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#29 もう一度、どうかもう一度

蒸し鶏のサラダと麻婆豆腐、気付いたらそれ作ってた。おれも父さんもどっちも好きな献立、絶対に外さない組み合わせってやつ。手つきがビックリするくらい軽かったんだ、今まで鎖で雁字搦めにされてたのが全部外れて、自由すぎて戸惑うくらいに。楽しいって感じじゃないけど、昼頃まであったどうしようもない気怠さとか遣る瀬無さとか、そういう内側から苦しめてくるやつはだいぶ薄らいでる。どうしてだろうな、訊くまでもないか。海へ行って話をしたから。あの人と話をしたから。

父さんが帰ってくる、半月ぶりくらいだ。さっきLINQにメッセージが来てた、予定通り今夜七時ごろに家に着くって。時計を見ると六時五十分ちょっと過ぎ、いつ玄関のドアが開いてもおかしくない。出張に出てから何回か簡単な連絡は取ってたけど、八月七日に知ったことは一言も話してない。話せるわけなんかないと思う。文章で一から十まで全部伝えるのはおれじゃ無理。自分の口で、自分の言葉で言うのが精一杯だ。

だから、ちゃんとまとめて話をしようって決めた。海から帰ってきてからすぐに。一海と付き合ってること、一海の正体を知ったこと、自分の親と生まれを知ったこと、母さんにまた会ったこと。どれをとってもおれにとってすっげえデカいことで、一つ話すだけでも間違いなく覚悟が要る。一気に話せるのか、おれの中のおれが訊いてくるけど、喋ることを決めたおれは「そうするのが一番いい」って答えが出てて。どれか一個を抜かしても、おれが父さんとちゃんと向き合ったことにならないから。

変わりぶり、おかしいよな。頭ん中グルグルして何も決められなかったのが、ああしようこうしようってポンポン決められるようになって逆にぎこちない。開き直った? そう言ってもいいのかもな。過去はもう変えられない、ましてや生まれつきのことなんてどうしようもない。今の状況は最初からこうなる運命だったに過ぎない。この話をして父さんに縁切りされてどっかで野垂れ死にするようなこと、あるいは「知った風な口をきくな」って言われてぶん殴られてそのまま死ぬようなことになっても、このまま何も言わずに上辺だけで生きていくより絶対にいい。「命を運んでくる」から「運命」だ、ってジョジョの吉良吉影も言ってたな、文脈は全然違うけど。

殴られたっていい、家をたたき出されたっていい、その時はその時、いつそうなるかの違いでしかない。父さんが今までおれを育ててくれたことには何も変わらないし、感謝の気持ちも一ミリだって揺るがない。海に投げ出されて揺蕩うみたいに、大きな流れに身を任せよう。

ガチャリ。

鍵を開ける音が聞こえた。ぴくんと心臓が跳ねたのを感じるけど、勢いに任せて立ち上がるのは抑えた。大きく大きく息を吸って、少しテンポの乱れた鼓動を落ち着かせる。もう覚悟はできてる、出迎えるのはいつも通りでいい。話をするのは一息ついてからだ。平静さを取り戻すのとほとんど同じくらいのタイミングでドアが開いた、父さんの姿が見えた、立つのは今だ、ゆっくり椅子を引いて立ち上がる。カラダが軽くてビックリした、思い通りに動くってこんな感じなんだな。心地いいや。

「ただいま、透」

「おかえり父さん」

いつも通り、父さんも多分おれも。少なくとも父さんのほうは普段と何も違ってない。半月ぶりでもわかる、どっしり構えて穏やかな雰囲気をまとってる感じ。大黒柱っていうのはきっと父さんみたいな人を指すんだ、小学生くらいに言葉を時から割と本気で思ってる。照れくさくて面と向かってはとても口にできやしないけど、簡単には口に出せないから紛れもない本音だってことでもある。

