小さなテーブルを挟んで向かい合う、話し手の花子ちゃんも、聞き手のおれも。
「でも、海へ思いを募らせる人もいます。海獣たちと共に在りたい、そう思って」
「うん」
「その思いが高じて、海へ立ち入った人間がいると聞きました」
「おれみたいに浅瀬でパチャパチャ遊んでるってわけじゃなくて」
「はい。海の一片になろうとして、より奥深く……海獣たちの住処まで」
「その一人が、晴海さんか」
「ええ、そうです。その通りです」
「そっか、やっぱそうか」
「直接お会いしたことはありませんが、スズキさんからどんな人だったかは聞いています」
「海が好きだって言ってたの、おれも聞いたよ。鈴木さんから」
「型にはまらない、とも言ってませんでしたか」
「言ってた言ってた。まんま同じこと言われたな」
「きっと、スズキさんの前でも自由な人だったんですね」
自由な人。花子ちゃんの言葉がまるっと当てはまる思いだ。自由、おれはこの言葉を「自分に理由があること」を縮めたものだって勝手に思ってる。自分の中でしっかりとした理由があって、起きたことにも責任持てるなら、自分で自分のケツ拭けるならやっても構わない、そういう意味の言葉だって。何でもかんでも好き勝手にしていいって意味じゃない、自分の中ですることしたことの理由を説明できなきゃ「自由」じゃない。例えばおれは水泳の自由形やるときクロールで泳いでるけど、それはおれの中でクロールが一番速く泳げるからって理由がある。おれなりに理由があるんだ。
晴海さんも自由な人だった。海で生きたいっていう自分なりの理由があったんだろうな、おれはそう考えてる。一海も理由のないことなんてしないから、その母親も適当な人とは思えない。海に深い愛着があった、だから海で生きたいと感じた。一海の母親らしいなと思う、一海の母親はこういう人だろうなって思う。違和感がない、イメージ通りだ。おれの勝手なイメージだけど、それにはまってるから違和感がない。
「晴海さんがそう、と言いたいわけではありませんが」
「ああ」
「海へ深く立ち入って、人であることを止めた者もいると聞きます」
「それって……どういうことだろう」
「ミサキ。その名前を聞いたことはありますか」
「話だけは聞いたことあるかな。海で泳いでる変わった女の人だって」
ミサキ。海ミサキって言い方をしてる人もいたかな、海を泳ぐ髪の長い女の人だって話だ。紛らわしいけどこの「ミサキ」ってのは人の名前じゃなくて、ニュアンスとしては種族みたいなもんらしい。おれを「ニンゲン」、ユカリが連れてるハワードを「コジョンド」って呼ぶようなもんだとか。でも人名っぽいからしっくりこないな、女の子っぽい名前っぽいから余計に。ぽいぽい言い過ぎ。自分言葉乱れてるで、ってユカリにツッコまれそう。
この話、いつ聞いたんだっけ? 視線を天井に向けて記憶をたどってみる。あっ、思い出したぞ、五月くらいに商店街でパン買った時だ。パン屋から出てく途中に小学生くらいの女の子とすれ違って、なんでか分かんないけど一緒にいたペリドットの店員さんとミサキがどうこうって話してたのを聞いたんだ。それっきりだけど妙に印象に残って、今日花子ちゃんから言われた時もすぐ思い出した。なんで歳が四つか五つは離れた店員の子と話してたのかとか、そもそもミサキの話とかしてる理由とかさっぱり分かんなかったけど、とりあえず横で話を聞いたってこと、聞いた話の中身は忘れてないってのは確かだ。
「滅多に姿を見せませんが、この海で確かに生きています」
「ホントにいるんだ。噂とか言い伝えとか、そういう存在じゃなくて」
「ええ。海へ迷い込んだ者を、気まぐれに陸へ送り返すんです」
「花子ちゃんはミサキのこと、見たことあったりする?」
「あります。少し前、わたしの目ではっきりと」
「へぇ、見たんだ」
「溺れていた女の子を助けているのを見ました。後から来たお友達らしき男の子にその子を託して、海へ消えていくところまで」
「その男の子、助けにいったのかな」
「きっとそうだと思います、服を着たままでしたし。けれど、随分上手に泳がれていました」
