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#36 一海の海/self

目覚めたって感覚があった。ってことは起きたのかな、順序がいろいろチグハグ。とりあえずアタマの電源が入るまでぼーっとする。「おれは誰?」槇村透。「歳は?」十七。「生まれは?」榁。「好きな戦法は?」飛び道具重ねからの打撃二択。「嫌いなものは?」風呂場の鏡が曇ること。「今誰を捜してる?」――一海。あぁ、よしよし、記憶はちゃんとあるな。両手両足の感覚もある、痛み・痒み・痺れもない。いたって普通だ。心臓も動いてるな、じゃあまだ死んでないってことで大丈夫っぽい。

改めて周りを見てみた。最後に憶えてるのはあの「でかぶつ」に飲み込まれる風景。もしあいつが海獣なら、おれはあいつの腹の中にいるってことになる。じゃあここがいかにも胃とか腸とかの内臓っぽいかって言えば全然だ。砂浜と海がずっと、ずっと、ずーっと広がってて、空は満天の星空。アレがホントに星なのかは分かんない、さっきまで海の中で見てた光の欠片みたいにも見えるから。砂浜を歩くとしっかり砂の感触がする、海に手を浸けるとフツーに冷たい。やっぱり海だ、砂浜と海だ、ココ。

「すっげえ綺麗だな、青浜といい勝負かも」

なんでおれがこんなところに? そういう気持ちは湧いてこなかった。むしろ自然に受け入れてることの方に「なんで?」って感情が生まれてくる。榁の海の沖で飛び込んで、真っ暗な中を黄色い目のフィオネに導かれて、深淵で出会った「でかぶつ」にぱくっと飲み込まれたら、綺麗で心地のいい海に出てきた。ちょうど起承転結だな、結でオチてなくて全然繋がりがないから作文で書いたら赤点貰いそうだけど。こういうマジでくだらねえこと考えられるくらいには余裕があって落ち着いてる、それはそう。

息を吸ってみた。潮と磯の匂いが伝わってくる。よし、呼吸も普通にできるな。てか、できなかったらとっくにお陀仏だっての。確かめたいことは大体確かめた、とりあえず歩こう。海に沿って砂浜を歩いていく。前に進んでるのかな、後ろに戻ってるのかな。前後の感覚はよく分からない。歩いてった先に何かあるのかな、それも分からない。けど歩きたい、この先に進んでみたい、気持ちのまま進んでいく。

ここはあの「でかぶつ」の中だと思う。おれがイメージする生き物の内部とは全然違うけど、間違いなくアイツの内側にいる。ここは外の世界じゃない、陸でもない。海のすっごい深いところ、誰も辿り着けない場所にある深淵にいる「でかぶつ」の中。おれ、そんなところにいるんだな。冷静に考えたらとんでもないのに、なんか自分のことのようには思えない。何もかもが不思議だ。ありのまま受け入れてる自分にビックリしてる。

「海の中の海、かぁ」

おれにとって海ってなんだろうな、海の中の海を見て海を考える。すべての命が始まる場所で、すべての命が最期に還る場所でもある。はじまりとおわり、淵源と終端、果てのない円環の中で生きてる海獣たち。一海がその環の中に入ろうとしていて、おれはそれを止めたくてここまで来た。止めていいのか、止められるのか、おれにはひとつも分からない。だけど、分からなくても前に進みたいって気持ちは変わらない。分からない、けど変わらない。一文字違いで大違いだ。ユカリに言ったらきっと笑うだろうな、これ。

隣の海は時折さざ波が砂浜に打ち寄せて、心地よい音を立ててるのが見える。音はあるけど静か、そう表現するのが一番しっくり来る。おれ、少し前まで海のこと怖がってたのにな。大切な人が遠くへ行った場所、ふとしたことで自分が飲み込まれてしまいそうになる場所。現に文字通り飲み込まれて、たぶん海の奥深くにいるわけだし。だけどいざ海の中にどっぷり浸かってみたらこんなに安心してる。誰かに抱き締められてるあの感覚に近い、それも――一海と抱き合ってた時みたいな。

一海の肌は少し冷たくて、けど抱き合うとこの上なく温かかったな。おれも一海も恋人同士だって思い合ってるのにさ、いざ一海に抱かれたらさ、なんかおれ、一海の弟にでもなった感じがしたんだよな。背丈はおれの方がデカいはずなのに、一海の全身で包み込まれるような気持ちになって。あの時の安心感、心地よさに似た感覚が今のおれにある。だからかな、おれには確信があるんだ。

