もうすぐ夏が終わる。夏休みは今日が最後。このままいつも通りガッコに通うなんてできっこない、一海のいない風景を見てるなんて耐えられない。ずっと一海に会えずにいて、おれの心がカラカラに渇いてるのが分かった、想像してたよりもずっと強く、潤いを強く欲するくらいに。おれの渇きを潤せるのは? 水でも酒でもアクエリアスでもそんなことできっこない。ただ、一海だけなんだ。
行こう。どこかなんて決まってる、分かり切ってる。一海のところだ。一海は鈴木館長のいる海洋古生物博物館にいる。鈴木館長だけじゃなくて、エーテル財団って言ってるやつらもいるはずだ。もしかしたら、いや多分確実に、おれは一海と会うのを止められるはず。だけど止まるつもりなんてない、止めるつもりも全然ない。おれは一海に会いに行く、一海の側にいたいから、一海が独りじゃないって伝えたいから。鈴木館長だって言ってたじゃないか、一海の側にいてやってくれって。だけどおれは鈴木館長の言いなりになるわけじゃない、おれはおれの意思で一海の元へ向かうだけだ。
「今日の海は……なんだか静かだな」
最近海でやたらとポケモンを見かける機会が増えてたけど、今日は打って変わって全然いない。聞こえてくるのは風と波の音だけ、静まり返ってるって言ってもいいくらいだ。あれなんだったんだろうな、海に纏わることだからどうしても気になる。気にはなるけど、それで足が止まるとかじゃない、全然ない。少し前からは考えられないくらいカラダが思った通りに動いて、前へ進もうって気持ちで満たされてるし。
足取りは軽い、迷いなんてどこにもありはしない。迷うはずなんてなかった、おれの気持ちに余計な何かがくっついてくる余地なんてないから。一海に会いたい、ただそれだけのシンプルな思考・感情・意志・意識。おれがどんな生まれだったか? 誰が自分の生みの親か? 生みの親が何をしたか? 過去に何があったか知って、変えられない事実に底なしの懊悩を重ねたけれど、結局気持ちに変化なんて生じなくて。
おれは――一海と共に在りたい、一海と手を取り合って生きていきたい。
前のめりな気持ちに任せて早足でバス停へ向かっていた最中、遠くに見知った顔を見つけてほんの少しだけペースを落とした。誰だっけ、その言葉が浮かび終わる前に思い出す。川村だ、川村が歩いてる。ジムのスイミングで顔を合わせる真面目な後輩、そう言やジムにもずっと行ってなかったな。おれが気落ちしてる間もセカイはどんどん変わってく、おれはセカイの中心なんかじゃないってことだな。それは置いといて、川村の隣にもう一人誰かいる。あれって女子かな、うん女子だ。背丈も変わらないし、たぶん同級生だと思う。ジムにあんなやついた? いなかったと思う。顔も見た覚えがない。川村には川村の人間関係があるんだから、おれの知らないやつと歩いてても何も不思議じゃないけどさ。
ただ、二人の間にポケモンがいたのはちょっと気になった。東原が育ててるっていう……そうだ、フィオネ、フィオネってポケモン。二人の間ど真ん中でふよふよ浮いて、どっちかが親って雰囲気じゃない。どっちかというと、どっちもが親って感じだ。隣の女の子と二人で育ててたりするのかな、だとしたらちょっといいなって思った。川村はおれに男子が女子がって悩んでるって言ってたけど、あの女の子と協力してポケモン育ててるっていうなら、悩んでるところから足を踏み出せたんじゃねっておれは思うから。
声をかけようかほんの少しだけ迷って、結局そっとしておいた。だって野暮じゃん、同い年の女の子と歩いてる後輩にずけずけと声かけるなんてさ。それに……川村が一番大変な時期、水泳大会の辺りで全然練習に付き合えなかったって負い目もあるし。おれは川村がジュニア部門優勝って確信してたけど、結果がどうだったかはまだ見てない聞いてない。元に戻ったら一言謝って、川村が受け入れてくれるならまたあいつのペースメーカーをやりたい。あいつはおれが手離したものを大事にして、ずっと磨きをかけ続けてる。おれはそれを近くで見てたい、川村の輝きをおれの目と記憶に焼き付けておきたいから。
(川村みたいに、おれもまた歩きたいな)