「着衣水泳はコツ要るからな。おれもできなくはない」
ちょっと前に講習あったっけ、海で溺れた時のためにって感じで。湯浅とか上月とかもいたはず。服着たまま海で泳ぐことなんて無いに越したことはない、水吸ってマトモに泳げなくなるし、あとで乾かすのだって面倒くさい。塩水だからキッチリ洗濯しなきゃ使い物にならなくなる。洗濯する時もアレコレ気を付けないと……って感じで、マジでロクなことがねえ。
そう、海に服は着て行けない。服を着たまま立ち入れる場所じゃないんだ。人間は服を着ることで暑さ寒さから身を守って、服を着ることで他人に見せたくないものを隠す。だけど海はそれを許してはくれない。自分のカラダだけを頼みにして生きてかなきゃいけない。陸のルールは海じゃ通用しない。服を着ることも、立って歩くことも、言葉を使うことも、海ではできない、許されない。
海では、人が人ではいられなくなる。人であることの理由を、ことごとく失う。
「あのミサキは女の子を助けました。それは、溺れていたからという事情もあったでしょう」
「だろうな。おれもそう思う」
「ええ。それに、もうひとつ」
「もう一つ?」
「あの子には、海獣の元へ向かってほしくなかったのでしょう」
「人間のままでいてくれ、ってことか」
「トオルさん、どうしてわたしの言いたいことが分かったんです? なんて、もう訊く必要もありませんね」
「ああ。おれももう驚いてない。それが自然だって思ったから言っただけだし」
「海では人は人でいられなくなります。もし、その理を破って、海と長く関わり留まれば、いずれ」
「いずれ……?」
「その人は、人のカタチをした海獣になります」
「人のカタチをした、海獣」
「そうして海の一部になれば、もう陸に上がることはなくなります。その必要もまた、なくなります」
海では、人が人ではいられなくなる。人であることの理由を、ことごとく失う。
その先にあるのは、人のカタチをした海獣へ変貌するという結果。
「透さんなら分かるはずです。わたしが何を言いたいのか、何を見ているのかを」
氷が半分ほど溶けたグラス、花子ちゃんが手に取るとカランと涼しげな音がした。真似するようにおれもグラスを掴んだ、残ってた分を全部流し込む。いつの間にか喉がカラカラに渇いてた、青い紅茶の味が胃の奥にまで広がるのを感じる。テーブルにグラスを置いて息をついた、ずっと海の中に潜ってたみたいな気分だ。意識して深く息を吸う、ここは陸だ、おれは人間だって言い聞かせるように。
底知れない、花子ちゃんは底が知れない。年下だからって見くびるとかそういうことしないタイプだって自分で思ってるけど、思ってたよりもずっと底が知れなくて驚いてる、ビックリしてる。鈴木館長がおれに花子ちゃんの相手をしてほしいって言った理由が分かった気がした。花子ちゃんにはおれに話すこと、おれに話したいこと、おれに話したいことがたくさんあって、館長はそれを知ってたんだ。おれにこんな話がしたいって言って、館長に今まで話してくれたことを言ったりしたのかも。話せば話すほど、奥へ奥へ引きずり込まれそうになる。
一海がおれの手を引いて、青い海へと導いたみたいに。
「わたしの方からトオルさんに、たくさん話させてもらいました」
「うん。おれもたくさん聴けてよかった」
「今度はトオルさんから、わたしに訊きたいことを言ってください」
「おれの番、ってことか」
訊きたいこと、たくさんある、海の水みたいに。だから順番に訊いていこう、時間はある。いきなり海へ飛び込むんじゃない、準備運動をするみたいに、少しずつ一歩ずつ、距離を詰めていけばいい。
これから花子ちゃんから聞かされることも全部、今まで聞かされたことと同じように、最後は一海へと繋がっている線のはずだから。
「訊きたいことってわけじゃないんだけど」
「はい」
「一海と花子ちゃんってさ、姉妹みたいな関係だよな」
「わたしもそう思います。カズミお姉ちゃんは、わたしにとってお姉ちゃんのような人です」
「いつから知ってるの? 花子ちゃんは、一海のこと」
「カズミお姉ちゃんが小さい頃、学校へ通う前から知っています」