ここに一海がいる、って。

何かがキラリと光るのを感じた。見えたわけじゃない、でも感じたのは間違いない。ココロの赴くままに歩いていく。それにしてもホントに広いや、あいつのカラダの中にもう一個セカイがあるみたいだ。マジであるのかも、おれの常識なんて全然通じないしあってもおかしくない。じゃあ、怖いか? おれの常識が通じなくて怖いと思ってる? おれもヘンだなって感じてるんだけど、そこが繋がらねえんだ。見知らぬもの・計り知れないものを怖がるのが人間って生き物なのに、その感情が抜け落ちたみたいに今を受け入れてる。

輝いたところを目指して歩いた。その先に何かあった? あった。あったって言うか――居た。

「一海……!」

一海がいた。おれが一番見慣れた新高の制服を着て、海辺で独り佇んでる。風を浴びながら海を見て、裸足で波しぶきを浴びてる。横から見える顔は元気そう、ってか完全にいつもの一海だ。一海が近づいてきてる、と思ったらおれが走ってた。意識するよりも先にカラダが動く、そこにいる一海に会いたくて、触れたくて、感じたくて仕方ない。何かに阻まれたりすることもなくすぐに一海の傍まで来て、一海もおれに気付いたみたいだ。

「やっぱりここにいたんだ」

おれが声を掛けると、一海は柔らかく微笑んで大きくうなずいた。久しぶりに見る明るい活き活きした表情だ。目もキラキラしてる、砂浜……いやここも砂浜だけど、そうじゃなくて青浜の方だな、あの時見た濁った瞳とは全然違う。ハッキリ自分の意思が宿ってて、しっかりおれの方を見てくれてる。ずっとこの姿を見たかった、一海と気持ちを通じ合わせたかった。懐かしさと嬉しさで胸の中がいっぱいになる。胸の中がいっぱいになるって言うけど、アレ比喩じゃないんだな。よくわかんないけどホントにいっぱいになってる。

ちょっと置いてから一海が手を伸ばしてきた。なんだろ、でも取らない理由はない。伸ばしてくれた一海の手をしっかりと握る。一海の肌はやっぱり少し冷たい、夏の暑い日に川の水に触れたときみたいな心地よさがある。手をつなぐの、久しぶりだな。ちょっとだけ気恥ずかしいけど嬉しいって気持ちの方が強い。顔を上げて一海を見る、一海の方も少し顔が紅くなってるように見えた。おれの目が正しくて、見間違いじゃないことを願うばかりだ。

行こ。そう言われた気がして、気付くと一海はおれの手を引いて海へ連れていく。ああ、そうなるよな。おれは引かれた手を握りなおして、一海に遅れまいと海に向かって駆け出した。しばらくもしない内に脚が全部浸かって、歩けないなと思ったときにはもう全身が海の中にあった。周りはすっげえクリアに見えて、広い広い海がどこまでも広がってるのが分かる。視界はとても広いのに、どうやっても果てを捉えることはできない。永劫に広がる海の中に、おれと一海が融けていく。

隣の一海を見た。さっきまで着てた制服はなくなって、もう何も身に着けてなんかない、完全な裸だ。おれも同じ、服は全部どっか行って素っ裸だ。お互い裸でいるのって――これが二回目だな、春先に一海が家に来てくれた時のことを思い出した。狭苦しくて男くさい家だけど一海は興味津々で、遊園地に連れてもらった子どもみたいにあちこち見て回ってたっけ。全部の部屋に透くんがいるみたい、とびきりの笑顔でおれに言ってくれた。二人で夕飯食って、ゲームしたりして遊んで、それから――。

ふたり一緒にひとつになって、長い永い夜が明けるまで、ぬくもりを交わし続けた。

(一海)

おれと手をつないで一海が泳ぐ。一海の横に並んでおれは先へ進み続ける。海は潜れば潜るほどに暗さを増していって、やがておれたちを重い漆黒が包み込んでいく。だけどおれと一海だけはその中で光って、輝いて、煌めいて、互いが此処に在ることを決して見失うことなく進んでいく。一海は本当に綺麗だ、ため息が出るくらいに。一海からおれのことはどう見えてるんだろう? できればカッコいいとか思われたいけど、高望みかも。弟みたいでかわいい、ひょっとしたらこっちの方が近い気がする。けどそれでもいい、一海がおれといてくれるなら、それ以上の幸せなんてありっこない。

