トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

#26 三途

ソファに座ってぼんやりしてる。なんかすることねえのかよっておれのなかでおれが繰り返し言ってくるし、その度に思い付かねえよって別のおれが返してる。することがないってわけじゃない、夏休みの宿題も微妙に残ってるし、そろそろ醤油切れるから買いに行かなきゃなんねえし、イベントの周回だって全然やってない。やることはいっぱいある、ただする気になれない。どれもこれも今すぐしなきゃいけないことでもない、しなくたって死なない。だから先送り先送りで、ただボーっとすることを優先してる。一番優先しちゃいけねえのにな、けど気持ちが追い付かないんだから仕方ない。仕方なくないけど仕方なくなくない。どっちだよ、おれにも分かんねえや。

スマホのカレンダーをなんとなく見てみる、今日は八月七日らしい。休みが続くと曜日も日付も感覚ぶっ壊れてテキトーになるんだよな、まだ八月一日とかじゃねって気持ちと、まだ十日にもなってねえのかって矛盾した気持ちが揃って湧いてくる。曜日とかもう完璧に分かんねえな、何曜日でもあんま変わんない。せいぜいテレビで何流してるかちょっと変わるくらい。テレビとか言って最近あんま観なくなって、そっちよりスマホで実況とか配信とか観てることの方がずっと多くなったから、やっぱどうなっても構いやしない。ハコの向こうがどうなってたって、おれには直接カンケーないから。

どん・どん。ボケっとしてた耳に音がすっ飛んできた、ドアの方から聞こえる鈍い音。誰がどう聞いてもノックしてる音だ。おれん家は古いアパートだけどちゃんとチャイム付いてるのに、そっち使わずにノックするやつ。こういうやつはおれが知ってる中で一人しかいない。いわゆる腐れ縁のアイツ、よく見知った顔のあいつだ。ソファから跳ね起きて、スマホをポッケに突っ込んでドアの方に向かう。

「お! トッちゃん来たでー!」

「おうユカリ、早かったな」

思った通り、ドアの向こうにはユカリが立ってた。

「トッちゃんのお迎えやで、今日は星祭りやからな」

そう言うユカリは紫陽花柄の浴衣を着て、いかにもこれからお祭り行くぞって感じの雰囲気になってる。夏休みになると決まって小金に行ってたから、浴衣着てるユカリの姿とか何気に初めて見たかもしれない。小金の方のお祭りに参加した時の写真なら見たことあるかも、けど見た記憶無いな、だからやっぱこれが初だ。似合ってるか似合ってないか、どうだろな、まあまあ似合ってる気がする。薄手で動きやすそうな感じが落ち着いてらんないユカリっぽい。

星祭り。前にも言ったっけな、八月七日に榁でやってる夏祭り。時期がちょうど夏ド真ん中で、参加する人も多い割とデカいお祭りだ。デカいって言っても榁の中ではって注意書きは付くけど、大きなイベントなのは間違いない。場所は星宮神社、東原の家だ。広い境内だけじゃなくて、階段の下にも出店がずらっと並ぶ。そこで焼きそばとか綿あめとか、あとお面とか、そういういかにもお祭りで売ってそうなものが山ほど売られる。それだけじゃなくて、祭りが佳境に差し掛かると、東原たちが何か儀式みたいなこともするって聞いた。ただのどんちゃん騒ぎってだけでもない、それが星祭りだ。

で、だ。ユカリがおれを誘って星祭りに行こうってのは分かったけど、あれ始まるのって六時くらいだよな。まだ五時になるかならないかってところなんだけど。さすがにちょっと早くね? それくらい張り切ってるってかやる気なのは分かるけどさ。あいつ、何か約束したときに遅れて来るとかやたら早く来るとか全然なくて、必ず時間ピッタリに来るんだよ、いつもなら。だからちょっと、いつもと違う。

「もう行くの? まだ早くない?」

「せやなあ。まだちょっと間ぁあるから、中でちょっと居らしてもらうわ」

おっじゃましまーす、とか言いながらユカリがしれっとおれの家に入る。入る時はいつもすっげえ自然ってか自分ちみたいにさっさと入ってくんだけど、一応「中に入ってもいいか」って訊いてから入るんだよな、いつもなら。今日は祭りでテンション上がってんのかな、おれが「いいぞ」とか言う前に入ってった。別に気にすることじゃないけどさ、祭りだからってはしゃぎ過ぎだよな、ユカリのやつさ。これもなんか普段と違うな、さっきと同じで。

玄関のドアを閉めて、ユカリの後におれも続く。家の中をキョロキョロ見回してる、あいつが気になるような面白いもんなんて何もないんだけどな。おれはそんな風に思ってるけど、ちょっとざわついた気持ちも同時に抱えてる。約束の時間よりだいぶ早く来たこと、おれに確認せずに中に入ったこと。ほんとどうでもいいことなんだけど、十年以上一緒にいるユカリが普段とは違う様子を立て続けに見せたのが、何か引っかかって、気になって。

「ふぅん、他に誰もおらんみたいやな」

親父さ、今日も出張だから。おれがそう口に出して言う前に、ユカリが。

「うちらだけか。せやったら都合ええわ」

そう言っておれを見てきた。喉から出かかった言葉を思わず飲み込んじまう。おれが見たユカリは、おれを見たユカリは……見たことのない目つきをしていた。普段外歩いてる時とは違う、格ゲーやっててムキになった時のやつでもない、酒飲んでてテンション上がった時でもない、この間涌井にキレた時とも違ってる、ホントに今までに見たことないような目だ。何かこう熱に浮かされた時みたいな、目の前にいる「おれ」のことを友達とも幼馴染とも腐れ縁とも思ってない、そういうのとはまるっきり違う別の存在として見てる、そんな目をしてて。

ユカリが一歩前に出る、自然とおれと距離が詰まる。何か言わなきゃ、気は逸るけど言葉は出てこない。どうなってんだ、どういうことなんだ、どうしちまったんだ、疑問がガンガン湧いてきて、だけど眼前のユカリはそれを訊ねたとしても答えてくれそうにはまるっきり見えない。これからユカリが何をどうするつもりなのか分からずに、おれが足が竦んでしまう。