「そっか。じゃあ、だいぶ長い付き合いだな」
「ええ。いつも博物館で遊んでいて、わたしの相手をしてくれていましたから」
裏返すと、一海には同年代の友達が居なかった、そういうことでもある。ユカリと会うまでの一海は独りぼっちで、花子ちゃんだけが遊び相手だった。それがおかしいとか変だとかそういうのじゃない、たぶん小鳥遊や涌井みたいに、一海につまんないちょっかいを出すような連中しか周りにいなかったってだけのこと。だったら、花子ちゃんと遊んでる方がずっといい、合理的ってやつ。一海は間違ってなんかいない、間違ってるとしたら、おれにとって名前も顔も知らない周囲のやつらの方だ。
「あのアクアリウムで、よく泳いでいたんです」
「昔から同じことしてたんだな」
「変わりません。海獣たちといっしょに仲良く遊ぶようにして、すいすい泳いでいました」
「みんな一海がいて当然って感じだったっけ、去年夏に行った時に見たけど」
「そうです。みんな、カズミお姉ちゃんを仲間だと思っています」
「人間なのに、か」
「はい。臆病なヨワシさんたちも、獰猛なサメハダーさんも。分け隔てなく、みんな」
海獣たちは一海を排除しない、仲間外れにしたりしない。ただ見てくれだけが違う、自分たちと同種の仲間だと認識して、同じ場所で共に遊泳している。口がきけないってだけで暴力を振るったあいつらと比べてみる、比べ物になんかなるはずがない。どっちが一海にとって居心地がいいか、自分のいるべき場所だと思えるかなんて明らかだ。これを海獣たちの優しさや寛容さだって考えるなら、話はこれで終わりになる。
そういうわけじゃない。彼らが一海を攻撃しないのは、同じ場所に一海がいることを受け容れているのは、そういう理由から来てるものじゃない。海獣たちは一海を「仲間」だって思ってる、人のカタチをした、人間として生きているはずの一海を、自分たちの「仲間」だと見做している。海に住まう獣たちの姿は多種多様で、同じ海域にプルリルとシェルダーとタッツーみたいな、生態も容姿も能力もまるで似てない者たちが共存してる。彼らにとっての一海はおれみたいな「人間」じゃない、人のカタチをした海獣に見えている。そうじゃないのか、って。
(あるいは、おれが)
おれが――おれが一海に。人間の姿という幻を視ている、人間の姿を幻視している。そうじゃないと、誰が言い切れるだろうか。だけどおれは、おれがこの目で見ている一海が現実で、現実にいて、幻なんかじゃないって信じたい。今のおれには、信じることしかできない。自分が見たもの感じたものを信じることしか、今のおれにはできない。
「カズミお姉ちゃんの方も、わたしが生まれた時からいっしょです」
「長い付き合いだって言ってたからな」
「わたしもカズミお姉ちゃんも、自分たちを本当の姉妹のようなものだと思っているのです。外見は、全然似ていないのですが」
「一海も花子ちゃんのこと、妹みたいだって言ってたっけ」
「はい。ですからわたしも……今のカズミお姉ちゃんの様子を見ていて、辛いのです」
花子ちゃんが一海の様子を見ている、つまり一海は今花子ちゃんの傍にいる。端的に言うなら、一海は花子ちゃんが暮らしてる海洋古生物博物館にいる。サーフィンを見せてもらった後に聞かされたあの話にやっと繋がった。自分の家で休んでるわけじゃない、鈴木館長と花子ちゃんのいる博物館に身を寄せてる。おれが訊きたかったのはそこだ、間違いなくそこだ。
どうして一海は博物館にいるのか、花子ちゃんに訊かなきゃ。
「花子ちゃん。ハッキリ訊くけど」
「はい」
「一海はどうして博物館にいるんだ」
「身体の具合が悪いからです。トオルさんもご存知だと思いますが」
「うん、それは知ってる。けどさ、調子が良くない、もしかしたら病気かもって言うなら、病院行った方がいいんじゃないかって」
病院に行った方がいい、半分はマジでそう思ってる。人間が体調崩した時アテにする場所は病院だって決まってるから。だけどもう半分ではそう思ってない。病院に連れて行っても解決しない、一海の具合は良くならないんじゃないかって。それはどうしてか、なぜなのか。言葉にするのを躊躇う。一度言葉にして意識へ上らせてしまえば、カタチを伴って自分をチクチク突いてくるって分かってるから。
