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#28 海の向こうへ消えた人

今いつだろ? 何日だろ、何時だろ。時間の感覚ぶっ壊れてる。日が高いとこまで昇ってるのを見て、なんとなく今は昼くらいかなって思うくらい。家に居ても外に居ても変わらない、空が明るくなったらふらっと外に出て、日が暮れるまで人気のない道を歩いてる。歩いてる、歩いてるのかな。自分で自分の足を動かしてるって感じじゃなくて、カラダが勝手に動いてるって方が合ってる気がする。地に足が着いてる感覚もない。二度寝して見たやけに鮮明な夢の中で、思うように前へ進めなくてもがいてる、あれに近いと思った。

誰もいない、誰も歩かないような古く細い道を進んでいく。どうして? おれがおれに問う、わからない、おれがおれに返す。今歩いてる道を選んだのはおれだけど、どうしてその道を進んでいるのかの説明はおれにもできない。もしかすると、もしかするとだけど、誰にも会わないようにしてたのかも知れない。おれが今誰にも会いたくないって気持ちだったのもある、あるけど、それ以上に――おれが誰かに会うことで、その誰かを傷付けるような気がしてた。おれが近付くことで誰かを傷付けちまうんじゃないか、って。

それこそ……一海、みたいに。

生きること、死ぬこと、どっちにも意味を見いだせないんだ。生きててもしょうがないっていつも思うし、その次の瞬間には死ぬのも億劫だって気持ちが湧いてくる。考え事はちっともまとまらずにわらわらと浮かんできては、何かのカタチを成すこともなくそのまま消えていく。海底から上がってきて、海面に浮かぶと弾けて消える泡みたいに。ココロもカラダもどこにも行けず、広い広い海を無力なまま漂流してる。何かしなきゃって気持ちはある、だけど気持ちだけでどうにかなるわけじゃない。

浮かぶのは一海の顔、一海の姿。浮かんでは消えて、浮かんでは消えて。部品が壊れて同じ個所だけを再生するようになったボイスレコーダーみたいに、一海、一海と繰り返す。繰り返すことを繰り返して、それをまた繰り返して。渦に囚われたみたいになってる、抵抗が意味を成さないまま海底へ引きずり込まれていくみたいに、もがいてももがいても、思考のループを止められずにいる。アタマの中はぐちゃぐちゃになってるのにカラダがまったくそれに着いて行けてない、全部の反応が遅くなってる。だから、って言い方もどうかと思うけど、ポケットに突っ込んだスマホが揺れたことに気付くのにも時間がかかった。

秋人からだった。LINQで一言「大丈夫か?」って。何か返した方がいいんだと思う、返さなきゃいけない状況なんだって気持ちもある。おれ、ずっとおかしくなってるから。もう一週間とか二週間とかそれくらい。誰ともまともに話してないし、こうやってスマホに連絡来てもロクに返事すらしてないから。秋人とは付き合い長いから、おれが普段と違ったら気になって当然だろうし。だけど、だけど応える気力がわかない。なんてレスすればいいのか分からない。気に掛けられてる、心配されてるって分かってて、だから何か返事しなきゃって思うんだけど、どうしても指先が動かないんだ。

そのままぼんやり突っ立ってスマホを見てた、どうすればいいのか分からなくて、ただぼーっと立ったまま。そうしたらまた掌に震える感触が来た、また秋人かな、それくらいの気持ちでスマホを見る。LINQの画面に変わりはない、新しいメッセージが来たとかじゃない。画面の上を見る、LINQじゃなくてSMSでメッセージが届いたことを通知してる。普段滅多に使わないやつだ、見ることもほとんどない。だけど少し前、ここに誰かが連絡を寄越してきたのを覚えてる、思い出した。

「海へ来て」

たった四文字の、短い短いメッセージ。短いから通知欄に全部収まってて、読もうかどうかを判断するよりも先に目に飛び込んできた。前にも同じメッセージを見た、あの日誰とも知れない誰かから送られてきたものとまったく同じ。「海へ来て」、ただそれだけ書かれてて、いつどこでなんで海へ行かなきゃならないのかは分からない。無味乾燥な文章だと思う、だけどどうしてだろうか。