様子は普段と変わらない、それはその通り。だけどほんの気持ち、父さんがいつもよりデカく見えたのも事実で。もう成長期とかじゃないから物理的に背が伸びたわけじゃなくて、おれの見え方、心理的なものだってことくらいは分かる。さっき「大黒柱」って言葉を出したけど、今の父さんは家を力強く支える「柱」のようで、おれの目の前にそびえる大きな「壁」のようでもある。

だけど父さんがどんな風に見えてたって、おれがしようとすることは何も変わらない。それくらいで変わるようなことじゃないから、それくらいで揺らぐようなことじゃないから。父さんが壁に見えるなら、壁にぶつかっていくだけの話だ。壁にぶつかってオシマイなら構わない、それがおれの運命ってやつだから。

「父さん、帰ってきていきなりだけど」

「ああ。どうした」

「話したいことがあるんだ。少し時間が欲しいんだ」

今しかない。何もかも洗いざらい話して、白黒ハッキリさせるなら、今この瞬間しかない。おれが一歩前に踏み込む。ユカリや秋人と格ゲーやってるときの感覚が全身を駆け巡った。劣勢ならどっかで前に出て崩しに行かなきゃ勝てない。勝つのは誰に? 父さんじゃない、おれ自身。生まれ、っていうどうしようもない過去に縛られてるおれを叩きのめして前に進まなきゃいけない、もう一回「リスタート」を決めてやるんだ。

前に歩き出すための「リスタート」が、過去じゃない今のおれには必要なんだ。

「分かった。話してくれ」

父さんは驚くことも怪訝な顔をすることもなく、普段座っているおれの向かい側の席に着く。おれもいつも座ってる席に着いた。見慣れたカタチだ、こういう点でもいつも通りかも知れない。だけどひとつ、明確に違うところがある。父さんの目は真剣だった。おれの一挙手一投足に注目してるのがビシビシ伝わってくる。真剣だけど、怒ってるのとは全然違う。ただ真剣なだけ。おれが大事な話をしようとしてることに気付いてる、どんな話なのかも感付いてる感じだ。

だけど繰り返したい、父さんの顔つきは怒ってたり憤ってたりするのとは違うって。どっしり構えておれの話を聞こうとしてくれてる。だったら全部話すしかない。見てきたこと聞いてきたこと触れてきたこと感じたこと、何もかも全部つまびらかにするときだ。

「おれ、今まで話してなかったけど」

「水瀬さん、って同い年の女の子と付き合ってるんだ、去年の夏ぐらいから。もうすぐ一年になって、それで」

「七月の頭くらいから体調を崩して、バスで行ったところにある博物館で療養してる」

「具合は……あんまり良くないって聞いてて。いつになったら元気になるかも分からない」

少なくとも驚いてはなかった、水瀬さんって誰だみたいなことも言わなかった。一海の名前を出したときの父さんの反応はそんな感じだった。父さんには一海の話は今まで一言もしてないし、父さんが一海と面識があるとも思えない。いきなり出てきた名前にも特に反応しなかったってことは、その名前を知ってたってことじゃないかって。ただ静かに頷いて、おれの話を最後まで聞こうとしてる。続きだ、続きを話すんだ。

「父さん、信じられないかも知れないけど」

「水瀬さんは人間と海獣、海に棲んでるポケモンの間に生まれたって聞かされたんだ」

「博物館にいて一海の看病をしてるエーテル財団って組織の人から、直接」

「一海を生んだ親はもういなくて、父親のほうは……人間に殺されたことも」

「それが、一海の父さんを殺したのが」

なんとか言葉を繋げてきた、言われたこと聞いたことを思い出してひとつひとつ。でも、ここで詰まってしまった。現実があまりにも耐え難くて、口にすることさえ躊躇われる。声に出して言えるだろうか、一海の父さんを殺したのはおれの「父親」だ、なんて。額にじっとり冷汗が浮かんで、視界が暗くなったり明るくなったりしてる。気を抜いたら意識がぶっ飛びそうだ、消えかかった蠟燭の火を守るみたいにして気持ちを奮い立たせて、もう一度顔を上げる。