「なあ、トッちゃん」

「なんだよ、ユカリ。なんかお前」

「一海ちゃんずっと具合悪いままでさぁ、一緒に遊んだりしたりできひんやろ」

いきなり何言いだすんだと思った。一海の話なんかして、どういう風に持ってきたいのかちっとも分からない。ただ、おかしい、絶対おかしいってのは確か。昨日までのユカリとは別のユカリがおれの前にいて、それでだんだんおれに寄ってきてる。寄ってきて何をどうすんのか? そんなのおれが訊きたいくらい。脳裏を掠める良くない予感と好くない予想、背筋がいきなり氷水流されたみたいになる。

急に今年頭の光景がフラッシュバックした。年明けにユカリがおれん家に来たとき、酒飲んでたらユカリがおれにひっついてきて、自分とキスしてみないか、一海と比べてみないか、とか訳わかんないこと言ったアレだ。酒飲み過ぎて酔っぱらったのかと思ってたけど、今の様子見てたら、酔ってたのかどうかもちょっと怪しい。いや、あれは酔ってなかった、あのくらいで前後不覚になるようなやつじゃないって知ってるから。だからあれは、ガチだったんだ。

「言うたらあれや、トッちゃん」

「トッちゃんかて男子やからな」

「ずいぶん溜まってる、そうと違うん?」

お前ユカリ、何言ってんだ――口から言葉が音になって出ていく、その前に。

「堪忍な、トッちゃん」

いきなり肩を掴まれた。えっ、と思う間もなく一気に体重を掛けられて、ソファへ押されて仰向けに転ばされる形になる。上にはユカリが載って、おれを身動きできないようにしてる。ユカリに押し倒されて覆いかぶさられた、後から状況認識が付いてくる。この瞬間はそれをどう思うかまで頭が働かない、ただ「えっ」って状態で、なんにも言葉が出てこない。驚いたのとワケ分かんないのとで、頭が完全にパニクってて。無理矢理に抑え込んでくる、やばいくらいの力で。合気道やってるから? 理由なんてどうでもいい、ロクに身動きできない事実は変わんないから。

頭突きでもすんのかってくらいの勢いで顔を寄せてきた、ユカリが。ぎりぎりん処で止めて、おれのこと潤んだ瞳でじぃっと見つめてくる。固まってるおれ、さらに次に進もうとしてるユカリ。一秒か二秒かそれくらいしか無かったはずなのに無限に続きそうに感じる間を挟んでから、それから。

「んっ」

「んんぅっ」

自分の唇をおれの唇に重ねてきて、それで。なんだこれ、なんて言うんだっけ、言い方あったじゃん、唇触れ合わせるの。なんで出てこないんだろ、頭がまるっきり働かない、起きてることが意味分かんなすぎて、自分のされてることの意味も分からない。分からない、分からない、分からないの洪水の中で流れて来た言葉が、今自分がされてることは何? って空白にたまたま当てはまって。

おれ――なんで、ユカリにキスされてんだ。

ふーっ、熱い吐息が吹き込まれる、二回三回、四回って。続けざまに舌がねじ込まれてきて、口ん中をぬめぬめと激しく這い回った。激しい、って言い方が一番合ってると思う、激しく舌を絡ませてきて、唾液がだらだらと流れ込んでくる。なんだろ、言い方ヘンだけどさ、男が女のナカにアレ無理矢理突っ込むときみたいな感じで滅茶苦茶にされて、嬲られてる。おれがユカリに嬲られてる。おれは男子でユカリは女子、立てつけはそうなってるはずなのに。

ひとしきり口の中を荒らされて、息が続かなくなると思ったところでユカリがパッと頭を上げた。顔と顔の間に隙間ができて、ユカリがどんな目つきしてるかが見えるようになる。瞳が零れ落ちそうなとろんとした目つき、焦点が合ってなさそうに見えて、実際のトコおれのことしか見てない、おれしか目に映ってない。ユカリが今まで見たことない顔してるってさっきも言ったけど、また言わなきゃならなくなった。こんな顔、今の今まで見たことなんかない。

ユカリ、お前いったいどうしちまったんだ。何があったんだ。

「……ええ貌しとるやんトッちゃん、色気あるで」

「いつも思とったけど、今は尚更そない思うわ」

「驚いとる? 驚いとるやんな。堪忍な、トッちゃん。堪忍やで」

「せやけど分かるやろ? うちがトッちゃんのことよう知っとるんは。言うてもう十年来の付き合いやからな」

「自分はな、うちと一緒におる方がええんや。うちに全部任せたらええ」

それから、ユカリは。

「トッちゃん。一海ちゃんのことは、忘れるんや」

一海のことは忘れろ、その口から確かにそう言って来て。

「既成事実、っちゅうやっちゃ。それさえ作ってまえばこっちのもん。せやろ? トッちゃん」

「責任感強いもんな、トッちゃんは。昔から変わらん、ずっと変わらんままや」

「トッちゃんは」

「……違う。そうやない」

「うちは、トッちゃんのもんや」

おれの服をユカリが掴む。動きからして脱がせようってのは一瞬で伝わってきた、服脱がせて裸にして、その後どうすんのか? 何すんのか? 思い当たらないほど頭は泊まってなかった、ほっといたら何が起きるかなんて明らかで、何もせずにいたらどうなるかなんて分かりきってて。

いつまでもこんな状態でされるがままになってたらまずい、やばい。そう感じた途端全身の硬直が解けて、いきなりカラダが自由に動くようになった。おれを抑え込もうとするユカリを掴んで、泳いでる時最後の十五メートルぶち抜くときみたいに全力突っ込んで。ユカリの体が浮き上がったかと思うと、どさり、そのままソファの下へ転がり落ちた。ようやくおれのカラダが軽くなる、そのまま立ち上がって、床へ身体を打ち付けたユカリを見下ろす。

「はっ、はっ……」

「はぁ……はぁ」

お互い息が上がってる、おれもユカリも同じように。上半身を起こしたユカリがこっちを見てる、真っ直ぐに、じっと視線を逸らさず真っ直ぐに。おれはおれで、やっと頭が回るようになってきた。ユカリがどうしてこんなことをしでかしたのか、何を考えてこんな風になっちまったのか訊かなきゃならない。上がった息もそのままに、おれは口を開けて。

「ユカリっ、お前なんでこんなことをっ」

「トッちゃん」

「一海のこと忘れろって、どういうことなんだよ!」

怒鳴りつける、喉がイガイガするくらいに声を出して。こんなデカい声出るんだ、おれの口から。音になってから驚いてる。ユカリのことこんな風に怒鳴りつけたの初めてかも知れない、いや初めてだ。こんなことした記憶今までに一回もないから。こんなことしなきゃいけない状況になったコトが無いから。こんなことする羽目になったのなんでだろう、今もそう思ってるから。