何も言わない、何も言葉を口にしてない。一海はこの海で出会ってから、ただ一つの言葉さえも出さずにいる。おれには分かる、一海は言葉がなくても生きていける存在だから。一年前に夜の海で遊んだときもそうだった。おれが言葉で伝えようとしたことを、一海は口づけで伝えてくれた。綺麗に飾り立てた幾千の言葉を並べたところで、あの唇が伝えた熱には遠く及ばない。

本当の気持ちは、言葉にしない――一海の強い意思で、全身が包み込まれるみたいだった。

(それでも一海は、声を……言葉を求めた)

人の言葉は要らない、海に生きる海獣に言葉は何の必要ないのに、一海は声と言葉を求めた。それはひとえに、おれと言葉を交わしたかったから。あの日一海にとって「光」になったおれと、もう一度話がしたかったから。おれ、本当に間抜けだよ。こんなにも一海はおれのことを想ってくれてたのに、何もかもすっかり忘れちまうなんて。ごめん、一海。怒ってくれてもいい、お願いがあるならなんでも聞く。だから、もうどこにも行かないでくれ。繋いだ手に自然と力がこもる。より強く握り返された手を、おれは何よりも掛け替えのないものだと思わずにはいられない。

一海の左手はおれと繋がれてる。もう片方の右手は何かを抱いてる。大きな白い塊、はっきりと見覚えがあるもの。タマゴだ、一海の胎内で「見つかった」タマゴ。おれと一海が結ばれたことで一海が授かった、おれたちにとっての「子供」だ。タマゴは抱えられるくらい大きくて、この中にひとつの命があるって言われてもなんの違和感も抱かせないくらいの存在感があって。

けれど、それが孵ることは決してない。日の光、海の水に触れる前に、その命は燃え尽きてしまったんだ。

(たくさんの『星』が見える)

一海とおれを取り巻いているたくさんの、無数の、数え切れないほどの「星」たち。既に燃え尽きて光を失ったそれは、深淵の海で心細く煌めくおれと一海に照らされて、かつて輝いていた頃の面影をほんの一瞬だけ取り戻す。おれはその一つ一つを、まぶたの裏へ焼き付くくらいに見つめる。すべての「星」に生きていた頃の命の輝きを見つけて、おれは思わず目頭が熱くなるのを覚えた。見ず知らずの人や海獣、おれとは何のつながりもないはずなのに、かつてこの星でこの海で生きていたってことだけで胸がいっぱいになる。

手をつないだ一海が遠くの星を見ていた。他よりも一回りも二回りも強く輝く青と赤の星に、一海の目は釘付けになっている。おれにはすぐ分かった。あれは……間違いない。一海の母さんと父さん、晴海さんとアクエリアだ。海に融けたふたりの命が、一海に照らされて輝いてる。もう自ら光ることはない、深淵の海で永劫の眠りに就くばかり。ふたりを見つめる一海の表情は、止め処無い悲しみで曇っていて。

それから――ふたりの星の、さらにその向こうに。

(小さな、こども)

子供。男の子にも女の子にも見える。姿かたちは――おれの面影と、一海の雰囲気が合わさった感じだ。誰なのか分からないはずがない、おれたちに理解できないはずがない。一目見てたちどころに分かる、他に誰も代えられない掛け替えのない存在。

一海とおれの間に生まれるはずだった命。このセカイでほんの一瞬だけ生きて、瞬く間に星になった海の落とし子。おれたちのことを見る目はとても綺麗だ、何にも染まってない無色透明の瞳でおれと一海を見ている。目の色で感情を読み取る癖が付いたおれには分からない、どんな思いを抱いているのか、おれたちをどんな感情で見つめているのか。けれど決して目を離すことはなくて、おれも瞬きさえ忘れてずっと見つめ続けてる。

胸がぎゅっと苦しくなって、内側から涙が込み上げてくるのを感じた。視界が歪んで姿がぼやける、ダメだ、見失いたくない、姿を見ていたい。逸る気持ちのままに手を伸ばして、滲むセカイの向こうで佇むシルエットを夢中で掴もうとして。

最期に見せた微かな煌めき。ただそれだけを残して、おれと一海の「星」は……はじまりもおわりも無い闇へと融けていった。

(…………っ)

もう言葉が出てこない。言葉でおれの感情を表すことができずにいる。一海とおれは子供を亡くした、祝福されるべき命が喪われた事実を突き付けられて、おれは全身の震えが止まらなかった、止められなかった。どうして、どうして、どうして。駄々をこねる子供のように、おれのココロがひたすらに「どうして」と繰り返す。宥めることも叱ることもできない、全身が「どうして」でいっぱいになってて、それ以外の何かを抱える余地なんて残ってないから。

