海に向かって走ってる。夢中になって、ただ前へ進むことしか考えてない、考えられない。走るのってそんなに得意じゃなかったんだけどな、疲れとか息切れとか全然感じない。そういうこと感じてるヒマが無いって方が合ってる気がするけど。一海は今博物館じゃなくて海にいる、だったらおれも海へ行かなきゃ。海のどこかまでは分からない、だけど一海がいつもいた場所はおれも知ってる。行くとしたらそこしかない。おれには目的があるから迷わずまっすぐ走ってる、よっぽどのことがない限り立ち止まったりしない。
逆に言うなら、こんなときでも「よっぽどのこと」があれば足を止めちまう、ってことでもあって。
「ユカリ」
通りがかったのはタイヤがいっぱい埋まったあの公園、誰ともなく「タイヤ公園」って呼び始めて、気付いたらみんなそう呼ぶようになってたあの場所。でも立ち止まったのはタイヤ公園だからじゃない。ユカリがいたから。あの日から一度も会ってない、言葉も交わさずにいた、ユカリがいたから。一海のところへ行くって気持ちは変わりないけど、ユカリも一海と縁が深いことをおれは知ってる。付き合いの長さならユカリの方がうんとセンパイだってことも。一海に何が起きたか知ってるかもしれない、だったら訊きたい。でもそれはちょっと言い訳じみてる。どっちかって言うと、ユカリ自身と話がしたい――いや、しなきゃいけない。そっちが本音で。
ユカリは地面から半分顔を出してる古タイヤに座り込んで俯いてる。おれにゲームで負けてふざけ半分でガッカリしてるのはしょっちゅう見たけど、あんな風にマジで落ち込んでるのなんて初めて見た。さっき出会った秋人みたいに肩を落として、前を向く気力も根性も失せてる感じ。あいつにも何かあったとしか思えなかった。おれとユカリはもう十年くらい腐れ縁で、何かあったらいの一番に話す相手で。相手の考えてること大体知ってるってカンケイが長かったから、理由分かんないけど気落ちしてるってのは経験がない。
八月の……七日だったな。星祭り行こうって誘われてOKして、あいつがおれん家に来たって流れだったから。でもその後ユカリがおかしくなった。おかしくなったって言い方はしっくり来ねえな。自分の感情が爆発したのか、それともなんか理由があったのか。あの時のユカリはおれの知ってるユカリじゃなくて、ユカリのカタチをした別の何かだった。いきなりおれを押し倒して、唇押し付けてディープキスしてきて、尋常じゃない目でおれを見つめて。正直怖かった、ユカリどうしちまったんだって。
だけどあの時のあいつ、こう言ってたんだ。
『トッちゃん。一海ちゃんのことは、忘れるんや』
一海のこと忘れろって、一海と別れろって。なんでそう言ったのか? 今なら分かるよ、おれだって。父親が一海の両親を殺したから、おれは一海の両親を殺した男の子供だから。きっとユカリは何もかも全部知ってて、おれと一海の間で板挟みになってた。無邪気に「一海が好き」って言ってるおれを、ユカリはどんな気持ちで見てたんだろう。あいつは頭が回る、おれがショックを受けずに済む方法をなんとか探して、それでおれにカラダを投げ出す真似をした。一番いいって決めたら、それで自分が傷つこうとも躊躇なんてしない、ユカリはそういうやつだ。そこはずっと筋が通ってる。
止めてた足を再び動かす。向き先はユカリの方。まだおれがここにいることに気付いてないけど、そんなのどうせ時間の問題だし。足取りに――迷いなんてない。ユカリと話をするんだって気持ちは全然ブレない。目の前まで歩いてって、静かに口を開く。
「ユカリ」
「……あ」
ユカリがおれに気付いて顔を上げる。目は――海で弱ってた時の一海みたいにまるでうつろで生気がなくて、前とは違う意味でおれの知ってるユカリじゃなかった。おれを押し倒した時のそれとも全然違う。また別の、見たことのないユカリ。ユカリもこんな顔するんだな、なぜだかそれくらい落ち着いて目の前の光景を見てるおれがいる。気後れはない、これくらいで躊躇うなら、声をかけようなんて最初から思わねえし。