父さんは決して急かさない。だけど冷たいって感じでもない。ただ……待ってる。おれが言いたいことを全部言うまで、微動だにせず構えている。表情から読み取れるのはそこまでだけど、おれにとって一番話しやすい姿勢を選んでくれているのは間違いない。

「……おれが、何者で」

「自分が、いったい誰なのか」

「聞かされた。その話も、聞かされた」

「想像もしてなかった。考えすらしてなかった。あり得るとかあり得ないとか、そういう次元じゃない、思い浮かびさえしなかった」

「誰がおれの生みの親で、それがどんな人なのか、何をした人なのかを」

大きく息を吸う。大きく、大きく、胸がはちきれんばかりに深く呼吸する。外から空気を取り入れて、胸の中に満ちている不安と懸念を少しでも減らすために。こっから先が、おれが今から本当に言わなきゃいけないことだから。向き合いたくない、今すぐここから逃げ出したい。あふれ出る後ろ向きな気持ちを全力で押し殺して、おれは重い口を必死こいて開く。

ここで言わなきゃ、いつ言うんだ。

「父さん、父さんは、父さんは」

「……おれの本当の『父親』じゃない。そうだろう?」

「おれの『父親』は父さんの兄貴で、父さんは『叔父』なんだって」

「だから、おれは父さんにとって『父親』として一番深い血のつながりがある子供じゃない」

「父さんは父さんだけど……違うんだ。おれの『父親』じゃないんだ」

動悸で視界が歪むってこと、ホントにあるんだな。懸命に見聞きしたことを伝えてる最中なのに、心のどこかでそんなくそどうでもいいことを考えてるのを自覚する。緊張と不安、懸念と憂慮、ネガティブな感情にココロが晒されすぎて、おれどっかおかしくなってるのかも知れない。それでも言葉をつなげて、話すべきことを話そうとしてる、這いずってでも前に進もうとしてるのはどうしてだろう? なんでだろ?

「それで、おれの本当の『父親』は、父さんの兄貴は」

「水瀬さんの、水瀬さんの」

「……一海の親を、殺したんだって」

分かってるんだ。何もかも明らかにしない限り、おれは前に進めないってことを。

「おれは、一海を殺した人の子供で」

「父さんは、おれの誕生にかかわった『父親』じゃなかった」

「一人じゃない、何人かから聞かされたことだから、間違いなんかじゃない」

「それで……おれは」

「おれ、知らなかったんだ。そんなこと全然知らなかった。考えもしなかった、今まで生きてて一回も」

「他の誰でもないおれが、おれの大切な人の親を殺した人間の子供だったなんてことも」

「……父さんが、『父親』の代わりにおれを引き取って、ずっと面倒見てくれてたってことも、全部……何もかも」

全部言った。言わなきゃいけないことは全部言った。さっきの比じゃないくらい胸がキリキリして、内側から捻じ切れそうなくらい痛かった。痛い、本当に痛い。物理的な痛み、じゃないよな。それとは違う。ココロが感じる痛みが強すぎて、カラダが痛いって錯覚してる。錯覚、錯覚じゃないな。ココロの痛みがカラダにまで及んでる、きっとそっちが正しい。ああ、口に出しちゃったな、言っちゃったな、諦めとも後悔とも取れるし取れない感情がじわじわと、じわじわと滲み出てくる。

だけど、もう立ち止まってなんかいられない。後戻りできるところなんてとっくの昔に過ぎてる。おれの生まれ、生を受けた時から刻まれた「刺青」と向き合うとき、それが今だって分かってるから。自分と切っても切れない、ずっと続く「青」を乗り越えない限り、おれに未来なんてない。

言わなきゃいけないことは言い終わった。ここからはおれの言いたいことを言う番だ。突きつけられた事実を受けて、おれが何を思ったか、父さんに何を伝えなきゃいけないか。自分の言葉でハッキリ形にしたい。