おれでさえこんな有様なのに、一海は……自分のカラダを痛めてまで産んだ子供が死産だと知った。おれは全身が引き裂かれる思いだった。全身がバラバラになって、おれが原形を留めなくなる代わりに一海の痛みを引き受けられるなら、おれは躊躇いなく全身を投げ出す。でもそんなのできっこないんだ、おれだって分かってる。誰も引き受けられない凄絶な痛みを、一海はひとりきりで抱えてる。滝のようにあふれ出た涙が、一海の痛みを何よりも物語っている。

授かるはずだった命、それはまさしく星のよう。ほんの一瞬の瞬きを残して、静かに、とても静かに消えていった。落ちた星は二度と輝かない、暗い闇に飲み込まれて、やがて闇を形作る一部になるだけ。闇の中で垣間見た一海の両親がそうだったように、子供もまた覚めることのない眠りに就くばかりだ。

――「星誕」。言葉が泡のように浮かんでくる。新しい星が宇宙に生まれるかの如く刹那の煌めきだけを遺して、誰にも見つけられることなく消えていった。光るのは、誰かに見つけて欲しいから。幾度となく聞かされた言葉だ。命はしばしば灯火に例えられる。灯火が消えてしまえば……もう誰も、星を見つけることは叶わない。

誰かが死ぬことを「星になる」って言うのを聞いたことがある。おれと一海の子供は死産で、生まれてすぐに星になった。死して産まれた、星として誕生した。まごうことなき――「星誕」だ。

手を握り締めた一海を見やる。闇の向こうに消えた星を見る一海の瞳は悲しみで溢れていて、煌めきを失ったあの時の目そのものだ。自分の子供を亡くした哀しみ、人として生きることを許されないという絶望。おれと同じ「ニンゲン」でありたいというココロが揺らいで薄らいで、海獣としての本能に身を委ねようとしている。

海で生まれた自分は人として生きられない、陸に生きる人間に他ならないおれとは共にいられない。一海はそう理解している、理解してるって言うより諦めてる、そっちの方が正しい。おれに向けた目は涙と悲哀を湛えて、それでもおれと一緒にいたいという気持ちだけは捨てられずにいる。だけど――だけど、一海の海獣としてのカラダは、決してそれを許さない。

人と海獣、ニンゲンとケダモノ、赤と青、それから……陸と海。たくさんの狭間に押し潰されて、引き裂かれて。おれといたい気持ちがどれくらい強くとも、すべてがそれを阻むのだと、拒むのだと。一海は何もかもに絶望して、疲弊しきって、諦めかけてるのが分かる。諦めようとしてるのが見て取れる。

だけど、だけど、だけど。

(おれは……一海を諦めない)

おれは、一海を諦めない。諦めたくない。目に映るもの全部が一海を引き裂こうとしても、おれだけは一海をつなぎとめて見せる、おれだけが一海をつなぎとめられるんだ。自惚れもいいとこだよな、だけどこの気持ちは絶対に揺るがない。一海にとっておれは「光」で、おれにとって一海は「光」だ。暗い闇に堕ちた一海の心を照らせるのはおれだけ、真っ暗だったおれのセカイを照らしてくれたのは一海だけ。だから、おれは一海を諦めない。

一海、言葉を口にしようとする。だけど音にならない、ただ口が動くばかりで声が出て来ない。ここは海、声も言葉も届かない場所。人の理は通じない、そんなことハナから分かり切ってる。でもおれは引き下がらない。言葉を声を一海に伝えるんだって、ただそれしか考えてない、考えられない。一海がおれに思いを伝えるために声と言葉を求めたのと同じ、今のおれはあの時の一海と同じなんだ。

(本当の気持ちは、言葉にしない)

海に生きる海獣にとって、これは絶対の掟。

(だけど、一海は人間でもある)

人間が相手なら――おれの答えなんて分かり切ってる。

(言葉にしなきゃ、本当の気持ちは伝わらない)

必死、マジで必死になって口を開いたり閉じたりしてる。喉の血管が切れて血が噴き出すんじゃないかってくらい力を込めて、もし陸の上ならアタマがおかしくなったんじゃねって大声が出るくらいの全力で。おれは声を出そうと藻掻いて、足掻いて、じたばたし続けてる。それでも少しの声も言葉も出てこない、絶対的な静寂がおれと一海を包み込んで、くそでっかい無音で「諦めろ」ってまくし立ててくる。鼓膜が破れそうなほどの静謐が、おれを饒舌な無言でもって押しつぶそうとしてくる。

