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#24 「青い血」/パーマネント・ブルー

海を見てる。もっとちゃんと言うと、海にいる人を見てる。もっともっときちんと言うと、海で波乗りをしている花子ちゃんを見ている。自分の背丈より少し大きいサーフボードに乗っかって、寄せて返す波に乗って戯れてる。空を飛ぶ鳥のように自由に海を泳ぐ一海とはまた違うカタチで、海とひとつになって遊んでるなって思う。サーフボードを駆って波に乗る花子ちゃんの姿は力強くて、その力強さを生み出す花子ちゃんは愛らしい、愛らしいはなんかしっくり来ないな。何かいい言葉無いかな、可憐、なんてどうだろう、ピタッと来る。可憐でいて力強い、それが今の花子ちゃんだ。

どうして花子ちゃんを見てるのか、そっから話したほうがいっか。最初は一海に会いに行こうと思ったんだ、家まで行って。夏休み前から具合が悪いって言ってて、八月になっても良くならないみたいだって聞いたから。一海は「うつると良くないから」ってずっと遠慮してるけど、さすがにこんなに長い間調子が良くないんじゃおれだって気になる。軽くお見舞いに行くくらいなら大丈夫だと思ったし、おれも一海の顔が見たかった。てか、カレシなんだからもっとカノジョのこと見てやらなきゃダメじゃん、おれって鈍感だな、間が抜けてる。出海さんから言われたことはまだ引っかかってたけど、気にすることじゃない、そう自分に言い聞かせて。一海ん家に行こう、そう思って外を歩いてたわけ。

そこで鉢合わせたのが花子ちゃんだった。手提げカバンとサーフボードを抱えて、これからいかにもサーフィンしに行きますって感じのナリで。鉢合わせてすぐお互い目が合って、花子ちゃんから「波に乗るところ、見ていってくれませんか」って言われたんだ。一海のことは気になるけど、断る理由も特にない。それに年明けすぐ、花子ちゃんの相手をしてほしいって鈴木館長から言われてたことも思い出した。本音を言うと、一海の家までまっすぐ行くことにほんの少し躊躇いを覚えてて、どこか寄り道をしてからの方がいいかも知れない、そういう気持ちもあった。

付き合うよ、そう言ったらにっこり笑って、おれの手を引いて砂浜まで連れて行って。そしたらさ、その場で着てたワンピをいきなりサッと脱ぐんだからさ、えっ、ってなっちゃうよな。おれここにいるのに? って。まあ下に水着着てたから、着替えてるトコ勝手に見ちゃう、って気まずい構図にはならなかったんだけどさ。ちょっとホッとしたもんおれ、花子ちゃん傷付けずに済んだ、って。今は分かんなくても、大人んなってからあん時おれに裸見られてた、とか思い出したら絶対嫌な気持ちになるじゃん。おれがなんかしたとかじゃなくても、花子ちゃんが後から嫌な思いをする、それだけでもおれは嫌だ。一海が海から上がってくるの見ちまった時もそう、まったく同じ気持ち。

そう、一海。おれは一海に会いたいはずなのに、一海に会うことをどこか怖がってる。どうしてだろう? おれ自身に問い掛けてみても、他でもおれが一番知りたいことなんだから、答えなんて帰ってくるわけがなくて。もやもやした気持ちから目を背けるように、海で波乗りを楽しむ花子ちゃんに意識を向ける。

「花子ちゃん、綺麗だな」

しっかり目を開いて海にいる花子ちゃんを見る。よく日に焼けた小麦色の肌、さらさらと風に揺れる銀色の髪、それから海みたいに青い瞳。一緒に暮らしてる鈴木館長とも、姉妹みたいな関係の一海とも全然似てない、おれが知ってる誰とも似ていない姿をしてる。どこから来たんだろう、そう思わないわけじゃない。全然気にならないって言ったらさすがに嘘になるし。だけどもそんなに興味あるってほどでもない。花子ちゃんは花子ちゃんで、どこまで行っても変わらないから。健康的で綺麗だなって思う。焼けた肌に白い肌、銀髪と黒髪、青い瞳と黒い瞳。全部が全部正反対なのに、なんだか一海に似たものを感じる。そう思ってるの、おれだけかな。