濁った瞳にぼやけたおれが映る。おれのこと、見えてはいるみたいだ、気付いてはいるみたいだ。最初に呼び掛けたきり何も言わずにいる。何かあるならきっとユカリの方から話してくる、あいつはそういうやつだったから。ユカリはしばらく口を開いては閉じ、開けては閉めを繰り返してたけど、やがて。
「今更いったいなんや、うちに恨み言でも言いに来たんか。言いたいことあるんやったら黙ってへんでなんか言うたらええやろ」
「言いたいことはあるけど、お前の話を聞いてから言いたい」
「なんやそれ、意味分からんわ。あんたはいっつもそうや、うちの気も知らへんで、何がどうなってるんかも知らんままおって」
「……そうだな。おれ、自分のこと何にも分かってなかった」
「はぁーっ、ほんま鈍くさいやっちゃ。だから言うたんや、全部忘れた方がええって。関わらん方が身のためやったんや」
「言ってたな、そんな風に」
憔悴した表情に痛々しい作り笑いを張り付けて、ユカリがおれに顔を寄せてくる。
「それともあれか? 一海ちゃんのこと諦めて、うちを取ることにでもしたんか?」
「まあお互い勝手知ったる仲、腐れ縁もええとこやからな。別に妥協してもええんちゃうん」
「今から『続き』しよう言うんやったら、うちは別にええけど? そんなん言い出すくらい予想の範囲内っちゅうやっちゃ」
「どうせ男子なんて皆同じや、ヤりたい気持ちには勝てんやろ。口で綺麗なこと言うてても下にくっついとるモンには逆らえんのや」
「好きにしたらええわ。うちはそれくらいどうとも思わん、勝手にすればええ」
「ああ、向こうにちょうど背ぇ高い茂みあるなぁ? あっこやったら外からも見えへんし、具合ええんと違う?」
「それで溜まったモンうちの中にぶちまけて、何もかも全部忘れたらええんや。他にそういうことする相手おらんのやろ? せやったらうち使うたらええやん」
「トッちゃんは、なんにも分かっとらんのやから。せやからうちが全部教えたらな何もできん。そうやろ?」
八月のあの日、ユカリはなんであんなことしたんだろうな。おれをソファに押し倒して、舌突っ込んでキスして、着てた服を脱がせようとして。なんで、って言ったけど、本当は分かってる、理解してる。ユカリはおれと一海を別れさせようとしてた、自分のカラダを使ってでもおれと一海がこれ以上近付かないように、お互いに近付きあって――お互いに傷付けあうようなことをしてほしくなかった。ただそれだけのこと。
ユカリは初めから全部知ってて、だけどおれにも一海にもとても言い出せなかった。言えるわけなんてない、おれの親が一海の親を殺したなんて、おれにも一海にも言えるわけがない。ユカリはおれとも一海とも仲が良くて、だけど仲が良いって平凡な言葉じゃ言い表せないくらいの深い付き合いだったし。おれも一海も傷付けたくなくて、自分が傷付くことを選んだ。今のおれには理解できる。ユカリは理由づくで動くやつで、目的が満たされるなら自分を平然と犠牲にできるやつなんだ。
他にここまで他人のことを想えるやつっているのかな、全然浮かんでこない。秋人とか川村とか、誠実で思いやりのあるやつは何人か浮かぶ。だけどユカリのそれは、自分がどうなってもいい、おれと一海が悲しまなければそれでいいって思いがすごく強くて、なんかもう鬼気迫るものさえ感じるっていうか。おれたちが悲しまないんだったら何もいらない、自分の幸せとか純潔とか全部放り出していい、なんて行動で示せるやつはユカリしか知らない。
おれはユカリの気持ちに応えるべきだ。これだけおれと一海のことを思ってくれてるのに、何も言わずに立ち去るなんてカッコ悪いにもほどがある。おれは、自分がカッコいいと思うことをしたい。他の人がどう思うかは置いといて、おれはおれがカッコいいって思うことをしたい。
「ユカリ――ありがとうな」
「……トッ、ちゃん」