言葉にしなきゃ、本当の気持ちは伝わらない。

「おれ、こんなだけど、こんな生まれだって父さん分かってただろうけど」

「それでもおれ、父さんのことずっと尊敬してて、父さんみたいになりたいって思ってて」

「ここまで育ててくれたこと、本当に感謝してて、それで」

「だけど……だけどおれが、おれがいたせいで、父さんの人生が台無しになったんじゃないか」

「もしおれがいなかったら、父さんはもっと思うように生きられたんじゃないかって」

「おれが父さんの人生をぶち壊しにしたんじゃないか、その考え、ずっと抜けないんだ」

「誰がおれの『父親』なのか聞かされたときからずっと、ずっと」

顔を上げられない、父さんの目を見ることができなかったから。それでも言葉を紡ぐことをやめない、全部伝えるんだって覚悟したから。

「父さん、おれ、おれ」

「今……ここで縁を切る、勘当するって言うならそれでもいい、おれは恨んだり絶対しない」

「どうか父さんの、父さんの思うとおりにしてほしい」

「ここで死ぬべきなら、おれは死んだって構わない、絶対恨んだりなんかしない」

「おれは、罪滅ぼしを……償いをしなきゃいけないんだ、おれは一海を、母さんを、父さんを……」

「だから……だから、父さん」

「ごめん、おれ、おれ……っ!」

視界が不明瞭になった、ぼやけて何も見えなくなった。向かいに座っている父さんがどんな顔をしてるのか見えない、目が見るのを拒んでる。あふれてきた涙はどんな意味? 生まれながらの原罪に対する怒り、父さんをおれに縛り付けてしまった申し訳なさ、今の今までそれに気づかなかったことへの後悔、父さんがおれにどんな感情を向けるかという怖さ、それでも今までおれを育ててくれたことへの感謝の気持ち。どれか一つじゃなくて全部がぐちゃぐちゃに混ざったまま、おれはただ頭を下げた。ごめんなさい、ありがとう、さようなら。胸から嗚咽が込み上げて、もうこんな短い言葉すら口にできなくなった。

ボケボケになった視界の向こうで何かが、父さんしかあり得ない、ここにいるのはおれと父さんだけだから。父さんが立ち上がるのが見えた、腕がスッと伸びてくる。怖い、だけど逃げることなんてできない、身動きが取れない。叩かれる? 殴られる? あるいは首を絞められるとか? 起こることを考えたら怖くて仕方ない、だけどココロはそれを受け入れるつもりでいる。おれは、おれは。

おれは――。

 

「いいんだ、透。もういい」

「これ以上苦しまないでくれ。頼む、自分を許してやってくれ」

 

――おれは。

抱きしめられてる? 誰に? 自分で自分を抱きしめるなんてことはできない、じゃあ……誰だ? おれじゃない、おれは今突っ伏して泣いてる、テーブルに手をくっつけてぼろぼろ涙をこぼしてる。両手はふさがってて自分をどうこうするなんてできない。ここにいるのはおれと父さんだけ。他には誰もいない。この家に住んでるのはおれと父さんの二人。母さんは出ていった、ユカリは今日家にいない、一海は古生物博物館にいる、他に家に上がるような人はいない。ここにいるのは、父さんとおれのふたりだけ。

じゃあ、今おれを抱きしめてるのは……。

(……父さん? 父さん、なのか?)

