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#32 対峙

どんくらい走っただろう、ざっと十分くらい? タイヤ公園を飛び出してからはマジで一度も立ち止まらなかった。カラダが勝手に海の方へ向かってく、吸い寄せられてくような感じがして、脚はただそれに追随するだけって感じで。ほんの少し乱れた呼吸を整えようとして、それが終わるよりも先に道路から砂浜へと視線を投げかける。ふたつの人影が瞳に映る。砂浜に誰かいるのはもっと遠くから分かってた。そしてふたりのどっちとも、過去に見た覚えもあった。

出海さん。小麦色の肌と長い黒髪ですぐ分かった。見た目もそうだけど、こんな時に砂浜に立ってるって時点で出海さんしかいないだろって。隣には男の人が立ってる。記憶を遡って、それがペリドットで出海さんと初めて対面したときに一緒にいた佐藤さんって人だったと思い出す。案件管理局の局員だって言ってたっけ、出海さんの同僚だとも。

たぶん、いやたぶんじゃないな。博物館へ入り込んだのはあの二人だろうって思った。そこで水槽を見てた職員――おれの母さんと接触して、結託して事を起こした。置かれてる状況とか過去の経緯とか考えたらそうとしか思えない。出海さんや母さんと関わりがあるようには見えない佐藤さんが止めた様子が無いのは気になる、気にはなるけど、今はそんなこと気にしてる場合じゃない。

どうしてかって? それは目の前見りゃ分かるから。

「一海――」

出海さんと佐藤さん、二人の間にできた隙間から見えるもうひとりの人影。遠くから見ても分かった、分からないはずなんてなかった。背中に伸びた出海さん以上に黒々とした髪、それと強烈なコントラストを生み出す真っ白な肌。どこからどう見ても一海で、紛れもなく一海で、疑う余地も無く……一海だった。

女の子座りっていうんだっけ、脚を折り曲げてべったり地面へ付けて、砂浜というよりも浅瀬で力を抜いて座ってる。博物館で着てたのか、それとも出海さんに着せられたのか、あの雨の日に纏ってたうっすいガウンを纏ってる。どう見ても本人が身に着けたって感じじゃないのは確かだ。それは服を着るだけの力も残ってないのか、そうじゃなきゃ、或いは今の一海は、おれたちが当たり前のようにしてる「服を着る」っていうニンゲンの行為に、意味とか意義とか価値とか理由とか、そういうのを何も見い出せなくなってるのかも知れない、おれはそう思った。

一海は膝に載せて腕で包み込むようにしてる。何を? 白い塊。見覚えは? ある。具体的には? あの日一海が産み落としたモノ、一海のカラダを中から責め苛んでた異物、一海の中で「見つかった」、おれの知らなかった存在。ぼうっと海に色のない目を向けて、全身が脱力して座り込んでる一海が、星の核を思わせる「それ」――タマゴ――に添えた手にだけは、微かな意思が感じ取れて。

「一海っ」

おれは走った。階段を駆け下りて砂浜へ足を踏み入れた。向かっていくのは一海の方、つまり出海さんと佐藤さんのいる方でもある。二人を避けては通れない、物理的にも精神的にも。

砂を踏むザッザッという足音が響く、だけど佐藤さんが振り向いたのはきっとそれが理由じゃない。おれがここに来たともっと前から気付いてて、おれが来るべき場所に来たから振り向いた、そんな感じがした。だって全然驚いた様子が無かったから。振り返るのはゆっくりだったし、顔つきも平静そのものだったから。

「お越しになられましたよ。水瀬局員」

出海さんは振り向かない。海と一海を見たまま、おれに背を向け続けてる。丈の短い服を着た出海さんは腕が外から見えてて、そこには「A」の文字を象った「刺青」が見えている。出海さんと話した雨の日、おれに見せたあの「刺青」が表に曝されてる。隠すことを良しとしない、言葉にしないけど揺るがしがたい意思。おれが自分の生まれや原罪と向き合ったことと似た何かを感じたのは、きっと――気のせいとかじゃない。

歩み寄ったおれの気配を感じ取ったんだと思う。背中から感じる出海さんの雰囲気がにわかに変わったのを感じた。おれは立ち止まって彼女を見つめる。きっと何か言われると思ったから、おれがそれに返事をすべきだって思ったから。