水着姿の花子ちゃんが自由気ままに波乗りを楽しんでる、その横でテッポウオが跳ねたのが見えた。近くにはケイコウオも群れを成して回遊してる。コイキングもいるな、弱いだの雑魚だの言われてるけど、海を泳ぐ分には結構速いな。もっと目を凝らすと……なんだあれ、なんか見覚えのないやつもいる。一直線に泳ぐのが得意そう、てか真っ直ぐ突撃しかできなさそうなポケモンも何匹か泳いでた。あんなのこの辺りで見たことないな。この間鈴木館長が言ってたバチンウニだっけ、あれと同じでどっかから来たのかな。いつもよりポケモンを多く見かける気がするけど、まあ気のせいだよな。おれが普段海をまじまじと見るようなことなんてない、だからそう思うだけだろって。

波に揺られて行ったり来たりを繰り返してた花子ちゃんがボードを抱えて戻ってきた。軽く一時間くらいはサーフィンしてたかな、満足そうな顔してる。身体にぴったり引っ付いた真っ白な水着がまぶしい。

「どうでしたか、トオルさん」

「すっげえな。波を乗りこなしてた。波を自分のものにしてるって感じだった」

「ありがとうございます。一度、トオルさんにも見てもらいたかったんです」

「自慢したくなる気持ちも分かるな、あんなにスイスイ波乗りしてるところ見たらさ」

「はい。今度はカズミお姉ちゃんにも見てもらいたいです」

一海にも見てもらいたい、か。名前が出てきたことだし、おれから話を振ってもいいかも知れない。花子ちゃんのサーフィンが終わったら、どっちにしろ訊いてみるつもりでいたのは間違いないから。えへん、小さく咳払いして、いっぺん閉じた口をゆっくり開けて。

「一海のことなんだけど」

「はい」

「具合悪いって話、花子ちゃんも聞いてるかな」

「聞いています。スズキさんから」

「うん。会いに行こうって思ってるんだけど、これから」

「それは……トオルさん」

ブレることのない目でしっかり見据えられる。ああ、これは何か知ってるな、おれの斜め後ろにいる一歩引いたおれがそう感じ取る。一緒に行きたい、と言うわけでもなく、行って来てください、でもなく。そこから続く言葉があって、でもおれに直接言うには何かが足りない。足りないのは花子ちゃんの方じゃなくて、言われているおれの方で。花子ちゃんと一海がどんな関係なのか知らないわけじゃない。一緒にいた時間なら、花子ちゃんの方が遥かに長い。一海とのカンケイって意味では、花子ちゃんはセンパイなんだ、おれにとっての。

「一海が『来ないでほしい』って言ってることは知ってる、言われてる。だけど」

「あの、トオルさん。とても、難しいことなのですが」

「難しいこと、って」

「今は、そっとしておいてあげてほしいのです」

そっとしておいてほしい。一海に会いに行くのはやめておけ、遠回しにそう言われた。根拠はないけど近いことを告げられるような気が心のどこかでしてたせいかな、驚き半分、諦め半分、そういう締まらないふわふわした心持ちになって。

「今、カズミお姉ちゃんは家にはいません」

「じゃあ、どこに」

「わたしの家にいます」

「鈴木さんの博物館、だよな」

「はい。スズキさんがほとんど付きっきりで、ずっと様子を見ています」

家に居ない? 博物館にいる? 鈴木館長が様子を見てる? 花子ちゃんの喋りは緩やかで聞き取りやすいのに、言われたことの理解がまるで追い付かない。どんどん置いてけぼりにされてるような気分だ。とりあえずおれの思ったことは抜きにして整理しよう、一海は今自分の家にはいなくて、じゃあどこにいるかって言うと海洋古生物博物館にいる、具合が悪いのは変わらなくて館長が様子を見てる。追い付いた、追い付いたのかな、自信が持てない。整理してみても理解には及ばなくて、なぜ、なんで、どうして、無限に疑問が湧いてくる。

