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#33 アクエリアの手引き

「最初に何を話そうか。そう考えて、晴海姉さん……一海の母親について話すべきだと思った」

「鈴木館長から聞きました。海が好きな人だったって」

「その通り。一海と同じくらい海に愛着を抱いていたわ。赤い血を流す人と人との間に生まれたにも関わらずね」

「じゃあ、一海みたいなカラダじゃなかったってことですか」

「ええ。同じ親から生まれた私は一海のような能力や性質は持たないもの。一海の特異な体質は、すべて父親譲りのものよ」

「真っ白い肌も、水中で息が続くのも、雨に打たれて平気なのも……海の中で声が伝わるのも、全部」

「そう。晴海姉さんにそんな性質はなかったから。海を愛する――普通の人間だったわ」

海を、一海を、それからたぶん――海に消えた晴海さんを見つめた出海さんが口を開いた。晴海さん。顔も見たことのない一海の母親、おれの父親が死なせた人。赤ちゃんだった頃に死に別れたって言ってたから、一海もほとんど何も知らないはずで。話を聞いてて自然と背筋が伸びた、ひとつも逃がさずに聴かなきゃいけないから、心に刻みつけなきゃいけないから。

「十三も歳が離れていたからかしら、ずいぶん可愛がってもらったわ。本当にね」

「私から見れば『お姉ちゃん』と言うより『お姉さん』のように見えていた。このニュアンスの違い、分かるかしら」

「よく海へ一緒に遊びに行ったものよ。夏休みなんて、毎日のように海を泳ぎまわってたもの」

「海だけじゃない。石の洞窟にもよく連れ出されたの。榁の北にあるあの大きな洞穴にね」

「あの中は複雑怪奇、天然の迷路と言ってよかったけれど、姉さんはなぜかあの中の構造に詳しかった」

「いつも迷わず私を最深部まで導いて、そして……壁画を見せてくれた」

「――カイオーガの壁画を。海原の神と呼ばれたあのポケモンが描かれた壁画を、ね」

カイオーガ。その言葉を、その名前を口にするのを一瞬躊躇ったのがおれにも分かった。腕に刻まれた「A」の刺青、そこにそっと手を添える。まるで痛みが生じているみたいで、だけど決して掌で覆い隠そうとはしなくて。隠したところでどうにもならないと分かっているから。おれが生まれながらの罪から逃れられないのと同じで、出海さんもまた逃げようのない罪を負っている。多くの命が奪われたあの雨を引き起こした恐るべき海獣、その力を目覚めさせてしまった人間のひとり。

佐藤さんが出海さんを見ている。どこか悲しげな眼をしていて、うまく言えないけど、少し距離を置いて寄り添っている感じがする。距離取ってるのに寄り添ってるってどういうことだよ、っておれも思うけど、そうとしか言いようのない顔つきしてるんだ。完全な同情や共感じゃなくて小さいけれど確かな溝があって、だけどそれはそれとして出海さんの心情はちゃんと分かってる風で。あの人もあの雨で誰か亡くしたりしたのかな、もしそうだとしたら、今の表情や仕草も理解できる気がする。