女の子と共に歩く川村、脳裏に浮かんだのはおれと一海が歩く光景。またあんな風にしておれも歩けるかな、そう思いなおして止める。そうじゃねえだろ、槇村透。おれもまた一海と歩けるようにするんだ、「歩けるかな」なんてヘボいこと言ってんじゃねえ。活を入れ直す。一海は今苦しんでる、人と海獣の間にあって、海獣としての本能に引きずられて、それでも人として在ろうとしている。それを誰が支えるんだよ、おれしかいないだろう。自惚れもいいとこだよな、だけど自分に惚れられないやつが、誰かを惚れさせられるわけねえだろって。
一海の力になりたい、一海の手を取りたい、一海の――光でありたい。空に見える煌めき星のように、一海を照らして見つける光でありたい。他でもない一海が、おれにとっての煌めき星だから。
「あれ……秋人か?」
別に空の向こうの宇宙のことを考えてたからじゃないと思うけど、秋人が前から歩いてくるのが見えた。肩を落として明らかに元気がない、あんな様子を見るの初めてかも、姉貴が宇宙に行ったって時だってもう少しマシだった。何があったんだろ、聞かなきゃって思った。おれが気落ちしてた時もちょくちょく連絡くれたの覚えてるし、ロクに返事もできなかったの悪いと思ってるし。秋人のところへ行こう。
「羽山、羽山っ」
「……透? 透か?」
「おれだよ、間違いない。どうしたんだ」
秋人が立ち止まって顔を上げた。さすがにちょっとビックリしてる、無理もない。だって半月以上音信不通だったやつがいきなり目の前に来て、「どうしたんだ」って一番お前が言うなってこと言ってんだから。けど言わないわけにはいかないだろ、目の前で落ち込んでる友達がいたらさ、「どうしたんだ」って言わないわけには行かないだろ。
「どうしたんだ、って、そりゃこっちのセリフだって」
「うん、まあそうだな」
「てか透、ほんとどうしてたんだよ。結構心配してたんだぞ」
「悪い。ちょっと落ち込んでてさ」
「お前が落ち込むなんてよっぽどだな……俺も人のこと、言えたもんじゃないけど」
何があったか話した方がいいかもしれないって思った。秋人はおれと一海が付き合ってることも知ってるし、ずっと心配してくれてた。おれが話して心配がなくなるかは置いといて、返事もしなかったのは良くないことだし。
「いろいろあってさ、ちょっと時間いいか」
「聞かせてくれよ」
「おれ、一海と付き合ってるんだけどさ」
「そうだったな。水瀬さんと」
「だけど一海、夏のはじめに体調崩して」
「学校も休んでたっけ」
「うん。それで今、だいぶ具合悪いみたいで」
「会いに行くのか」
「おれが行かなきゃ誰が行くんだって思うし」
「確かにな」
「だけどおれ、なかなか行けなくて」
「忙しかったから、とかじゃないよな。透はそういうの言い訳にしねえから」
「おれのことなんだけど、どう思ってくれてもいい」
「どういうことだ」
「おれの親のこと」
「親父さんか?」
「そうだけどちょっと違う。おれの親父、父親じゃなくて叔父だったんだ」
「えっ、それって」
「実の父親じゃなかったってこと」
「じゃあ、生みの親が別にいたのか」
「それだけだったら別に気にしなかったんだけどさ。おれにとって親父は親父だけだから、そっかぁ、で済んだんだけど」
「まだなんかあったのか」
「おれの……父親なんだけどさ」
「生みの親のほうか」
「昔、一海の両親を殺したんだって」
「水瀬さんの、親を……」
父親が一海の両親を殺した。口に出すたびに胸に錆びだらけのナイフを刺しこまれるような感覚を覚えるけど、だけど動かしようのない事実。受け入れるって決めた、おれはそういう星のもとに生まれたんだ、それをどうこうしようって思うのはナンセンスだ。父親が一海の両親の命を奪ったって事実があって、じゃあおれは一海とどうありたいのか、それがおれの価値や存在理由を決めるものだって理解したから。
「おれ、それでずっと悩んでて」
「そりゃあ、悩まないわけないよな」
「人殺しの息子じゃん、って。しかもそれが一海の親だって言われて」
「透が何も返事しなかったの、今なら分かる」
「だけどさ、変えようなんてないだろ。自分が誰から生まれて、生んだやつが過去に何をしたかなんて」
「変えられないな。過去に遡るようなことでもしなきゃ」
「ごめんな、いきなりさ、こんな話して。羽山になら言えるかなって思って」
「正直言うとさ」
「うん」
