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#27 「刺青」/パーマネント・ブルー

目覚めた。目覚めた? 感覚は覚束ない、まだ夢の中にいるみたいだ。それもロクな夢じゃない、起きた後も心身を苛む嫌な夢。額にじっとり汗が浮かんでるのが分かる、部屋が蒸し暑いからってだけじゃない、絶対それだけなんかじゃないって確信できる。今どこにいる? 辺りを見回してみる、埃っぽい見慣れた学習机と雑誌が押し込まれた本棚が見えた。あぁ、おれの部屋、間違いない。どっか変なとこで気絶してたりはしなかった。どうやって帰って来たんだろうな、自分の脚で戻ってきたはずなのに全然覚えてない。それどころじゃないから? たぶんそう。

深く息を吸う、肺が膨らんでくのをカラダで感じ取る。そのカラダは鉛みたいに重い、鉛の塊を持ったことなんてないけど、だけどこの重さは鉛みたいだって表現するのが一番合ってると思う。動かそうとしたら軋む音が聞こえてきそうなくらいカラダが重くてカタくて、なんか自分のそれじゃないみたいだ。あるいは宇宙服みたいなものを上から着せられてるみたいな。どんなカタチだっていい、ただ言うことを聞かないってことだけは間違いないから。

おれ、どうしてここにいるんだろ、昨日あったことはなんだったんだろ、何考えてるんだろ。おれの考えが分かるのはおれだけなのに、何考えてるのか分からない。混乱してる、分かりやすく言えばそう。めちゃくちゃのぐちゃぐちゃになってる、砕けた言い方するならこっち。何か考えようとすると別のことが割り込んできて、そっちに意識を向けるとまた別のことがずかずか踏み入ってくる。夢の中で脈絡のない光景が流れてく、あれをハッキリした意識があるのに見せられてる感じだ。わざわざ言うまでもなく、気分なんて悪いに決まってる。

おれは今夢を見てるわけじゃない、現実にいるんだ、ふらつく心を抑え込んで考えをまとめようとする。うまく行きそうな感じはしない。取り留めもない考えが海岸へやって来ては戻っていく波みたいに流れて、その中のひとつを拾い上げるのが精いっぱいで。

(海に沈んでく夢を見た)

陽の光が届かない暗い海底、おれがそこへ静かに墜ちていく。海に沈んだことなんて無いからあくまで空想で、おれが自分のアタマの中で考える「海へ沈んでいく」風景でしかない。だけど、だけど信じられないくらい鮮明で、絶対海の中にいるって思うくらいに克明だった。今こうやってベッドの上で横になってたらおかしいって思えるんだけど、夢を見てる間はおれが海の中にいるのが当たり前だって感じてた。何がどう当たり前なのか説明なんてできないけど、ただ「当たり前だ」って感覚で全身を縛られてる感じで。寝てる時に見る夢ってさ、感情が自分でコントロールできないことってなくない? どうでもいいようなことで泣くほど感動したり、怖いはずの光景を何も思わず見てたり。そういうやつの「当たり前だ」版って言えば伝わるかも。

底無しの海に沈んでって、辺りからどんどん光が喪われてく。落ちても落ちても終わらずに、ただ沈んでいく感覚だけが延々と続いて、一生終わらないかと思うほど。おれのカラダも見えなくなっていって、海とひとつになったみたいな気分だった。どこまでがおれで、どこからが海なのか境目があやふやで。おれは海で、海はおれ――そう考えて意識が消えそうになるたびに、おれはおれだ、っておれ以外の誰かに突き放される。誰に突き放されたのか? 姿かたちを見たわけじゃない、言葉にされたわけじゃない。だけど、確かに拒絶された。

海に。おれを飲み込んで包み込んでるはずの、海に。

夢だったのかな、今も自信ない。現実だって言われれば現実みたいだったし、夢だって思えば夢だとも思える。夢と現実、そのちょうど真ん中でずっと彷徨ってた。彷徨ってた? ちょっと合わない。浮かんでたって言い方のほうがたぶん正しい。自分の力じゃどこにも行けなくて、ただ揺られて流されて、漂ってるだけ。地面に足が付いてない感覚が一生続いてるみたいだった、だってそこは海で、足を付けるべき地面がないのは自明だから。海じゃ人は立って歩けない、できることはただひとつ、波に乗せられてどこへともなく連れていかれるだけ。