「……姉さんはよく海の話をしてくれた。この海についても、私の知らない『海』についても」

「幼い頃、はるか遠くの海へ行ったと言っていたわ。船でも飛行機でも辿り着けないような、ずっとずっと遠くの海」

「その海がある場所で出会ったのが――アクエリアだった」

「私たちの言葉で表現するなら『殻のないラプラス』、そう形容するのがもっとも近しい海獣だったわ」

「姉さんは幼い頃そこでアクエリアと出会って、ずいぶんと深い仲になったみたいだった」

「それから長い年月を経て、どうやったのかは分からないけれども……アクエリアが榁の海に現れた」

「あの時の喜びようといったら、まるで誕生日プレゼントを貰った子供のようだったわ。もういい大人だったのに」

「私から見てもすぐに分かったの。二人にとって榁の海が初めての出会いではなかったと」

「二人は強い絆で結ばれていた。種族の壁も、赤と青の壁も、或いは――もっと高く厚い壁さえも超えて」

「アクエリアと姉さんはいつも一緒にいて、それが親愛から情愛に変わっていくまでに時間は掛からなかった」

「海獣は底知れない存在、いつもそう思っているけれど、人間もまた理解の範疇を超えた生き物だとつくづく思うわ」

「姉さんとアクエリアは言葉通り結ばれて……やがて新しい命を、一海を身籠った」

「一海が海で生まれた話は知っているでしょう。生まれたばかりの一海を取り上げたのが私だということも」

「思春期の私には鮮烈な光景だったわ。新しい命が生まれることの重みを知らされたというべきかしら」

「そして……姉さんと一海を結んでいた臍の緒を断ったのも私だった」

「ひとつの命をふたつに分かつ。あの鋏を入れた時の音は――生涯忘れられそうにない」

知らない海。出海さんの言葉が頭の中で何度も響く。海って全部繋がってるんじゃないのか、そう思ってたところに「知らない海」という言葉を投げ込まれて、思考がうまく働かない。なんだろうな、池にでかい石が投げ込まれて中にいるやつらが慌てふためいてるみたいな。晴海さんはいったいどこで何を見てきたんだろう。船でも飛行機でも辿り着けないような遠い場所ってどこなんだ、まるで見当も付かない。

本当に? おれの中でおれが疑問を投げかける。思い当たる節がひとつもないわけじゃない。花子ちゃんから言われた言葉が蘇ってくる。おれの家に来た日、青い紅茶を飲みながら交わした話の中にあったもの。

『わたしやトオルさんのいるこの世界とは違う、けれどとてもよく似た世界があるかも知れない』

晴海さんの言う、出海さんの「知らない海」がある場所。それはおれや一海の住む世界のすぐ「隣」にあるけれど、普通はどうやっても行くことのできないセカイなんじゃないか。出海さんの言う「アクエリア」って海獣はそのセカイにしか居なくて、おれの住んでるセカイのどこを探しても見つからない、いるはずのない存在なんじゃないか、って。もしおれの考え全部が合ってたとしても、結局晴海さんがどうやって・どうしてそのセカイへ行ったのかまでは分からないから、ただの空想と想像でしかないけども。

「槇村君。貴方の父親……生みの父親にあたるあの男は、槇村浩は」

「案件管理局の局員だった」

「姉さんとアクエリアを手に掛けたのは、表向きには痴情の縺れだと言われている」

「槇村が姉さんに横恋慕して、目障りなアクエリアを始末した、その弾みで姉さんも……皆そう考えている」

「けれど、実態はそうじゃない」

「アクエリアは野に放たれてはいけなかった。ましてや姉さんと一緒にいるような状況は到底許容されるものではなかった」

「私たちの世界にはいるはずのない海獣、しかもそれが人間との間に子をもうけたとあっては、海獣と人類にいつか計り知れない影響をもたらす」

「ゆえに早急な収容か……あるいは終了が必要だった。緊急性を鑑みた槇村は後者を選んだ、自分の身を引き換えにしてね」

「あの男は今も収監されている。誰とも会おうともせず、ただ自分の中にすべてを閉じ込めて」

出海さんが服の襟に付いたバッジを外した。掌の上に置いてじっと見ている。じっと、瞬き一つせず、視線を逸らそうともせずに。何のバッジだろう、疑問が言葉になり終える前に、案件管理局のバッジだって気が付いた。ペリドットで初めて出海さんに会った時にも着けてたっけ。出海さんがバッジを見つめる意味を考える。自分が案件管理局に所属しているという証、案件管理局に籍を置いているという事実を表すもの。