花子ちゃんは動かない。ずっと前を見ていて、青色の目におれの姿を映し出してる。花子ちゃんの瞳にいるおれは、大海原に投げ出された無力でちっぽけな人みたいで。海に呑まれないようにするためには何かに掴まってなきゃいけない、ここにいるのは花子ちゃんだけ。助けを求められるのは花子ちゃんしかいない。縋るような思いってのはきっとこういうのを言うんだ、斜め後ろのおれがまた「理解」する。

「花子ちゃん。訊きたいことがあるんだ、割とたくさん」

「分かっています。理解しています」

「ほとんど、一海のことなんだけど。花子ちゃん、一海と一緒にいた時間、おれより長いし」

「はい。わたしも、トオルさんに話したいことが幾つもあります」

「じゃあ」

「待ってください」

勢い込んで話そうとしたところを、すかさず制止される。気勢を削がれて言葉が詰まる、花子ちゃんの意図を掴まないことには先には進めない。別に花子ちゃんだって意地悪したいってわけじゃないだろう、ここじゃ言いにくいとか、そういうまっとうな理由があるはずだ。

「長くなりますので、落ち着いたところでお話ししたいです」

「ペリドット、とか」

「いえ、もっと静かな場所がいいです」

「っていうと」

「できれば、トオルさんの家へ行きたいです」

「おれの家?」

「はい」

今は誰もいない。今日は誰か来る予定もない。親父も含めて。話すのに都合の悪い場所ってわけでもない、花子ちゃんが来て面白く思うかは別として、おれは来てもらっても不都合とかはない。他にいい場所も思い付かない、誰かに聞かれる心配もない。男の家に年下の女の子が一人だけで上がり込む、ってのがいいのか悪いのかはあるけど、そんなつまんないことより花子ちゃんと話がしたい、話を聞きたいって気持ちが半端なくデカい。そっちが最優先だって気持ちしかない。

「わかった、おれの家に行こう。案内する」

「ありがとうございます。一度行ってみたかったんです」

「そんな広いとこでもないし、面白いものもないけど」

「いいんです。トオルさんの家、ですから」

では、服を着替えますね。そう言って水着に手を掛けたのが見えた。あっ、とおれが声を上げる。待て待て待て、この場で着替える気マンマンじゃん。さすがにそりゃまずいだろ、おれがどっか行っとかなきゃいけないやつじゃん。

「ごめんっ、花子ちゃん。おれ先に上行ってるからっ」

「あ、はい」

キョトンとした顔の花子ちゃんを残して砂浜を走る、階段を駆け上がる。花子ちゃん、ちょっと、いやかなり無防備だな。いきなり水着脱ごうとするんだもん、こっちが焦るって。鈴木館長以外に男と関わり無いからとか? 学校とか通ってる雰囲気ないし。まあでも字いっぱいの難しい本読んで勉強してるし、ひとりで家事もこなしてるし、サーフィンやってるから体力もあるしで、行く理由が無いのかもな。それにしたって大胆っつーか、無自覚っていうか。

こういうところも似てる気がする、一海と。一海を初めて家に呼んだ時のことが蘇ってきた。笑ってたっけ、最初から最後までずっとで、服脱いでからも変わらずで。おれ、思い出しただけで今にも顔から火が出て来そうなんだけど、でも一海は心の底から楽しそうだった。無自覚に色香を振りまいて、それでいて淀みの無い、並ぶものの無いほどに綺麗な目をおれに向けっぱなしにして。あれからもう三ヶ月、もうすぐ四ヶ月になるんだ。早いな、早すぎる。時間の流れっていうのはさ。