何が起きたのか分からなかった。頭の中は真っ白で、考えることも何かを思い出すこともできなかった。何も分からなかったけど、おれを……おれを抱く父さんの手は、腕は、ただ一つの迷いもなかった。迷わず立ち上がって、迷わず腕を伸ばして、迷わずおれを抱きしめた。どこにもためらいなんてない、ほんとにまっすぐ伸びてきて、それで。打ちひしがれて泣いているおれを、絶対に離すまいと力いっぱい抱きしめた。

父さんは今、おれを抱きしめてる。もう苦しまないでくれ、自分を許してやってくれ。そう、確かに言いながら。本当に? これは夢じゃない? 確証が持てない。都合のいい夢を見ているだけじゃないか、疑問が浮かぶ。だけどおれの疑問は、力を籠める父さんの手つきで煙のように消えてゆく。こんなにハッキリした感触のある夢なんて、見ようと思って見られるものじゃない、それくらい今のおれにも理解できるから。

「透、お前の気持ちは分かった。本当に分かった。だからもう、やめにしよう」

「父さんは父さんで、透そのものじゃない。透自身にはなってやれない」

「だから透が、生まれの話を聞いてからどれほどの痛みと苦しみを抱えてたのか、全部は知ってやれない」

「お前の父さんなのに、一番大変な時に苦しみを分かち合ってやれなかった」

「あまつさえ、父さんに追い出されてもいい、殴られたっていい、殺されたって……」

「そんな風に思い詰めるまで、側に寄り添ってやれなかった」

「それがな、父さんは、悔しいんだ」

「父さんはな、悲しんで、苦しんでいる、そんな透を見ているのが……つらいんだ」

顔を上げた。滲んだ視界の向こうに、父さんの顔が見えた。

父さんは……泣いていた。

「透、お前はここにいていい。ここにいていいんだ」

「ここが、この場所が、他でもない透の家なのだから」

「いや……そうじゃない。おれはこんなことを言える立場なんかじゃない」

「どうか、今はここにいてくれ、透。頼む。父さんからのお願いだ」

「父さんはな、父さんはな」

「もし透がこの家を出ていくなら、お互いもっと晴れ晴れとした気持ちで、背中を強く押してやれるような……そんなカタチにしたいんだ」

今まで一度だって泣いたりしたことのなかった父さんが、今のおれと同じように、目を真っ赤にして、ぼたぼたと涙をこぼして……泣いていた。泣いてたんだ、父さんが泣いてたんだ。おれの前で、父さんが泣いてたんだ。

おれに家を出て行けなんて言わない、どうかここにいてほしい、そう繰り返して、何度も何度もそう繰り返して。

「透。確かにお前はおれの兄さんと母さんの、久恵の間に生まれた、それは確かだ」

「だけどな、透。お前は……」

「お前は、おれの息子で」

「おれは、お前の父さんだ」

「誰が何と言ったって構いやしない、透はおれの息子なんだ」

「頼む、透。もう自分を許してやってくれないか」

滲んで歪んでた視界がより一層ぼやける。泣いてるんだな、おれ。心の片隅で自分が今どうなってるかを理解する。なんで泣いてるかなんて言わなくても分かる。おれはさっきも泣いてた。父さんに拒絶されると思ってた、家を追い出されても仕方ないって考えてた、殺されるならそれでもいいって諦めてた、それでもおれの口から何もかも全部話すのが怖くて仕方なかった。先が全く見通せなくて、暗い未来しか無いんだって信じてたから。

今は違う、全然違う理由で泣いてる。父さんは言ったんだ、おれがここにいていいって、自分を許してほしいって、おれは……父さんの息子なんだって。そんな風に言われるなんて、言ってもらえるなんて思ってなかったから、あり得ないと思ってたから。本当はそうなってほしいってずっと願ってた、父さんに許されたいって祈ってた。だけどそんな身勝手なこと口が裂けても言えない、クチートみたいなでかい口でも無理だ。おれなんかがそんなこと言えるわけがない、そう思ってた。

おれ、許してもいいんだな。自分のこと、自分がここに生まれたこと、自分がここにいること。

「父さん」

父さんが、おれの尊敬する父さんが、息子のおれに向かってそう言うんだから。

 

