるからだと思う、間違いなく。

「なぁ、涌井ちゃん」

「今、ここで二度とまともに小便できん身体にしたってもええねんで。うちは一向に構わん」

「ええご身分やなぁ、あぁ? 自分のきったない口、一生開けへんように針と糸で縫い付けたろか?」

「裁縫にはなぁ、『自信』があるんや」

一歩前へ、大きく踏み込む。ユカリの表情は狂気じみている。狂気じみてる、ってどんな顔だって言われそうだけど、ホントにそうとしか言えない。マジでキレてんだなって、心の底からブチギレてんだって。そうなるのも無理はない、だって一海はユカリの親友で、ユカリは涌井がやらかしたようなつまんねえ嫌がらせみたいなのを何よりも嫌ってるから。反吐が出そうなくらいに。

「で、や」

「やりたい放題一海ちゃんイビっとったら、うちに見つかった」

「そんで先生とか親に全部バラされた、一から十まで全部や」

「うちは一海ちゃんと違てよう喋るからな。一海ちゃんから全部訊きだしたわ」

「自分らおったあの場で海に沈められんかっただけありがたい、そない思てもらわなな」

「なあ涌井ちゃん、自分はあれやろ、小鳥遊が全部悪い言うて逃げたんやろ?」

「せや、逃げた。尻尾巻いて逃げた。自分は逃げ出したビビりなんや」

「うちには分かるで、涌井ちゃん。自分は何回でも繰り返す、なんかある度に同じようにして逃げる」

「ええか? 救いようのないカスのゴミクズ、それが涌井ちゃん、あんたや」

「まあ言うて、押し付けられた小鳥遊が可哀想とも思わんけどな。一ミリも、これっぽっちも」

「他の男子ともども、また会うたら可愛がったりたいって思とるでぇ。今もなぁ」

ふん、と鼻を鳴らしてユカリがせせら笑う。どうやっても揺るがせない正しさと、涌井くらい力ずくでねじ伏せられる力、両方を盾にした笑みだ。涌井の古傷を錆びだらけのナイフで時間を掛けて深く抉って、ロクに潰してない岩塩をしつこく延々塗り込むような言い草。血の気の失せた涌井の顔がすべて。ひとつも嘘じゃないんだな、全部涌井達がやったことなんだな、おれが理解するにはそれだけで十分だ。

十分すぎる、これ以上は御免だってくらいに。

「……どうして」

「は?」

「どうして、槇村君は……」

「おれがどうしたってんだ。おれに何かあるのか」

震えて上擦った声でおれの名前が出される。ただそれだけなのに無性に腹が立って、涌井が何か言う前に被せるように言う。涌井の声を聴きたくなかった、おれの名前を出されるのは我慢ならなかった。だから突き放した、二度とおれに顔を見せるなってくらいの勢いで。

何か言おうとして、だけど何も言葉にならずにただ呻いて、涌井は逃げるように――違うな、そうじゃない。おれとユカリの前から逃げた。ああ、本当だな。涌井は追い詰められると逃げ出す。何度でも同じことを繰り返す。ユカリの言った通りだ、つくづく思う。

涌井がいなくなったことを確かめてから、隣のユカリに目を向ける。間髪入れずに声を掛けた。

「ユカリ」

「トッちゃん」

眼鏡の向こうにある瞳からはもうギラギラした粘っこい光は消えていて、いつもと同じ目つき顔つきのユカリがいた。

「さっきうちが言うたあれこれやけど」

「何もかもホントのこと、だよな」

「せや。一個もウソと違う。ちょっとでもウソやったら良かったねんけど」

「あれ……全部、マジであったことなんだな」

ユカリが静かに黙って頷く。そういうことだって分かってはいても辛い、辛いって気持ちしか湧いてこない。

「うちが言うたこと、一海ちゃんには言うたらんといたってや」

「言わない、絶対に」

「トッちゃんが聞くんもつらいと思たけど、あのクソアホのツラ見たら……言わずにおれんかったんや」

それでいて理解する、辛いのはユカリも同じだったってことを。

「あのさ」

「うん」

「ユカリが一海と会った時のこと、おれに聞かせてくれないか」

「やっぱそない思うわな、訊かれる思たわ」

「何があったのかとか、ユカリが話せる、話していいって思う範囲でいいから」

「分かった。言うた方がええやんな、あないなところ見せてもうたら」

道路へ落としていた道着袋を拾い上げて、歩きながらにしよか、とユカリが進むことを促す。おれもそっちの方がいい、ユカリに付いて、いつもよりだいぶゆっくりしたペースで歩き始める。同じ場所に立って動かずに話すより、歩いてる方が話す方も聞く方も気が楽だって思う。なんでかは分からない。脚を動かすことで頭も一緒に働くようになるからとか、漠然とした理由しか浮かんでこねえや。