「おれ、ユカリの言う通り鈍くさくてニブいからさ、気付くのに時間かかったけど。でも分かったんだ、ユカリはおれと一海のこと心配してくれてたんだ、って」
「トッちゃんと……一海、ちゃん」
「一海とおれの親のこと、ユカリは知ってたんだよな。だけどおれにも一海にも言い出せなくて、このままじゃおれと一海がホントのことを知って傷付く、それは見たくない。だからおれと一海を別れさせようとした、そうだよな」
「あっ、あぁ……」
「ありがとな、ユカリ。おれやっと分かったんだ、ホントに鈍くさいよな。全部お前の言うとおりだ」
言葉を失って目を見開いてる、いつもあれだけ喋ってて、気落ちしてる今でさえおれよりずっと多く言葉を発してたのに、今はもう何も言わない、言えなくなってる。あのユカリが、何も言えなくなってるんだ。それはひっくり返すと、何か言い返す必要がないってこと。言い返す必要がないってことは、間違ってないってこと。間違ってないってことは……おれが口に出して言ったことは、ユカリにとってもまた同じだってことで。
ユカリの気持ちは分かった、おれの理解があってることも分かった。気持ちが通じ合ってるな、それはいい。だけど、おれにもおれの考えがある。それもユカリに伝えたい、伝えなきゃいけない。大きく息を吸って、カラダの中の空気を全部入れ替えてから、おれがまた口を開ける。
「だけどな、ユカリ。聞いてほしい」
「おれは、一海のことが好きなんだ」
「生みの親が誰で、一海の親に何をしたかも知ってる、知らされた。取り返しなんてつかない、どうしようもないことで」
「お前の言う通りさ、おれって鈍くさいけど、それがどういう意味か分かんないほどじゃなかったから」
「一海の傍にいていいのか、ずっと悩んだ。何なら死んだ方がマシってくらい悩んだ。何回も死ぬイメージが浮かんだ」
「けどさ、おれが死んだってどうしようもないんだよ。それで過去が消えるわけじゃない、何か変わるわけじゃない」
「もしかしたら、もしかしたらだけど、一海はおれが死んだら悲しむかも知れない。悲しむだけじゃ済まないかも知れない」
「一海が悲しんだら……おれは悲しい」
「一海がいいって言ってくれるかは分からない、拒絶されるかも知れない。だけど、だけどそれでもおれは」
「おれは、一海の――傍にいたい」
正直な気持ちを全部打ち明ける。曲げたところなんて一つもない。おれのことならなんでも、それこそおれの知らなかったことまで知ってるユカリだ、隠し事なんてできるはずがない、したところで即バレるに決まってる、大体おれはウソを言うのが下手くそだって自覚してるし。だったら何も捻らず曲げずに言うしか道なんてない、おれがホントに望んでることを、こうしたいって思ってることを伝えなきゃいけない。
言葉にしなきゃ、本当の気持ちは伝わらないから。
「……アカンわ。ホンマにアカンわ」
ユカリが頭を振る。大きな大きなため息をついて、顔を伏せて――ユカリは泣いてた。おれの前で泣いたことなんてほとんど無かったユカリが、ぼろぼろと大粒の涙をいくつもこぼして、顔をくしゃくしゃにしながら、ただただ泣いてた。
「うち、全然アカンな。トッちゃんにはちっとも敵わへん、こないなるって……分かってたのに」
「全部分かったのに、知ってしもたのに、悩んで悩んでしんどかったはずやのに、うちなんかよりずっとずっと、めっちゃしっかりしとるやん」
「うちがトッちゃんの傍におったらなアカンのと違う」
「逆や」
「トッちゃんがうちの傍におらんかったら、うち全然アカンのや」
「なんでこんなにアカンのやろな、何やってもうまいこと行かへん」
「誰も……誰も助けられへんかった」
目を覆ったユカリの声は掠れてて、上擦ってて、震えてて。一歩前に踏み込んで、ユカリの前に影を作るようにして立つ。ユカリの姿をおれ以外の誰にも見られないように、おれ以外の誰にも見せないように。もし逆だったら、ユカリだってきっと同じことをしたはず。だからおれはそうするってだけの話。簡単なことだろ?