今の出海さんは、おれの父親がかつていた場所にいる。晴海さんと「アクエリア」を死なせたおれの父親――槇村浩と同じ組織に身を置いている。出海さんが何を思っているのか、どんな心境でいるのか、おれにだって想像できないわけじゃない。できないわけじゃないけど、とても口に出して言葉にできるようなものじゃない。どういう経緯があったのかおれには分からないけど、並大抵のことじゃないってのは確かだ。

「槇村君は今こう思っているはず。『なぜ私が案件管理局にいるのか?』と」

「その事について話すと長いけれど……話さないわけにはいかない」

ああ、おれもそう思う。おれも聞かないわけにはいかないって思ってる。

「私はかつてある団体に身を置いていたの。ある思想を持った、普通の人から見れば危険な組織にね」

「その団体は海獣たちのための世界を作ろうとしていた。彼らの住まう『海』を広げるという理想を掲げて」

「なぜ私がそんなところにいたのか? 理由は一つしかないわ」

「――復讐。復讐のためよ。姉さんを死なせた人間たちへの復讐、それが目的だった」

何の話をしてるのか、出海さんがかつてどこに居たっていうのか。ハッキリと名前は出てこなかったけど、おれには全部理解できた気がする。「『海』を広げる」って言葉でそれが確信に変わる。確かにそういう連中がいたのを覚えてる、榁で活動してるのを見た気がする。だけどそれだけじゃない。あいつらはもっと強烈なカタチで、おれたちの脳裏にその名を刻んだんだ。

「私たちは海の神を捜した。伝説の海獣・カイオーガの姿を追い求めた」

「世界を水で満たしてすべてを海に還すその力があれば、きっと我々は救われると信じてね」

「……今思えば、熱に浮かされていたとしか思えない」

「気付いた時にはもう、後戻りのできない場所まで歩いていたのだけれど」

四年前の豪雨。春原の両親が、南雲の母親が、川村の親父が、それから一海の爺ちゃんが海に吞まれて消えた、あの大雨を起こしたんだ。出海さんはそこに深く関わっていた、今おれに告げてるのはそういうこと。どう受け止めるべきだろう、とんでもない悪事をしでかした、とか? どうしてそんなことしたんだ、とか? 客観的っていうか、事実だけを取り上げたらそんな気持ちになると思う。だけどそういう感情はさっぱり湧いてこない。

血のつながった人間を手に掛けられたら、おれだって気持ちに任せて何をしでかすか分からない。だから他人事じゃいられない。

「降り止まぬ雨、荒れ狂う海、人々の慟哭」

「あの男はただ呆然と空を眺めていた、きっと私も同じだったに違いないわ」

「しでかしたことの意味を見せ付けられて、私たちは言葉を失った」

「これが姉さんの望んだこと? 姉さんが私に願ったこと?」

「姉さんは……晴海姉さんは、こんな海を見たいと思っていたの?」

「晴海、晴れた海。姉さんが愛していたのは、その名の通り穏やかに凪いだ晴れの海だったはず」

「私たちは曇天にあるべき姿を見失って、誰も望んでいなかった惨禍を引き起こしてしまった」

隣に立ってた佐藤さんが一歩前に出る。海へ近づいた形だ。おれが思わず顔を向けると、まるで佐藤さんはそれが前々から分かってたみたいにこっちを見た。

「私が出海さんを案件管理局へ招いた理由をお話しします」

「豪雨災害が落ち着き、梧――対象#142043の収容を完了したころ、私は彼女にコンタクトを取りました」

「その上で、次の二つの選択肢を提示しました」

「貴女の持つ海獣や天候の知見を活かして、案件管理局で局員として働くか」

「対象#142043と同じく、あの災害にまつわるオブジェクトとして収容されるか」

「出海さんは前者を選びました。そして私と組むことになった」

「彼女には、是が非でも守らねばならないものがありましたから」

「それが……他の誰でもない、一海さんです」

名前を呼ばれた一海は、けれど何の反応も見せない。自分が「水瀬一海」だってことも忘れてしまったみたいに、光を失って闇でいっぱいの瞳でもって、ただ海を見つめ続けてる。打ち寄せる波に濡らされながら、もの言わぬタマゴを力なく抱き締めて、ただただ海だけを見てる。変わり果ててしまった一海を、佐藤さんは痛ましげに見てる。かつての姿を少しでも知ってるなら、今の一海を平気で見てるなんてことはできっこない。おれも佐藤さんも出海さんも、みんな気持ちは同じだ。

