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#35 ゲンシの海

小鳥遊のラプラスに乗せてもらってずいぶん遠くまで来た。もう陸地は見えなくて、360°全部が海だ。近くを見ても海、遠くを見ても海。どこまでもずっと続く青、だけどどれ一つとして同じ色なんてない。この海のどこかに一海がいるはず、今のおれにはそれだけが頼り。だけど十分だ。一海がいるってだけで、目の前の海が広かろうが深かろうが全然怖くなくなる。どこかに一海がいるならおれがそれを見つけ出すだけ。

火照った頬にいきなり冷たい感触、空を見上げると雲が迫り出してきてる。真夏に見える入道雲じゃない、日光を遮って薄暗くする雨雲だ。また上から雫が零れてきて今度は額が濡れる感覚がした。冷てえ、雨が降ってきた。さっきまであんなに晴れてて日焼け間違いなしって感じだったのにさ、今じゃ夕方かと思うくらい薄暗い。降り出した雨はあっという間に強くなってきて、海を漂うおれたちを遠慮なくずぶ濡れにしていく。

それでいて、様子が変わってきたのは空だけじゃない。

「透、見てみろよ」

「ずいぶん賑やかだな、見たことない海獣もいる」

「俺たちを取り囲んでるみたいだな」

気付かなかったけど、大勢の海に棲むポケモン――海獣たちがおれたちを取り巻いて、全員が全員こっちに目を向けてきてる。ちゃんと言うなら、見られてるのは小鳥遊でもラプラスでもない、おれなんだって感じる。おれを見て何かするってわけじゃない、ただ視線がこっちに向いてるってだけ。でも見てるのは間違いなくて、それには絶対意味がある。一海が海へ向かった時もそうだ、たくさんの海獣たちがやってきておれを見てた。あれと同じことだ。

降り止まない雨の中で順繰りに海獣の目を見つめて、視覚を目いっぱい使ってた時だった。がら空きになってた聴覚、耳がいきなり何かをキャッチするのを感じる。何を拾った? 音。耳が拾ったんだから音以外はあり得ない。どんな音? 声。波や雨の音じゃないから音の種類は多分声。どんな声? ちょっとずつ高さの違う声が流れるように聞こえてくる。「歌」、「歌」で間違いない。

(これ、あの時聞こえたのと似てる。懐かしい)

去年の夏の終わりに一海と海で遊んだ時に聞こえた「歌」。今聞こえてる懐かしい「歌」は、あの日流れゆく星を背にして聞こえた「歌」と完全に一致してる。冷たい水を口から飲んだあと全身に行き渡るみたいにして、歌声がおれの中いっぱいに広がってくのを明確に感じ取る。

もう一度海を見た。海にいる海獣たちの目を見た。さっきと全然見え方が違う。どれもこれも光を放ってて、真っ暗闇の中で輝く星みたいだ。鋭い光、鈍い光、柔らかな光、冷たい光。同じものなんてひとつもない、それぞれが「おれはここにいるんだ」と叫ぶみたいに光ってる。

光るのは、見つけてほしいから。一海と泳いでいた時に脳裏をよぎった言葉。その意味するところをおれは理解する。海は少し潜れば光が届かなくなって、自分が光を放たなきゃ誰にも見つけてもらえない。仲間にも友達にも家族にも、自分がいることに気付いてもらえない。誰かに自分がいることを分かってほしいから、だから彼らは輝いて、星のように煌めくんだって。

(あれは――)

おびただしい数の光の中に、ひときわ強い……だけど今にも消えてしまいそうな一筋の光を見つけた。「見つけた」、そう「見つけた」んだ。おれがずっと探していたもの、誰かに――おれに見つけてほしいから光っていた星を。

「……一海!」

ふらりとカラダが揺らめいて、暗い海がおれ目掛けて近づいてくるのを感じる。ああ、おれ海に飛び込もうとしてるんだな、飛び込むっていうか落ちるっていうか。ちょっと距離を置いておれのことを見てるおれが淡々と呟く。ラプラスから転げ落ちて海へ落ちようとしてるのに、怖いとか「しまった!」とかそんな感情はちっとも生じずに、ただおれは海へ行こうとしてる、海へ向かってるんだって気持ちしか感じられない。

カラダが海に触れる感覚を覚えて、それから。

(ざぶん)

水しぶきが上がる音が聞こえた。「透っ!」、小鳥遊がおれを呼ぶ声も聞こえた。だけどどちらもあっという間にかき消えて、全身が海に包まれる感覚でいっぱいになった。どうしてだろうな、なんにも怖くないし危険だとも思わない。冷静に考えたら海に落っこちて沈んでってるんだよな、おれ。ほっといたら溺れて死ぬって頭じゃ分かってるんだけど、だけどマジでなんとも思わない。冷たい海に抱き締められるこの感じ、なんかこう「愛しい」とさえ思えるんだ。