「びっくりはした、驚いたのは本当。嘘言ってもしょうがないから」
「だよな、当然だと思う」
「けどさ」
「ああ」
「透は透のままだろ。別に親がどうだからって、透が何か変わるわけじゃない。そうだろ?」
「羽山」
「これさ、別に気を遣ってるとかじゃないからな。そういうよそよそしい関係じゃないだろ、俺ら」
「……そうだな。そうだよな」
「透がそれで悩むのも分かる、悩むなって方がムリだよ、そんなこと」
「そうだよな」
「けど、お前がそれでも水瀬さんに会いに行きたいって思ってるってことは」
「うん」
「もうさ、吹っ切れたんだろ。吹っ切ったってことだろ」
「親父とも話したんだ。それで……自分を許してやってくれって言われて」
「自分を、許してやってくれ、か」
秋人が深くうなずく。おれが一番救われた言葉、親父から――父さんからかけてもらった「自分を許してやってくれ」って言葉。言葉にはマジで力があると思う。コトダマっていうんだっけ、他でもない秋人から聞いたことがある。心からの言葉には底知れない力が宿ってて、落ち込んだ気持ちさえ掬い上げて、救い上げてくれる。父さんの言葉は……声は、確かにコトダマになって、おれの心の一番奥にとどいたから。
おれはおれのことを話した。今度は秋人の話を聞かせてほしい。お前の方はどうしたんだ、おれが口に出すと、秋人がおずおずと口を開いた。
「頼子のこと、なんだけどさ」
「うん」
「あいつさ、ラジオやってたんだ」
「ラジオ?」
「こっから結構行ったところに閉まった喫茶店あっただろ」
「あったあった。確かラピスラズリっていう」
「そう、そこ。そこでさ、友達誘ってラジオやってたんだ。設備があったとかで」
「喫茶店にラジオ局があったなんてな」
「俺も知らなかった。それで、ラジオやってた理由なんだけど」
「ああ」
「もちろんあいつがやりたがったってのもあるんだけど、昔その喫茶店のマスターやってた人に子供がいて、女の子なんだけど」
「うん」
「その母親がもうずっと昏睡状態で、それを聞いた頼子が力になりたいって言って」
「それでラジオを?」
「マスターやってた時に楽しんでたって聞いて、自分たちで復活させたいって、俺にも話してくれたんだ」
「南雲がそんなことを」
「あいつも……あの大雨で母さん亡くしてるから、きっとほっとけなかったんだと思う」
「そういうこと、か」
「それでさ、友達も誘ってラジオやって、うまくやってたみたいなんだけど」
「うん」
「俺もラジオ聞いてさ、あいつが一生懸命やってるの知ってたから、時々手伝ったりもして」
「ああ」
「だけど、急にあの場所が差し押さえられて、案件管理局に」
「案件管理局に……?」
「俺も何があったのか詳しいことまでは知らない。ただ」
「ただ?」
「差し押さえに東原が関わってたとかで、頼子がショック受けてて」
「えっ、東原が?」
「あいつの父さん、榁の支局長なんだ。だからってラピスラズリを差し押さえるなんて意味わかんねえけど」
「どうしてだろうな」
「誰かを励ましたいってだけ、何か企んでるとかあるわけない。なのに全部ダメにされて、それも親友の東原が絡んでて、頼子は、頼子は」
「それは……」
「俺、何も言ってやれなかったんだ。地べたに崩れ落ちて泣きじゃくる頼子に……何も言ってやれなかったんだ」
「羽山」
「あいつからいつも『言葉にしなきゃ、本当の気持ちは伝わらない』って教えてもらってたのに、俺は」
秋人が今にも泣き出しそうな顔をする。今の秋人にさえかける言葉なんてそうそう見つからないのに、もっともっと深い深い絶望に苛まれていただろう南雲を前にして、秋人に何か言葉をかけろなんて口が裂けても言えるわけがない。そんなことできるわけねえだろって。言葉の力を南雲から聞かされてる秋人だから、相手を慮って下手なことは言わないんだ。何もかも奪われた南雲を、少なからず想ってるだろう幼馴染を前にして……何か言えると思う方がどうかしてる。
だけど、おれは「だけど」って言わなきゃならない。言葉はニンゲンがニンゲンだってことを証明できる物事の一つで、青い海じゃなくて赤い陸に生きる、青い血じゃなくて赤い血を流す「ニンゲン」だから使える力の一つで。コトダマを信じてる南雲と秋人なら、なおさらだ。おれは父さんの言葉でもう一度生きる気力を取り戻せた。おれに父さんと同じことができるなんて思いあがった考えをするつもりはない、だけどさ、「だけど」なんだよ。おれがニンゲンなら、言葉で、コトダマで、落ち込んだ秋人を奮い立たせる切っ掛けを作ろうとしてもいいんじゃないか。