おれ、今ベッドの上にいるんだよな、自分ちにいるんだよな、海じゃなくて陸に上がってるんだよな。いつもだったらいちいち確認しないようなことをしつこく確かめる。確かめるけど、何度やっても実感が湧かない。今もまだ記憶の海に沈んでる感覚が抜けきらない、ずっと続いてるみたいだ。カラダがゆらゆらとした感覚に支配されて思うように動かせない。気持ちから来てるものだとは思う、だからってどうにかなるわけじゃないけど。

(おれ、生きてんのかな、死んでんのかな)

分からなかった。ハッキリしなかった。鉛みたいに重くて動かない身体は死んだんじゃないかって思うほどだったし、片時も胸から離れない息苦しさは逆に生きてるって感じさせる。生きてるっていうか、生きさせてる。生きたいとも思わないのに生かされてて、生きてるが故の痛みとか苦しみとかを味わわされてる。重たい重たい無力感、鎖に見たいになって全身を締め上げて包み込んで。寝返りを打つことさえ億劫、なんならやり方忘れちまったんじゃないか、それくらいカラダが動かない。いつもは連携取れてるアタマとココロとカラダがてんでバラバラ、繋がってた線が全部引き千切られたみたいになってて。

(なんでここにいるんだろ、なんで生きてるんだろ)

おれのこと。他でもないおれのこと。どうして今ここにいて、どうして今横になってて、どうして今――生きてるんだろ、生まれてきたんだろ、って。ただそれだけをずっとずっと考え続けてて、だけど答えなんて出てくるはずもなく。生きてる理由とか生まれた理由なんて分かりっこないのにな、だけど考えるのを止められない、どうやっても止められない。

あの日おれが知ったことを、まだひとつも受け止められずにいる。

一海のこと。一海が人と海獣の間に生まれた、海獣の子供だってこと。おれのこと。おれが一海を殺した犯人と誰かの間に生まれた、罪人の子供だってこと。

おれは誰で、誰の子供で、そいつが何をしたのか。全部聞かされた、何もかも一から十まで包み隠さずに。今まで誰にも言われなかった本当のことを、誰も教えることのなかった事実を突き付けられた。なんで誰も――ユカリも、父さんも、出海さんも――おれに言わなかったんだろう。言えばおれがこんな風になっちまうって分かってたから? そうかも知れない。みんな知ってておれに伝えなかった、おれが打ちひしがれてこんな風になるってきっと理解してたから。

おれは、一海の親を殺した人間の――子供だった。

あれからどうやって家まで辿り着いたのか覚えてない、思い出せない。歩いて帰ってきたのか? 誰かに連れてこられたのか? どっちだろう、それくらい記憶が曖昧で。流れは分からないけど家まで帰ってきて、それからベッドの上へぶっ倒れて。口の中カラカラに渇いてるし、腹の虫が鳴ってるのも感じる。だけど何も喉を通らない、口に入れて食べる気も飲む気もしない。生きるってこと、それ自体に理由を見いだせなくなってる。なんで生きる必要あるんだろ? 感傷とかじゃなくマジでずっとそんなことばっかり頭の中でぐるぐる渦巻いてる。

親父はどうだったっけ、ふと浮かんできたことを回らない頭で考える。ちょっと長い出張って言ってた、帰ってくるのは結構先だったはず。出掛けてる間にこんなことあったなって知ってるわきゃねえよな、だけどどんな顔して会えばいいのか分からない。分からない分からないの連続、何も分からないって気持ちしか湧いてこない。親父、って言ってるけどそれでいいのかな。あれが本当だって言うなら、おれがあの人のことを「父さん」って呼んで、おれの中で「親父」って思っていいのかどうかも分からない。

寝返りを打つ、頭に硬い感触がした。ずいぶん重く感じる腕を動かして辺りを探ってみる、スマホだった。残り電池が27%になってる、帰ってきてから一度も充電してなかったのを思い出す。した方がいいこと、しなきゃいけないことは山みたいにあるのに、何も手に付きそうにない。ただ時間を浪費して、徒に心を摩耗するばっかりで、あれから一歩も前に進まない。「前」って何で何処なんだろうな、今のおれには分かりっこない。

息をするたび湿っぽくて、空気が淀んでるのが分かる。てか今何時だろ、カーテン閉めきってるから外の様子も分かんないし。ろくにモノも考えられないまま日付を見た、8月9日になってる。帰って来たのが8月7日、丸々一日横になってたんだ、日付を見て今更だけど実感する。そんなに経ってたんだって気持ち、まだ一日しか経ってないんだって感覚。矛盾してる両方の感覚が全身をすっぽり包み込んでる。時間の感覚、完全に無くなってる。