「……海へ」

ほんの少しだけ、おれがまだ「生きてる」ってことを、思い出せたような気がした。

差出人は分からない。電話番号だけ載ってる。思った通り前と同じ番号からの発信だった。おれが知らなかったこと全部を知ったあの日メッセージを発信してきたのと、まったく同じ番号からだった。誰からなのかなんて分からない、なんでおれに「海へ来て」って言うのかなんて見当も付かない。どうして今なのか、どうしておれなのか。一から十まで分からないことだらけで。

だけど、脚は動いていた。海の方へ、海へ向かって、海へ誘われるように。海へ行く理由はどこにもない、だけど行かない理由だってない。じゃあおれはどう思ってる? おれの表向きの部分じゃなくてもっと奥の方、本能はどうしたがってるんだって話で。その答えが脚の向いてる方向だった、海へ行こうとしてる、海へ行きたいって本能が訴えてる。このまま本能に身を任せてみたらどうなるだろう、そう思いかけて、今更何がどうなったって構いやしない、そういう気持ちが湧いてきた。

分からないのは海だって同じ、海に何があるのかも、向かう先に答えがあるのかも。だけど脚は動き続けて、少しも躊躇う気配を見せない。きっと海に何かがあると、おれの知らない自分が告げているから。

だから、行こう。海へ、行くんだ。

 

陽の光に照らされて肌を焼かれるのを感じながら、ただ海まで歩いた。一番近い道を脇目もふらずに。吹き抜ける潮風の匂い、打ち寄せるさざ波の音、吸い込まれそうな深さの青。おれが海へ近付いてるってことを五感がしきりにアタマへ訴えかけてくる。海へ来たぞ、海へ来たぞ、って。理解が及ぶよりも先にカラダが海を感じて、それでいっそう脚が早まるのが分かって。居ても立っても居られない、言葉通りの有様。

堤防の階段を下りて砂浜へ向かう。一海と何度も訪れた思い出の場所、だけど今ここに一海はいない。ただそれだけなのにまるで知らない場所のように見えて、ソワソワした感覚が収まらない。目で見てるものとアタマで認識してるモノが噛み合わない感じ。知ってるところなのに別の道から入ってきたら全然別の風景が見えることってあると思うけど、あれをもっと強烈にしたらこうなるんじゃないかな。

海を視界に捉える。クズモーやメノクラゲが漂ってる、ハート型の魚っぽいポケモンが泳いでる、遠くでマンタインの子供みたいなのが跳ねる、もっと遠くでホエルコが集まってる。こんなにポケモン――海獣のいる海だったっけ。明らかに数が増えてる気がする。理由は分からない。おれが海について知ってることなんて本当に少なくて、四捨五入したらゼロになるくらいのことしか知らない。それくらい、海っていうのは捉えどころのない、捉えることのできない存在なんだ。

熱のこもる砂浜に立ち尽くす。それからただじっと海を見てる。何もせずに海に身を預けて、自分をどこか遠くへ飛ばす。深い深い青色、波の音、磯の香り、口の中に滲む微かな潮の味、肌を撫でる潮風。さっきよりも五感がさらに刺激されて研ぎ澄まされて、全身で「海」を受け止めてるってのが分かる。おれは海にいる、海はここに在る。海がおれのすぐ側にある。

輪郭が無くなってくのって分かるかな。境界が曖昧になるって言ってもいい。自分は陸に居て二本足で立って、口から息を吸って吐いてる。なのに海の中にいて、地に足が着かずロクに息もできなくなりそうになってる。今にも海へ融けてしまいそうなくらい、おれは海を全身で感じてる。

赤い血が青い海へ流れ出していく光景が、脳裏へ鮮やかに浮かび上がった。

(呑まれたのかな、おれ)

おれ、あの時に海へ呑み込まれたんじゃないか、日が経てば経つほどそう考えるようになった。降りしきる雨の中で、おれと海がどこで分かれてるのか分からなくなった、感じられなくなった。それでも尚おれが「自分」って存在を感じ取れていたのは、「おれは海には受け容れられない」というどうしようもなくデカい拒絶感だけ。深い深い、底無しの拒絶、それだけで、今のおれはできてる気がしてて。