ユカリは変わらない、怒鳴られても何一つ変わらない。まださっきと同じギラギラした目をしていて、ただおれのことしか見えてない、迷いのない濁った眼をしてる。迷いが無いのに淀んだ瞳をして、焦点が合ってないのに視線がブレてない。見られてる方のおれからしたら、どんな目をしてみればいいのか分かりっこない目つきだ。普段のユカリじゃない、ユカリはこんな目しないから。だけど姿形は紛れもなくユカリで、ユカリ以外の誰でもなくて。

ただ、ただおれだけのことを見ながら、ユカリが、ユカリは。

「分かっとらん、トッちゃんは分かっとらん」

「こないするんがええ、こないするんが一番ええんや」

ユカリがふらつきながら立ち上がっておれに迫ってくる、おれは反射的にユカリを跳ね除けて突き飛ばす。外へ出なきゃ。今のユカリはおれの知ってるユカリじゃない、ユカリだけどユカリじゃない。何かがユカリを変えちまったんだ、別の何かに変わっちまったんだ。このままここにいたらまずい、ユカリから離れないと。おれは玄関まで走ると靴を引っ掛けて、ドアを乱暴に押し開いて外へ飛び出した。家に居たら逃げ場がない、だったら外へ出るしかない。

「トッちゃん!」

「うちはぁ! トッちゃんを諦めへん! トッちゃんを悲しませたりせん!」

「幸せにするんやぁ! うちがぁ! トッちゃんをぉ!」

腹の奥から搾り出すような叫び声。ユカリがおれを追いかけてくる様子が目に浮かぶ。迫りくる声と気配に追われるようにして、おれはアパートの階段を駆け下りた。そのまま敷地を飛び越えて海沿いの道をひたすら走る、行き先なんて思い浮かばない、これからどうするのかなんてもっと分からない。今はただ、豹変したユカリから逃げること以外考えちゃいけない。余計な事考えたらあいつに追い付かれて、今度こそ、今度こそ、おれを全部持っていかれちまう。一海に対する気持ちとか約束とか、そういうのひっくるめて全部だ。

一海、一海。名前を思い出した瞬間、安堵と不安が同時に心に注ぎ込まれた。一海っていうおれの大切な人を思い出したことの安堵と、一海は今も体調を崩して鈴木館長のところにいるって不安。それから――ついさっき、ユカリの言ってた言葉が蘇ってきて。

『トッちゃん。一海ちゃんのことは、忘れるんや』

忘れろって、どういうことなんだ。どうしてユカリが「一海を忘れろ」なんて言うのか分からなかったし、おれが一海のことを忘れなきゃいけない理由もさっぱりだ。一海のことを忘れるくらいなら身投げでもした方がマシ、それくらい言い切ったっていい。いくらユカリの言葉でも、はいそうですか、って受け入れるわけには行かない、絶対に受け入れられない。

走りながらじゃまともに考えられない、考えながらじゃ満足に走れない。走って走ってひた走って、気が付くとタイヤ公園の前まで来てた。軽く後ろを振り返る、ユカリが追いかけてくる気配はない。途中で捲けたのか、それとも向こうが諦めたのか。諦めたって筋は無さそうだ、また何か別の手を打ってくる、普段のユカリならそうしてたし、その部分が変わったとは思えない。けど、今すぐここまで追い付いてくるってことはなさそうだ。おれは乱れた呼吸を整えながら、タイヤ公園の隅にあるベンチに座り込んだ。

どうしてユカリが、なんで一海のことを。座って同じことを考えてみるけど、やっぱりまとまらない、まとまるはずなんてない。分からないことが多すぎて、どれだけ考えても納得なんてできっこない。ユカリが急におれを押し倒した、あいつの言うところの「既成事実」を作ろうとした、おれに向かって「一海のことは忘れろ」って言った。確かなのはこれだけで、ユカリが行動を起こした理由とか背景とかは何ひとつ分からない。

これから先行くところなんて思い浮かばない、家に戻ればユカリがいるかもしれない。戻るも進むも一寸先は闇、完全にお先真っ暗だ。財布持って来なかったのも痛い、先立つもんが無いと余計不安になる。どうすっかな、誰かの家に上げてもらうかな。秋人とか湯浅とか。けどあいつら今日祭り行くって言ってたし、もうすぐ祭り始まって家から出てくってタイミングだろう。行くには都合がよくない、どうすりゃいいんだ。

ポケットに違和感覚えたのはそん時だった。なんだろ、そう思って突っ込んでみたらスマホがあった。そう言えばユカリを出迎える時に入れっぱなしにしてたっけ、揺れてる? 揺れてるな、着信かな。けど一回で収まった、メールとかかな。スマホを取り出して見てみる。「1」のバッジが付いてるアイコンがひとつ見える、けどメールでもLINQでもない。普段さっぱり使わない「メッセージ」に付いてて。

メッセージアプリをタップ。見覚えのない番号からおれ宛に来てる、親父でもユカリでも秋人でも湯浅でも川村でもない。なんだこれ、広告か何かか? 不審だけど中身が気になる、一覧からじゃ本文は読めない、思い切って開封する。

「海へ行って」

ただ一文、そう書かれていて。

「……海へ」

知らず知らずのうちに口に出していた、書かれていた文言を読み上げて繰り返すみたいにして。

誰から届いたのかも分からない、本当におれに向けて送ったメッセージなのかもわからない。だけど「海へ行って」。海。憧憬と畏怖、他にも無数の、まだ言葉にならない無限の感情を抱く場所。寄せては返す波、晴れ渡った空の下で見せる穏やかな様相、暗い空から降り注ぐ雨に打たれて荒れ狂う様、どこまでいっても終わりのない、果ての見えない青・蒼・碧。そして――そこにひとり佇む一海。

浮かんでは消える海に纏わる情景と情念の中で、一海の姿だけは決して消えずにいる。思考の海を揺蕩いながら、おれの中で確かに存在し続けている。やがてありとあらゆる考えが一海ひとつにまとめ上げられるまでには、さしたる時間も要さなくて。

