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#37 夏の終わりのサヨナラ

急に目の前が明るくなった。ここどこ? おれ今何してる? カラダが先に起き上がってアタマが付いてこない、ココロはもっと出遅れてる。全身が冷たい感覚に包まれてる、濡れてる? 濡れてるけど濡れてるってレベルじゃない、水の中にいるんだ。水って具体的には? どこだっけ、記憶をノロノロ辿っていく。確かあちこち走ってて、途中で秋人とかユカリと出くわして、出海さんにも会って、それから。

ああ……おれ、海にいたんだった。海へ飛び込んで潜って、そこで――そこで一海に会ったんだ。

一海。名前が頭に浮かんだ途端全身の細胞がパチパチパチーってはじける感覚を覚えて、そうだ一海、一海はって辺りを見回そうとした。よっぽど必死だったんだと思う、もう一海の手を離したくないって気持ちでいっぱいだったんだと思う。目を開けてるのに目の前が見えなくなるってフツーにあるんだな、ホントに一瞬何も見えなくなった。何も見えないのに目で誰かを探そうとするの変だろ、確かにそうだけど気持ちが追いつかなかったんだ。

だから。

(一海……)

見上げた先に一海の顔があったのを見て、おれの中でカラダとアタマとココロがやっとひとつになったのを感じた。カラダが捉えた事実をアタマが受け止めて、ちゃんとココロで感じられる。普段当たり前にしてることなのに、当たり前じゃない時間を過ごしてたせいだろうな、すっげえ新鮮なことみたいに思う。まだまとまり切らないけど一海がここにいるのは間違いない、それだけでおれが安心するのには十分だ。

一海がいる、それはいい。じゃあここはどこだろ? 見上げるとあかね色の空が見える。海の中の海で見た満天の星空でも、どこが上でどっちが下かも分かんない暗闇でもない、現実味いっぱいの夕暮れ時の空模様だ。ってことは、榁の海まで戻ってきたのかな。戻ってきたも何もずっと海の中にいたはずなんだけど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくてさ。人が普通に辿り着けない奥深くの場所とかじゃなくて、見慣れたあの海にいるんだなってこと。

どこにいて何をしてるか、そこまで分かったところで動こうとして、カラダに全然力が入らないことに気付いた。かろうじて感覚はあるんだけど、ホントにちっとも動かないんだ。だったらなんで海に浮かんでるんだろって考えたとき、おれの背中を誰かが支えてくれてることに気が付く。「誰か」が誰なのかなんていちいち言うまでもない、一海だ。一海がおれを抱きかかえて支えてくれてるんだ。ありがたいって気持ちとなんか悪いなって気持ちが交じり合って、おれは改めて一海を見つめる。

すると。

「んっ……」

「あっ――」

おもむろに、って普段から割と使う表現だけど、今この瞬間みたいなことを指すんだろうな。おもむろに一海がおれに顔をぐっと寄せると、流れるように口づけを交わした。急だったからおれは驚いて、だけどそれはすぐに雲散霧消した。柔らかな唇の感触と一海の体温がおれを融かして、安らかな気持ちで満たされていく。ふーっ、と一海が軽く息を吹き込んでくれる。そっか、おれ息してないみたいに見えてたのかも。ちゃんと生きてるって伝えよう、おれはそっと頷いて、一海と舌をそっと絡め合う。大丈夫、おれ生きてるよ、ちゃんと息してるから。一海が舌遣いで応えてくれた。おれの気持ち、伝わったみたいでうれしい。

すっ、と一海の唇が離れていく。少しだけ名残惜しいって気持ちと、再び視界に入った一海の顔を見て安心したって気持ちがいっぺんに湧いてくる。見つめ合うおれと一海、視線が確かに繋がってる。おれは一海を見てて、一海はおれを見てる。一海の目には光が宿ってて、もうあの時見たいな濁った目はしてない。生きるんだって強い意思が宿ってる。それでいてその目はどこか心配そうだった。その目を向けられてるのは、他の誰でもないおれだ。

心配されるのも無理はない。こんな沖合まで出てきて、一海がいる海の奥深くまで潜って。重ねた無茶はひとつふたつじゃ効かない、一海だってそれは分かってる。海の奥底で意識を失いかけたおれをもう一度ニンゲンのセカイまで引っ張り上げてくれたのは一海だ、あの時のことも今なら思い出せる。おれは一海を救いたくて海に潜ったけど、そんなおれを助けてくれたのは一海だ。人の身で海へ入り込んで命を投げ出しかけたおれを、一海が掬い上げてここまで連れてきてくれたんだ。