出海さんは佐藤さんに手引きされて案件管理局に加わった。姉を海で殺したやつがいたっていう組織に、半分やむを得ない形でもって。どんな気持ちか? なんてわざわざ言葉にしなくたっていい。苦渋の決断だったってことは赤の他人のおれにだって分かる。それでも出海さんは一海を護りたかった、側に居たいと思った、それが分かっただけで十分だ。一海を大切にしてる、愛してるって人が、おれ以外にもいたってことだから。

「私の話はもう十分ね。ここからは一海の話をしましょう」

「聞かせてください」

「一海がかつて声を出せなかった、その話は聞いたかしら」

「ユカリから聞きました。それが原因で暴力を振るわれたって話も」

「そう。あの子は一言の言葉も発することができなかった。父からは生まれつきのことだと言われたわ」

前にユカリと話したとき、一海はなんとかカンモク症だって言ってた気がする。アタマの回るユカリのことだから、たぶん全部分かってて答えたんだろうな。今ならあれはユカリなりに一海を護りたかったんだなって分かる。あの時のおれが一海は生まれつき声が出なかった、なんてそのまま言われたら絶対混乱してた。一海の生まれとか親とかのことを知った今なら分かる、声が出せなかった理由も、そのことを話したがらないワケも。

「一海が小さい頃、よく読んでいた童話があったの」

「アンデルセンの『人魚姫』よ。筋書は知ってるわよね? ええ、とても有名な作品だもの」

「序。海で暮らす人魚姫は、陸で生きる人間の王子に恋をする」

「破。人魚姫はその美しい声と引き換えに人間の足を手に入れ、王子の隣に寄り添う」

「急。けれど人魚姫は思いを告げられぬまま、恋は実ることなく泡と消える」

「なぜこの話をしたか、槇村君ならきっと理解できるはずよ」

陸へ上がって声の出せない人魚姫、それは一海そのものだった。青い海にいるべき存在が赤い陸の上にいること、その代償として声が出せない。どこからどう見たって一海だった。自分を人魚姫に重ね合わせて、海が自分の在るべき処なのだと知りながら、それでも一海は人として大地に生きようとしていた。人の子に恋をして、人として生きようとしていた。

「一海にとっての『王子様』。それが誰なのかは……言うまでもないでしょう」

ああ、分かる。分かるとも。痛いくらいに、胸が締め上げられるみたいに、張り裂けそうなほどに。一海が「人魚姫」をよく読んでた理由も、一海が「人魚姫」に何を見ていたのかも。

一海の「王子様」が――誰、なのかも。

堪えきれずに一海を見る。光を亡くした瞳は何も映し出していない、もちろんおれの姿もない。以前、花子ちゃんがおれのことを一海にとっての「光」だって言ってたことを思い出す。とても強い、眩しいくらいの「光」だって。そう言われたおれが目の前にいてさえ、一海は少しの反応だって示さない。おれがここに居ることも、一海のことしか考えられずにいることも、今の一海には分からない。