今こうやって海の前へ来るまでに、いろんな人からたくさんの言葉を掛けられた気がする。

『あの日、青い海に赤い血が流れた』

『一海から離れるなら、今しかない』

出海さんの言葉。

『海には青い血が流れている』

『少しばかり普通ではないのです。カズミお姉ちゃんの、カラダのつくりは』

花子ちゃんの言葉。

『トッちゃん、一海ちゃんのことは、忘れるんや』

『こないするんがええ、こないするんが一番ええんや』

ユカリの言葉。

『水瀬さんはタマゴを『見つけた』。貴方が今手にしているそのタマゴを』

『水瀬さんは、我々の保護すべき対象。つまりは――海獣の一種、なのです』

ザオボーって人の言葉。

『槇村君の本当のお父さんが、一海の親を殺したの』

『あなたは人殺し、獣殺しの子供なのよ』

それから――涌井の言ったこと。

今なら全部意味が分かる。海とはなんだったのか、どうして一海と共にいるべきじゃなかったのか、一海がどんな存在だったのか、おれはいったい何者だったのか。全部分かった、分かっちまったって方が合ってるけど。何も知らなかったのはおれだけ、何も知らないまま今日の今日まで生きてた。

おれってなんなんだろうな、まとまらない考えのまま海を視界に捉えてると。ざり、ざり――砂浜を歩く音が耳に入ってくる。今おれは足を止めてるから、誰か別の人だってのは確かだ。音がだんだんハッキリ聞こえるようになってきた、出所が近付いて来てるって方が正しい。向こうと思って向くんじゃなくて、肩を叩かれて振り返るみたいに意識しないまま、おれは海から目を離して背中側を見た。

見覚えのある顔、よく見知ったやつってわけじゃないけど、誰だかまったく分からないってわけでもない。言葉通り「顔を知ってる」ってレベル。それが明らかにおれの方へ近付いてくる、気のせいとか思い込みじゃない、しっかりおれの方を見てつかつかと歩いてくる。

(隣にいた女の人だ)

一海を海で見つけた日、ザオボーってやつの隣にいた女だった。前と同じ白衣を身に付けてる、それ以外で見た目に変わったとことかは特にない。特に若作りしてるとかでもない、マジで「どこにでもいそう」な四十代くらいの女の人。あのソラマメみたいなカタチの眼鏡掛けてるザオボーの横にいたとは思えないくらい、普段なら気にも留めないような特徴のなさ。

だけど、おれに向かって歩いてくる。ただそれだけでも十分気になるし、何より一海とおれのことを見てた人だ。おれに何か言いたいこととか伝えたいこととかがあるのかも知れない、そうじゃなきゃわざわざ関わる理由なんてないし。思った通り、女の人はおれのすぐ隣まで来て立ち止まった。ちょっとの間海を見つめて、ただの一言も口に出さずに海を見て、それから。

「ここにいたのね。よかったら、少し話をさせて」

あちこち探してた、って感じじゃない。頭に「やっぱり」ってつけるのがしっくりくるような口ぶりだった。おれに何か用事があるんだ、言われなくても理解する。だけど何の用事までかは分からない。おれのこと? 一海のこと? それともまた別の何か? この女が何を言いたくて、何を言おうとしてるのか分からなかったから、とりあえず様子を窺ってみる。

話をさせてほしいって言われて、おれはいいともダメとも言わなかった。拒絶する理由がなかったし、聞かせてほしいって言うのも違うと思ったから。無言、だけど距離を取ろうともしないおれを見た女が、一歩踏み込んですぐ隣になった。それから視線を海のほうへ流す、そっと手を引かれて連れて行かれるように、おれもさっきまでと同じように海を瞳に映し出した。

どれくらいそうしてたかな、ちょっと間が空いたと思う。相手が口を開いた。見えたわけじゃない、空気の変化で感じ取れたっていうか。見なくても分かる、そういう言い方も合ってる。