「行かなきゃ」

言葉になったのは、立ち上がって歩き出した後だった。口に出す前に体が先に動き出して、大きな存在に引き寄せられるように前に進んでいく。誰があのメッセージをおれに向けて発信したのか、どうして今海へ行けと告げてきたのか、そんなことは気にしない。海へ行かなきゃいけない、その思いは確かなもので、おれのなかに根拠のあるものだったから。おれが海へ行くと決めた、海へ行かなきゃいけないと結論が出た、だから海へ行く。それだけの話。

嵐が来る前の潮騒のように、胸がざわざわと騒いで収まらない。意識しなくても早歩きになって、歩幅もどんどん大きくなってく。一海、もう長いこと会ってない。会いたい気持ちはあったけど、出海さんや花子ちゃんの言葉が引っ掛かって向き合う勇気を持てなくて。今になって思ってみれば、それはただの言い訳に過ぎない。ダサいよな、他の人に何か言われたからって一海に会おうとしないなんて。行った先に一海がいるのかなんて分かんない、ただ海があるだけかもしれない。それでもいい、「一海がいるかもしれない」場所に迷わず行くことで、ダサい自分を捨てなきゃいけない。

迷わない、そう迷わない。行き先は決まってる、一海と出会ったあの場所、青浜って言われてる浜辺。どういう訳か行き交う人の少ない、おれと一海の遊び場になった場所。行くとしたらあそこしかない、青浜しか思い浮かばない。行かなきゃ、行こう、行くぞ。気持ちはどんどん逸るのに、おれは走る速さでしか迎えない。陸を歩くもどかしさ、海ならもっと早く泳げるのにな。自分が陸に縛り付けられてることを実感する。赤い陸、青い海。花子ちゃんの言葉が唐突に再生された。

おれは赤い陸にいて、一海は青い海にいる。

(一海から離れるなら、今しかない)

出海さんはそう言った。

(トッちゃん。一海ちゃんのことは、忘れるんや)

ユカリはそう言った。

一海に近しい人間二人からおれに投げ掛けられたメッセージ。じわじわとせり上がってくる不安、おれは一海から離れるべき、おれは一海のことを忘れるべき。どっちも方向は合ってる、少しもズレていない。一海のことをおれより知っている出海さんとユカリが、揃って「一海と別れろ」って言ってる。どうしてだ、どうしてだって気持ちが止め処なく溢れてくる。おれは一海のことが間違いなく好きで、一海もきっとおれのことを好く思ってくれてる。

なのに、どうして。とてもとても大きな「どうして」に答えが出せないまま、おれは走り続ける。一海と出会った場所、青浜を目指して。そこで何が待ってるのかは分からない、何か待ってるのかさえも分からない。だけど行かなきゃ、行かなきゃって思いが身体を動かし続けてる。

少しずつ暗くなっていってる空が、先の見えない未来を暗示しているみたいに見えたのは、ただ気の持ちようのせいなんだろうか。

 

青浜まで辿り着く。橙色の海、強い磯の匂い、生温い風、砂浜を撫でる波の音、口に広がる微かな潮っぽさ。五感の捉えた海は昨日まで、何なら今日の昼までと何も変わらない。おれの中で渦巻いてる考えとか思いとか、そういうものに影響を受けてるとかまるでなくて、何のカンケイも持たなくて、やだただありのまま、素のままの姿でここに在って。少し息をつく、砂浜へ下りてみよう。何かあるかも知れないから。

石の階段を下りる。全段降り切って海と砂浜に目を向けてみた。すると――そこに人影を見つけて。人影? そんな曖昧な存在? 目から入ってくる情報を脳が処理し切れてない、カッと頭が熱を帯びる。あれは人影だけど人影じゃない、そんなのじゃない。もっとおれに近しい存在、おれが会いたいと思ってた誰か、そのもので。

(一海)

一海、一海がいた。砂浜に……一海がいた。見間違えるはずなんてない、あれはどこからどう見たって一海で、疑う余地なんてどこにもない。海辺にいる一海、この夏一度も会ってなかった一海、その一海がすぐ目の前にいる、五秒も歩けば手が届きそうなくらいの近くに。

だけど一海は、一海は。様子がおかしかった、最後に見た時とは何もかもが違っていた。何が違うのかって? 病院に入院してる人が着るような薄手のガウンを羽織って、砂浜でうずくまってる。座り込んで何かを抱えるように、俯いたまま顔も上げずに。様子がおかしい、なんて一言で済むような状況じゃない。なんだこれ、どうなってるんだ、一体どうしたってんだ。

「一海ぃ!」

どうなってるか考えるより先に体が跳ねて、瞬きする間に一海の側まで駆ける。一海、一海っ、繰り返し名前を呼ぶ。だけど顔を上げる気配がない、もっと近付かなきゃ、どうなってるのかこの目で確かめるんだ。肌と肌が触れあう距離で足を止める。うずくまる一海に逸る気持ちを全力で抑えながら手を添えて、すぐ近くで名前を呼ぶ。

「……うぅ、うぁ、あぁ」

「一海? 一海っ!」

反応があった。かろうじて、って言葉を前に付けなきゃいけないけど。本当にかろうじて反応があって、のっそりと顔を上げておれの目を見た。言葉にならない声を上げてる、喉の奥から無理矢理絞り出したような痛々しい声だ。あの混じりっけの無い水のような一海の声とは全然違う、今にも消え入りそうで、耳を澄ませてもなお聞き取るほどが難しいくらいの濁った声をしてて。

目はうつろで、おれのことが見えてるのかも分からない。誰かがいる、そういう情報しか一海の頭には入ってないかも知れない。澱んだ目で声のする方向を見てる、意識してじゃなくて無意識の反応に見える動き。原因はすぐに分かった、すごい熱だ。一海の肌は尋常じゃない熱を帯びてて、触れてるおれが燃えそうなくらい発熱してた。高熱で苦しんでる、だからここで座り込んでる、それは分かる。だけど……どうして? どうして一海はこんな状態で青浜にいるんだ。

一海が呻いて微かに体を捩る、その時おれの目に飛び込んできたものは、瞳が捉えた光景は。

「腹が、膨らんでる」

不自然に生地がピンと伸びたガウン。一枚下には一海の腹があって、それは――膨らんでいた。あたかも風船のように、さながらハリーセンみたいに。一海の大きく膨れあがった腹、それを見たおれが真っ先に考えたこと。真っ先に考えて、他のあらゆる考えを全部蹴散らして、意識のど真ん中に飛び出してきたもの。

 

赤ん坊が、一海の中にいる。

 