もう後少ししたら、こんなこと考えてる余裕なんてなくなってそうだし。

「いきなりやけどさ、めっちゃいきなりやねんけど」

「うん」

「うちな、死にたい思とってん。小さい頃、自分と会う前」

「マジで?」

「嘘と違うで。ホンマの話や」

「今もそうだし、ユカリと初めて会った時もそんな感じじゃなかったし」

「せやんな。今は全然そないなことあらへんけど、死にたかってん」

「おれとつるむ前、だよな?」

「タッチの差でトッちゃんと知り合う前やわ」

「そっか。おれ、ユカリが死にたいって思ってるのに気付いてなかったのかなってビクッとして」

「トッちゃん」

「ユカリといておもしれーって思ってたのに、ユカリの方は死にたがってて」

「うん」

「おれユカリのこと全然見えてなかったんじゃね、ってヒヤッとした」

「らしいなぁ、トッちゃんらしいわ」

「だってさ、もしそうだったらおれすっげえ無神経じゃん」

「今こないしてすぐ気ぃ回るのに、無神経とか」

「あんま気が利くタイプじゃないって分かってるけど、それくらいおれも気にする」

「大丈夫大丈夫、トッちゃんと仲良うなった時は生きる気マンマンやったから」

続き言うわ。ユカリが掛けてる眼鏡を直して、話すモードに切り替わる。

「死にたい思とって、それで海へ来て」

「もしかして入水?」

「それ。海で死ぬんやって決めて入ったんよ。せやけど」

「だけど?」

「めっちゃ情けないねんけど、いざ溺れたらやっぱり怖なって」

「そりゃ怖えよ、死ぬんだし」

「なあ。水も飲んでもてあかんこのままやったら溺れ死ぬ、ってジタバタしとったらな」

「うん」

「側で泳いどった一海ちゃんがな、うちのこと見つけてくれてさぁ」

「ああ、そういう」

「頭ボーっとして全然泳がれへんかったうちを、岸までぐいぐい引っ張ってってくれたんよ」

「前言って通りだな、溺れてたら一海が助けてくれたってやつ」

「よう憶えとるやんトッちゃん、それやそれ。で、砂浜で水吐かせてくれて息吹き返した」

「それで一海と知り合ったって感じか」

「お察しの通りや。うちも死ぬんは止めにして、一海ちゃんに友達なってもろたっちゅうことや」

トッちゃんと会うたのはそれからすぐやったかな。教室で席近うなって、うちが消しゴム忘れた時貸してくれたんが初やったと思う。あったあった、ユカリの言ってることはおれもちゃんと憶えてる。小三だったかな、アレ。困ってたみたいだから余ってた消しゴム貸して、それから休み時間に話してみたら気が合って友達になったっけ、男子だ女子だとか関係なく。家が近く同士、お互い学校からは結構離れてるって知ったのも同じぐらいの時期だった。通学中ヒマだから一緒に行こうぜ、どっちともなくそんなこと言った気がする。

「そないして一海ちゃんと仲良うなったねんけど」

「一海と」

「喋られへんかったんよ、一言も」

「言ってたな。人前で声が出せないって」

「ホンマは喋れるみたいやねんけど、人とおると気ぃ張ってまうみたいやったわ」

「緊張しすぎて声が出ない、みたいな」

「うん。まあでもうちめっちゃ喋るやん? 見ての通り」

「今も変わってないよなそこは」

「うちの美点やからな」

「美点、美点かなあ。まいっか」

「れっきとした美点やって。で、一海ちゃんの代わりに喋って、何があったんか訊いたんよ」

「そういうの得意そうだもんな」

「だいぶ訊いてやっと分かったわ。学校で酷い目に遭うてるみたいで、それでうちとおっても声出んのやって分かって」

「すげえな、一海の身振り手振りだけでそこまで分かったんだ」

「うちが言うてることは一海ちゃんも分かるからな。うちが答え出すまで喋りつづけたらいつか分かるっちゅうこっちゃ」

「代わりに喋るってのは伊達じゃねえな」

「繰り返しになるけどな、一海ちゃんホンマは喋れるんよ。せやけど心がしんどくて声が出んかった。それくらい悩んでたんや」

学校で遭ってたっていう「酷い目」とか、しゃべれなくなるくらいの「悩み」ってのがどういうことかは分かる。さっき涌井の前でユカリが思いっきり暴露してくれたから。声が出なくなったって当然のむごたらしさだ。人間のすることじゃない、そう考えから、だけど人間にしかできないな、とも思う。他の生き物だったらもっとシンプルに殺すか殺されるかで終わるはず。死なせないように甚振るなんて小賢しいことは、人間にしかできない。人間性のない、そして人間にしかできない所業。矛盾してるよな、説明が付かない。この世に存在していいものじゃないってことだけは確かだ。