「羽山、聞いてくれ」
「透」
「まだ何もかも手遅れになったわけじゃない。南雲にさ、お前にしかできないこと、絶対あるはずだから」
「それって」
「おれは――南雲はきっと、お前の言葉を待ってる。おれはそう思ってる」
「俺の、言葉を」
「おれが何か言えた義理じゃないけど、でも、お前だって分かるだろ」
「……ああ」
「『言葉にしなきゃ、本当の気持ちは伝わらない』。答えはお前の中にもうあるんだ」
「そっか……そうだよな。まだ、諦めるには早すぎる」
「そういうおれが、一海に会ったとき何言うか考えなきゃいけないんだけどな」
「お互い様、ってわけか」
表情にハリが戻ったように見えた。いつも見てる秋人のそれ。おれも秋人もまだやることがある、やれることがある。手遅れなんかじゃない。おれはそれを、秋人に分かってほしかった。こうなった秋人は動きが早い、頼子の家に行ってくる、確かな口ぶりで言った。おれも一海を迎えに行く、秋人に宣言して、おれ自身にも言い聞かせる。逃げも隠れもしない、一海のところへ行くんだ。
秋人と別れてから、再び早足でバス停に向かって歩いた。すぐ着いた。たぶんもうすぐ海洋古生物博物館行きのバスが来るはず。あとはそれに乗って向こうへ乗り込むだけだ。おれはそんな風に思ってたわけだけど。
(――えっ、鈴木館長?)
思いも寄らない、マジで一ミリも想像してなかった人が、これから向かおうとする先の道から走ってくるのが見えた。館長だけじゃない、他にももう一人遅れて駆けてきてる。いったいどうしたんだ、館長が何でこんなとこにいるんだ。博物館にあるアクアリウムで一海の様子を見てるんじゃなかったのか、一海の治療をしてるんじゃなかったのか。
或いは――その一海に、何かあったとでもいうのか。
「鈴木さんっ!」
「ま、槇村君か……?」
「おれです、槇村ですっ。いったいどうしたんですか」
おれが声を張り上げると、鈴木館長はすぐに気が付いて足を止めた。息も絶え絶えになって肩で呼吸してる、明らかに焦ってる、憔悴してる。あのいつも落ち着き払った館長がここまで取り乱すなんて、よほどのことがあったとしか思えない。それにおれの前で足を止めたってことは、おれとも何か関係があるってことに他ならない。そうじゃないなら立ち止まらずにそのまま走っていくはずで。鈴木館長がおれを認識して立ち止まるっていったら、関係しそうなことはひとつ、たった一つしかない。
「はぁ、はぁ……やはり、体力をつけねば……」
「館長、この人エーテル財団の」
「知己だったのか、ザオボー支部長だ」
「知ってます。一海を博物館に連れて行った人、ですよね」
「……そうだったな、すまない。君もあの場に居合わせていたことを失念していた」
遅れて駆けつけたのは、あの日一海をおれから引き離したエーテル財団のザオボーって人だ。鈴木館長がいて、同じくこの人もいるってことは、やっぱり。
一海のことだ。一海に何かあったんだ。
「一海に何かあったんですか」
「ああ……言いにくいことだが、君には私から伝えねばならない。カズミが博物館から姿を消したのだ」
「一海が、いなくなった」
「申し訳ございません。我々の不手際です」
ザオボーが頭を下げるのを見て、おれは思わず面食らう。えっ、この人こういうキャラだっけ、って。おれは一海を目の前で連れてかれたってことでロクな奴じゃないってイメージしかなかった、なかったから、目の前で深々と頭を垂れられて何も言葉が出てこなかった。イメージと実像が嚙み合わないとここまで戸惑うんだな、おれの中の冷静な部分がそんな風に感じてる。意味が分からなくて、一海を連れていかれたことも一海がいなくなったってことにも反応できなかった。
「槇村君には『水瀬さんを保護する』と言っていたのに、このような体たらくでは合わせる顔がありません」
「支部長さん、一海をどうこうする気じゃなかったんですか」
「あのようなやり口では、そのように思われても致し方ありません。しかし、お伝えしなければならないことがある」