階段を駆ける音が聞こえてきた。誰なのかは言うまでもない。おれの家へ案内しなきゃ。

 

鍵を差し込んで回す、ドアノブを倒して手前へ引く。いつもやってることなのに、隣に誰かがいると妙に緊張しちまう。おジャマします、花子ちゃんがぺこりと一礼して中へ入ってった。朝のうちに洗濯機回して干しといたの正解だったな、結構溜まっててカゴからあふれそうだったし。テーブルの上にチラシが重なってるのはいただけないけど、これはまあすぐ退けちゃえばいい。椅子を引いて座るように勧めると、花子ちゃんがちょこんと腰掛けるのが見えた。行儀がいいのはやっぱ鈴木館長に教えてもらったからかな、なんて考える。で、その中に男の前でいきなり着替えちゃいけないってのはなかったんだろう。なら仕方ない。

家ん中ちょっと散らかってるけど、おれが断る。全然そんなことないです、花子ちゃんが目を輝かせて言う。そんなに面白いもんかな、おれの家なんかに上がってさ。なんだろう、花子ちゃんがおれに懐いてるっていうか、一緒にいて楽しそうなのは見てて分かるんだけど、それはどうしてだろうな、なんて時々考える。同じ世代の子の方がつるんでて楽しい年頃だと思うんだけど。

「生活の匂いがします。生きている匂いです」

「男所帯だからさ、ちょっとむさ苦しい感じのやつだと思うけど」

「確かに、スズキさんとわたしの家とはまた違いますね。どきどきします」

興味深そうに周囲をぐるりと眺めまわしてから、花子ちゃんが大きく顔を寄せてくる。家まで歩いてくる間に濡れてた髪はすっかり乾いて、ふわり、と日向のような匂いが漂ってきた。ほんの少しどきりとする、花子ちゃんの無自覚な奔放さ、意識のないの無防備さに。どきどきする、なんて花子ちゃんは言うけどさ、おれの目の前で水着脱ごうとしたのもひっくるめて、見てるこっちの方がよっぽどドキドキさせられるんだよな。ヘンにちょっかい出されたりしないかって。気にしたってしょうがないけど、気にならないって言ったら嘘になるし。

「普段何して過ごしてるの? 料理とか洗濯とかしてるのは分かるけど、何もすることない時とか」

「そうですね、本を読んだりとか、ラジオを聴いたりとかしています」

「分かる。テレビとかあんま見なさそうだもんな。音があるとしたらラジオって感じだ」

「はい。ちょっと、テレビは目がチカチカしちゃいます。光が強すぎて」

「なるほどなあ。館長さんっていつもどんな風にしてるんだろ」

「何かを書いていたり、本を読んでいたり、あとは海獣たちのお世話をしたりしています」

「他にあの博物館で働いてる人っているんだっけ」

「いますよ。この間来ていただいた時は、カズミお姉ちゃんが来るということで、お休みにしていたんです」

「じゃあおれ、休館中に勝手に上がりこんじゃったことになるのか」

「トオルさんは特別です。カズミお姉ちゃんが入れてほしいって、スズキさんにお願いしてましたから」

陽光に灼かれた褐色に近い小麦色の肌は艶があって、混じり物のないサラサラした銀髪と好対照を成してる。なんか不思議な気分だ、神秘的って言葉を使えばいいのかな、そういう雰囲気が漂ってる。周りにいる誰にも似てなくて、花子ちゃんしかこういう風貌の人がいないからかも知れない。昔の人は珍しいものを崇めるか忌むかどっちかしてたって聞くけど、共感まではしなくても理解はできるというか。特別な気持ちを抱くのも無理はないよな、くらいには思う。

って、花子ちゃんのことぼけっと見てたけど、なんか飲み物とか出した方がいいよな、普通に考えたら。何か飲む? おれが花子ちゃんに訊ねる。そうしたら花子ちゃんがすっと立ち上がって、思いも寄らないことを言いだした。