「水瀬さんは今、海洋古生物博物館で静養している」

「鈴木館長のところか」

「そう。容体は何とも言えない。危険ではないけれど、健康というわけでもない」

納得感があった訳じゃないけど、女の言葉に疑問は無かった。一海は海で苦しそうにしていたけれど、雨に打たれてしばらくするとあっという間に熱が引いて、呼吸も穏やかになったのをこの目で確かめたから。原理とかは分からないけど、あの時もう命の危険はなくなったって感覚はあった。

じゃあ一海は大丈夫なのかっていうと……全然そうじゃないのも分かってたけど。

「ただ一日中水槽の中を泳いで、海獣たちと戯れている」

「一言の言葉も発さずに」

一海の様子が今までと違うのもまた確かで、そしてその変化はまだ収まってないみたいだった。そうだろうな、諦めにも似た気持ち。どうして、理不尽さを覚えたときの気持ち。二つの感情が混じり合わずに一緒に湧いてくる。気持ちのいいものじゃなかった。

間。張りつめた空気を全身で感じる。だからほんの微かな動きも読み取れて、何か言うな、ってことが分かって。

「水瀬さんは海獣の子供。それはもう知っているはず」

口を閉じたまま頷く。間違いない、確かに知ってる、理解してる。

「携帯獣の子供は両親の特徴をそれぞれ受け継ぐ。ただ法則がひとつあって、姿形は必ずメスのものになる」

「水瀬さんの母親は人間だった。だから水瀬さんは、人の姿形を持って生まれた」

「携帯獣は人なのか、人は携帯獣なのか。それはこんな立ち話で答えの出る疑問じゃない」

「ここで確かに言えるのは、水瀬さんは人であり海獣であること、母親は人間だということ」

ざざん、打ち寄せる波の音。周囲が変わっていく中にあっても、いつまでも変わらず辺りに響いていて。女の言葉を受け止めて飲み込みながら、ただじっと海を見つめる。おれの目の前にある青い海を、ただ、じっと。

「出海さんの姉……晴海。それが水瀬さんの母親」

「晴海、さん」

そう。女がただ一言だけ呟いて肯定した。

「天真爛漫で自由奔放な人だったわ。水瀬さんの母親だってことがこれ以上なく納得できるくらいに」

「そして、父親は」

「『アクエリア』は――『殻の無いラプラス』のように見えた」

「彼が本当に『殻の無いラプラス』なのかは分からなかったけれど」

「少なくとも海獣であること、晴海さんと心から結ばれていたのは確かだった」

久しぶりに聞いた言葉、つまり過去のどこかで聞いたことのある言葉。『殻の無いラプラス』、一海が言ってたことだ。父親のことだったのか、今になって理解する。

『それは、本当に「殻の無いラプラス」だったのかな』

一海も同じように言っていたことも、併せて思い出して。

「晴海はこの海で育って、この海で子を産み、そしてこの海へ消えた」

「彼女の連れ合いが、水瀬さんの父親が、あの海獣がどこから流れ着いたのか今も分からないけれど」

「海へ呑まれていったのは、私の目で確かに見た」

「……槇村浩。その男の手で殺められて、海を鮮やかな赤に染めた」

「赤は海の青に抱かれて、やがて完全な青へと染まっていき」

「今はもう、その面影すら見ることは叶わない」

理解する。女の口にした「槇村浩」って人が、おれの「父親」なんだって。家に居る父さんは「父親」じゃなくて、一海の両親を殺した「槇村浩」っていう見ず知らずの男がおれの「父親」なんだ、って。

どうしてなんだろうな、ホント、どうして。どうして、としか言えない。すくってもすくっても止め処なく溢れ出てくる水のように、どうしてって言葉が何度も何度も繰り返される。だからってどうしようもないことも分かってる、分かってるけど、でも。