驚く、ただ驚く。驚いて、驚いて、どう受け止めればいいのか分からなくて、逆に一切の反応を失う。一海に赤ちゃんができた? だからあんなにお腹が大きくなってる? どうして、どういうことだ、どうなってる、全部が全部謎だ、どこにも答えなんてない、ただ事実があるだけだ。一海は大きなお腹を抱えて苦しんでる、熱を出して身動き一つ取れない、その事実だけは動かしがたくて。

「うぅ、あぁっ! ぅああぁっ!」

「一海!? どうした、一海っ」

悲痛、そうとしか表現しようのない声を上げて、一海が悶え苦しみ始めた。左手でガリガリと砂浜を引っ掻いて、右手はお腹に当てたままで。まさか、おれが一海の様子を確かめる。座り込んだ一海、その股間の辺りが他よりもずっと濡れてて、透明な液体が流れ出てるのが見えた。一海の中で何が起きてるのか、どういうことになってるのかを理解する。理解して……それから、無意識のうちに息を止める。

産気づいたんだ、今すぐにでも子供が生まれそうなんだ――って。

何がどうなってこうなったのか? おれに分かることなんてない、だけど一海が苦しんでる、文字通りの生みの苦しみを味わってることには何も間違いなんてない。おれは高熱と痛みにうなされる一海を砂浜に横たえてそれから上半身を支えて、少しでも、ほんの僅かでも一海に楽な姿勢を取らせる。今はただ一海に助かってほしいってことしか、一海に生きていてほしいってことしか頭になくて、他の事は、もうどうでもよくて。

一海がおれの腕にしがみつく。何か掴んでないとダメなんだ、おれが理解してされるがままにする。力加減なしに突き立てられた爪が腕に深く食い込む。痛くないって言えば嘘になる、だけど一海の痛みとは比べるのも恥ずかしい。おれが傷だらけになろうと構いやしない、一海がそれで痛みを和らげられるっていうなら、おれはもうそれで構わない。ただ一海に少しでも楽になってほしい、一秒でも早くこの苦しみから解放されてほしい。

どうか、神様。一海を助けてやってくれ、おれにできることならなんでもするから、だから。

「うぁぁぁぁああぁっ! はぁぁっ、はぁぁーっ、ぐぅぅうぅぁあっ」

獣のような――いや、獣そのものの声を上げる一海を、おれは必死に支える。額に浮かんだ汗を拭って、少しでも楽になれる姿勢を探して。一海を助けたいという思い一色の中で、どうしても拭えない疑問がポンと置かれている。どうして一海は子を身籠ったのか、妊娠なんてしてるのか。理由がまるで分からない。おれは確かに一海と交わった、だけどそれはきちんとすることして……有体に言えばちゃんとゴム付けてした、それは間違いない。なのにどうしてこんなことになってる? いったい何があった? 一海に何が起きたんだ? 誰も応えちゃくれない、ここにはおれと一海しかいないから。

ガウンの股間に当たってる箇所が赤く滲む。血が出たんだ、中で動いてる証拠だ。一海はますます痛みが強くなったみたいで、おれにしがみついて暴れはじめた。歯を食いしばって目をキュッと閉じて、見ているこっちにまで痛みが伝わってくる。もっとおれが一海にできることはないのか、そう思って視線を泳がせる。するとおれの目に――暗色を湛えはじめた、紺碧の海が飛び込んできた。

(一海の母さん、海で子供産んだって言ってた)

一海の母親は一海を海で出産した、一海が生まれて初めて触れたものは海、海だ。一海は陸よりも海でいる時の方が活き活きしていた、おれも何度となく見た光景だ。一海は海で生まれて海で生きてきた。だったら――だったら海へ触れさせれば、ちょっとでも楽になるかも知れない。今にも出産しそうになってる身体を動かすことがどれだけマズいことかなんて小学生でも知ってるだろうけど、一海が楽になれるならそれでいい。背に腹は代えられない、やるしかないんだ。

おれは痛みに苦しむ一海を抱きかかえると、ぐっと足に力を込めて立ち上がる。海まではほんの十歩くらいだ。一海を刺激しないように普段の何倍も時間を掛けて前へ進む。一歩、一歩、また一歩。つま先が海水に触れたのを感じた。この辺りだ。膝を折り曲げて屈み込むと、一海の下半身が軽く海水に浸るような位置を探して、そっとその体を横たえる。相変わらず苦しそうにはしてるけれど、ほんの少しだけ表情が和らいだように見えた。気休めだって構わない、今のおれと一海は、小さなことにだって縋らなきゃいけない荒波にもまれてる最中なんだから。

浅瀬へ一海の身体を下ろしたときにガウンが捲れ上がって、海に向けて股ぐらが露わになる。こんな時だって一海に恥ずかしい思いはさせたくない、そう思って元の位置へ戻そうとしたとき、おれは一海の恥部に「白いもの」を見た。白いもの。そう、白いものだ。真っ白い何かが一海の陰部からせり出してる、明らかに子供の頭とかじゃない、見間違えるはずがない。それは血に塗れながら一海の恥部に埋もれていて、今まさに外へと生まれ出でようとしている。これは何だ、って疑問よりも、これは何々だ、って気付きが先に来て。先に来てしまって。

――「タマゴ」。「タマゴ」が、一海の体から出てこようとしてる。

赤ん坊じゃない。一海が産もうとしてるのは、人間の赤ん坊じゃない。そうじゃなくて、一海は……タマゴを産もうとしてる。膨らんだ腹にはタマゴがあって、一海は今それを外へ産み出そうとしてる。赤ん坊じゃなくてタマゴを、一海が。血まみれになりながらタマゴは確かに白くて、海水を浴びて血が洗われていく。ホントに真っ白だ、空に浮かんだ雲みたいに、いや、もっといい例えがある。それこそ――今のおれの頭ん中みたいに。

「ぁあぁぁぁぁっ! はぁぁああっ、ふぅぅっ、ぅぁぁあぁあっ!!」

言葉を忘れた一海が、荒々しい、嵐に揉まれた海のような荒々しさを迸らせた声を上げて息む。身体の中の異物を一刻も早く排出しようとしているようにも見えたし、子供をひと時でも早く海へ産み落としてやりたいようにも見えた。視界が捉えた情報を脳が処理しきれずに、見て反射的に生じた考えが止め処なく浮かんでは消えてを繰り返す。一海がタマゴを産んでる、聞いたこともない声を上げながら、おれがいることも分からないみたいに。一海はおれのことが分からない、おれも一海のことが分からない。此処にいるのは一海なのに、まったく知らない別の誰かを見ているみたいで。