「よければ、わたしにお茶を淹れさせてください。紅茶なのですが」

「えっ、でも花子ちゃん」

「やらせてもらいたいです。トオルさんがよければ」

「お客さんとして来てもらったのになんか悪いけど、じゃあ頼むよ」

「お任せください」

大きく胸を張る花子ちゃんと、戸惑うばっかりのおれ。なんか締まらないなあ、花子ちゃんが紅茶淹れたいって言うなら別に構わないけど、おれがもっとちゃんとしてたら気を遣わせなくて済んだのかも。ただ、花子ちゃんの方は嬉しそうだ。ヤカンに水を張って、コンロに置いて火を点けて。特に何も言わなくてもやり方全部知ってるって空気が出てる。見守ってよう、ヘタに何かするよりそっちの方がいい。

静か、すっげえ静か。音がしないってわけじゃない、冷蔵庫の唸る音、ヤカンの中で湯が沸く音、外で鳴いてるセミの声。音はたくさん聞こえてくる。だけど耳障りなものはひとつもない、ただのひとつも。空間をつくる当たり前の音だけがあって、無駄なものは何もない。そういう意味で、部屋の中は静かなんだ。発されるべき音を、聞くべき音を、場を整えて待っている。おれと花子ちゃんの間でこれから交わされるだろう、いくつもの言葉が伴う音を。

「できました」

「サンキュ」

外は暑いですから、花子ちゃんはそう添えて、淹れた紅茶をアイスティーに仕上げてくれた。よく冷やされた紅茶を受けたグラスが軽く露を吹いてる。カラン、氷がじわじわ溶けて涼やかな音を立てる。おれは花子ちゃんの作ってくれたそれをじっと見ていた。なんでかって? 見たこともないものだったから。紅茶が初めてってわけじゃないぞ、ユカリがたまに飲んでるの見るから。紅茶は紅茶、だけど「紅」茶じゃない。

青色。青色だったんだ、花子ちゃんがおれに出してくれた紅茶は。

「えっとこれ、紅茶、だよな。けど青いし……青茶?」

「紅茶です。見ての通り、色は青ですけれど」

「へぇー、こんなの見たことねえや。変わってるなあ」

「館長さんのお知り合いの方がくださったものです。わたしのお気に入りです」

「よく飲むの?」

「ある時は。珍しいものなので、大事に飲んでます」

「貴重品じゃん。いいのかな、おれも飲んじゃって」

「いいんです。わたし、トオルさんに飲んでみてほしかったですから」

薦められるままグラスを手に取る、飲む前によく見てみるかな。陽が沈み切る少し前の空を切り取ったみたいな、正真正銘のブルー。こんな色した飲み物ほかにあるのかな、ブルーハワイとか? かき氷にかかってるアレ。けど飲み物ってカタチで売られてるとこなんて見たことねえな。それにあの、言ってみれば作り物っぽい青とは違う。自然にある青を溶かした感じがする。口へ寄せる、香りが鼻をくすぐる。たまに飲むストレートティーと似ていて、でも奥の方に何かを隠してる。紅茶なのに青、その矛盾にピッタリ来る一筋縄じゃ行かない匂いがした。ここまで来たら飲むっきゃない、口に付けてグラスを傾けた。

ごくん、一口喉を通る音がする。花子ちゃんが砂糖入れて甘味をつけてくれたみたいだ、するっとカラダの中に沁みこんでく感じがする。見た目通りの爽やかさの中で、いつまでも後を引く味わいがある。目を閉じると自然と海が浮かんできた。海へ潜ってから見られる、三百六十度全部を青に囲まれた世界。海の味がするお茶だ、そう言っていいと思う。花子ちゃんが好きだって言うのも当然。おれも一口飲んで気に入った、虜にされたから。

「うまいな、これ。海みたいだ」

「分かりますか」

「うん。海に行った時に見えたものが、頭にわっと浮かんできて」

「トオルさんなら分かってくれると思っていました。持ってきてよかったです」

紅茶を一口飲んだ花子ちゃんがグラスをテーブルへ置く、始まりの音だ、おれも一度グラスを置いた。自然と見合う、向き合う、見つめ合う。花子ちゃんが言うに任せよう、おれはそう腹を決めて待つ。