時間がどんだけ経ったって、あの時のショックが和らぐなんてことはないけど。

「いってぇ」

声が出た、意識しないまま勝手に。背中が痛い、肩が痛い、この辺はずっと同じ姿勢で寝てたから。あと目が痛い、目というか瞼、開けてるのが辛くてつい目を閉じそうになる。起きてるのか寝てるのかきわどい夢を見てる時のあの不快感が今も纏わりついてる感じ。辺りがぼやけて頭も回らない、喉がカラカラに渇いてることに気が付いた。額に浮かぶくらい汗かいてるのに帰ってきてから一滴の水も飲んでなかったから水分が足りてない、脱水症状なんだって思った。カラダが水を欲しがってるんだ。アタマは全然回らなくて、ココロはここに在らずって感じだけど、水が要るってカラダの訴えをやっと理解する。

強引に無理矢理に、ベッドに貼り付いたみたいになってた体を起こした。ぐわん、と視界が暗くなる。足元が思いきりふらついて、本棚に手を突いてなんとか倒れ込まないようにする。フラフラだ、マトモに歩くのも大変なくらいに。水飲まなきゃ、這うみたいに洗面所へ歩いてく。蛇口をひねる、冷たい水が噴き出す、口を付けて飲もうとする。口の中に水の味がぶわっと広がったかと思うとカラダが受け付けなくて、入り込んできた水を一滴残らず全部吐き出した。喉が痛え、思わず咳き込む。なんとか落ち着いたってところで顔を上げる、鏡におれの顔が映った。

おれの顔、死んだ人みたいだ。生きてるって感じがしない、此処に居ちゃいけない存在。

そんな風にしか、見えなかった。

 

砂時計ってあるじゃん、砂が上から下へサラサラーって流れてくやつ。あれがずーっと頭の中に浮かんでる。時間が砂みたいにどんどん流れて行って、身も心も砂みたいにカラッカラに渇ききってる感じ。頭の先から足のつま先まで、何から何まで砂時計だ。時間の流れがやたらと遅く感じる日が続いて、かと思ったらいつの間にか日が暮れてるってことも繰り返し起きて。万人に平等だって思ってた「時間の流れ」から取り残されてる、みんな時間の流れの上にある船に乗って先へ進んでるのに、おれだけ岸に置き去りにされてるみたいな絵面が浮かんでは消え、浮かんでは消え。

生きてるのか死んでるのか分かんねえや、どっちだって構わないって言った方がいいかも知れない。時々思い出したように水道の水飲んで、コンビニでカロリーメイト買って食べてる。マジで何の味もしない、固めた粉を食ってるような感覚。うまいとかまずいとかの次元じゃない、ただ必要だから口に運んでる。これホントに必要なのかな、そう思いながら口動かしてる。なんだろな、生きるのが億劫になってるって言い方が一番ハマる気がする。なんで生きてるんだろ? なんで生きなきゃいけないんだろ? 切迫してないけど一向に消えない疑問、頭の中でぐるぐる渦巻いて、コーヒーに垂らしたクリームみたいな模様を描いてる。

親父は――まだ帰ってこない。長い出張になるって言ってたっけ、いつ帰ってくるのかも忘れた。てか、今がいつなのかも分からない。時間の感覚がマヒしてる、「しびれごな」でも吸い込んだみたいに。帰って来たとしてどうすりゃいいんだろ、どんな顔して会えばいいんだろ。おれのこと、どんな風に思って今まで一緒に暮らしてきたんだろ。考えれば考えるほどに泥沼に嵌る。まとまらない思考が反響を起こして、閉めきった部屋の中で声が幾重にも折り重なるようにして、思わず頭が痛くなった。目を伏せてテーブルに突っ伏す、動く気がしない、動ける気がしない。

疲れ切ったアタマに浮かぶのは、あの日知ったおれ自身のこと。おれはどうして生まれたのか、おれの中の誰かがひっきりなしに問い掛けてきて、その度におれは答えが出せずに言葉を詰まらせる。これで終わりなんかじゃない、親父は何を思っておれと居たのか、どうして自分を引き取るつもりになったのか、どんな思いでここまで育ててきたのか。続けざまに問われる、やっぱり答えなんてどこにもない。答えがあるのかどうかさえも分からない。たぶんない、ありっこないと思う。

おれ自身とひとしきり向き合って考えて、それから浮かんでくるのは――やっぱ一海のこと。一海、今頃どうしてるかな、何か考えてるのかな、考えられるような状態なのかな。一海に会いたい、フッとその気持ちが浮かぶとあっという間に膨らんで、収拾がつかないくらいの速度でココロの中に広がってく。見る見るうちに行き場を失って大暴れして、一海に会いたくても会えないおれ自身を内側から激しく痛めつける。