前に秋人と南雲が話してるのを聞いた。いわゆる「コトダマ」ってやつ。ハッキリしない感情や事象を言葉にすると、それが明確なカタチを帯びて心に残り続ける。年初に目標を立てて誰かに話すと達成率が気持ち上がるとか、そういうのにも通じる。特に南雲は「コトダマ」を強く信じてる、特別な力を帯びて、口にしたことが現実になるって信じてる、秋人が真剣な顔で言ってたのをよく憶えてる。南雲が「コトダマ」を信じてる、その秋人の物言いがおれの中で「コトダマ」になって、今こうして全然関係無いはずの花子ちゃんとの会話で立ち上ってきてる。
南雲もそう。もっと身近な例だってある。今年の頭に鈴木館長がおれに「一海の傍にいてほしい」って言った、あれもまたひとつの「コトダマ」だ。
「トオルさんは、本当にそう思っていますか」
けれど、言ったことすべてが現実になるってわけじゃない、そんなことありっこない。自分が心から信じてない言葉には「コトダマ」なんて宿らない、ただの人間が聞き取れる音のブロックに過ぎなくて、何かの力を持つなんてことは決してない。おれの「病院行った方がいいんじゃないか」って言葉は、「コトダマ」の宿らない空虚な音で、そこにおれの本心なんてこもってるはずがない。
首を振る。横に、ごくゆっくり。本当はそんな風になんて思ってない、花子ちゃんへと伝える、否定のカタチをした肯定のサイン。
「そうですね。トオルさんも、どこかで分かっていたと思います」
今度は縦に振った、首を。
「少しばかり普通ではないのです。カズミお姉ちゃんの、カラダのつくりは」
花子ちゃんの言葉に驚きはなかった。やっぱりそうか、納得と諦念が半々くらい。何をあきらめたのかはおれにも分からない。普通じゃないから一海がどうこうなんてことはちっとも思わない。一海は一海で、何処まで行ってもそれは変わんねえって思ってるから。思ってるけど、普通じゃないと言われて心が普通のままでいられるかっていうと、そこまで構えができてない。何が「普通」なのかってのは脇に置いても、おれと一海に大きな違いがあるってことは違いない。
思い当たる節はいくつもあった。夏の日差しを浴びても焼けることのない真っ白な肌、いつまでも水の中に潜ってられる人並み外れた肺活量、声がとどかないはずの水中で聞こえてくる声。一海だから、おれの好きな人だから、そんな理由で受け入れてた事柄のひとつひとつが、一海が普通じゃないってことを示す証拠に他ならない。
「ですから、病院ではちゃんと診てもらえない。きちんと」
「わたしもスズキさんも……そしてカズミお姉ちゃんも、同じ考えでいます」
最近はスズキさんのお知り合いの方も来られて、一緒に様子を見てくれています。花子ちゃんはそう付け加えたけど、鈴木館長の知り合いって誰なんだろうとか、どういう風に診てるんだろうとか、正直全然想像付かなかった。花子ちゃんに訊こうって気にもならなかった。一海が病気か何かで苦しんでて、しかも病院には掛かれないなんて聞いたら、おれが今こうやって呑気にお喋りなんてしてていいのか、そういう感情が風船みたいに膨らんでく。
「具合、良くならないのか」
「残念ですけど。今はとても不安定な状態だと、スズキさんが」
「じゃあ、おれ」
「待ってください」
これからすぐ博物館へ行く、そう口に出す前に、花子ちゃんに制止された。
「トオルさんが会いたいという気持ちは分かります、とても」
「だったらどうして止めるんだ。おれ、一海のところへ行かなきゃ」
「いいえ、行かないでください」
「なんでだよ!? なあ、花子ちゃん、なんで――」
「今トオルさんが行けば、カズミお姉ちゃんはもっと不安定になります」
「花子ちゃん」
「どうか、今は刺激を与えないでほしいのです」
「けどっ、そんな」
「カズミお姉ちゃんにとって、トオルさんは光のような存在です」
「おれが、光みたいな」
「時として身を焼き焦がし、目を潰してしまうほどの強い光。それが、カズミお姉ちゃんにとってのトオルさんなのです」