「ひとつ質問です、トオルさん」

「うん」

「トオルさんがバラの花と言われてまず最初に思い出すのは、何色ですか」

「バラ? おれは赤かな。赤いバラ」

「はい、わたしも赤色のバラを思い出します。赤か、もしくは白といったところでしょうか」

「だよな。白バラって花屋とかでたまに見るし」

「そうですね。ではトオルさん、もうひとつ質問です」

「今度は何かな」

「青いバラを見たことがありますか」

「青いバラ? それは見たことないな。てか、人づてに聞いた話だけど」

「ええ」

「なんだろ、あり得ない色だって。自然には無いし、人が手を入れても作れないって」

「トオルさんの言う通りです。話そうと思ったことを先に言われてしまいました」

「ごめん、なんか先取りしちゃったな」

「いえ、いいんです。おかげで話しやすくなりました」

冷えた青い紅茶をまた一口飲む。濡れた口元を拭ってから、花子ちゃんが蕾のような唇を開花させて。

「青いバラ。トオルさんの言う通り野生では存在しない、そして配合でもまだ生み出せた例のない、不可能な存在だと言われています」

「うん」

「作り出すことに成功したという話は、少なくともこの世界では聞いたことがありません」

「『この世界では』? どういうこと?」

「スズキさんのお知り合いの方が言っていました。わたしやトオルさんのいるこの世界とは違う、けれどとてもよく似た世界があるかも知れない、と」

「なんだろ、パラレルワールドってやつ? 映画とかでよくある」

「はい、それです。お知り合いの方はその方面――並行世界にお詳しいようで、あと少しで実在を証明できる、そのように話していました」

「ふぅん、なんか実感湧かないな。けど、おれも絶対無いって言い切れるわけじゃないし」

「並行世界の中には、青いバラを生み出すことに成功した世界や、或いは青いバラしかない世界もあるかも知れない、ということです」

「青いバラしかない世界だったら、赤いバラを頑張って作ろうとしてたりするのかもな」

「かも知れませんね。とは言え、わたしたちの世界に青いバラはありません」

「無いな。青いバラは」

「そうです。ゆえに青いバラには、こんな花ことばが添えられています」

「花言葉?」

一呼吸置いてから、花子ちゃんは。

「『不可能』」

静かな口ぶりで、ただ一言、おれに青いバラの花言葉を教えてくれた。

「赤いバラから青いバラを作り出すことはできない、不可能だと、そういう意味が込められています」

「ずいぶん直球だな、不可能って」

「そうですね。赤い血を流す生き物が、青い血を流す生き物を生み出すことができないのと似ています」

青い血。ここまでの話の流れに沿っているようで、それでいてどこか唐突なようで。青い血、この言葉を出すために、流れに関係ないバラの話をしたんじゃないか、そんな思いが脳裏をよぎる。青い血、その言葉には思い当たる節がある。少し前から小骨のように引っかかって、抜き難い鈍い痛みを生み出したやり取り、そこであの人が――出海さんが口にした言葉。

青。それは海に住まう海獣たちが流す血の色、陸に住まう生き物には流れていない血の色。出海さんは確かにそう言ってた。

「青い、血」

言おうとして言ったんじゃない、カラダが勝手に漏らした言葉が音になって、静かな部屋に確かに響く。花子ちゃんが顔を上げた。その表情に驚きはない、まるでおれが「青い血」って言葉に反応することを予め知っていたみたいに。おれが言うのを待ってた、そこまで言ってもいいかも知れないくらいに花子ちゃんは自然な顔つきしてる。これからおれをどこかへ案内するみたいに、まだ知らない場所へ連れて行こうとするように。