「うちかてアホと違う、学校で嫌な目ぇ言うたらどないなことかすぐ分かる」

「そうだな……そうだよな」

「一海ちゃんしんどいの覚悟で、何されたんか全部教えてもろた」

「うん、うん」

「さっき目の前でうちが言うたことはな、みーんな一海ちゃんがうちに告白してくれたことや」

「全部、一海が」

「……せや。服隠されたりとか、裸足で歩かされたりとか、教室で起きたことも……全部一海ちゃんが、うちの口を通して言うたことや」

「それを、ユカリが聞いて」

「あん時ほどうちがキレたことあらへんかったな。うち、トッちゃんの前でキレた記憶無いし」

「おれもない。軽い言い合いくらいならあったかも知れないけど」

「やー、だってトッちゃんうちの話ちゃんと聞いてくれるもん。キレる理由も必要もあらへんわ」

「だったらいいけど」

「一海ちゃんから犯人のグループ教えてもろて、うちが叩きのめすことにしたんや」

ユカリが自分のしたいことをするってのは何回も言った通り。ユカリが「叩きのめす」って言ったら、それはユカリの気が済むまで身も心もボコボコにするってこと以外の何者でもない。おれはそもそもユカリと敵対しようって思うことがない、ついさっきユカリの言った「理由も必要もない」って気持ちだけど、それはそれとしてもしぶつかり合ったら絶対勝てっこないとも思う。ユカリはやると決めたら徹底的にやる、その為なら手段もやり口も選ばないっていう熱さと冷たさ両方を持ってるやつだ。

もし敵に回したらどうなるかってのは……さっきの涌井のやり込めっぷりで十分すぎるくらい理解できたし。

「あいつらが固まって一海ちゃん苛めとるところに出向いたった。ハワードも一緒や」

「その頃から一緒だったんだな」

「まだコジョフーやったけど、力強いのんはなんも変わらん。全員ボッコボコや」

「すげえ」

「せやけどそれだけやったらうちが悪者にされるからな、大人を味方につけんといかん。先生とか一海ちゃんのお爺ちゃんとか」

「っていうと」

「苛めてるところの声録音して、助けには入られへんけど小鳥遊とか嫌ってる子見つけて証人にして、あいつらが壊した一海ちゃんの持ち物とかもちゃんと集めて」

背筋がゾッとする。ただ血気に逸って苛めてた連中を殴ったってわけじゃない、逃げ場をなくして追い詰めるつもりってのがひしひしと伝わってくる。ユカリの頭が切れるのは知ってるけど、小学生の頃からこんな理詰めで動けるやつだったんだ、って。ホント、敵に回しちゃいけないやつだ。別に何か悪企みしてるわけじゃないって自覚してたとしても、ユカリと相対せずに済んでることにホッとする。

「涌井は小鳥遊が全部悪い、こいつに言われてやった言うた」

「責任を擦り付けたってわけか」

「せや。まああいつが初めに一海ちゃんにやいやい言いだしたんは間違いちゃうみたいやけど」

「小鳥遊が下らないこと考えなきゃ何も起きなかったんだもんな」

「一海ちゃんの持ち物とか壊したり盗ったりしとったから、全部責任取れいうことになったわ」

「当たり前、当然の話だな」

「爺ちゃん物凄い冷たい顔しとったわ、あんなん見たことあらへんくらい。全部自分で弁償せいって言うてな」

そっか、ユカリは一海の爺ちゃんに会ったことあるんだ。ってことは、家に遊びに行ったりしたこともあるんだろうな。当たり前か、友達同士だし女子同士だし。そんなことを思いながら、何気なくユカリの顔を見る。するとユカリもこっちに目を向けてきて、それから。

「ほんま、ええ気味やったわ」

さらりと口にしたユカリの目も、物凄かったっていう一海の爺ちゃんのそれに負けず劣らず、身震いするくらいの冷たさを帯びていた。

ここまででようやくひと段落したみたいだな、ふう、とユカリが息をつく。んーっ、と目いっぱい伸びをしてる、割とよくやる癖、ユカリの近くにいるから知ってる。

「トッちゃん、うちと一海ちゃんにはこないなことあったわけやけど」

「うん」

「トッちゃんが一海ちゃんと一緒におるいうんは、まるで変わらんのかな」

「変わらない。おれは一海の傍にいたい、一緒にいたい」

「一秒も躊躇わんかったな」

「詰まる理由がないし」

「まあ、こないなことくらいで引くキャラちゃうもんな、トッちゃんは。肝が据わっとる、他のチャラい男子とは違うわ」

ちゃうなあ、ユカリが尾を引くように呟く。まだ何か言いたそうな雰囲気があるけど、ユカリが口を開く気配はない。何か言いたいことあるの? とは訊かない。先に言われたら言いたくなくなるのがニンゲンだから。急かしてもしょうがないしな、言うか言わないかはユカリが決めることだし。自分のことは自分で決めたがるユカリなら尚更。口に出すか出さないかの脳内会議、結果はどうなっただろうな。ふるふると首を振って空を見上げる、やっぱやめや、声にはならなかったけど顔がそう言ってた。

栗色のおさげ髪を揺らして、道着の入ったカバンを背負い直して、少しずれた眼鏡の位置を直して。

「やっぱ今年は榁におった方がよさそうや、きっとそれがええ」

「あれだ、豚まん食えねえのがちょっと残念だな、毎年買ってきてくれるの楽しみだったから」

「能天気なやっちゃなぁ。言うてうちもあれめっちゃ好きやけどさぁ」

それから、ん、と小さく頷いてから。

「自分のこと、うちが見といたらなあかんからな」

気持ち小さな声でそう呟いたユカリの横顔が、いつもと少し違って見えたのは。

ただの――気のせいだろうか。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。