「出海さん、教えてください。一海が声を出せるようになったのは……いつですか」

次はその話をしなきゃいけないと思っていた、出海さんはそうおれに返してきた。

「祖父を……私の父を亡くした時だと聞いているわ。その時期、私は一海の元を離れていたから」

「亡くなったのは、あの雨の時ですか」

「……その通りよ。一海に聞いたのかしら」

「聞きました。おじいちゃんが波に呑まれたって。海へ入って捜したけど、見つからなかったとも」

「ええ。一海は父を捜した、けれどどこにもその姿はなかった。その時、初めて」

「初めて?」

「――海を『怖い』と、海を恐ろしい場所だと思った。海に対して恐怖を覚えたのよ」

「それがきっかけで、一海は」

「ええ、声を上げられるようになった。赤子が産声を上げるようにしてね」

爺ちゃんを海で亡くして、一海は海を初めて怖い所だと思った、その時になって初めて声が出せるようになった。海と自分の間に距離を感じた、自分が海と一つじゃないって気持ちが生じた、だからかな。海で暮らすのに声はいらない、声は陸で生きる者が必要とするものだから。一海が声を出せるようになったっていうのは、そういう意味もあるんじゃないかっておれは思う。ホントのところは分からない、分かってることの方が少ないくらいだし。けど一海と海のカンケイを見てたらさ、それが自然じゃないかっておれは思う。

海獣とはまた違う「人」としての自分に気付いた、見出したってことなのかも知れない。別にどっちが良い悪いって話じゃない、一海が今まで意識してなかった自分の在り方を知ったってことだけ。ただそれだけなんだ。

「花子や四条さんに付き添ってもらって、一海はひたすら『声を出す』訓練を続けた」

「ずっと言葉を口にしたことのなかったあの子にとって、それは恐ろしく大変なことだったわ」

「文字通り血の滲むような努力を日々積み重ねて、言葉を自分のものにしようとした」

「人として生きられるように、陸の上で言葉を使ってコミュニケーションを取るために」

「あの子の成長は目を見張るものがあったわ。たった一年ほどで、私たちのように違和感なく話せるようになったもの」

「そこまで一海を駆り立てたものは何か、一海が喉から手を出して言葉を欲したのは何故か。槇村君、貴方には分かるはず」

「……自分の想いを告げるため。貴方に『好き』と言いたいがために、自分の声を槇村君に届けたいがためだったのよ」

出海さんが一海を見る。声を自分のものにするために必死に努力した一海は、今や何の言葉も発さなくなった。声を震わせる出海さんを、一海はまったく認識できてない。自分が「海獣」だってことを突き付けられて、おれとの間にできた子どもが決して生まれることがないって分かった。こんな有様で誰よりも一番声を上げたいのは、他でもない一海だっていうのに。

ふと、耳が何かをとらえた感覚を覚える。何だろう? 音の出所を探る。見えるのは紺碧の海だけ、聞こえてきたのも海からだった。海は変わらず穏やかだけど、でも何かがいつもと違ってる。何が? おれにも分からない。ただ「違う」って感覚がごろんと転がってる感じ。似たような気持ちをどこかで抱いた気がするな、どこだっけ。思い出そうとする前に、頭の中でワッと光景が広がった。

去年、夏の終わり、夜に一海と海で遊んだとき。今は昼で、一海は声も上げられなくなってるって違いはあるけど、あの時感じたのとそっくりだ。海がざわついてる、そう感じたのはおれだけじゃないっぽい。出海さんの方を見たら、おれに目を向けて小さくうなずいた。何かが起きてるのは確かだ、じゃあその「何か」ってなんだ? 一海と何かカンケイあるのか、いつもの倍くらい目を開いて海を見つめる。

(光ってる)

海で何かが光るのが見えた。思わず追っかけて目を凝らすと、そのまま海へ吸い込まれそうになる。ダメだ、おれはおれ、海は海。そう言い聞かせなきゃあっという間に呑まれちまいそうだ。気を確かに持ちながら視線を動かして、おれは光ってるのが何なのかを理解する。

海獣、たくさんの海獣、数えきれないくらいの海獣たちの瞳だった。いろんな形のいろんな色の瞳が、じっとこっちを見つめてる。視線を追っかけていけば、全員一海を見てるってことはたちどころに分かった。海獣たちはおれたちのいるところまで来るってわけでもなくて、ただ一海に目を向けてるだけだ。一海が動き出すのを待ってるのかな、そんな気がする。一海はその全部に応じるみたいに、底なしの濁った瞳で海獣たちを見つめ返す。失った光を取り戻そうとするみたいに、光を求めて恋い焦がれるように。海の中でキラキラ光る海獣の瞳は、まるで、まるで。