一海がおれの手を引いて、青い海へと導いたみたいに。

「出海さん、って知ってるかな」

「知っています。カズミお姉ちゃんの叔母さんです」

「その出海さんがおれに言ったんだ、海獣たちには『青い血』が流れてる、って」

「ええ。言う通りです」

「『青い血』ってどういう意味なのかな。ホントに血の色が青いってわけじゃないと思う」

「どうして『青い血』と言うのか、ですか」

「うん。何か訳があるのか、どういう理屈なのか。知ってたらおれに教えてほしい」

単なる興味から問い掛けてる? 興味があるのは間違いない、全然掴みどころがなくて、出海さんがどんな意味を込めてああ言ったのかを知りたかったから。だけどそれだけじゃない、それに留まらない。その先にもっと大きな何かがあるに違いないって、おれの中の奥の方にいるおれが訴えてる。よそ行きの、外向きのおれじゃない、誰の目にも見えないおれにしか分からないおれが、ずっと言い続けてる。

それには一海と何か深い関わりがある、ツナガリがある。おれは出海さんが口にした言葉を忘れてない。あの降りしきる雨の中で、打ち寄せる波を見ながら聞いた言葉を。脳裏で反響して、よみがえって。

(海獣の、子供)

一海は――海獣の子供、だって。

「トオルさん。少し遠回りになりますが、聴いていただけますか」

「構わない。聴かせてほしい」

「青は赤の対になる色です。赤を裏返せば青になる、青を反転すれば赤になる」

「うん」

「人が赤い血を流すように、海獣たちは青い血を流すと言われています。スズキさんのように長く海と生きた人たちは、決まってそう言うのです」

「鈴木館長も言ってるんだ」

「ええ。人間と海獣は違う生き物だと、彼らの身体には自分たちとは違う血が流れている。だから彼らには『青い血』が流れている、そう考えていて」

「なるほど」

「トオルさんの言う通り、本当に青い血が見えるわけではありません」

「あくまで概念的なものなのかな、青い血っていうのは」

「いいえ。そうとも限りません」

「じゃあ、どうして」

「わたしたちの目に見えるのは、赤い血だけだからです」

「おれたちの目には、見えない」

「人間に見えるのは『赤い血』だけ。血は赤い、ゆえに赤い血。いかなる血も、人間には赤にしか見えない」

「本当は青いのに、赤い血に幻視してる……ってこと?」

「かも知れません。今見えているモノが本当に赤いのか、あるいは青いのか、それは誰にも分からないのです」

グラスに半分ほど残った青い――少なくとも、今のおれには青く見える紅茶を軽く傾けながら、花子ちゃんは言う。今見ている、見えている光景は本当に現実なのか、そもそも現実とは何なのか、幻を視ているんじゃないとどうして言い切れるのか。答えなんてどこにもない問いを与えられて、言葉がひとつも出てこない。花子ちゃんに何かを伝えるには、言葉を使うしかないっていうのに。陸に住んでる人間が言葉をうまく使えないんじゃ、それは人間である意味がない。

人間と海獣を隔てる一番大きなもの、それが言葉。人間は言葉を交わすことで心を交わして、互いに繋がりを確かめ合う。海で言葉は聞こえなくて、すべての人間が無口になる、無言になる。コミュニケーションの多くを言葉に依存した人間という生き物は、海で繋がりを確かめ合うことが難しい。だから、人間は海では生きられない。海に入ることはできても、海で生きることはできない。言葉無しに、人間は自分さえも、それが誰なのかを明らかにできない。

