地元の商店街での話です。
御多分に漏れずその商店街もほとんどのテンポが閉店し、シャッター通りになっていました。
わずかに営業しているお店もどこか活気がなく、上を覆うアーケードもあって薄暗い印象が強いです。
買い物はもっぱら近くのショッピングモールで済ませていて、時折近道のために通るくらいの場所でした。
私が物心付いた頃から、そこにはひとつ気になるものがありました。
錆びだらけの古ぼけたホーロー看板が一枚、大通りと裏路地の間に取り付けられているのです。
そこには「やめられます」と手書きで書かれていました。
他に連絡先などもなく、ただ「やめられます」とだけ書かれている看板でした。路地裏へ誘導するかのごとく。
そもそも何をやめられるのか、どうやってやめられるのか、看板からは一切の情報が伝わってきません。
看板を誰が設置したのかも分かりませんし、行った先で何をするのかもさっぱりです。
初めて目にした時には既に相当年季が入っていた記憶があるので、かなり昔からあることだけは確かです。
商店街が賑わっていた頃からあったのではないかと私は思っています。
以前両親に「あの看板は何?」と訊いてみたことがありますが、詳しいことは知らないようでした。
母は「タバコとかお酒とかじゃないか」と言っていて、もしそれなら多少は納得できる気がしました。
依存しているものを断ち切れるのなら「やめられます」というフレーズも意味が通りますし、あり得ない話ではないです。
私は看板が放つ無機質な不気味さを薄めるために、「きっと自己啓発セミナーか何かだろう」と勝手に結論付けていました。
お盆に帰省したある日、表通りで中学で一緒だった古い友人と久しぶりに再会しました。
彼に会うこと自体が十五年ぶりくらいで、よくお互いにちゃんと顔を覚えていたものだと思います。
しばらく立ち話をしていましたが、思いのほか会話が弾んで終わる気配がありません。
せっかくだからとそのまま居酒屋へなだれ込み、乾杯してからお互いの近況について話し合いました。
友人は悩んだ顔をして「仕事で悩んでいる」としきりに言っていました。
私も仕事が忙しくそれなりに大変だと思っていたのですが、彼はそういった話では済まないようでした。
厳しいノルマに追われている、そのために借金をしてまで自分で商品を買っている、不安で夜も眠れない、などなど。
仕事で疲弊しているのは誰の目にも明らかで、私の前でまるで浴びるように酒を飲んでいました。
そんな時、ふと彼がぽつりと呟きました。
「……俺、行ってみようかな」
「えっ、どこに?」
「商店街にあるだろ、あの『やめられます』って書いてるところ」
彼は商店街にあるあの「やめられます」と書かれた看板の方へ行ってみる、と言い出したのです。
会計を済ませて店を出た後道なりに進むと商店街に差し掛かり、あの看板が見えてきました。
看板の前で立ち止まった友人は「このまま行くわ」と言うと、よろめく足取りで看板の指す裏通りへ入っていきます。
私が声を掛けられずに立ち尽くしていると、あっという間に夜の闇へと消えてしまいました。
それ以来、彼の姿を見ていません。他の知り合いに聞いても「知らない」「見ていない」と言われるばかりです。
彼と別れて三年が経ち、帰省するたびに姿を捜していますが、見つかる気配はありません。
仕事で悩んでいた彼がやめたかったもの、それは間違いなく仕事と会社だと思います。
あの「やめられます」と書かれた看板の先で会社を辞める決心がついた、あるいはそのための方法が分かった。
嫌な仕事から離れて、今は別の場所で新しい人生を送っている。そうであってほしいと思います。
ただ、時折考えてしまいます。
彼が「やめた」のは本当に仕事だったのか、もっと別のことを「やめた」のではないかと。