まるで――煌めく星みたいだ。どこまで行っても終わりのない真っ暗な宇宙で、自分がここにいることを示すために光り輝く星のビジョンが浮かぶ。秋人と話したっけ、海は宇宙みたいだって。宇宙に星があるなら海にだってあっていい。海の星、それが海獣たち、海獣たちの瞳なんだ。

「みんな、一海を見てる」

「彼らは何のためにここへ来たと思う?」

「……迎えに来たんですか」

「察しの通りよ。一海を仲間として迎え入れに来たの」

「仲間」

「そう。それも特別な、初めての存在として。この海には他に誰もいない、唯一無二の――海獣としてね」

彼らは一海を海獣だと思っている。一海が彼らと共に歩むことを選べば、人であることをやめて海獣として生きていくことになる。私たちとの繋がりも途絶えるでしょう。出海さんは静かに、だけど微かに震える声で告げる。

出海さんの声が風にかき消えたのとほとんど同時に、海面から顔を出すポケモンがいた。それも一体や二体じゃない、二十は軽く超えて、四十か五十はいそうな群れだ。雨粒に羽の生えたようなフォルムのその海獣には見覚えがあった。確か……そうだ、フィオネだ。前に東原が神社で連れてたあいつとそのまんま同じ姿のポケモンが一斉に浮かび上がってきて、誰ひとりよそ見もせず一海だけを見つめている。目と目が赤い糸で結ばれて、互いに目を離すことなんて思いもしないみたいに。

群れの先頭からまた一体浮かび上がってきた。最初は周りのやつらと変わらないように見えたけど、よく見るとちょっと風貌が違う。他のフィオネが濃い水色なのに、そいつだけ金色のよく目立つアイカラーだ。額にもルビーみたいな真っ赤な発光体がある。群れのリーダーらしいそいつが一海を視界に捉えた直後、瞳が宙に浮かぶ星のようにキラキラと煌めくのが見えた。見間違えじゃない、隣で出海さんも表情を変えるのが見えたから。

一海は――輝く星のような目を見ている。光を失って濁った眼を清めるように、光の向こうへ吸い込まれていっちまうみたいに。ただ目を向けてるだけじゃない、ハッキリと自分の意思で光を「見てる」。外からの刺激に一海がほとんど何の反応も示さなかったのをさんざん見てきたから、今が全然違う状況だってことは肌でひしひしと感じ取れて。

「……みぅ!」

先頭にいるルビーのフィオネが一声鳴くと、取り巻いていた他のフィオネが振り返って沖へ向かい始める。殿を務める宝石付きのフィオネは一海を少しの間見つめてたけど、まるで海へと誘うように身を翻して群れを押し上げ始めた。

「――――――――」

声にならない声、声ならぬ声が聞こえて思わず目を向ける。出所は一海からだった。微かに開いた口からひゅうひゅうと息が漏れて、音の形を成してない声を上げてる。左腕にタマゴを抱えたまま、かたかたと震える右腕を海へとのばす。その手で海を掴もうとするみたいにゆらゆらと揺らめいて、身を前へ乗り出して見せた。

「一海、一海っ」

肩を掴んで声を掛ける。声が届くとは思えなかったけど、だけどそうせずにはいられない。ここへ来て一海が初めて生きてるみたいな素振りを示したから、まだ一海は生きてるんだって確かめられたから。でも思った通り、おれの声は一海には届かない。ただ海だけを見つめて、遠ざかっていくルビーのフィオネに追いすがろうと、力を失って弱弱しく震える手を必死になって前へ突き出してる。