目の前の一海は――悲しそうな顔してる、見てるこっちの胸げチクチクしてくるくらい悲しそうな顔をして、じいっとおれを見つめ続けてる。おれが何をしていて、自分に何をしようとしているか分かるからに違いない。かつて自分が求めた「声」、「言葉」。おれが声と言葉で気持ちを伝えるのを見てきたから、人としての思いと想いを告げられないおれがいたましく見えるのは当たり前のことだ。力なく首を振る、もういい、無理しないで。一海が言葉を使えたら、きっとそう言ったに違いない悲痛な表情だ。

じゃあおれは諦めるのか? そんなことあるわけない。諦めるとか引き下がるとか、そういう選択肢はとっくに捨てた。おれは前にしか進まない、一海のいる前にだけ進んでくんだ。朦朧とする意識をかき集めて一海を見据える。おれの進む先に一海がいる、もう一度一緒に同じ道を歩ける未来がある――「ある」のか? 違うな、そうじゃない。おれがその未来を作るんだ、おれの手で、おれのカラダで、おれの意思で。

(おれは、一海が――!)

これっきり声が出なくなったって構わない、話せなくなったって気にも留めない。だからただ一言、ただひとつだけ、おれは一海に伝えたい。どうか伝えさせてほしい、おれの一番の気持ちを、おれのたったひとつの想いを。

 

「すきだ」

 

永劫に広がる群青色の漆黒を、一つの音が駆け抜けていく。終わらないと思っていた静寂が、途切れることなどないはずの静謐が、突然唐突に終わりを告げた。

「……好きだ、一海」

それは他でもない――他でもない、おれ自身の声だった。

「一海、好きだ。おれ、一海のこと……好きなんだ」

ひとつ小さな亀裂の入った静けさは、まるで紙のようにどんどん引き裂かれていって。

「一海のそばにいたい、一海のとなりにいたい、ずっとふたりで一緒に歩いていきたい」

「おれが――おれが一海の父さんと母さんを死なせた人の子供でも、海じゃ生きられない赤い血の流れる人間でも」

「……おれは! 一海のことが好きなんだ!」

胸の内にずっと留められてたおれの想い、人として言葉にしたかった、声に出したかった一海への「好き」の気持ち。飾らないありのままのカタチで口から飛び出して、おれと一海だけのセカイに反響する。声を出すことと言葉を紡ぐことに精いっぱいで、他のことは何も考えられなかった。おれの言葉は一海に響いただろうか、おれの声は一海に届いただろうか。忍び寄る恐怖を払いのけて、覚悟を決めたおれが顔を上げて目を見開く。

一海は……泣いていた。驚いた顔のままおれを見つめて、瞳から美しい涙がいくつも零れ落ちていく。一海の顔に翳りや悲しさはない、表情よりも先に感情が動いて、涙になって溢れてるってのが分かる、見てれば絶対に分かる。おれが一海と取り合った手に力を込める、一瞬戸惑った顔をした一海だったけど、すぐにもっと強く握り返された。それだけで十分だ、十分すぎるくらいだ。

おれの想いが、一海の心に伝わった証だったから。

真っ暗だった海にいくつもの光が生じたかと思うと、ひとつひとつが芽吹くように大きくなっていく。闇に無数の風穴が開いて、闇が闇を成すのがどんどん難しくなっていく。輝きだした光が何なのかはたちどころに分かった。このセカイにいる「星」たちだ。かつては陸と海で瞬いて、今は静謐の中に沈んで永久の眠りについている星たちが、輝きと煌めきを取り戻したんだ、って。

そして、それから。

(……「歌」だ)

無音だったセカイ、そこへ不意に「歌」が聞こえてくる。ささやき声のようだった歌声は少しずつ大きくなっていって、あっという間に海に響き渡るほどになった。誰のものかはすぐに分かった。分かった、というか感じ取れたって方が近い。おれをここへ導いたあの「でかぶつ」だ。「でかぶつ」が海で聞こえる特別な声で高らかに唄う命の歌、星々を共鳴させて煌めきを蘇らせる神秘の声。全身が泡立つような感覚を覚える、おれは生きてるんだ、ここにいるんだって感覚で満たされていく。