父さんが一度椅子へ座る。おれも座りなおして、椅子に引っ掛けてたタオルを使って顔をぬぐう。おれの顔、多分すごいことになってるだろうな。目は真っ赤だろうし、瞼は腫れてるだろうし、頬には涙の跡がクッキリだろうし。だけどそんなことはどうだっていい、ホントにどうでもいい。気持ちを落ち着かせるほうが先だった。気分が沈んで浮いて、アップダウンが半端じゃない。今はとにかく落ち着かなきゃ。

「透、この際だからはっきり言うとな」

「うん」

「透を引き取ったのは、おれがそうしたいと思ったからだ」

「父さんが」

「誰かに言われたから嫌々、とかじゃあない。他でもないおれ自身の意思だ」

「父さんの……意思」

「今まで後悔したことなんて一度もない。今の人生があるのはな、透がいたからなんだ」

「おれが、いたから」

「自分のためだけじゃなく、子供のために家事をする、仕事をする、生きていく。そして同時に、子供に生活を支えてもらう、生きる目的を与えてもらう」

「うん、うん」

「独りきりで生きていたらきっと理解できなかったことをな、透はおれに教えてくれたんだ」

言いたいこと、すっげえよく分かった。誰かと一緒に生きるってことは、自分以外の誰かが生きることにも責任を持つことだって肌で理解できる。おれが父さんのために飯の支度をしたりするのもそう、父さんが働いてお金を稼いでくるのもそう。互いに自分以外の誰かを必要として、誰かに必要とされて、独りで生きてるわけじゃないんだって実感する。父さんが言いたいのはそういうことで、おれも全然引っかからずに飲み込めた。おれ、父さんがいなかったら生きてけなかったし、父さんに必要だって思われたかったから。

おれがずっと考えてたこと、父さんも同じだったんだ。そう思ったら急に、マジでほんとに急に肩の力が抜けて、別に背負わなくてもいいのにずっと背負ってたものがドサッと地面に落ちる音が聞こえた。頭の中で、おれだけが聞こえる音で。カラダが物理的に軽くなって、自然と背筋が伸びた。よくさ、病は気からっていうけど、病気以外でも気持ちから来てるもの、おれが思ってるよりもずっとずっといっぱいあるんじゃないかって。

「ちょっとな、苦しい気持ちになるかもしれないが」

「うん」

「おれの兄さんが水瀬さんの両親を手に掛けた、これは事実で、変えられない過去なんだ」

「わかってる。おれがその人の子供だ、ってことも」

「そうだ。だがな透、兄さんがしでかしたことと透には『何の関係もない』。透が何かしたわけじゃない。それも間違いないことなんだ」

「おれが、何かしたわけじゃない」

「父親が何か許されざる罪を犯したとして、子供がそれに連座する必要はない。透は利口だから、これくらい分かってくれるだろう」

ひとつひとつ、噛んで言い含めるようにして。父さんはおれに、おれが何か取り返しのつかないことをしでかしたわけじゃない、親のしたことは親のしたことだ、そう繰り返し言って聞かせてくれた。おれだって本当はそう思ってた、いや、思いたかったって言った方が正しい。おれ以外の誰かにそう言ってもらいたかった、できることなら……父さんから。おれにとって一番、一番素直に受け入れられるカタチで言われて、おれは心から「そうなんだ」と納得できて。

おれはおれ、父さんは父さん、父親は――父親だ。おれの生まれは変えられない、生みの親が大罪を犯したってことも同じ。だけどおれは、おれの意思で、おれの意志を持って生きていい。一生親の罪が足かせになって引きずらなきゃいけないなんてことはないんだ。ずいぶん遠回りしたけど、だけどやっとあるべき処へ辿りつけた気がする。おれ、いつもそうだ。理解してみればそんなに難しいことじゃないのに、とんでもなく大周りをしないと行き着けない。だけどそれでいい、それがおれにとっての「近道」だって実感もあるから。