いったいどれくらい時間が経っただろう? 光の途絶えた空に感化されて暗くなった海に、赤い血がゆらゆらと、靄のように浮かんでいて。けれど血の赤は海の青に成す術もなくかき消されて、少し経てばそこに何もなかったかのように消え失せる。そこへまた赤色の血が漂ってきて、海を少しの間だけ赤色に染める。そのサイクルの中心にあるのは、青でも赤でもない、真っ白でいびつなカタマリ。

タマゴを産んだ。一海はそのカラダから、タマゴを産み落とした。

本当にタマゴ? 何かの間違いじゃない? 縋るようなその疑問を理性が跳ね除ける。どこからどう見てもタマゴで、それ以外の何者でもない。膨れ上がっていた一海の腹はすっかり萎んで、産んだのが一海以外の誰でもないことを物語る。一海がタマゴを産んだ、人間の赤ん坊じゃなくて、人間が産むはずのないタマゴを産んだ。頭の中で何回繰り返しても腹落ちしない、一海は腹からタマゴを生み落したっていうのに。どうして? なんで? おれの疑問は尽きなくて、だけど答えてくれる誰かも、応えてくれる人もいない。

一海の産んだタマゴと、タマゴを産んだ一海を交互に見る。一海はぜぇぜぇと荒い呼吸を不規則に繰り返して、ぼんやりと虚ろな目をしたまま何も言わない、濁った眼はここじゃないどこかを見ているかのようで、どう見てもここにいるおれの姿なんて見えてない。たぶん、おれの目も同じくらい淀んでたと思う。好きな人がタマゴを産んだ、その様を目の前で全部見せつけられてただ茫然としてる。どこからどう手を付けたらいいのか分からない、手のつけようがあるのかも。

ぽつり。頬が冷たい雫で濡れる。反射的に顔を上げた、雨が降ってきて雨粒が顔を叩いた。さっきまで晴れてた気がするのにな、雨降るんだな。普段なら気にするようなことも、理解の限界を超えた出来事の連続で灼け付いた頭は素通りさせちまう。降り出した雨はおれだけじゃなくて、タマゴを産んだばかりで疲れ切ってる一海もまた同じようにして濡らしていく。

「はぁ、はぁっ……ふぅ、はぁ……」

どうしてかは分かんない、分かんないけど、一海の呼吸がゆっくりと落ち着いたものになり始めた。荒っぽくて苦しげだった呼吸が静まって行って、一分もしないうちに寝息を立てるようなごく穏やかな感じに変わった。息の具合だけじゃない、酷い熱を発してたカラダから一気に熱が引いて、あっという間に平熱――一海とおれが肌と肌で触れ合う時に感じた、あのおれより少しだけ低い体温にまで落ち着いた。雨に打たれて呼吸が弱ってる、冷え切ってる、って感じじゃない。どっちもごく普通の、具合が悪くない時の調子に戻った。どうして? 分からない。おれには何も分からない。

分からない、一海がどうしてここにいたのか。分からない、一海がどうして子を身籠ったのか。分からない、一海がどうしてタマゴを産んだのか。分からない、一海がどうして雨に打たれて回復したのか。どうして? 分からない。何ひとつ、これっぽっちも、ただのひとつも。おれは一海のことを何も知らない、一海の彼氏だって思ってたはずなのに、おれは一海に起きたことを、おれが目にしたことを全然説明できそうにない。

「一海、一海ぃ……」

呼び掛けてみる。やっぱり反応はない。呼吸は落ち着いて熱は引いたけど、一海の虚ろな目は何も変わらない。ひとつの言葉も発さない。おれがここにいることも、やっぱり分からないみたいだ。遠く離れた彼方の向こう、海の果てにある水平線を眺めているよう。目の前におれがいるのに、一海にはちっとも見えていない、まったく見えてない。それを受け容れるのが辛くて、一海、一海、おれは繰り返し繰り返し名前を呼んだ。

おれに、誰か何か教えてくれ。どうしてこうなったんだ、なんで一海がこんなことになっちまったんだ。誰か、おれに教えてくれ。

「ああ、やはりここに居ましたか。鈴木所長の言う通りでした。間に合ったようで何よりです」

誰か、っておれの言葉に神サマが反応でもしたんだろうか、おれでも一海でもない別の声が聞こえてきた。どこのどいつだ、声のした方へ顔を向ける。見覚えの無いやつがこっちに向かって歩いてくる、見覚えはないけど一目見たら忘れられなさそうな奇抜な風貌の男。思わず身構える、一海のことを何か知ってるような口ぶりなのも引っかかるし、何より単純に見てくれが怪しいやつだったから。そう、怪しいんだ、思いっきり。

ソラマメみたいな眼鏡かけてる、言われた方はワケ分かんねえって思うだろうけど、マジでそういう眼鏡かけてるんだよ。白衣を着て、隣になんか見たことないポケモン連れてる。連れ添ってるのが少なくともポケモンだってことは分かる、そいつは――ヤドキングっぽいけどなんか違う、おれの知ってるヤドキングじゃねえっていうか。ヤドキングっぽいポケモンと、手下に見える女を一人連れてる。ずかずかこっちに歩いて来て、おれと一海のすぐ前で立ち止まった。

寄ってきたソラマメ男が一海を見てる。ソラマメ男の周りだけ何か壁ができてるみたいで、降りしきる雨を全部弾いて少しも濡れてない。たぶん隣のヤドキングが超能力で防いでるんだろうな、傘くらい自分で持てばいいのに。ソラマメ男の横にいる女はおれを見てて、片時も目線を離そうとしない。見た目は四十代くらい? 若くはない、それなりに年増だってのは伝わる。おれのことじろじろ見てる理由は知らねえけど、どうせロクなもんじゃないってことだけは確信できる。いったいこいつらは何なんだ、おれたちに何の用事があるんだ。さっき鈴木館長の名前出してたけど、どういう繋がりがあるってんだ。