その時だった。

「――うみ」

信じられないくらいの勢いで身を翻して、一海が海へと身を躍らせた。ほとんど飛び込んだって言ってもいい。大きな水しぶきを上げて突っ込んだかと思うと、昔テレビで見たジュゴンみたいに大きく体をくねらせて泳いで、あっという間におれや出海さんの手が届かないところまで奔っていっちまった。状況を飲み込むのに二秒、どういうことか理解するのに三秒かかって、おれは「だめだ」と声を上げた。

行かなきゃ、一海が海へ還っちまう。そんなの放っとけるわけない。だって一海は人として生きようとしてたんだろ、声で人と心を通わせることを選んだんだろ。陸でおれと一緒に生きてくって信じてたはずなんだ、海獣ではなく人として。おれだって一海と一緒にいたい、まだふたりでしてないことなんて星の数ほどあるんだ。ここで一海を連れ戻さなきゃ、もう二度と一海の顔が見られない、手を繋げない、声だって聞けない! そんなのありえねえだろ! おれは一海のことが好きだ、他の誰よりも好きで、離れ離れになるなんて考えもしてない。行かなきゃ、おれも海へ――

「待って!」

――逸っていくばっかりの気持ちが鎮まったのは、出海さんから飛んできた言葉だった。前ばっか向いてた気持ちがふっと解けて、辺りがちゃんと見えるようになった気がした。顔を上げると、瞼に涙を浮かべた出海さんがすぐそばに立ってた。

出海さんと二人で海を見る。一海はもう豆粒みたいに小さくなって、沖へ出ていくフィオネたち、そして群れに随行するほかの数えきれないほどの海獣たちと一体になって沖へ沖へと進んでいく。気が逸っても何にもならないのは分かる、出海さんが言いたいのはそういうことだってのも。だけどこのまま手を拱いてたら、一海はもう二度とおれたちのところへは戻ってこない。人の形をした海獣として、海に融けてひとつになっちまう。一海が好きだったっていう「人魚姫」みたいに、成就しなかった情愛を抱いて泡みたいに消えてくだけだ。

「出海さん、一海は」

「分かっている……分かっているわ」

ふと、今まで隣で押し黙っていた佐藤さんが前に出て、おれたちの視界に入ってきた。

「説明は済ませました。彼にもご協力を戴けるとのことです」

「……彼?」

「そう。貴方を彼方の海へ連れていくことのできる人を……ここに呼んでおいたの」

誰だ。振り向いたおれの目に飛び込んできたのは、おれの瞳に映し出されたのは。

「……よう、槇村」

小鳥遊、小鳥遊の姿だった。

ビックリした、それが正直な感想。どうしてここに小鳥遊が? そう思わずにはいられない。ちょっと気まずそうな顔、だけど足取りはしっかりしてて、おれの方に向かってゆっくり歩いてくる。慌ててたりとかは全然ない、あくまで落ち着いてる。偶然ここに来たって感じじゃないよな、佐藤さんと出海さんがここへ呼んだっぽいこと言ってたし。だけどなんで? 小鳥遊を呼んだのはなぜ? おれだけ何も分かってない感じがそわそわする。

会うのいつぶりだろうな、夏休みに入ってからは一回も会ってない。最後に会話したの、ヘタしたら去年ペリドットで会った時かも知んない。一海のことでギクシャクして疎遠になってたから。おれも進んで話しかけようなんて考えなかったし、小鳥遊にしてみたら尚更だろうな。思い出したくもないことを思い出す羽目になったんだ、おれだったらもう関わろうなんて思わない。