「それとな透、久しぶりに連絡があった」

「……母さんから?」

「そうだ。透も会ったんだろう」

「うん。ついさっき、海辺で話したんだ。ちょうど今みたいな感じで」

「もうずいぶん経つからな。ざっと十二年ほどか」

「おれ、最初は誰か分かんなかった。名前で呼ばれて初めて思い出したんだ、あの人は……おれの母さんだ、って」

「母さんも顔を出しづらかったんだろう。言葉は悪いが、お前を捨てて出ていったと取られても何もおかしくないからな」

「だけど、おれ分かるよ。おれはあの人の子供で、母さんは一海の母さんの親友で」

「ああ」

「親友とその夫を手に掛けた人の子供なんてさ、見てるだけで辛くなるだろって」

「透」

「それでもおれが物心付くまで育ててくれたんだから、恨んでなんかない。全部分かったから、何があったのか」

「……立派だよ、透は。おれも人生でいろいろ失敗してきたが、子育てだけはうまくできたと胸を張れそうだ」

父さんの頬がゆるむ。すっげえうれしそうだ。別に父さんを喜ばせようと思って言ったとかじゃなくて、あくまでおれの思ってることをそのまま口に出しただけだけど、それが父さんにとってうれしいなら全然構わない。だって、おれも父さんが笑ってるのを見るのがうれしいから。

「おれも母さんと話をしてな、『透が自分のことを知る時が来た』、そう聞かされたんだ」

「うん」

「家に帰ってくるまで、おれは父さんとして何ができるか、何をしてやれるか、何をすべきか、それだけずっと考えてたんだ」

「父さん」

「まあそれとは別に、腹も減ったし透が何か作ってくれてるとありがたいなあ、なんてことも考えてたんだけどな」

「昨日までホントに何も食えなかったんだけど、母さんと話してから吹っ切れてさ」

「ああ」

「今日は父さん帰ってくるから、おれと父さんの好きなもん作ろうって思ってたんだ」

おれと父さんが揃って声をあげて笑う。テーブルの上にはまだ作りたての料理が並んでる。これ、一緒に食えるかどうかってそこから心配してたけど、今は作って良かったって気持ちしかない。ホントにそれ、それしかない。

ひとしきり笑ってから父さんがちょっと姿勢を改めて、おれの目をまっすぐに覗き込んだ。おれもそれをしっかり受け止めるように、父さんの瞳の奥をじっと見つめる。

「それでな、透。父さんからひとつだけ頼みがあるんだ」

「うん」

「母さんにも言われたかもしれないが……水瀬さんの側に、いてやってくれ」

「おれが、一海の側に」

父さんは言う。一海の側にいてくれと。母さんと同じように、母さんが言ったのをそのまま真似るように。おれに、一海の側にいてほしいと、父さんは言った。

「物心つく前に両親を喪って、育ての親である祖父も喪った彼女が、やっと見つけた大切な存在……透、お前までいなくなるようなことには、なってほしくない」

「一海……」

「そしてそれは……透にとっても同じことだと、父さんは思っているんだ」

「……うん。おれ、一海と一緒にいたい。一海の隣にいたい」

おれは、一海と一緒にいたい。例えおれが一海の両親を殺した人間の子供だとしても、それでもおれは、一海の隣にいたい。一海の声を聴いて、一海の肌に触れて、一海の心の中におれがいてほしいと願ってる。また一海と笑いあえたら、一海と二人で歩けたら、一海と海にいられたら、他にはもう何もいらない。

おれは――おれは、一海と一緒に在りたい。

「――よし、透。せっかく用意してくれたんだし、ちょっと遅くなったが飯にしようか」

「うん。そうだ父さん、ビール飲む?」

「ああ。気が利くな」

「おれも飲みたかったから」

「なんだ、そういうことか」

「ちゃんと親父の好きな銘柄買ってあるから」

父さんがひとしきり笑ってから。

「……息子と同じ酒が飲めるっていうのは、親父冥利に尽きる、な」

そう、ぽつりと呟いた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。