たぶん落ちていってる。陸と違って海じゃ上下左右の感覚が掴みづらいけど、だけど沈んでいってるってのは分かる。どこまで行くのかな、この辺りってどんくらい深いんだろ。いや、そもそも底なんてあるのかな。海に落ちた瞬間からなんとなく思ってる。おれがいるのは紛れもなく「海」だけど、それはおれがさっきまで見てた海とイコールじゃない。おれが海に触れた瞬間、同じだけど違う「海」に融け込んだ感じがしたんだ。

(――はじまりの海)

場所としての海じゃない。それよりもっと根源的な、もっともっとはじまりにある、原始の海に回帰したんじゃないか、って。

(目、見えるのかな)

飛び込んだ瞬間から閉じていた目を開けてみる。目を開けたって感覚は確かにあるけど、見えるものはなんにも変わらない。暗闇がぶわーっと広がってるように見える。どうだろ、広がってるのかな、自分の姿さえも視界の中になくて、今いる場所がどれくらい広いのか、そもそも広いのか狭いのかさえあやふやだ。一生かけても端まで行けないくらい広くも見えるし、おれひとり分の空間しか存在しない場所にも見える。人間の目って海じゃ役に立たねえな。人間は陸で生きてて海獣は海で生きてるから、目の作りだって絶対違うんだろうな。

今見てるものが現実かなんて分からない。見えないものを心がヴィジョンとして捉えて、ただ「幻視」してるだけかも知れない。

海の中にいるってことは当たり前だけど息できないはず。じゃあ今苦しいか? 別にそんなことない。息をしてる感じもないけど、呼吸ができなくて死にそうって風でもない。どこにも繋がらない、無重力の中を遊泳してるみたいな浮揚感があるだけで、落ちてるようにも浮いてるようにも思う。重力から解き放たれて、どこにも繋がれてない完全な自由の中にあるはずなのに、どこへも行けない絶対の束縛の中にもある。ホントに一切合切縛りが無かったら逆に何したらいいか分からないって言うけど、今のおれはまさにそれだ。

目印が欲しかった。おれ以外の何かがあれば、おれはとにかくそこを目指すって目標が持てる。目標があれば前に進むために頭捻ることもできる。自分以外の何かを見つけたかった。この暗闇の中でおれじゃない存在を認識したかった。

(紅い……光)

誰かがおれの頼みごとを聞いてくれたんだろうか、ただただ暗いばかりの世界に、小さいけれど強く輝く紅い光を見つけた。その明かりに照らされて周囲の光景も見えてくる。自力では光れない小さな星たちがいくつもあって、紅色の光に照らされたことで初めて存在を認識できた。あの光は何だろう、おれの興味が一気に注がれる。行ってみたい、もっと近くで見たい。気持ちのまま前へ踏み出すと、思ってたよりも簡単にカラダが進んでいった。一気に距離を詰めて、手の届きそうなところまで寄っていく。

綺麗な紅い光を放ってたのは、零れ落ちたシズクのようなフォルムをした、どことなく不思議な雰囲気が漂う海獣だった。

「みぅ?」

声が聞こえた。ちょっとかわいい感じで、どっかで聞き覚えがある。いろんな感覚が研ぎ澄まされて、いつもだったらなんだっけこうだっけって悩むような些末な記憶も一瞬で取り出せるのを感じる。フィオネ、フィオネって言ったっけ。さっき見かけたのと同じやつかな、きっとそうだと思う。おれの目を黄金色に輝く瞳で見つめてて、おれも目が離せない。海にはこんな海獣もいるのか、本当に知らないことだらけだな。

フィオネがひらりと身を翻してどこかへ泳いでく。付いてこいって感じの仕草だ、遅れないように水中を進んでく。地に足が着いてないから水中だと思うけど、おれの知ってる水の中とは全然違う。熱くもなくて冷たくもなくて、自分が浮かんでるって感触だけがカラダに伝わる。すっげえ不思議なことが起きてるはずなのに、おれはこれがアタリマエだって感じてる。夢見てるとさ、後から考えたら普通じゃ絶対あり得ないようなことも「そういうもんだよな」ってサラッと流しちゃうじゃん。あれがクッキリした意識の中で起きてるみたいだ。おれが今どこにいて、どうなってて、どうなろうとしてるのか。気になることは星の数ほどあるけど、でも今は流れに身を任せようって気持ちの方が強い。