行こう。おれが一海の手を引いて前へ進む。一海は少しも迷わず躊躇わず、おれについて泳いできてくれた。星々の瞬き煌めく光の海、すっげえ綺麗だ。こんなの見たことない、この後一生見ることもないって分かる。本当に綺麗だ、綺麗って言葉しか出てこない。命の輝きって言葉を聞くことはあるけど、それを自分の目で見られるなんて思ってもみなかった。一海と繋いだ手の感覚を確かめる。確かにそこにある、現実のことだって感じられる。

おれが見てる夢や幻覚とかじゃない、本当に一海がここにいて、おれも隣にいるんだ。

数多の星が煌めている中を進んでいく。星の光はまるで導くように強く輝いて、おれと一海は惹かれるままに進んでいく。連れていかれてる風じゃない、その先におれたちが進みたいと思ってて、おれたちのために正しい道のりを示してくれてるって感じだ。おれも一海も迷わず先へ進む。星の海を泳いで、輝く光の中を泳いで、泳ぎ続けた先に。

(みんな……おれたちのこと、見てくれてる)

一海の母さんと父さん、それと――「あの子」もいる。顔つきまではっきり見えた。みんな笑ってる、心からの笑顔ってやつだ。何も不安なんてない、おれと一海がただ在ることを喜んでくれてる。おれはそう受け止めたし、間違いないって確信したんだ。そっと背中を押すようにしておれと一海を見守ってくれてる、未来を照らしてくれてる。その様子を一海も目の当たりにしていて、おれは。

「一海」

つないだ手をぐっと引き寄せて、おれは一海を抱きしめた。ぎゅっと、ぎゅっと、全身でもって、力を込めて、おれは一海を抱きしめた。

(おれはここにいる。すぐそばにいる。ずっととなりにいる)

おれはどこにも行かない、もう一海を一人にしたりはしない。

(一海が好きだ。おれは一海が好きだ。おれは一海のことが好きだ)

どうか、この思いが一海に届きますように。一海に、おれの想いが伝わりますように。

頬に熱いものを感じた。熱い、温かいって方が正しい。心地よさを覚えて、おれがそっと顔を上げる。見上げた視線の先には一海がいて、それから――。

「一海」

煌めき輝く涙が、いっぱいにあふれる。光をいっぱいに宿した瞳から止め処無く流れる涙は――おれのすぐ目の前にいる一海が、感情を、ココロを取り戻した、何よりの証だった。

あたりの星たちがよりいっそう強く輝き、煌めくのが見える。一海の瞳に光が戻ったのと呼応するみたいに、おれたちをここから送り出してくれるみたいに。いっぱいの光に包まれて眩しさを覚える中にあっても、一海の瞳の煌めきはひときわ強くて、何よりも誰よりも綺麗に光り輝いてる。おれが言うんだから間違いない、絶対に。

涙をあふれさせて泣きながら、一海はそれに負けないくらいの笑顔を見せて。

「ありがとう」

一海の声を聞いたの、本当に久しぶりだ。胸が洗われるような気持ちになる、透き通った綺麗な声。一海の声が聞けた、一海の言葉を聴けた。おれ、この瞬間をずっと待ってたんだ。一海と話がしたい、一海の声を聴きたい。それが今ようやく叶ったんだ、一海が此処に還ってきてくれたんだ。おれのしたこと、間違ってなかったんだな。完璧な正解とかじゃ絶対ないと思うけど、それでも……一海が一海でいてくれるなら、おれにとっては百点満点だ。

(一海とは会えた、それでいい)

(でも……こっからどうすりゃいいのかな)

一海を見て安心したからかな、ずっと泳ぎ続けてたからかも。急に瞼が重くなるような感覚を覚えた。ここで眠ったりしたらどうなるんだろ、海の中の海だもんな、すっと沈んで行ったりするのかも。起きてなきゃいけないって気持ちはあるのに、カラダはいうことを聞いてくれない。眠い、眠いのかなこれ。もっと深いところに落ちそうな感覚がある。それって何のこと? 深いところってどこ? あんまりいいものじゃない気がするけど、怖いって気持ちは湧いてこない。怖がる部分が先に眠っちゃった、みたいな。

今にも落ちそうな意識の中で一海を見る。おれを見る一海は穏やかな、すごく柔らかな目をしてる。心配することなんて何一つない、この世界で一番安心できる場所を作ってくれてる。

「だいじょうぶ」

下に落ちていく意識とは対照的に、カラダの感覚は上へ登っていく。世界が完全な闇に閉ざされる間際、おれは。

「かえろう」

そんな声を、聞いた気がした。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。