「わたしにとって、海は青でいっぱいの場所です。トオルさんにとってはどうでしょうか」

「……それは、おれも同じ。海は青い、全部が青だって思う」

「ええ。海は青い、それはトオルさんもわたしも同じです」

「うん」

「なぜ海が青いのか。海水が光の持つ色のうち、青を一番よく通すからだと言われています」

「それはおれも聞いたことある」

「ええ。けれど、わたしはこんな考え方もあると思っています」

「それは、どんな」

「海に生きる海獣たちが、海に死せる海獣たちが、絶えず血を流している。だから、海は青いのではないかと」

「血で、海が染まってるってこと?」

「はい。海獣たちは海で生きて、海で死んでいっている。その度に血が流れて、海は青く染まり続ける」

「海獣たちは……青い血を流すから」

「海で起きていることのほとんどは、陸で暮らすわたしたちにとって知ることのできない、知る由の無い出来事です」

「あまりにも広くて、深くて、数えきれないほどの海獣がいるから」

「おっしゃる通りです。今この時、この瞬間も、海獣が海獣を食らって血を流し、海獣が海獣を産んで血を流している」

「青い血に染まっているから、海は青い」

「わたしが言いたいのは、そういうことです」

海が青いのはなぜか。水は青い光を通すから、その理屈は正しい、間違ってない。だけど花子ちゃんは違う見方を示した。海獣が流す青い血、それが海を染めているから青いのだと。人間には赤く見える血が、海と一つになることで血としての性質を失い、やがて人の目にも見える青になる。そうじゃない、科学的にいくらでも否定できる。そんなのは作り話だ、そう言い捨ててしまうことは簡単だ。本当にそうなんだろうか、おれたちがこの目で、この頭で見ているものが絶対的に正しいものだと、誰が、どこが、何が証明してくれる? 幻を視ているかも知れないこの目を、どうして信じられる?

おれは今、何を見ているんだろう、何を視ているんだろう。まるで呼吸するように拠所にしているものが急に不安定なものに感じられて、思わずその目を閉じた、頭がものを視るのを止めた。まるで海に投げ出されたみたいだ、呼吸するための空気の無い、終わりのない青に囲まれた海へ。海で人は生きられない、人は陸でしか生きることができない。土に縛られた人間は、海へ身を委ねればたちまち飲み込まれてしまう。それはおれがずっと感じてたこと、海に対する抜き難い思い。

(このままあの子と共にさらに先へ進もうとするなら)

(貴方は何れ、海に呑まれることになる)

またリフレインする。出海さんの言葉が、肌に触れることなく眼前へ突き付けられた刃物のような言葉が、狭い洞窟の中で幾重にも折り重なって響き合う。

「人は赤い土の上で生きる生き物です。トオルさんも、スズキさんも」

「だから人は、青い海では、生きていけない」

「また先に言われてしまいました。わたしの言いたいこと、全部おみとおしみたいです」

「やっちゃったな。花子ちゃんが言いたかったはずなのにさ」

「わたしが言うよりも、トオルさんに言ってもらえる方が何倍もうれしいです」

そういうもんかなあ、苦笑いするおれ。花子ちゃんにはおれのことどんな風に見えてるのかな、悪かったり軽かったりしなきゃいいんだけど。知ってる中に似た姿がなくて珍しいから、ついつい目が行っちゃうのが分かる。ジロジロ見ないように意識したら却ってぎこちない感じがしそうだし、目のやり場に困るっていうか。別にヘンな風に見てるわけじゃない、それは言っとく。その上で、花子ちゃんは綺麗だって思う。おれが易々と手で触れちゃいけない、おさわり禁止の生きてる美術品みたいな綺麗さ。

だからだな、だからだ。花子ちゃんから発せられる言葉ひとつひとつに、ずしんと応える重みを感じるのは。美しい姿から出てくる美しい言葉、おれが受け止めようと思ったら全神経をそこに向けなきゃまるで追い付かない。今も追い付けてるかどうか分かんないんだ、自信が持てない。遠くへ突き放されて、なお届く言葉に仰け反り続けてるだけかも知れない。淹れてくれた紅茶から入って、バラの色、並行世界、青い血、海と人。花子ちゃんはおれの知らなかったことを物凄い速さで展開してくる、話したいことがいくつもあるってのは嘘でもなんでもない、紛れもない事実なんだ。

ぞっとするのは――それでいて、まだ「本題」には触れてないことで。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。