「伝えたいこと?」
「我々は水瀬さんの回復に尽力していました。一日も早く元の生活に戻れるよう、槇村君とも面会ができるようにと」
「槇村君、支部長の言葉は私が担保する。カズミは私と花子だけでは手に負えない容態だった、それを何とか繋ぎとめていたのが支部長であり、財団の職員たちだ」
「じゃあ……あの時一海を連れて行ったのは、本当に一海を治すために」
「水瀬さんを介抱してくださった槇村君に、私が手荒な真似をしたことは事実です。我々と財団を悪く思われることに異論はありません、言い訳はしますまい」
「支部長さん」
「ですが、あの時は一刻を争っていたのです。大変に危険な状態だった。それは槇村君、他ならぬ貴方がもっとも深く理解されていることでしょう」
「……分かります。あの時の一海、死ぬんじゃないかってくらい苦しんでたから」
認識、改めないとダメだな。ザオボーって人とエーテル財団の人たちは、一海を本当に回復させようとしてたんだ。急を要する状態だったから、邪魔をしようとするおれを引き離してでも一海を博物館へ連れていく必要があった。それが事実なんだって、今更だけど理解した。悪だくみのために一海を連れ去ったんじゃない、一海の命を救うためにやることをやっただけ。結局のところ、形は違うけどおれと同じことをしようとしてた、おれよりもずっと具体的で高度な方法で、一海を助けようとしてたんだ。
だったらもう、わだかまりなんてあるはずがない。目的が同じだって理解できたなら、同じ方向に向かって走っていくだけだ。
「カズミは以前のように泳ぐことはできたが、とても歩けるような状態ではなかった」
「だけど、博物館からいなくなった」
「外の者が館内に入り込んで、カズミの手引きをしたとしか思えん」
「水瀬さんの観察を担当していた職員が気絶させられていました。外部の人間が関与したとしか考えられまい」
「支部長さん。ひとつ教えてください。あの時、一海を連れて行ったときに一緒にいた女の人、あの人は今どうしてますか」
「おや、なぜ今そのことを? ……と言いたいところですが、実は他でもないその職員が水瀬さんを見ていたのです。今は博物館で手当てを受けさせています」
「そう、ですか」
「水瀬さんの親族にも連絡を取ろうとしたのですが、どういうわけか連絡がつかず……ともかく探しに出ねばと、方々を走っていた次第です」
ザオボー支部長がポケットからスマホを出して、慌てた様子で連絡を取っている。たぶん、他の財団職員にも一海を探してもらってるんだ。おれと鈴木館長から少し距離を置いて報告を受けているザオボー支部長を横目に見ながら、鈴木館長がふっと目を伏せて。
「槇村君」
「鈴木さん」
「まだ支部長には伝えられていないが、私には大方の見当が付いている」
「一海をどうやって連れて行ったか、ですか」
「そうだ。外から入り込んだのが何者で、あの場で一体何があったのかも」
「……おれも分かります。これでほとんど間違いない、そう思うくらいには」
「ああ。血縁のない、因縁もない我々では……カズミを繋ぎ留めておくことは、土台無理だったのかも知れぬ」
鈴木館長はあえて言葉を濁したけれど、おれにとってそれはほとんど答えみたいなものだった。その時博物館で何があったか――『誰』が一海の脱走を手引きしたのか、一海を診てたっていう『職員』がその時なぜ助けを呼ばなかったのか、全部簡単に想像できた。一海と血縁があるのは誰か? 因縁があるのは誰か? それを踏まえれば間違うはずなんてない。なんなら「すべて理解した」って言った方が正しいかも知れないくらいに。
だとしたら、一海が今いる場所は、あの場所しかない。
「鈴木さん。おれ、一海を連れ戻してきます」
「……頼む。不甲斐ないことを言うが、今は……君だけが頼みだ」
それだけ言うと、おれは駆け出した。行き先はおれだけが知っていればいい、そこに必ず一海がいる。絶対にそこにいると確信していたから。それは一海が生まれた場所、一海が何よりも愛した場所、一海が人であることをやめてしまう場所。
――海。一海は今、海にいる。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。