それを押してここへ来た、おれに声を掛けてきたってことは。

「どうしてここへ」

「たぶん、槇村が考えてる通りの理由だ」

「……一海、だよな」

「ああ。そこにいる佐藤さんから話をされた。青浜まで来てほしいって」

「一海だけど、今は」

「それも知ってる。水瀬さんに何があったのか、俺がどうすべきなのかも」

「小鳥遊」

「行かなきゃならないんだろ、向こうの海まで」

小鳥遊の言ってることは事実だ。一海が遠くまで泳いで行っちまったから、おれはそれを追いかけたい、追いかけなきゃいけない。だけど、おれみたいなただの人間があんなところまで泳ごうなんて死にに行くようなもんだ。人間と海獣の間に生まれた一海だからできることであって、おれには真似なんかできっこない。小鳥遊だってそれは同じだ。ここへ来たからどうなるなんてもんじゃない――そう考えかけたけど、おれは目の前の小鳥遊の仕草でハッとする。

おもむろにズボンのポケットへ手を突っ込んだかと思うと、掌の中に何かが握られて出てくる。おれもよく知ってるもの、自分じゃ持ってないけどアタリマエにいろんなところで見かけるもの。手のひらサイズの紅白の球体。

「槇村、お前が泳ぐの得意だってことは知ってる。俺じゃ追い付けないくらい早いのも、延々と泳いでられるのも」

「だけど、人間には人間の限界ってもんがある。人間は海獣じゃない、海で思うように動くなんて無理だ」

「人間じゃ届かない、海獣にしか行けないところまで、水瀬さんは行こうとしてるんだろ」

「だったら――海獣の力を借りればいい。そうだろ?」

放り投げられたモンスターボールが海の上で光って、中からポケモンが飛び出してきた。姿かたちに見覚えがある、ポケモンに疎いおれも名前を知ってる。「のりものポケモン」・ラプラスだ。空中で出現したラプラスは海へダイビングして、辺りに大きな水しぶきを立てた。冷たい飛沫がおれの顔にまで飛んできて、感覚が研ぎ澄まされてくのが分かる。悠々堂々海に浮かんで、陸地で立ち尽くすおれに目を向けてきた。

そうだ、思い出したぞ。小鳥遊は確かにラプラスを連れてた。いつだったか涌井と鉢合わせたときだったと思う、二人でラプラスに乗って海を遊覧するとか言ってたっけ。あれは冗談でも伊達でもなく、ホントの話だったってわけか。

「槇村、後ろに乗ってくれ」

驚くおれの横をすり抜けて、小鳥遊が飛び出したラプラスに乗り込んだ。弾けるように体が動いて、おれもラプラスの背に飛び乗る。高校生の男子二人って相当重いはずなんだけど、ラプラスはマジでビクともしない、さっきまでと何も変わんなくて、余裕たっぷりって感じで海に浮いてる。きゅうぅ、と一声鳴くと、いつでも海へ漕ぎ出せるとおれたちに合図をして見せた。

だったら、今すぐ行くしかないよな。一海のところまで、海の向こうへ行こうとしてる一海の元まで、まっすぐに。

「結構揺れるぞ、しっかり掴まってろよ」

「分かった。小鳥遊、頼む」

小鳥遊のラプラスが一海の泳いでいった方角へしっかりカラダを向けて、今にも動き出そうとしてる。ラプラスの甲羅の突起をしっかり掴みながら、おれはふと後ろへ振り返る。

「……信仰をして事実を葬らしめよ。妄想をして記憶を消さしめよ」

「私は深淵を見て……それでもなお信じる」

「槇村君。一海を……一海を、どうか助けてあげて」

出海さんの瞳が宙に浮かぶ星のようにきらりと煌めくのを――おれの目は確かに捉えてた。

「ラプラス、行ってくれ! 向こうにいるフィオネの群れだ!」

指示を受けたラプラスは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出し、波をとらえてぐいぐい前へ進み始めた。あっという間に陸地から離れて、佐藤さんと出海さんの姿が小さくなっていく。おれは振り返るのをやめて、正面に広がり続ける淵劫の海と対峙する。

(一海、おれはまだ諦めたくない。一海のいるところまで絶対に行く、だから、だから頼む。もう少しだけ待っててくれ)

一海。あと少し、もう少し、ほんの少しの間だけ。

人間であることを、やめないでくれ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。