「槇村くん」

「貴方は理解したかしら」

「自分が何者かを」

「何を刻まれて生まれてきたかを」

「そして」

「私が何者なのかを」

声色は海のように透き通っていて、それでいて地を穿ってできた海溝のように底が見えなくて。だけどおれはたじろがない、身動ぎひとつせずにただ出海さんだけを視界に捉えてる。出海さんの言葉はまだ終わってないと思った。続きを聞かせてくれ、無言で催促をする。出海さんがそれを分からないわけなんかない。だからおれは続きを待った。

「……四条さんと涌井さんに会ったでしょう」

「二人に話をしたのは、この私よ」

「貴方の過去について話したの。四条さんは既に何もかも知っていたようだったけれども」

「どちらも小さくない感情を抱いていたわ、話してすぐに理解できた」

「それは他でもない」

「槇村くん、貴方に対して」

「それが何をもたらしたか? ええ、それも理解しているわ」

「どちらも貴方に寄り添おうとした。ずいぶんと健気なものね」

「それとも……貴方を奪おうとしたか」

「だとしたら、したたかと評するのが適切でしょう」

「貴方から一海を引き離すために、二人の感情を煽って嗾けたのが私だとしたら?」

涌井に話をしたのは出海さんだったのか。涌井は――まるで気付かなかったけどおれに気があったってことで、一海を連れて行かれて呆然としてるところにおれの親と一海の親の話をすれば、おれが一海のことを諦めると思ったに違いない。ユカリの方はもう分かってる。おれと一海が傷付く前に「既成事実」を作ろうとした。普段のユカリがそんなことをしでかすとは思えないから、出海さんの言った通り揺さぶりを掛けた、そういうことだ。

「もうひとつ」

「博物館で一海の様子を見ていたのは」

「貴方の母親……久恵さんよ」

「あの人は晴美姉さんの親友だった。それは私もよく知っている」

「その連れ合いが――槇村浩だった」

「分かるでしょう。貴方の父親よ」

「自分の夫が、親友とその連れ合いを手に掛けたとしたら」

「妻は心穏やかでいられるかしら?」

「久恵さんの罪悪感に付け込んで一海を連れ去ったのは、私よ」

「四条さんもそう、涌井さんもそう、久恵さんもそう」

「私が貴方に纏わる人々を弄んだとしたら?」

「そろそろ答えを聞かせてくれるかしら」

「――槇村透。貴方の答えを」

答えが欲しい、出海さんが言う。おれの心境はどうだろう。落ち着いてる、迷ってることなんて一つもない。今目の前にある凪いだ海のように、波風一つ立っちゃいない。

「それは全部、一海のためですよね」

「親を殺した人間の子供なんかと付き合っていたと知れば、一海は悲しむ」

「おれが一海から離れれば、一海は苦しまなくて済む」

「出海さんが一海を大切だって思ってるから、全部自分で抱え込もうとした」

「何もかもすべて、一海のため。そうですよね」

口開こう、って意識しなくてもよかった。自然と口が開いて、おれの思いがありのまま言葉になって出ていく。

「おれの『父親』は、確かに一海の両親を手に掛けました」

「出海さんの姉さんを死なせたのは、おれの『父親』です」

「それは変えられません。もう起きたことだから、おれが何かして変えられることじゃない」

「だから、おれも受け入れるしかない。そこから逃げようなんて考えてもダメだって」

「おれは、一海の両親を殺した男の子供だ、ってことをです」

出海さんは動かない。ただ黙っておれの言うことを聞いてる。返事がないのは肯定? それとも否定? どちらでも構わない。おれはおれの考えを出海さんに告げるだけ、そして出海さんがどうあっても、おれの考えは、想いは、願いは――変わらない、変わるはずなんてない。