「お前ら、いったいなんなんだよ」

「これは失礼いたしました。私はエーテル財団豊縁ブロック支部長、ザオボーと申します。以後、お見知りおきを」

「エーテル財団って、最近海で何かしてるやつらか」

「ご存知でしたか。傷付いた海のポケモン……海獣たちを保護する仕事をしています。鈴木所長と共同でね」

「鈴木館長と……なんか関係あるのか」

「ええ、ええ、それはもう。ここ榁にある研究開発部のリーダー、それが鈴木所長ですから」

何を言ってるのか分からない。鈴木館長がこいつらと関わりがあるって? エーテル財団と? そんなことを……いや、言ってた気がする。エーテル財団って名前は出してなかったけど、あの海洋古生物博物館は大きな財団が金を出して作ったとかどうとかって。だとすると、鈴木館長と関係があるってのは事実なのか。一海がちょっと前まで鈴木館長のところにいたってことと、何か繋がりあったりするのか。

「鈴木所長からの報告を受けて、我々がその少女――水瀬さんを保護していたのです」

「一海を?」

「はい。我々でなければ、水瀬さんを診られませんから」

我々、ってのはエーテル財団だよな。エーテル財団は……ポケモンを保護してる、さっきこのザオボーってオッサンが言ってた通りに。エーテル財団でなきゃ、一海は診られない、整理するとそういうことになる。そういうことになるけど、理解が追い付かない。

「貴方は――槇村透さん、そうですね?」

「どうしておれの名前を」

「鈴木所長から伺っています。水瀬さんに近しい方だとね」

「それは」

「水瀬さんと貴方がどのような関係か、それが分からないほど鈍くはありませんよ」

「……おれと、一海」

「ですから、貴方には伝えてもいいでしょう。水瀬さんに何が起きたのか」

ザオボーは眼鏡を直す仕草を見せて、それから。

「ややこしい話になるのですが、今は一刻を争います。正確さを多少犠牲にしても、可能な限り噛み砕いて説明いたしましょう」

「ポケモンたちはつがいになるとタマゴを『見つけて』きます。どこからかね」

「それがどこから生じるのか、或いは彼らが生み出しているものかは定かではありません」

「古くはドクター・ウツギの頃から星の数ほどの研究者によってテーマに採られていますが、未だその起源に辿り着いた者はいない」

「いずれにせよ、相性の良いパートナーを見つけたポケモンがタマゴを『見つける』ことまでは分かっている」

「水瀬さんに話を戻しましょう。水瀬さんは貴方と出会った」

「槇村さん、貴方と」

「水瀬さんはタマゴを『見つけた』。貴方が今手にしているそのタマゴを」

「何が切っ掛けになったのかまでは分かりませんがね。水瀬さんがタマゴを『見つける』に至る経緯があったのでしょう」

それから、それから。

「水瀬さんの子宮でタマゴが『見つかった』。そういうことです」

一海の子宮でタマゴが「見つかった」。タマゴが「見つかった」。ザオボーの言葉が、狭い部屋を跳ね回るボールのように頭の中を暴れ回って。

「貴方も薄々感付いていたかと思いますが」

それから、それから、それから。

 

「水瀬さんは、我々の保護すべき対象」

「つまりは――海獣の一種、なのです」

 

一海は、海獣。ハッキリと、明白に、聞き間違えようのない言葉で、おれにそう告げた。

「一海が、海獣」

一海は海獣。それが指し示すのは、一海は人とは違う、おれとは違う生き物だって意味で。赤い陸で暮らす俺たち人間とは違う、青い海で生きる海獣だってことで。他にどう解釈すればいい? 余地なんてどこにも無い、一海は人間じゃない、海獣だ、確かにそう言われた。人間の赤ん坊じゃなくてタマゴが「見つかった」のも、一海が海獣だからってことになる。

心の隅っこで――もしかしたらそうじゃないかと思ってた、だけど無意識のうちに知らないふりをしてた。一海は人間、他と少し体質が違うだけのれっきとした人間、そう思おうとしてた、思いこもうとしてたって方が正しいかも知れない。どれだけ陽の光を浴びても日焼けしないのも、水の中でいつまでも潜っていられたのも、海獣たちと分け隔てなく仲良くしていたことも、声の届かないはずの水中で語りかけてきたことも、それから……タマゴを身籠ったことも。全部繋がってる、一海が海獣だって言うなら、ただの人間じゃないっていうなら、辻褄が合う。

合ってほしくなかった、あってほしくなかった。

「しかしある程度は予見していましたが……かなりの衰弱が見られます。水瀬さんを早急に博物館へ連れて行かなくては」

ザオボーがちらっと後ろに目を向ける、控えてた女が前に出て来た。一海を連れてくつもりだ、アタマん中滅茶苦茶になっててもそれくらいは分かる、ダメだ、一海を連れて行かれちゃ。おれが一海の傍に居なきゃ、一海がおれの傍に居てくれなきゃ、おれは、おれは。

「待てっ、待ってくれっ」

近付いてきた女にしがみついて、一海を連れて行かないでくれと懇願する。女はおれを哀れむような瞳で見下ろして、一言も発さずにただ見つめるばかりで。おれが女と押し問答をしていても、一海は何の反応も見せない。ただ息をしているだけで、それ以外の動きを全然してない。一海がどうなったのかなんておれに分かりっこない、だけどここで一海を連れて行かれたらもう二度と会えなくなる、それだけは嫌だ。おれは一海と一緒にいたい、だから連れて行かないでくれ。

おれは一海を連れて行かれないよう必死に女にしがみついてた、だから女の横からもう一つ影が出てきたことになんて、気を向けられるはずもなくて。

「荒事は好まないのですが、この際止むを得ません。ギフト、槇村さんを抑えてください。丁重にね」

不意に全身が重くなる、上から重い荷物を載せられたみたい、いやもっと強い、壁が迫ってきて押しつぶされそうな感じになって、思わず砂浜に突っ伏した。無理矢理どうにか顔を上げてみると、あのヘンな風貌のヤドキングが女の隣に立ってた。軽く前へ差し出した手がぼんやり妖しい色に光って、超能力っていうかなんていうか、そういう力をおれに使ってるのが分かる。急に体が重くなったのはこいつのせいだ、理由は分かったけど、目に見えない力に対抗なんてできやしない。

そうしている間に女が一海を起こして、後ろから追加でやってきた仲間連中が持ってきた担架に載せる。一海の産んだタマゴも一緒に。待て、やめてくれ! 口を開けてそう叫ぼうとしても何も叶わず、ただただ湿った砂を噛むばっかりで。一海が連れて行かれちまうってのに、一海がおれの手の届かないところへ行っちまうってのに、何もできずにもがいてるだけ。こんな無力なことがあるか、こんな無情なことってあるか、こんな無様なことってあるか!

(やめろ! 一海を連れて行くな! やめてくれ!)