今の一海にとって、おれという存在は刺激が強すぎる。光って例えで理解できた気がする。人は暗闇の中では生きていけない、陽の光は人の身体に欠かせないもの。だけど強すぎる光はカラダを焼いて、時には命を奪いかねない。一海は今すごく繊細な状態にある、だから例えプラスの刺激であっても強すぎるものは受け容れられない。おれにとっての一海は特別な存在で、一海にとってもおれは特別だって言ってもらったことを憶えてる。特別な強い光だから、今は一海に近付くべきじゃない。
飲み込めない、到底納得なんてできない。けどおれの納得よりも、一海に元気になって貰いたいって気持ちの方が上回った。おれが今の一海にとって害をもたらすなら、むやみに会いに行こうとするべきじゃない。繰り返すけど納得はしてない、今すぐにでも一海のところへ飛んでいきたいって気持ちは間違いなくある、だけどそれがプラスにならないってことを頭で理解してる。アタマがココロとカラダを押さえ付けてる、理性ってやつだ。
理性を失った人間は、人間のカタチをしたケダモノに過ぎないから。
「トオルさん、わたしからのお願いです」
「なんだい」
「さっきまでと、少し矛盾するようですが」
「うん」
「カズミお姉ちゃんの傍にいてあげてください。何があっても、何が起きても」
「一海の、傍に」
「今は会えませんが、もうすぐトオルさんの力が必要になる時が来ます」
もうすぐ、必ず。トオルさんにしかできないことがありますから。そう言い含めるように重ねて、花子ちゃんは言葉を切った。
残っていた青い紅茶を飲み乾して、花子ちゃんが椅子を引いて立ち上がる。花子ちゃんのしたい話は済んだ、おれの訊きたいことも聞いた。これでおしまいにすることに違和感はない。おれもいっしょに立ち上がって、花子ちゃんを見送る体勢になる。
「おジャマしました。わたしはこれで失礼します」
「分かった。花子ちゃん、帰る時気を付けてな」
「はい。ありがとうございました」
「また遊びに来てくれよ」
「わたしも来させてほしいです。あの、トオルさん」
「どうした」
「わたしが話したことを憶えておいてください。カズミお姉ちゃんの傍にいてあげてください」
ふわり、銀色の髪が揺れて、仄かな陽光の匂いが鼻をくすぐった。花子ちゃんがアパートのドアを開けて出ていく。外で喧しく鳴く蝉の声がそれまでより大きくハッキリ聞こえて、バタン、とドアが閉まると共に、また壁越しに聞こえる曖昧な音へと逆戻りして。花子ちゃんの面影を、誰も居なくなった玄関に少しの間だけ見て、それからとぼとぼと椅子へ戻る。
花子ちゃんはおれにこう言った。今は一海の元へ行かないでほしい、けれど一海の傍にいてほしい。ぱっと見矛盾してるように聞こえる二つの願い、だけど花子ちゃんの言葉に矛盾はない。この瞬間は一海に近付いちゃいけない、だけど一海から離れろってわけじゃない、傍にいてほしい。微妙だな、微妙って言い方が合ってんのかも分かんない。意味するところを考えろ、そういう意味かも知れない。
一海がいたらどうするだろう、どんな答えを出しただろう。おれが一番アテにしたい人に会うなって言われて、でも傍にいてとも言われて。風邪引いて熱いのか寒いのか分かんないあの時の感覚に似てる気がする。居心地は悪い、かなり。だけど花子ちゃんはおれに言葉をくれた、考えるべき言葉を。
そうやってぼんやり考え事をしてた時だ、ジーパンのポケットの中で何かが震える感触。何か、ってかスマホしかねーよな。ポケットに入るサイズでぶるぶる震えておれが持ってるようなモノなんて。一回しかぶるっとしなかったから多分メール、それかLINQのどっちか。引っ張り出して確かめてみる、LINQの通知がある。誰からだ? タッチしてパスコード解除、LINQ起動。
「……あいつ」
見慣れたゴクウブラックのアイコン、メッセージでも変わらないいつもの言い回し。
「明日一緒に夏祭り行けへん? 星宮神社まで。家まで迎えに行くわ」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。