「だけど」

「だけどおれは、一海の傍にいたい。一海の隣にいたいんです」

「一海がおれを『光』だと言ってくれたから、おれがここにいていいって一海が伝えてくれたから」

「おれは、一海の声をもう一度聞きたい」

「今のおれには、ただそれしか考えられません」

おれが言いたいこと、全部口に出して伝えた。あとは出海さんがどうするかで何もかも決まる。おれを拒絶するならそれでもいい、もっと強く踏み込むだけ。出海さんには出海さんの言い分だってある、だけどおれにはおれの譲れないところだってある。一海の傍にいたい、一海の隣にいたい、一海の声を聞きたい。これはおれと出海さんの問題じゃない、おれと一海の問題なんだって。

今、一海が抱えてるあのタマゴは――他の誰でもない、おれが一海と結ばれたことで「見つかった」ものだから。

大きく息をつく、出海さんが。海に向けられたままだった視線が泳いでるのが背中を見ていても分かる。ずっと張り詰めていた糸が切れて、諦めたような? いや違うな、背負っていたものを下ろしたみたいな感じだ。緊張が緩むのが伝わってくる。おれの隣に立つ佐藤さんは何も言わない、ただ出海さんと一海、そして遠くの海を見つめ続けている。おれと出海さんの会話に割って入ることもせず、押し黙ったまま話を聞いてる。なんだか不思議な人だな、どうして出海さんと一緒にいるんだろ。悪い意味じゃなくて、素で浮かんできた疑問で。

「……ずいぶん馬鹿な真似をしたものね。私、あの日からまるで成長してないじゃない」

ほんの一瞬他所に向きかけた意識を力強く元の場所へ引き戻したのは、出海さんの声だった。

「こんな小手先の小細工如きで貴方を止められるなんて、本当は欠片も思っていなかったのに」

「それでもこんなことをしてしまうのは、人という生き物の性なのかしら」

「私はあの子の、一海の家族として、せめて、せめて自分にできることをしてあげたかった」

「なのに」

「この頭で思いついた『できること』というのは」

「一海が一途に想っている、一海を一途に想っている、最愛の人の心を踏み躙ることばかりだった」

「一海と別れなさいと告げた、関わりのある四条さんや涌井さんを唆した、貴方の母親が持つ弱みに付け込んだ」

「もし、このどれかひとつであっても一海に知られでもしたら、縁を切られても私は何も言い返せないでしょうね」

「それくらい、槇村君と一海には惨たらしいことをした、あの子が悲しむようなことをしてしまった」

「まったく――人間とは本当に愚かな生き物よ。私が陸に生きる人間だということを再認識させられる」

「行動で示すことは……叶わなかったけれども」

「私は一海を護りたかった、一海に悲しんでもらいたくなかった。この気持ちは本当よ」

「だから」

「槇村君が私の犯した愚行のすべてを『一海のため』だって言ってくれたのは」

ゆっくりと、躊躇いがちに出海さんが振り返る。

「……本当に、本当に救いだったわ」

瞼からはまるで滝のような涙が溢れていて、頬を伝って砂浜へ零れ落ちていく。出海さんの瞳から流れた涙を寄せて返す波が浚って、ひとつ・またひとつと海へ飲み込んでいく。タマゴを抱いて海を見つめ続ける一海を背にして、出海さんは顔を俯かせた。泣いてる、出海さんが泣いてる。一海を傷つけないように、おれの素性を知って一海が悲しむことがないように、自分がすべての罪を背負っておれとの繋がりを断とうとした。

ああ、「母さん」だな、おれはそう思った。物心ついたころに母さんがいなくなって、「母さん」ってどういう存在なのかをちゃんと自分の中で固められずに生きて来たけど、でも母さんってこういうのだよなって今なら思う。自分が泥まみれになっても構わない、血まみれになることも厭わない、それでも子供を護ろうとする。執念みたいなもんだ。出海さんが一海にとって法律とかそういう堅苦しいルール上の母親かなんてどうでもいい、今の一海にとって出海さんは「母さん」で、出海さんも一海の「母さん」として全力で立ち向かってる。

おれはそれでも一海と共に在りたい、だから出海さんを越えて進んでいく。だけど出海さんにも、一海を何が何でも護るって気持ちがあった。おれはそれを受け止めてる、受け止めなきゃいけないって思ったから。一海と向き合うためには、出海さんは絶対に無視できない人だってずっと感じてたから。対峙して分かりあえたなら、一海を想う気持ちに違いはないって気持ちが通じ合ったなら、もうそれでいい。