「お姉ちゃんもそう、よっちゃんもそう、ナミーもそう、一海ちゃんも……皆そうや。うちは誰も助けられへん」
「そのさ、よっちゃんってもしかして南雲のこと? 南雲頼子」
「……せや。でもトッちゃん、なんでそれ知っとるん」
「さっき秋人に会ったんだ。泣いてた南雲を慰めてやれなかったって、あいつも落ち込んでて」
「同じや。うちもよっちゃんに何も言うてあげられへんかった。大事なもん失くして悲しんどるのに、何も……言うてあげられへんかった」
「もしかして、だけどさ。ユカリもラジオ手伝ってたのか、ラピスラズリで」
「トッちゃんの言う通りや。うちがラジオのチューニングとか番組の構成とか仕切って、皆でワイワイやっとったんや。よっちゃんのために、ナミーのために」
「今年小金に帰らないって言ってたのも、じゃあ」
「せや、ラピスラズリにおったからや。もちろん、トッちゃんと一海ちゃんのことも気にしとったけど」
「そういうことだったんだな」
「頭でっかちになって、こうせなあかんって思い込んで、むやみに動いて、それで……結局どないもならへん。そんなんばっかりや」
「ユカリ」
「トッちゃんにうちしたことなんか……もう最低の最悪や。焦ってたとか気が逸ったとか言い訳にもならん、縁切られてもなんも文句言われへん。好きでもない相手に無理やり押し倒されて唇押し付けられて、なんも思わん人なんかおらんやろ? 男が女がって、そういう話とは違うんや。頭では分かっとるはずやのに、体が先に動いてまう。ほんま最悪や」
うなだれて繰り返し繰り返ししゃくりあげる。今まで生きてて初めて見るユカリの姿、だけど戸惑ったりする気持ちはない。ユカリがどんな風に感じてるか頭使って考えたら、こんな風になるのが当たり前だろって。
「こんなにや、こんなに浅はかでアカンたれで向こう見ずやのに、最悪なことしでかしたのに」
「トッちゃんはうちに『ありがとう』言うてくれる、全部分かって、それでもちゃんと自分の足で立っとるんや」
「やっぱり、トッちゃんはトッちゃんや。うちが考えてたのんよりも何倍も、何十倍も、トッちゃんはトッちゃんやった」
「分かっとると思う、トッちゃんの方がもっと分かっとると思うけど、せやけどちゃんと言葉にして言わなあかん」
「今な、一海ちゃん独りぼっちやねん。うちなんかじゃ傍におったられへん、トッちゃんじゃないとアカンのや」
「お願いや、一海ちゃんのこと助けたって」
「一生のお願いや、一海ちゃんのこと……助けたってほしいんや」
「うちのことどない思てくれても構わん、これっきり縁切るって言われても気にせえへん。もううちはどないなってもええ」
「せやから、せやから……お願いや」
「一海ちゃんのこと……助けたって……っ」
言われなくても分かってる、なんて言う気はないし、考えてもない。ユカリが言葉にしたってことが大事だから。おれに対する気持ち、一海に対する気持ち、他にもいろんな気持ちがせめぎあって、自分の中で血みどろ殴り合いのケンカしてる。そんな中で、それでも声を振り絞って「一海を助けてほしい」――ユカリはそう言ってくれた。一海とずっと一緒にいた、一海にとって一番の親友からの言葉。だから重みが違う、ズシンと来る。託されたものの重さを感じて、背筋がピンと伸びた。
ユカリの手を握る。ユカリから言葉を受け取った、だからおれは行動で示す。何も難しいことなんてない。一海のことはおれに委ねてくれ、絶対に連れ戻すから。だからおれからもユカリに伝えたいことがある。ユカリにはユカリのするべきことがある、できることがあるってことを。
「さっき秋人と話したって言ったよな、南雲のこと」
「言ってたな、トッちゃん」
「あいつにも言ったんだ。まだ手遅れじゃない、何か南雲にしてやれることがあるんじゃないかって」
「何か、うちにできること」
「ユカリ、お前はおれなんかより頭も回るし体だって動く。それはおれがよく知ってる。だから、秋人と南雲の力になってやってくれ」
おれはおれにできることをする、ユカリはユカリにできることをする。これでおあいこ、貸し借りなしだ。南雲のことは詳しくは知らない、だけどユカリと秋人の友達だっていうなら絶対悪いやつじゃない。おれは南雲の力にはなれないけど、秋人とユカリはそれができる。だったらユカリが後悔しないように、できることをしてほしい。もうこれ以上、おれみたいに失意のどん底とかいうどうしようもない場所へ連れてかれるやつを見たくないから。
「うちには……うちにできることがあるんや。せや、まだ諦めたらあかん。ここで諦めたら……ホンマもんのアカンたれや!」
「おれは一海を絶対連れ戻してくる。約束する。おれ、ユカリと約束破ったことあったか?」
「……ううん。一回もあらへん。トッちゃんは約束守るんの達人やからな」
「そんだけ言えるんだったら大丈夫だな。一海が戻ってきたらさ、三人で酒でも飲もうぜ。あいつさ、ああ見えて結構イケる口だからさ」
「ええな、それ。めっちゃええわ。そういえばうちと一海ちゃんとトッちゃん、揃って顔合わせたことなかったもんな」
「そうだよな。じゃあおれ、行ってくる」
「頼んだで、トッちゃん。うちもよっちゃんとこ行ってくる!」
立ち上がったユカリと一緒にタイヤ公園を飛び出して、おれは海へ、ユカリは山へ、違いに背を向けて走っていく。
おれが背中を預けられるのは――やっぱ、ユカリしかいないんだな。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。