でも。そう考えずには、いられない。

「海獣たちは、海に消えたふたりのことを知らない」

「ありのままあるがまま、ただ生き続けている」

「この海には晴海とアクエリアが融けている。誰にも知られずに、ひとつになって」

「すべてを呑み込み、包み込む。それが海というものだから」

海には一海の母さんと父さんがひとつになって融けている。一海がいつも海にいたのは、生みの親を感じることができたから? 一海はきっと自分の出自を知っていて、両親が「どこにいる」のかも分かっていた気がする。両親がいなくなった理由がおれの父親にあったのかは――知ってたんだろうか。知っていたとしても知らなかったとしても、おれが背負っているものには何も変わりはない。

いっそのこと、両親を奪った憎い存在として恨まれていれば、おれはまだほんの少しだけ救われたかも知れないとも思う。

おれは海とひとつになれない、アタマでは分かってる。分かってても、海に身を投げてしまいたいという衝動は日に日に強くなっていってる。海に融けてしまえば、おれのカラダに刻まれた罪も洗い流されるんじゃないか。ココロがアタマをねじ伏せて、カラダを海へ放り込もうとしてるのが分かる。アタマがなんとかココロを抑えつけてるけど、だけど「なんで抑える必要がある?」の気持ちもまた強くなってきてる。

「人は海では生きられない。海から出るか、海に呑まれるか、そのどちらかしかない」

そうだ。海で生きられないのがニンゲンって生き物、おれは紛れもないニンゲン、赤い血が身体の中で流れるニンゲンだ。いずれ海から上がるか、あるいは海の底へ沈むか、どっちかしか末路はない。それで、おれは、海へ飛び込んで沈む方を選ぼうとしてる。今にも、今まさに。

「晴海はその向こう側へ行った、人であることを止めて、海とひとつになった」

ニンゲンでいることを止めれば海とひとつになれるのかな、晴海さんはそうなったってこの人は言ってる。ニンゲンを止めるってことは、つまりこのカラダを捨てて、何か別の存在になるって意味だと思う。もっとストレートに言うなら、もっと飾らずに言うなら。

生きるのを、やめてしまえばってことで。

「私はただそれを見ていることしかできなかった。友としてできることは……何ひとつなかった」

そうだろうと思う。結局人が誰か別の人に対してできることなんて知れていて、誰かの道を変えることなんてできっこない。結局人間はみんな独りぼっちで、だけど他人とのつながりを切ることもできない。おれが一海の両親を殺した男の息子だってことは消せないし、断ち切ることなんてできない。

ああ、おれは、おれは。

「だから、今度こそ止めなければならない。止めなきゃいけない」

おれは、海へ――。

 

「……透。あなたを」

 

はっとして俯けていた顔を上げた。名前を呼ばれた? 透、って。おれの名前? どうしてこの人がおれの名前を? 理由がスッと出てこない。海でいっぱいだった頭の中は、急に降って湧いた疑問にちっとも追い着けない。

女の人はおれを見てる、いや見てるなんてもんじゃない、じっと見つめてるって言うべき目をしてる。ただ目線を合わせてるのとは全然違う、明確な意志と理由を持っておれを見てる。射抜かれるような目、って言い方することあるけど、人生の中でそれが一番当てはまる目を見せられてる恰好だった。おれは戸惑うばっかりで、戸惑ってる様子もひっくるめて見られてる。ちっともたじろがずに、ただ真っ直ぐに。

おれの名前を知ってること自体はおかしくない、鈴木館長とかから聞いたんだろうって想像がつく。でもそれだけじゃ足りない。この人がおれを「名前」で呼ぶ理由がない。普通に考えたら「槇村」って呼ぶはずなんだ。「水瀬さん」とか「鈴木館長」って言い方してたし、この人にとって他人は苗字で呼ぶのが普通なんだろうって思ってる。だから不意に「透」って呼ばれて、おれはただ戸惑った。

(この人、いったい)

どういう風におれを見てるんだろう。誰として? 見ず知らずの誰かとして? ただのエーテル財団のいち職員として? とてもそんなレベルじゃない、そんなのに収まる目をしてなかった。「どうして?」すぐには分からなかった。この人がおれをこんな目で見る理由が思い浮かばなかったからだ。そのままずっと理由なんて分かるはずがない、知ることなんてない、そう思ってたんだ。

だけど、だけど。また別の「どうして?」が浮かんでくる。あの人がおれを見る「どうして?」とは違う「どうして?」だ。どういう「どうして?」なのか。今ここで抱くには違和感がありすぎる感情だったから。どういう違和感? 思いも寄らないこと、降って沸いたにしても繋がりがなさすぎる気持ち。具体的には? 具体的にはなんなんだ?