「今の槇村君になら、何もかも話して大丈夫ね」

「聞かせてください。一海のことを、一海がどうなってるのかを」

ここからは一海の話をしなきゃいけない。おれも出海さんも、言わずとも理解していた。

「一海は人と海獣の狭間にいる――いえ、『いた』と言うべきね」

「人じゃなくなりつつある、ってことですか」

「その通り。今の一海はカタチだけがニンゲンでほとんど海獣そのもの。人としての意識は……もうほとんど残っていない」

「ここにおれや出海さんがいることも分かってないんですか」

「恐らくはね。久恵さんや私が幾度も声をかけたけれど、一度として反応は見せなかった」

財団のスタッフが見ていなければ、一海はとうの昔に海へ還ってしまっていたでしょうね。出海さんの声は微かに震えている。一海を失うのが怖い、一海を喪うのが恐い、声色だけで一海を想う気持ちと恐怖がありありと伝わる。もし元気な一海が聞いたら心配するどころじゃ済まないだろうに、今の一海には――そんな出海さんの声も、ただの一つだってとどかない。

「私のことを認識さえしていないわ。顔を覚えてないとかじゃない、近くに『誰か』がいることさえ認識できない」

「一海は……独りぼっちってことなんですか」

「……ええ。絶対的な孤独の中に沈んでいる。誰も寄り添ってあげられない」

「一海……」

「今まさに一海は、深い、とても深い、完全な虚無(nil)に落ちようとしているの」

おれと出海さんが話していても、一海は一切の反応を見せない。さざ波にガウンと体を濡らされるままで、瞳は星のない空のように光を失くして、全身から力が抜けきっていて。ただ、膝に載せている白いタマゴを抱く両腕にごく僅かな意思を感じ取れるだけ。一海に抱えられたタマゴはどうだろう、あの日から全く様子が変わったように見えない。中で何かが動いていたりするような様子もない。あれはもう二週間、いや違うな、三週間くらい前のことなのに。ポケモンのタマゴは孵化が早いって聞いた、長いものでも十日ほどだ、とも。その倍以上の日数が経ってもタマゴのままだってことは、つまり。

つまり。

「これから……祭りが始まる」

「祭り?」

「海獣たちがこの海に集まってくるの。局も財団も、かなり前からその予兆を観測している」

「前に鈴木館長が言ってました。この辺りで見ない海獣を保護したって」

「ええ、それも影響を受けた結果よ。海は遥か遠くまで波を伝える。その海獣は波に導かれて、根源の波動に誘われて、この海まで流れてきたのでしょう」

「海獣が海へ集まっている、だから……一海も」

「……察しの通りよ。一海もその輪に加わろうとしている、それも特別なカタチで」

「特別?」

「今までこの海にいなかった未知の海獣として――新たな仲間として、海に迎え入れられようとしているの」

横から人影が現れる、佐藤さんだ。スマートフォンをポケットへしまいながら、出海さんの隣まで音もなく静かに歩いてきて。

「先ほど本田局員から連絡がありました。導き手の王子が海へ還ったと」

「そう。あの子たちは……最後までやり遂げたようね」

「次のフェーズは集まった携帯獣#91205たちに声がとどいた時です。星宮神社で局長のご息女たちが動いています」

「怪物の残滓だった対象#143796……-2だったかしら。彼女も関わっているのでしょう?」

「今のデータベースにその番号が割り当てられた案件は存在しませんよ。故に『対象#143796-2』も存在しない。そうでしょう?」

「……成程」

「尤も、貴女がその番号を未だに憶えていることに不思議はありませんがね。縁が無いわけではないですから」

「相変わらず食えない男ね。それもまた経験の賜物? まるであの男と話しているよう。付き合いがあったと言うのは伊達ではないのね」

「――この辺りにしておきましょう、水瀬局員。今はそれよりも先んじて、彼に話すべきことがあるはずです」

「ええ。何もかも……話しておかなければね」

出海さんが顔を上げる。視線の先にはおれがいる、おれの視線の先には出海さんがいる。真正面から向き合って、違いの目を見つめあう。

「槇村君」

「私の話を――聞いてもらえるかしら」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。