おれがどんだけ願ったところで止めるようなやつらじゃない、遠ざかっていく一海を見ることしかできなくて、這いつくばることしかできなくて。おれを抑え込んでたザオボーがヤドキングに「もういい」と言いたげなサインを送る。途端に押さえ付けられてた感覚が和らいで、まともに息ができるようになった。だけど身体は言うことを聞いてくれずに、起き上がれないのは変わらないままで。

「どうかご安心ください、水瀬さんは我々が保護し、治療いたします。お約束しましょう」

「槇村さんも、風邪を引かぬようお帰りになられた方がよろしいでしょう」

「人間は――雨になると『うるおい』を得る、水瀬さんのようなカラダではないですからね」

ザオボーとヤドキングがおれの前から去る。そうして砂浜に残されたのは――おれ一人だけ。一海はもういない、走って追いかけても届かないところまで行ってしまって、どうにかなるって状況じゃなくなった。ほんの少し前まで腕の中に一海が居たのに、今はもう何もなくて、空虚を抱いて座り込んでる。

打ちひしがれる、ってコトバがここまで当てはまる場面、おれの人生の中で今まで無かったと思う。目の前で起きたことを受け入れられなくて、だけど頭では全部現実だって理解してて、でも気持ちがまるでさっぱり追い付いて来なくて。立ち上がることさえできずに、海から打ち寄せる波と空から打ち付ける雨に体を濡らされて。手のひらにわずかに残る一海のぬくもり、それさえも奪われて、失われて、消えて行って。

(一海)

考えが一つもまとまらない、少しもカタチにならない。何か考えようとしても覚束なくて、海へ浚われていくみたいで。一海はどうしてタマゴを産んだのか、一海を連れて行っちまったあいつらは何者なのか。分からないのは一海のことだけじゃなくて、おれもまた同じで。おれはどうすればよかったんだ、何をどうしたらこんなことにならなかったんだ、考えても考えても分からなくて、思考が一歩も前に進んでいかない。立ち上がることもできずに、雨の中で砂浜に座り込んでる。ざあざあという波の音が聞こえる、聞こえるっていうか、ただ耳に入ってくる。見ることも聞くこともままならず、ただ目に映る、耳に入るばかりで、意味を見出すことができない。

だから――だから、後ろから砂を踏みしめるざり、ざり、という音が耳に入ってきても、おれは何のリアクションも起こせなくて。横に微かな気配を感じて、おれはようやく俯いてた顔を上げた。

「やっぱり、まだいた。槇村君」

誰だろう、って思うくらい頭が回らなかった。五秒くらい間が空いたと思う、涌井だって気が付くのに。涌井が立ってた、おれのすぐ隣に、傘を差して。どうして? 次に浮かんだ感情はそれだった。どうして涌井がいる? どうして涌井が今ここに? 回らない頭じゃ理解も追い付かない、今横に涌井がいる、その情報を受け止めるだけで精いっぱい、そっから先に進めない。

おれの頭ん中が泥棒に入られた後の家の中みたいにぐちゃぐちゃになってるのを見透かしたみたいに、涌井が続けて口を開く。

「見てたよ、さっきのこと」

涌井の言ってる「さっきのこと」ってのが何か、いくらおれの頭が滅茶苦茶になってマトモに働かないからって、それが分からなくないってわけじゃなくて。

「だから言ったのよ、水瀬さんと付き合うのはよしなよって」

「かず、み」

「あの子は人間じゃない、得体の知れない『獣』なのよ」

おまえ、と言い返そうとした途端、その途端、涌井がぐっと一歩前に踏み込んできて。おれが何か言おうとするのを塞ぐように、さらに言葉を被せてきて。

「知らないみたいだからここで教えてあげる。槇村君が一海と付き合わない方がいい、一番の理由」

何言ってんだ、真っ先に浮かんできた言葉。おれが一海と付き合わない方がいい理由ってなんだ、なんで涌井がそんなことを言うんだ。全然道理の通らないことがずっと起こり続けてて、何も理解できないことばかりだ。ユカリがおれを襲ってきたこと、誰から来たのかもわからない「海へ行け」ってメッセージ、海で倒れてた一海、一海が産んだタマゴ、一海とタマゴを持ってった連中、何もわかりゃしない。そしてこれも同じ、また分からない、おれはまた分からない。「分からない」を突き付けられて、おれの頭はもう焼き切れそうになってて。

頭が情報の海に溺れかかってる、そう言う状態のおれに向かって、涌井が言ってきたのは。

涌井が、おれに向かって言ったことは。

 

「一海の親を殺したのは、槇村君、あなたのお父さんなんだから」

 

涌井が――おれに向かって、言ったことは。

「お父さんって言ってもね、槇村君が今一緒に暮らしてる人じゃない」

何言ってるんだ。

「あの人は槇村君のお父さんじゃない、叔父さんよ。分かる? お父さんの弟さん」

何を言ってるんだ。

「槇村君がお父さんだって思ってる人はお父さんじゃない、叔父さんなのよ」

何を言っているんだ。

「それで、一海のお母さんは人間で、お父さんは『海獣』」

何を、言っているんだ。

「海獣に惚れた一海のお母さんを槇村君のお父さんが」

「憎んで、妬んで」

「それでどっちも殺したのよ」

何を、言って、いるんだ。

「槇村君の本当のお父さんが、一海の親を殺したの」

「あなたは人殺し、獣殺しの子供なのよ」

すべての音が聞こえなくなる、目の前からあっという間に色が消えてカタチを失くして、五感がひとつ残らず働かなくなっていって。

何を言われた? おれは何を言われた? 涌井はおれに何を言った? おれは涌井に何を言われた? 何も分からない、分からないことが分からない、ひとつも理解できることがない。おれは、今どうなってるんだ。一番内側にある自分自身のことが何ひとつ分からないのに、さらに外のことなんて分かるはずがない、分かりっこない、分かるわけがない。

「でもね槇村君、私はそんな透君のことが好きなの」

「私が全部受け入れてあげる、全部赦してあげる。だから」

言葉が形を成さない、音を音として認識できない、ただ鼓膜を震わせるだけで、頭の中で意味を解釈できなくて。

「だから、一海も四条さんのこともみんな忘れて」

「私のことだけ見て、私の声だけ聴いて」

何も見えない、何も聞こえない。

何も。

「ねえ、槇村君、私を見て、私の声を聴いて」

何も。

 

――何も。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。