記憶が裏返ったみたいだった。忘れてたことを不意に思い出したとき、あの時の感覚がおれの中に生じた。「どうして?」おれは分からない。目の前に立っている女の人をおれは知らない、まったく知らない赤の他人、そのはずなのに。何のつながりも持たない、ごく最近榁にやってきたエーテル財団の職員だって聞いてたのに、今おれが感じてるのは全然つじつまが合わない感情。

懐かしい、一番強かったのはその感情だった。なぜかは分からない、根拠もない。おれはこの人を知らないはず、でも……「どうして?」。懐かしいって気持ちが瞬く間に膨れ上がっていく。遠い昔に自分の前から去ったはずの誰かが、今おれの前にいる。それは誰だ? おれにとって懐かしいと思う誰か、思い当たる節はほとんどない。この人とどこで出会っていたのだろう? いや――「出会う」ってことがあったのかもあやふやで。

おれが誰かと出会うってことを意識するよりももっと前から、この人はおれの傍にいたんじゃないか、って。

(まさか、この人は)

物心つく前から知っている、長らく目にしていなかった懐かしい女の人。おれには父さん以外の親戚はいない、繋がりのある人は限られてる。まさか、まさかこの人は。

「か――」

おれが口を開きかけたとき、女の人は寂しげな表情を一瞬浮かべて、おれからふっと目を逸らした。おれが何かに気付いたのを察して、おれが言おうとしたことを察して――その言葉を聞くことはできない、聞くわけにはいかないとでも言うかのように。

「これは、お願い。指示でも命令でもなく、私のお願いよ、透」

「水瀬さんの、いいえ、一海ちゃんの傍にいてあげて」

「私は……私は、傍に居られなかったから」

「晴海にも、出海さんにも、一海ちゃんにも……」

「……あなたの傍にも」

ただそう言い残して、彼女は海に背を向けて、おれに背を向けて、去っていく。遠くへ歩いていく、海から、おれから、離れていくのが見える。ああ、これにも見覚えがある、確かに思い出した。おれから離れていくあの人の姿、それを追おうとして追い付けないおれ。遠くへ行ってしまう、追いすがろうとしても届かずに、海へ足を踏み出して全身が呑まれる感覚を覚えて。

海を畏れるようになったのは、この時からだった。ずっと傍にいると思っていた人を遠くへやってしまって、自分自身を吞み込もうとした海を、おれはひどく畏れるようになったんだ。泳ぐことが好きなおれが決して海に近づこうとしなかったのは、幼い頃にとてつもない畏怖を植え付けられたからだ。

(おれが抱いてた畏怖を変えてくれたのが、一海だった)

一海が手を引いて、おれを海へと導いてくれた。海に抱いていた大きな恐れを、消せない惧れを、抜きがたい畏れを、一海は綺麗に洗い流してくれた。文字通り、一海はおれを変えた。おれの在り方を、心を、何もかもすべてを。

あの人は言った。「一海の傍にいてあげて」、と。おれの出自とか、生まれとか、誰とどういう繋がりがあるのかとか、すべてを知ったうえで「一海の傍にいてあげて」と口にした。おれの中で新しい感情が芽生える感覚を覚える。今までどこにも無かったそれは、ずっと沈み込んでいたおれの心を少しずつ、少しずつ浮かび上がらせていく。

背中を押される気がした。あのエーテル財団の人に――いや、違う。そうじゃない。あの人は……「あの人」なんかじゃない。

(母さん)

今はもうはるか遠くになった母さんの背を、おれはずっと、ずっとずっと見つめていた。見えなくなるまで、目で追えなくなるまで。

行かなきゃ。おれ、行かなきゃ。

 

今日は……父さんが、おれが父さんと呼んでいる人が、あの家に帰ってくる日だから。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。