腕を見る、意識せずアタリマエみたいに。あの日から繰り返し繰り返し、おれは自分の腕を見てる。そこにあるのはただの腕、何も描かれていないおれの腕に見える。他には何も見えない、少なくとも物理的には。だけど分かる、おれには分かる。目には見えなくても感じられるもの、深く深く彫り込まれて刻み付けられたそれを、おれは確かに自覚する。

――「刺青」。おれには「刺青」が入っている。赤ん坊としてこの世から生まれた瞬間からおれに付けられた、決して消えることのない確かな証。赤ん坊、って言うくらいだから全身が熱で真っ赤になってるのに、その部分だけは「青」い。おれには「刺青」が入っている、目には見えなくても、肌に現れていなくても、思い込みとかじゃなくそこに「刺青」がある。今まではただ気付かなかっただけで、ずっとそこにあったんだ。おれにとっての生まれつきの青、一蓮托生の青、切っても切れない青。

一海の全身に海獣の青い血が巡っているように、おれの全身には咎人の青い文様が刻まれているんだ。

(おれの、『父親』は)

そいつは一海の両親を殺した、海で一海の母さんと父さんをその手に掛けた。おれはそいつの息子、一海の両親を殺した男の息子。自分は他でもない、一海にとっての親の仇、親殺しの子供。一海を独りきりにした男がおれの父親で、おれは一海の親を殺して海を赤く染めた者の子供で、おれは、おれは。

おれは。

 

何もしない、何もできない、何もしようと思わない。ただ横になって、時が流れるに任せている。気持ちも体力もすっかり失せているのが嫌でもわかった。無為な時間、って小説の言い回しでしか見たことなかったけど、正しくこういうことを言うんだろうな、そんなことを疲れ切った頭でふと考えた。浮かんでくるのはせいぜいこんなことくらいで、ずっと何か考えてるように見えて実際は何も考えられてない。おれのこと、一海のこと、代わる代わる浮かんでは消える。カタチにならないまま泡のように消えて、また海底から浮かび上がる泡のように考えがよぎる。前にも後ろにも一歩も進めず、足踏みを延々繰り返してる。

海の上を歩くことなんてできっこないのにな、人って。

ずっと無気力のまま過ごして、永遠にベッドの上にいるのかなって思ってたら、時折ふらりと外へ出かけるようになった。目的地なんて無い、ただ陽の光が照り付ける中を彷徨い歩くだけ。カラダがひとりでに動くような感覚に襲われる、たぶんそういうやつだ。どこともなく当てもなく意味もなく歩いて、歩いて、歩き続けて。

ふと気が付くと、海にいる。そういう日が多くなった。

呼ばれてる気がする、海に。海自体がおれを呼んでるのか、あるいは海の中にいる誰かがおれを呼んでるのか。どっちも同じだ、変わらない。歌、歌のような声。声、声のような歌。その歌声で、自分を海へ誘おうとしてる。聞こえるわけじゃない、耳で聞いてるわけじゃない。だけど確かに聞こえる、渇きに渇いて荒みきったおれのココロを撫でるように、あるいは引っ掻くようにして、歌声がおれの中に入り込んでくる、染み込んでくる。

何かするわけじゃない、何かしようって気持ちもない。海へ入ることもせず、かといって海から離れることもなく。ただ海の近くにいるだけ。海の前で佇んでいるだけ。一海と出会った場所、一海と遊んだ場所、一海と触れ合った場所。今はもういない、ここに一海はいない。アタマでそう理解ってても、海へ来ずにはいられない。だけど来るたびに現実がおれを突き刺す。一海はいないって現実が、おれを何回も何回も串刺しにする。孤独の中に沈んで、おれが今生きてる理由を見失いそうになる。

ざわつく。ココロがざわついて、ザラザラと砂嵐のような音を立ててる。それは海を見ているから、海を感じているから。海を見ているとココロが波のようにざわついて、ほんの少しだけ生きてる実感が得られる。だけどそのざわつきはやがて衝動に変わって、重くなったカラダを突き動かそうとしてて。どこへ? 行先は決まってる、ひとつしかない。海。海へ身を投げ出しそうになってる。

(いっそのこと)

いっそのこと、この澄み切った海とひとつになったら、おれも穢れのない綺麗な存在になれるのかな。

ただ、そんなことだけ考えてた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。