さらに海の奥深く、人の立ち入ったことの無い場所へと進んでいく。フィオネの紅い輝きが辺りを照らして、雪みたいな微かな光が辺りを舞ってるのを見られる。かつてもっと光り輝いていた存在、今は外から照らされてようやく見つけられるほどに小さくなってしまった光。煌めきを失くしたそれを見ていると、光の失せた一海の目が頭の中に浮かんでくる。自分自身の光を宿すことも、おれという光を捉えることもなくなった瞳。命そのものが消え入りそうないたましい姿だった。

(一海もこいつらの仲間になっちまうってのか)

おれが一海を見つけられなきゃ、今こうして無力に深い海を漂うかつて光だったモノと同じになっちまう。そんなの嫌だ、嫌に決まってる。流れに任せるばかりだったおれの心に「こうしたい」「それは嫌だ」って意思が湧いてくる。一海は誰かに見つけてもらいたがってる、弱弱しい光でそれでも煌めいて、誰かが見つけるのを待ち続けてる。誰かって誰だ? おれ以外に誰がいるんだよ! いねえだろうが!

空の光が届かない海の深淵。それでも底なんて見えなくて、このまま永遠に闇が続いてるんじゃないかって思う。辺りを照らすフィオネの光だけが頼りだ。付いて行った先に一海がいるんだろうか。おれはいると思う。一海を海へ導いたのがこのちょっと変わったフィオネだったから。こいつと一海は百パー関係ある、おれはそう信じてる。疑う気持ちなんてちっとも湧いてこない。今ここで起きてること、すべてが必然だ。

ぐおん、と不意に目の前で何かが動いた気がした。気がした? いや、確かに動いた。目だけじゃなくて感覚が訴えかけてくる。おれ自身が限りなくちっぽけに感じられるくらい果てしない海の淵源で、そいつは空間を圧迫するくらいのでっかい存在感をおれに示してきた。身じろぎひとつするたびセカイが壊れそうで、セカイに依存してるおれも巻き込まれてアヤフヤになりそうな感覚だ。おれの目はありもしないものを幻視してるかも知れない、だけどそれでも目を見開かずにはいられない。

(……でっけえ。こいつは――「でかぶつ」、だ)

意識しないままに「でかぶつ」って言葉が出てきた。水面に向かって駆け抜ける泡みたいに、何よりも真っ先に浮かんできた。得体の知れない巨体、こいつそのものが「海」なんじゃないかと思うほどのぶっ飛んだ「ここに在る」って感触。おれなんかと比べ物にならない、ヨワシ一匹とホエルオーの方がまだ全然比較になるってくらいの差だ。それでもって、ここにホエルオーがいたって今のおれと同じくらい圧倒されるに違いないって思う。「でかぶつ」とヨワシ、「でかぶつ」とホエルオー、「でかぶつ」とおれ。どれを持ってきたって同じだ、同じくらいこの「でかぶつ」の前じゃ存在感を失う。

青白い光が見える。フィオネのそれよりずっと強くて、何かの紋様を描いてるように見える。おれはそれに見覚えがあった。榁の北に石の洞窟って呼ばれてる洞窟があって、奥にある大部屋の壁にはでかい絵が描かれてる。太古の昔豊縁に君臨した海神で、大雨を降らせて今の豊饒な土地を作り出した――そういう話を本で読んだか先生から聞かされたかしたっけ。その海神に刻まれた紋様と、目の前で煌めく光がピタリと重なって見えた。

じゃあおれ、海神の前にいるってこと?

「みぅ!」

フィオネが声を上げてる。海の中なのにすごくクリアに聞こえた、あいつのカラダみたいに透き通った綺麗な声だ。一切のケガレが感じられない無垢の象徴。生まれつきこんなだったのか、それとも誰かに育てられたおかげなのか。おれは後者だと思う。生き物は誰かに大切にされて初めて綺麗なココロを持てる、それはニンゲンも海獣も、神様だって同じだ。生まれた瞬間から完璧なやつなんてどこにもいない。だからこのフィオネには親がいる、それもすっげえ立派な親が。親の顔を見てみたいってあんまいい言い方しないけど、なんかこういうときにも使えそうだな。

紅い光がひときわ強くなって、煌めきに呼応した「でかぶつ」がさらに輝きを増す。セカイが揺れたかと思うと、いきなり「でかぶつ」が大口を開けておれに迫ってきた。これ、普段の意識があったら「食われる」って考えて必死こいて逃げようとするんだと思う。だけど違うんだ、今は違う。ぐっすり眠ったときに見る夢みたいに意識が違って、おれの全身を「導かれる」って感覚が駆け巡った。建物の門が開いて中へ入るように促される感じだ。だから怖くもなんともなくて、先にきっとおれの目指すものがあるって確信が持てた。

迫りくる「でかぶつ」の大口に呑まれるって瞬間に夢の中でまた眠るみたいに、意識が真っ暗な海へと融けて。

(一海)

おれの内と外全部を、果てしない虚無が包んで満たした。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。