おれは。

「一海、おれ」

「おれ……一海のそばにいたい」

「ふたりで手をつないで、一緒に同じ道を歩いていきたい」

「おれが誰の子供で、おれの親が一海の親に何をしたかも……聞かされた、分かってる」

「それでも」

「それでも、おれは」

「一海のとなりに、いさせてほしいんだ」

あふれる想いを、人として、ニンゲンとして、言葉にして一海に伝えた。どうかこの思いが一海に伝わりますように、声が一海に届きますように。ただそれだけを願う。

「ずっと――」

一海の蕾のような唇が開いて、かすかに震える声を紡ぐ。空気を揺らしたそれはおれの耳まで確かに届いて、記憶の中にある一海の声と同じだってことを知覚して。

「ずっと、その言葉を聞きたかった。ずっと待ってたんだ」

「透くんが自分のそばにいたいって言ってくれる――それを、ずっと」

「ずっと前から知ってたよ。透くんのお父さんがどんな人かも、むかし何をしたのかも」

「自分だって、お父さんやお母さんがいないのは寂しいし、悲しいよ」

「それに……自分は半分人間で半分海獣。こんなカラダじゃなきゃよかった、何度思ったか分からないよ」

「水泳選手になりたいって夢も、子供の顔を見てみたいって願いも……叶わなかった」

「だけど――だけど、だけどだよ」

「透くんは透くんで、他の誰でもない。自分だって、『水瀬一海』以外の誰かになんかなれない」

「自分が別の誰かならよかった、普通の男の子と女の子なら良かった」

「自分も透くんも、きっと同じことを数え切れないほど考えたはずだよ」

「それでも」

「それでも今の透くんが、今の『水瀬一海』を好きでいてくれるなら、一緒にいたいって思ってくれるなら」

「……自分も、透くんとずっと一緒にいたい。透くんとふたりで同じ道を歩いていきたい」

「透くんのこと……大好きだから」

おれのことが大好き。一海の声と言葉が、心の奥の奥にまですっと入り込んで沁み渡ってゆく。一海がおれに「そばにいたい」って言ってもらいたかったのと同じ、まったく同じように、おれも一海に「大好き」って言ってもらいたかった。この夏の間、ただそれだけを夢見ていた。そればっかり願ってた。一海にぎゅっとされて、一海とおれがここにいること、帰るべき場所に帰ってきたんだって実感する。いつもの海、見慣れた海、おれたちが遊んだあの海にいる。一海の肌から伝わる冷たさとぬくもりを味わいながら、おれは海を漂っていて。

波の音だけが聞こえていた海に、少し違う色の音が加わるのを感じる。カラダは疲れ切ってるけど、感覚は敏感なままみたいだ。波をかき分けて何かがこっちに向かってくる。思い込みとかじゃない、だんだん大きくなってく音を耳がしっかり捉えてる。海に棲む海獣だろうか、それともまた別の何かかな。音のする方へ眼を向けると、一海も続けて視線を投げかける。音の出所はまもなく視覚でも捉えられるようになって、姿かたちもどんどんハッキリしてきた。

近付いてきたのはラプラスだった。それも、人を乗せてる。

「――やっと見つかったわ。槇村君に……水瀬さんも」

「涌井……?」

乗ってたのは涌井だった。ラプラスだからてっきり小鳥遊が乗ってるのかと思ったら、そうじゃない。そこにいたのは涌井だった。ここであいつに出くわすなんて思ってもみなかったから、当然おれは戸惑う。一緒にいる一海も似たり寄ったりの反応だ。ラプラスはたぶん小鳥遊の連れてるやつだ、顔つきがさっき乗せてもらったのと同じやつだし。でも、あいつがどうしてここに? その気持ちしか湧いてこない。おれが目を白黒させてるのをよそに、涌井がポケットからスマホを取り出す。

もしもし? 見つかりました。はい、槇村君も水瀬さんもいます。出海さんはそこで待っててください、ラプラスが連れていきますので。失礼します。手短に電話を済ませた涌井が再びおれたちを見やる。なんて言ったらいいのか分からない顔つきしてる。思ってたよりも冷静だし、完全に落ち着いてるって言ったらウソになる。何も思ってないように全力で見せかけてる、多分それが正解っぽいカタチだ。涌井がおれと一海に抱いてる気持ちを想像したら、まあそうなるよなって。

涌井はおれたちに何を言おうか迷ってる感じだった。おれから先に何か言った方がいいのかな、捜しに来てくれたみたいだし。だけどなんて言ったらいいのか分からない、あんまりヘタなことは言えないし言いたくない。無言の間が続いて、何度目かの「どうしようかな」がアタマに浮かんだ時だった。

「水瀬、さん」

「えっ……?」

「槇村君のこと……助けてくれたのね」

意外、って言うほかない言葉だったと思う。おれも一海も元々戸惑ってたのに、輪をかけて目をパチパチさせてるし。涌井は伏し目がちに一海から目を逸らしたけれど、ずっとそうしてるわけにもいかないと想ったみたいだ、また目を上げてちゃんと一海と目を合わせる。

「槇村君の心には、いつも貴女があった」

「私と話をしているときも、きっと私の姿は見えていなくて」

「槇村君がすべてを知った時でさえ、私のことは見えてなかった」

「ただ、貴女だけが目に焼き付いていたの」

「結局何から何まで、私は貴女に敵わなかった。ただそれだけのことなのよ」

涌井は目を閉じて、険しさの抜けた穏やかな、だけどどこか哀しさを帯びた顔つきをして、おれと一海を一度に見据えて一息に言った。

「ここから泳いで帰るのは無理でしょ。彼女に乗せて帰ってもらうといいわ」

「ラプラスに……それは助かる。けど、涌井は」

「私がここに乗ってちゃ気まずいでしょ? だから――」

モンスターボールのスイッチを押すと、中から大きなとりポケモンが飛び出す。なんて言ったっけ、確か……そうだ、ピジョットだ。たまたまだけど名前を憶えてた。涌井ってあんなポケモン連れてるんだな、全然知らなかった。

「この子に連れて行ってもらうわ。あとは槇村君たちの好きにしてちょうだい」

「涌井」

「小鳥遊も言ってたでしょ? このラプラスは二人乗りだ、って」

涌井がピジョットの背に飛び乗ると、滞空していたピジョットが少しずつ高度を上げていく。

「水瀬さん」

「これからずっと、槇村君の側にいてあげて」

「絶対にその手を離したりしないで」

「もう二度と――私が槇村君に夢を見出さないように」

「さようなら」

ピジョットは一声鳴いて、瞬く間に空へと舞いあがる。

「涌井!」

この広い海に残されたのは、おれと一海、そして――ラプラスだけだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。